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自己啓発

 定年後も自分に合ったライフスタイルを持ち、より生き生きとした活動をしたいと思っています。
 勉強会やNPO法人の活動に参加し、自己啓発や様々な人々と交流を行っています。そして、その活動を通じて今までの経験や知識・技能が、地域社会の発展や福祉の増進、子どもの健全育成、国際協力等の公益に活かせるような社会づくりに貢献したいと思っています。

 1999年10月、56歳の時に初めて『はっぱの会』という自主運営勉強会に参加しました。定年まで残り4年となり、定年後の地域社会との関わりをどうしたら良いか迷っていた時に誘いがありました。また、2002年5月にはNPO法人『新現役ネット』の会員になりました。

 2006年から、関西地区の大学の公開講座・授業を受講しています。
 2024年9月30日をもって、NPO法人新現役ネットは解散しました。

  

はっぱの会新現役ネット大阪市立大学立命館大阪関西社会人大学院連合相愛大学追手門学院その他主催見学等

はっぱの会

自主運営勉強会
 1999年8月28日に自主運営勉強会として発足しました。会の名前は発足日が8月28日なので、『は(8)っ(2)ぱ(8)』の会としました。私は第3回会合から参加しましたが、最年長者ということで2年目には代表幹事を務めました。会員数は22名(2003年12月現在)で、メンバーの職業は製薬、電機、コンピュータ、建設、その他で多岐にわたっています。
 勉強会は毎月1回、原則として第三土曜日の午後に開催されています。出席率は3割~6割といったところです。勉強会では代表幹事が議事進行役を務め、メンバーの一人が書記となり議事録を作成しています。当日勉強会に出席できなかったメンバーも、議事録を読めばある程度は理解できるようにしています。勉強会の後は二次会でお酒を飲みながら話が盛り上がります。
 室内での学習はもとより、工場見学や外部講師を招いての講演なども積極的に取り入れてきました。恒例となっている行事には、4月の花見と夏のビール工場見学があります。また、他の勉強会との情報交換、交流もはかっています。
 見学あるいは参加されたい方を歓迎しますので、ご連絡を下さい。

2004年2005年2007年2009年2010年2011年2016年

2016年

 2016年10月15日(土)、16日(日) 長崎合宿(不参加)

飲み会in大阪(2016年8月24日(水))
 大阪梅田で「はっぱの会」の3人で飲み会をしました。
 一人は7月末に4年過ごした中国上海から帰国し、8月に大阪へ転勤になりました。もう一人は静岡に単身赴任中で、家族のいる京都で夏休みを取っていました。10月に大阪マラソンに参加するそうで、コースを試走してから参加しました。
 老舗の創作串カツ料理店「活」で串カツを食べながら大いにお酒を飲み歓談しました。

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2011年

 2011年7月14日 メンバー永眠(57歳)

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2010年

十周年記念誌

十周年記念誌(2010年6月2日)
 はっぱの会十周年記念誌が届きました。
 十周年を記念して、はっぱの会活動記録をまとめた記念誌です。内容は、①(メンバー各人の)10年を振り返って、②「inter Brain You」掲載の記事、③はっぱの会 活動記録、④はっぱの会 写真、⑤資料・議事録、⑥京都写真特集で、260ページの立派な記録です。
はっぱの会十周年記念誌の表紙

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2009年

10周年記念旅行(京都、天橋立)

10周年記念旅行(京都、天橋立)(2009年6月20日~21日)
 はっぱの会が1999年8月28日に発足して今年で満10年を迎えます。そこで、10周年を記念して京都と天橋立を旅行しました。
 関東地区から6名、西日本地区から4名(熊本、岡山、京都、大阪在住)の計10名が参加しました。20日9時50分に京都駅新幹線中央口に集合しました。岡山在住のメンバー(家族は京都在住)と共に関東地区メンバー6名を迎えました。丸太町駅まで地下鉄で移動しました。丸太町駅から徒歩で菅原天満宮、護王神社、蛤御門から京都御苑、清明神社、二条城を見学しました。二条駅12時30分発の特急タンゴディスカバリー1号に乗ることになっていましたが、時間がひっ迫していたので二条城は通りすがりに眺めるだけでした。12時25分頃に二条駅に着きました。二条駅では熊本と京都在住のメンバーと合流しました。天気も良く陽射しも強く急いだために汗びっしょりとなりました。また、二条駅で弁当とビールとおつまみを買うことにしていましたが、叶いませんでした。
 天橋立駅には定刻より遅れて到着しました天橋立駅前の天橋立ホテルに荷物を預けて、全員でモノレールに乗りビューランド展望台(飛龍観)へ登りました。備え付けのテーブルに座り、漸くビールを飲むことができました。股のぞきをしたり天橋立の写真を撮りました。暫く滞在して、下りはリフトに乗りました。私を含めて4名は一足早くホテルにチェックインして温泉に入りました。温泉に入ると両腕の日焼けした部分がひりひりと痛みました。残りの6名は天橋立の散策に出かけました。1名がとんびに油揚げでなく、とんびにソフトクリームを奪われたそうです。18時30分から夕食を食べました。食前酒、先付け、前菜、造り、先吸い、炊合せ、陶板、合肴、揚げ物、食事とどれも美味しい料理でした。お酒はワインを3本飲みました。食事の後、23時過ぎまでカラオケを楽しみました。客室は和室2部屋で5名づつに別れて就寝しました。部屋に戻ってからもお酒を飲み歓談して、三々五々に眠りにつきました。
 21日は朝6時少し前に起床して温泉に入りました。まだ両腕は日焼けでひりひりしていました。7時にバイキング形式の朝食を食べました。部屋に戻ってから暫く横になってました。9時30分にホテルを出て、特急タンゴディスカバリー2号に乗り京都駅へ移動しました。途中二条駅で京都在住のメンバーが降りました。私は車中でずーっと寝ていました。京都駅からタクシーに分乗して清水寺へ向かいました。清水寺を見学した後、徒歩で西本願寺の前を通り、豊国神社を短時間で見学し、三十三間堂の前を通り、京都駅に到着しました。汗びっしょりでした。15時過ぎに、新幹線中央口前で解散しました。
 久しぶりにはっぱの会の会合に参加しましたが、とても楽しい2日間でした。万歩計によると、20日が17,400歩で21日は14,300歩でした。よく歩いた2日間でした。
清明神社
清明神社

天橋立股のぞき
天橋立 股のぞき

清水の舞台
清水の舞台

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2007年
  2007年12月23日 忘年会in山陽(岡山市内)

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2005年

第63回はっぱの会(贈与について)第64回はっぱの会(ビールづくり体験教室)第65回はっぱの会(株式投資入門)第第69回はっぱの会(活動内容討議)第70回はっぱの会(債券投資、投資信託)第71回はっぱの会

  2005年12月10日 不参加 

第71回はっぱの会(2005年11月19日)
 3名が参加しました。役員の改選時期を迎えて、参加者の少ないのが気にかかります。1月から5月までの活動は活発だったのですが、6月以降低調になりました。
 今回は自らが資産運用について調べたり実践したことを発表することになっていました。私がこれまで行ってきた投資信託(パトナム・インカム・ファンド、ユーロ物語、JA-アバディーン・アジア・ファンド、オール ジャパンE)の実績について発表しました。為替差損もあれば利益出たものもあります。私の発表の後は相続、投資、会社の評価制度、阪神淡路の震災等々について参加者の経験談を話し合いました。
 16時半に勉強会を終え、1名を加え4名で二次会(私の送別会を兼ねて)を地下鉄青山一丁目近くのビルの中華料理「日比谷園」で行い19時に解散しました。
 私は今月下旬に大阪へ移住するので、今後は殆ど参加できなくなると思います。しかし、年に1~2回は「はっぱの会」の勉強会開催日に合わせて上京したいと思っています。そのためにも活動が活発になって欲しいと願います。

 

第70回はっぱの会(2005年10月15日)
 4名が参加しました。メンバーの一人が「REIT」について、大和証券横浜支店営業課の営業マンが「債券投資入門」と「投資信託入門」の講演をしました。
 初めに、不動産会社に勤めるメンバーが「J-REIT」(日本版ー不動産投資信託:Real Estate Investment Trustの略)についての調査結果を報告しました。2001年9月に2銘柄でスタートし、現在は23銘柄、時価総額2.5兆円まで拡大したそうです。
 続いて、大和証券の営業マンより「債券投資」と「投資信託」についての説明と共にメリット、リスク、重要なポイント等について説明がありました。具体例として、大和証券が扱っている「個人向け国債」、「オランダ金融機関の社債」、「ダイワ日本好配当株ファンド」、「ダイワ・グローバル債券ファンド」について説明しました。「ダイワ・グローバル債券ファンド」の23期(2005/10/5)収益分配金は第1期(2003/12/5)に比べて倍になっているそうです。

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第69回はっぱの会(2005年9月17日)
 5名が参加しました。最近、参加者が少なく活動が不活発です。6月の合宿は4名のみが参加、7月は参加者2名のため中止しました(8月は元々休会)。今年の活動テーマは「資産運用」と「能力開発」ですが、能力開発については全く実施されませんでした。資産運用についても証券会社2社の営業マンの話を聞いたのみです。そこで、残りの勉強会も資産運用について更に勉強することになりました。自らが資産運用について調べたり実践したことを10月の勉強会で報告することになりました。11月以降の活動内容は10月に決定します。

  2005年 6月18日、19日 熱海合宿&小田原かまぼこ作り体験(退院直後のため不参加)
  2005年 5月28日 日産自動車高橋副社長特別講演&野村證券株式セミナー(入院中のため不参加) 
  2005年 4月10日 ビール試飲会&お花見(体調不良のため不参加)

第65回はっぱの会(2005年3月19日)
 6名が参加しました。大和証券横浜支店営業課の営業マンが「株式投資入門」の講演をしました。
 株式のメリットとデメリット、株価の決まり方、投資の目的、銘柄選別(ファンダメンタル分析、テクニカル分析)等の株式投資の基礎知識について講演をしました。2時間強の講演時間でしたが、講演途中に活発な質疑応答も行われ時間が足りなくなりました。株式投資のコツは、身近な銘柄を選択、ファンダメンタルを重視、分散投資、ルールを作る、あくまで余ったお金で投資、日々の情報に敏感になる、自己責任の7つだそうです。最後に、銘柄を絞りきれない場合にはETF(株価指数連動型上場投資信託)、公募売出(増資の新株発行)、日本株式オープンを勧めていました。
 17時20分に勉強会を終え、二次会を地下鉄青山一丁目駅ビルにある「銀座ライオン」で行い、19時45分に解散しました。

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第64回はっぱの会(2005年2月26日)
 キリン横浜ビアビレッジ http://www.kirin.co.jp/about/brewery/factory/yoko/ の「第250回ビールづくり体験教室」に参加しました。昨年8月にメンバー6名が参加しました。不参加のメンバーも「ビールづくり」を体験しようと申し込んだところ、3グループ(1グループ4~6名)が当選しました。そこで、はっぱの会(6名)とメンバーのお子さんの通う中学校の父兄の集まりである「父親倶楽部」(7名)と合同で参加しました。
 「ビールづくり体験教室」は2年前の4月に始まりました。現在のビール工場はコンピュータでコントロールされており、従業員がビールづくりの現場に接する機会がありません。そこで、従業員にビールづくりを実技させるための装置を開発したそうです。それが「ビールづくり体験教室」につながりました。
 9時30分過ぎに開講し作業内容についての解説・講義がありました。最初に4種類のビールからつくりたいビールを選択しました。私が参加するBグループ(4名)は「黒タイプ」を選び、3グループが「ボックタイプ」を1グループが「赤タイプ」を選びました。「ピルスナータイプ」は普段飲んでいるタイプということで選ばれませんでした。一通りビールづくりの工程の講義を受けた後、ピンクのエプロンを着て仕込工程(糖化→麦汁ろ過→麦汁煮沸(途中でホップ添加)→麦汁清澄化→麦汁冷却→酵母添加)の実技を開始しました。美味しいビールづくりのポイントは温度管理と時間管理です。ストップウオッチと温度計を見ながら火力の調節を行い、ひたすら麦汁をゆっくりとかき混ぜました。13時30分過ぎに「ホップ添加式」を行いました。ホップがビールに魂を入れ、酵母がビールに命を吹き込むそうです。ホップ添加式後に昼食休憩になりました。ビール(市販していない)を試飲しながら昼食を食べました。昼食後に工場見学を行い、15時過ぎに実技を再開しました。そして、麦汁を冷却し酵母を添加して実技を終了しました。実技終了後はビール(2杯)を試飲しながらアンケートを記入して閉講となりました。出来上がったビール(中ビンで20本)は4月8日に工場から発送されます。4月の花見で3種類(計60本)のビールの味を確かめることになっています。
 実技中はインストラクター(ビール職人で定年退職者)から付きっきりで親切に指導して頂きました。立ちっぱなしでしたので大変疲れましたが、とても楽しく過せました。インストラクターの方々のお陰だと感謝しています。機会があれば知り合いと一緒に再びビールづくりを体験したいと思います。
 二次会をパブブルワリー「スプリング・バレー」で開催し、ここでしか飲めないオリジナルビールを数種類味わい、19時45分に解散しました。
ビールづくり体験教室
糖化槽、麦汁煮沸釜  糖化釜、  麦汁ろ過機  貯蔵タンク
左から、糖化槽・麦汁煮沸釜、糖化釜、麦汁ろ過機、貯蔵タンク
手作りビール
完成品
  黒ビール  レッドビール  ボックビール 
左から黒ビール、レッドビール、ボックビールの裏ラベル

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第63回はっぱの会(2005年1月15日)
 9名が参加しました。メンバーによる発表テーマは「贈与について」と新入会員による「会社紹介」でした。
 最初のテーマは「贈与について」でした。不動産の一部贈与について自身の体験を発表しました。きっかけは、「結婚20年以上の夫婦では2000万円までは贈与税が課税されない」ということを聞いたことだそうです。結婚28年になるので自宅マンションを奥さんとの共同名義にしようと思い立ち、贈与税の調査および贈与の実行までを行った自らの体験を発表しました。各種申請書類の作成は役所や司法書士に尋ねながら全て自分で作成したそうです。(注)贈与の配偶者控除について:婚姻期間が20年以上で居住用不動産の贈与を受けた場合、基礎控除(110万円)の他に2000万円を控除することができる。
 次いで、新入会員による会社紹介が行われました。不動産の仲介業(売買・賃貸)、販売受託業、賃貸業その他の3事業についての紹介がありました。
 17時30分に勉強会を終え、六本木の「銀河高原ビールレストラン」で新年会を行い、20時過ぎに解散しました。

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2004年

第52回はっぱの会(大江戸温泉物語)第55回はっぱの会(多摩森林科学園)第57回はっぱの会(熱海合宿)第61回はっぱの会(活動内容討議)第62回はっぱの会(江戸東京博物館)

第62回はっぱの会(2004年12月18日)
 14時にJR両国駅で待ち合わせました。途中、JR秋葉原駅の混雑した総武線ホームで元部下の女性とすれ違いました。声をかけて右腕に触れたのですが、彼女は怪訝な顔をして通り過ぎました。人違いかなと思い、私もそのまま通り過ぎました。しかし、気になったので夜メールで確認したところ、彼女の夫(彼も元部下)と母親と一緒だったそうです。
 今回は6人が参加予定でしたが、2人が仕事で1人が体調不良のために当日不参加となりました。14時10分に「江戸東京博物館」 http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/ へ到着しました。3階のチケット売場でチケットを購入し、メインエスカレーターで6階の常設展示室入口から入場しました。常設展示室は6階と5階にあり、江戸ゾーン、東京ゾーン、通史ゾーンの3つのゾーンで構成されています。私は江戸ゾーンを見学しました。町ができあがってゆく様子から人々の暮らし、産業、文化を実物資料と模型やパネルなどで見ることができます。5階には私が育った神田須田町の山車が展示されていました。2時間近く見学したのですが疲れてしまったために一足先に退場して、3階のメインエスカレータ-乗降口の近くで3人の出てくるのを待ちました。東京ゾーン(文明開化、産業革命、震災と戦争をくぐりぬけて大都市に成長した東京。その時々の生活や文化、娯楽を見ることができる)と通史ゾーン(旧石器時代から戦国時代までの歴史をたどる)の見学は別の機会に譲ります。
 当初の予定では江戸東京博物館を見学後に「東京ドーム天然温泉」でゆっくり入浴し、後楽園周辺で忘年会をすることになっていました。しかし、見学が長引いたために温泉を中止し、忘年会を両国駅周辺で行うことに変更しました。両国駅西口から大通りを渡ったところにある「ちゃんこ霧島」の4階座敷で忘年会を行いました。「大関霧島」という芋焼酎のお湯割りを飲み、味噌のちゃんこ鍋と刺身を食べながら18時過ぎまで忘年会をしました。ちゃんこ鍋はとても美味しかったです。
 来年もはっぱの会の会合に多くのメンバーが参加するように願います。
江戸東京博物館
江戸東京博物館
須田町の山車
須田町の山車

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第61回はっぱの会(2004年11月20日)
 メンバー8名と入会体験者1名が参加しました。前回(10月)、新役員が決まりました。今回は今後一年間の活動内容を討議しました。統一テーマは「資産運用」です。勉強会テーマは「資産運用」と「能力開発」とし、勉強会スケジュールを決めました。また、イベント参加としてビール工場見学、花見、かまぼこ手作り体験等を計画しました。また、別枠として外部講師の講演、酒造り体験やそば打ちを検討することになりました。14時から17時30分まで真剣に討議を行いました。
 会合の後は六本木の中華料理店で二次会を行い、たらふく食べてかつ飲みました。なお、入会体験者は正式に入会しました。

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  2004年10月30日 役員改選、次年度活動計画、その他(所用のため不参加)
  2004年 9月11日 「土9クラブ」との交流会(ミニ同窓会参加のため不参加)
  2004年 8月 7日 キリンビール生麦工場 ビール作り体験(シニア情報生活アドバイザー養成講座受講のため不参加) 

第57回はっぱの会(2004年6月26日、27日)
 6月のはっぱの会は熱海で合宿をしました。過去2回開催してますが、私は初めて合宿に参加しました。場所はメンバーの会社が所有するリゾートマンションの一室です。参加者は総勢11名で、15時に熱海駅前に集合し歩いて目的地へ向かいました。室は11階にありベランダ越しに海が広がり、正面に初島が見えます。
 討議テーマは「はっぱの会の過去5年間の歩みと今後の展望」でした。1999年8月に第1回会合が開催されて以来、今回が第57回です。過去の活動記録を見ながら、メンバー発表、外部講師の講演、見学会、花見等々の思い出に浸りました。そして、各人が今後の活動方法について意見を述べました。
 討議が終わった後は全員で宴会と朝食の買出しに出かけました。二手に別れて買い物をしました。私達は酒類と刺身の買出しです。最初に魚屋で刺身の盛り合わせを注文し、続いてマンション前の酒屋へ入りました。ビールのロング缶を2ダース、焼酎と日本酒を一升ずつ、氷、茶・水類のボトルを大量に買いました。買出しから帰って、マンョン8階にある展望温泉に入り汗を流しました。宴会は大変に盛り上がり酒量も進みました。結局、焼酎を1本買い足しました。6名定員の室に11名が泊まったので窮屈でしたが、楽しい合宿でした。

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  2004年5月15日 空海と高野山(弘法大師入唐1200年記念)、古代ローマ彫刻展(ヴァチカン美術館所蔵)(所用により不参加) 

第55回はっぱの会(2004年4月3日)
 4月のはっぱの会の勉強会は恒例の花見です。昨年までは新宿御苑で行われていましたが、今回は初めて「多摩森林科学園」へ行きました。総勢9名が参加しました。
 サクラ保存林を2時間ほど歩いていろいろな桜の花を見ましましたが、山の登り降りはかなり辛いものでした。日ごろ運動をしているのですが、上り下りをすると足に堪えます。14時過ぎから閉園の16時まで花見をしたのですが、時間が足りず保存林の半分位しか歩けませんでした。4月中旬には八重桜が満開になるとのことなので、できたらもう一度行きたいと思います。なお、園内には飲食物の販売店はなく、飲酒は禁止でした。
 多摩森林科学園を後にして高尾駅へ向かいました。初めて高尾駅を正面から見ましたが、変わった駅舎であったので撮影(右の下の写真)をしました。高尾駅から乗車し立川駅で下車しました。メンバーの1人が3月に結婚したので夫妻の結婚祝いパーティーを立川駅近くのイタリアンレストランで行い、飲んで食べて、談笑し、2時間を楽しみました。
お二人がいつまでも夫婦円満でお幸せでありますようにお祈り致します。
入口看板の写真
入口の看板
高尾駅の写真
高尾駅
 白雪の写真 染井吉野の写真 陽光の写真 雨情枝垂の写真 
 上段左から白雪、染井吉野、陽光、雨情枝垂  下段左から仙台枝垂、枝垂染井吉野、雛菊桜、御帝吉野
 仙台枝垂の写真 枝垂染井吉野の写真 雛菊桜の写真 御帝吉野の写真

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  2004年3月20日 法隆寺宝物館見学と「伎楽面物語」鑑賞ツアー(新現役ネットの行事に参加)  

  2004年2月21日 酒造見学:田村酒造場、澤乃井園(新現役ネット「新春会」と重なり不参加) 

第52回はっぱの会(2004年1月17日)
 温泉巡りの第一弾はお台場にある温泉テーマパーク「大江戸温泉物語」です。開業当時は長い待ち行列ができたとのことでしたが、この日は待ち時間なしで入館できました。
 料金を払うと「通行手形」が渡されます。この「通行手形」はロッカーキーとバーコードがついています。バーコードは館内での支払いの際にチェックされ、帰りに精算できるようになっています。
 次に、「越後屋」でオリジナル柄から好きな浴衣を選んで、更衣室で着替えました。そして、「広小路」に出て「湯屋」へ向かいました。途中で浴衣姿の女性とすれ違いましたが、皆美人に見えました。やはり日本人は着物姿が似合うのですね。
 「湯屋」では大江戸温泉(天然温泉)、百人風呂、寝湯そして露天風呂に入りました。のぼせ気味になり露天風呂へ行きましたが、空から小雪がほんの少し舞っていました。
 「湯屋」を出て吉原や深川をイメージした「八百八町」に行き、そこで湯上がりの一杯をやりながら暫く過しました。一部のメンバーがもう一度「湯屋」へ行き、18時頃に帰路に着きました。
大江戸温泉物語の写真

越後屋の浴衣の写真

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新現役ネット

新現役ネットの紹介
 これまで培ってきた経験や知識・技術を、少しでも社会に役立てられないかと考えている人々を「新現役」と呼んでいます。新現役ネットは、そうした人たちが集まり互いに協力し合うことで、一人ではできなかった社会的に意義のある活動を可能としていく「仲間ネットワーク」です。
 この新現役ネットの活動は、外交評論家の岡本行夫さんの提唱で始まり「新現役宣言フォーラム」という講演討論会を2ヶ月に一度のペースで開催しながら、ネットワーク作りをしています。
 
新現役ネットでは、参加する人たちに新しい出会いや交流、自己啓発するための場となるようなフォーラムや勉強会、ツアー、体験会、「オフ会」といったミニ・イベントを開き、またホームページや会報などを使って意見の交換や情報提供などの活動を行っています。本欄ではその内のフォーラムと勉強会について記載します。なお、ミニ・イベントと社会活動グループについてはホームページ内の集うに記載します。なお、私は2002年5月に正会員になりました。
 現在、新現役ネットは、しっかりした基盤の上で責任ある活動をするために、特定非営利法人(NPO法人)となっています。詳細は新現役ネットホームページ http://www.shingeneki.com/ を閲覧してください。
 2012年11月、発足時より理事長を務めていた岡本行夫さんがアメリカマサチューセッツ工科大学院で教鞭をとることになり、理事長を辞任し、今後は理事の一人として就任することになりました。後任には理事の福岡政行さんが理事長に就任しました。
 2017年1月、岡本行夫さんが理事長に再就任しました。福岡政行さんは理事に就任しました。
 2020年4月、岡本行夫理事長が新型コロナウイルス感染症のため死去されました。加藤タキさんが理事長に就任しました。

 

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2024年

新現役ネット法人活動終了の報告新現役ネット解散

新現役ネット解散(2024年9月30日(月)
 NPO法人新現役ネットは2024年9月30日に解散しました。

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新現役ネット法人活動終了の報告(2024年4月22日(月))
  4月17日付文書で理事長の加藤タキさんから、「特定非営利活動法人新現役ネットの活動を2024年9月末をもって法人活動を終了し、解散する」との報告がありました。2001年11月に発足以来、23年間、基本理念である「シニア世代の生きがい作りと社会貢献活動のサポート」を実践してきました。しかし、コロナ過を契機として支援企業の支援終了や支援規模の縮小、正会員数の減少等の事情により新現役ネットの活動を続けていくことが困難な見通しとなり、解散する方針となりました。
 なお、私は2002年5月に正会員になりました。

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2021年

新現役ネット設立20周年

新現役ネット設立20周年(2021年11月4日(木)))
 2021年11月に新現役ネットは設立20周年を迎えました。
 新現役ネット生みの親である岡本行夫前理事長は、残念ながら昨年新型コロナウイルスに感染し亡くなりました。私が永らく正会員として継続支援したことへのお礼として、岡本さんの著書「砂漠の戦争」が郵送されて来ました。

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2020年

理事長死去

岡本行夫理事長死去(2020年4月24日(金))
 2020年4月24日、岡本行夫理事長が新型コロナウイルス感染症のため死去されました。加藤タキさんが理事長に就任しました。

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2017年

理事長交代第22回新現役宣言フォーラムin関西

第22回新現役宣言フォーラムin関西:テーマ「プーチンの世界閃絡を読む」(2017年3月16日(木))
 國民會館武藤記念ホールで開催された「第22回 新現役宣言フォーラム in 関西」に参加しました。出演者は、齋藤勉さん(産経新聞社専務・大阪本社代表)と有元隆志さん(産経新聞社編集局総務)です。来場者は約70名だったそうです。
 会場への道を勘違いし、会場へ着くのが遅れてしまいました。有元さんがすでに講演を始めていました。要点は以下の通りです。
・一番の優先課題は「北朝鮮」。米大統領がオバマからトランプに代わって、重要閣僚2名が日韓を訪れた。米では、北朝鮮に対する先制攻撃論がある。
・北朝鮮のミサイルと核が懸念。米国が警戒している。北朝鮮の危うい体制、100年前のロシアと似ている。
・慰安婦象が60体。今の日韓関係に展望がない。日本がしっかりしなければならない。
・歴史問題は、相手に言われて謝るのでなく、主張すべきは事実に基づいて主張すべき。
 続いて、齋藤さんが講演を行いました。テーマは「プーチンの世界戦略を読む」です。講演の要点は以下の通りです。
・ソ連が崩壊して26年(昨年25年)、ロシア革命100年。今のロシアは衰退し、いずれ中国に飲み込まれる。ラスプーチン⇒プーチン⇒チン。
・ロシアはイデオロギーなきミニソ連。当初はオイルマネーで潤った。しかし、ウクライナ問題での経済制裁と石油安で苦しんでいる。優秀な頭脳がアメリカへ流出している。
・軍が武器を輸出している。石油、ガス、武器以外の普通の商品が作れない。
・ゴルバチョフ時代にはもっと言論の自由があった。今の学生はソ連を知らない。
・ゴルバチョフ⇒エリツィン⇒プーチン。KGB(ソ連国家保安委員会)が完全復活。秘密警察が完全復活。軍の情報機関が復活⇒最も注目すべきこと、西側にとって脅威。
・GRU(ロシア連邦軍参謀本部情報総局)、KGB、軍の情報機関は西側にとって脅威。
・北方領土交渉はGRUが担当。軍に損にならないように、領土は血⇒領土は動かない。
・プーチンは海洋国家を目指しているが、できるか否かはわからない。中国は海洋国家になり得る。クリミア併合は1年中凍らない港が欲しかったのだろう。
・サイバー大国は海洋大国と並ぶ目標。拠点はGRUとKGBの一部。サイバー攻撃でロシア寄りの政権を作ろうとしている。
 オランダ大統領選は失敗(極右NG)、フランス大統領選では反対派のスキャンダルを流している。ドイツに対しても兆候ある。
 ドイツにロシア寄りの政権ができたら、ヨーロッパは終わり。
・米露関係はわからない。ティラーソン国務長官とマティス国防長官はロシアに対抗している。バノン上級顧問は中国に厳しいが、ロシアに甘い。鍵を握るのはバノン。
・プーチンはソ連邦の復活を目指している。
・中国が日本海からオホーツク海と来るのではないかと恐れている。
・中東は最大の火種。
・日本の戦略⇒中露を接近させないこと、米に二正面の戦争を避けさせること。
・ソ連はスターリンが作った。北朝鮮を作ったのはスターリン。
・シベリア抑留は壮大な拉致事件。北方領土もクリミアも同じ。同じことを中国が南シナ海でやっている。
・安倍総理の「過去を忘れ、未来を見ていこう」には賛成できない。北方領土問題は原則論で対応すべき。領土紛争ではない、ポツダム宣言後に丸腰の日本へソ連が侵入して奪った。安部政権にはがっかりしている。
・ロシアに歴史戦に負けている。上海事件も慰安婦問題も嘘っぱちで負けている。
・ロシア革命から100年。ソ連はまだ生きている。スターリンの亡霊がさまよっている。

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理事長交代(2017年1月12日(木))
 福岡政行理事長が諸般の事情により理事長を辞任し、岡本行夫理事が理事長として再就任しました。福岡理事長には今後も理事の立場からご協力を頂けます。

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2015年

第21回新現役宣言フォーラム in 関西

第21回新現役宣言フォーラム in 関西:テーマ「宇宙から医療・介護へ果てしなきものづくりへの挑戦(2015年4月17日(金))
 國民會館武藤記念ホールで開催された「第21回 新現役宣言フォーラム in 関西」に参加しました。出演者は、ゲストの青木 豊彦さん(株式会社アオキ会長)とホストの福岡政行さん(新現役ネット理事長、白鴎大学教授)です。福岡理事長の挨拶に続いて、青木さんが講演を行いました。テーマは「宇宙から医療・介護へ 果てしなきものづくりへの挑戦」です。講演の概要は以下の通りです。
 青木さんは父親から工場を引き継ぎ、ロボット部品や航空機部品の製造に乗り出し、幾多の困難を乗り越えて世界最大の航空機メーカー「ボーイング社」の認定工場となった。
 東大阪の中小企業の技術力を結集して小型人工衛星「まいど1号」を開発、2009年に打ち上げた。2000年当時、東大阪には
8000社で50000人が働いていた。東大阪はものづくりで創業し易い町だったが、暗くて現場に若い人がいなかった。そこで、若者が集まる東大阪にするために、人工衛星を開発することになった。「まいど1号」の成功によって、今では年間1000人の修学旅行生が来社し、モノづくり観光で東大阪に7000人が来ている。これは、マスコミのおかげ。
 「まいど1号」が打ちあがってから6年、航空は名古屋に負けた。医療はまだ手つかず。一昨年、東大阪の中小企業と大阪市大医学部が連携して「医療コンソーシアム」を設立した。昨年、医療特区指定を受けた。大阪を東洋のメディカルタウンにしたい。そのために、医者・看護師と中小企業の接着剤となりたい。いずれ介護も出てくる。
 講演終了後、青木さんと福岡理事長の対談、来場者との意見交換・質疑応答が行われました。最後に青木さんは「顎を上げる、驕りはダメ」とおっしゃっていました。

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2012年

理事長交代第18回新現役宣言フォーラム in 関西

 第18回新現役宣言フォーラム in 関西:テーマ「激動する国際情勢と日本の安全保障」(2012年11月9日(金))
 國民會舘武藤記念ホールで、「第18回現役宣言フォーラム in 関西」が開催されました。テーマは、「激動する国際情勢と日本の安全保障」です。ゲストはNPO法人国際変動研究所理事長の小川和久さん、ホストが新現役ネット理事長の福岡政行さんでした。矢野泰秀事務局長の挨拶に続いて福岡政行理事長の挨拶がありました。岡本行夫前理事長がMIT大学院で教鞭を取ることになり、理事長を辞任し、今後は理事の一人として協力をして頂きます。後任として福岡さんが理事長に就任しました。
 軍事アナリストの小川和久さんが日本の外交・安全保障・危機管理について講演を行いました。内容は以下の通りです。

 中・ロ・韓は、日米同盟が米国にとって重要であるということを分かっている。だから、米国の逆鱗に触れるのを避けつつ、日本の政治の混迷・対米従属姿勢の間隙を衝いた。物事には順序がある。戦略的優先順位を明確にすべき。優先順位は、1)対米関係の健全化、2)海洋国家戦略の実施、3)領土問題の打開。
1、対米関係の健全化:防衛力の現状を認識
 1)日本は自衛隊の軍事力だけで日本国の安全を語ることはできない。自衛隊と米軍は補完関係にあり、日本の安全や平和を実現している。一方、日米同盟は米国にとっても必要。日本駐留の米軍は地球の半分をカバーしており、支える力があるのは日本のみ。日本は米国本土と同様の戦略的根拠地になっている。沖縄の海兵隊は中国の台湾に対する抑止力になっている。日本の周囲が戦争状態にない時には、自衛隊が日本の国防として日本列島ごと守るという役割分担ができている。アメリカ空軍の戦闘機は防空任務には一機もついていない。それは航空自衛隊の仕事。
  戦略的根拠地として米国を支えることのできる国は、アジアには日本以外ない。それは工業力、技術力、資金力という条件が揃っている国でなければ不可能。日本が安保をやめると、米国は地球の半分で行動する軍事力を支える能力の80%を失うことになる。そうなったら、ロシアも中国もインドも北朝鮮も米国の言うことをきかなくなり、世界のリーダーではなくなる。また、日本が独力で今と同じレベルの安全を保とうとすると、防大教授の試算によると、直接経費で9倍、間接経費で16倍もの費用が掛かるそうだ。日米同盟が双方にとってメリットが大きいことがわかる。
 2)オスプレイ配備は、国際環境をにらんで機種更新(航続距離900~3500キロ、速力5590キロ)を行った。「危険な飛行機」のイメージは開発段階の事故からであり、運用段階の事故は平均的(米国では危険でない)。海兵隊の新戦略「シーベーリング」(海上基地)から直接投入に必要な輸送力。抑止力(手出しされない力)としてオスプレイの代わりはない。
 3)日本の国益を考えて地位協定の変更を要求すべき。

2、海洋国家戦略の実施:日本は海洋国家を自覚し、領土問題を解決すべき
 日本は海洋国家として生きるという選択をすることが可能。日本の国土面積は世界で61番目位だが、海が加わると「大国」(EEZ+領海)で、6番目になる。中国は15番目。日本は「海洋資源大国」になる。そのためには領海法を見直していく必要がある。現在、海自と海保の協力がない。法律がザルになっているので、海洋法の制定が必要。

3、領土問題解決には順序がある:尖閣諸島 → 北方領土 → 竹島
 尖閣を抑えれば、北方領土、そうすれば竹島も。領土問題は、歴史を上げるのでなく国際法違反を問うべき1953年に発行された人民日報には、尖閣諸島を含む琉球群島についてはその範囲を示し、「琉球群島の人民は日本に復帰するという選択肢まで含めて自己決定すべきだ」と米国に要求したとの記述がある。人民日報は中国の公文書。国際司法裁判所には「そのように決定した事実を自分の利益のために覆すことができない」というエストッペルの法理に基づいた判例がある。
 1)尖閣諸島(最も強い根拠)
  国際世論による包囲網、国内法の整備、尖閣の実効支配⇒国境法を制定、日中漁業協定・領海法を改定、沿岸監視隊の常駐。
 2)北方領土(ロシア側に負い目)
  「不法占拠」の言葉はおかしい、「軍事占領」と「不法併合」で整理、違法性を強調すべき。
 3)竹島(近親憎悪に陥りやすい)
  ・武装警察隊を配置する韓国の深謀遠慮(警察部隊で済むほど実効支配、軍事攻撃を避ける)
  ・親日家を作る努力をすべき。

4、洗練されていく中国(国防費の伸びだけ見るのは「気を見て森を見ず」)
 1)中国の「三戦」(世論戦、心理戦、法律戦)は戦わずして勝つ(血を流さずに勝つ)― 孫子の兵法 ― 米国の「平時の戦い」。
 2)中国の「接近阻止・領域拒否戦略(A2AD)」―海軍中心に強化。→ 空母の運用はしんどい、中国自身「10年かかる」と。データ中継衛星も立ち後れ。

 小川さんの講演終了後に、福岡さんと小川さん対談、そして来場者との質疑応答がありました。(省略)

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理事長交代(2012年11月1日(木))
 発足時より理事長として新現役ネットの発展に尽力された岡本行夫理事長が、アメリカのマサチューセッツ工科大学大学院で教鞭を取ることになり、仕事の中心が米国に移ることから、新現役ネット理事長を辞任し、今後は理事の一人として協力して頂くことになりました。
 後任には福岡政行理事が理事長として就任することになりました。

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2011年

日本の政局を考える

【関西】日本の政局を考える(2012年12月6日(火))
 産経新聞編集長兼論説委員の乾正人さんが、「日本の政局を考える」と題して講演を行いました。
 これからの大阪市は大変だ。大阪市長選が全国的に注目を浴びている。戦後初めて大阪から政治が動く。
 一川防衛相がブータン国王夫妻を迎えた宮中晩さん会を欠席し民主党議員パーティで「こちらの方が大事だ」と発言した。一川氏は良い人だが、政策もなく普通の市民以下の知識しかない。小沢氏から輿石氏へ乗り換えた。国賓に対しては国内滞在経費を全て税金から出している。閣議決定による国事行為である。野田首相は保身のために9日までは持たす。しかし、一川氏は遅かれ早かれ辞める。解散・総選挙はできない。
 国会議員定数の是正は議決後に6ヶ月の公報期間が必要になる。民主は公明と折り合わなくても良い。民主と自民で決められるが、今国会でまとめる気がなかった。平成25年のダブル選挙狙い。定数是正は民主と自民が公明に気兼ねして強行採決できなかった。
 消費増税は来年の臨時国会で夏ごろ強行採決か。野党も心の中では成立して欲しいと願っている。年金は国家的なねずみ講だ。今の30代は取られ損になる。
 定数是正を行わないと選挙無効になる恐れがある。日本のピークは昭和の終わりから平成の初めまでである。現在、橋下タイプしか成功していない。橋下徹、孫正義、柳井正の3氏に共通するのは、差別される側から出たこと。幼少期に苦労しており、差別から這い上がった。橋下氏は好き嫌いの極端な人。前言を翻しても何でもOK。知事になって、市の方が豊かなのが分かった。大阪ダブル選挙は橋下氏が出たので松井氏も当選できた。選挙前に橋下氏のスキャンダルが出たから怖いものなしだった。橋下氏が首相になる確率は選挙の時期次第。飽きっぽい橋下氏でも来年は市長をなげうってまでして選挙に出ない。来年、都構想が難しいことが分かる。その時が橋下氏のチャンス。都構想はエリートには考えられない発想。国を変えないと都構想は実現しない。小沢陣営が70~80名。橋下氏が70~80名の党首になる可能性はかなりある。大阪は罪作りなことをした。
 野田首相はアメリカコンプレックスがある。前の首相が悪かったのでラッキー。前原氏は人情の機微なし。野田首相のやりたいことはTPP、消費税増税それに皇室典範改正。野田氏自身は再来年までと思っている。再来年の夏、橋下氏か今の枠組みでない人(細川氏パターン)が首相になる。大阪は疑似独裁になる。
 この後、参加者と質疑応答をしました。
Q1、沖縄の問題について
A1、解決できない。野田首相はやる気がない。人事を見れば分かる。アメリカも分かっていて、普天間そのままにするか他へ(例えば三沢)移せば良いと考えている。沖縄が中国に取られても良いと考えており、基地をハワイ、グアム、オーストラリアへ移している。
Q2、「たちあがれ日本」平沼氏、「みんなの党」渡辺氏との関係について
A2、平沼氏、渡辺ジュニアは橋下氏を車の上に乗せたかった。しかし、橋下氏は自身が一番になる位置を望んでいる。
Q3、経済、国債の暴落について
A3、今まで経済を置き去りにして来た。政治の限界が来ている。政策論争が足りない。民主、自民は大阪での敗因を分析していない。なぜ、政策論争が出来ないのか? 国会の場で政策論争がない。政治主導から官僚(財務省、経産省)主導になって以前より悪くなった。野田首相もしゃべらない。しゃべるとボロが出る。財務省の勝次官が実質の首相。日本のような老大国にとって「産めよ増やせよ」は正しい政策。優秀な人の数は中国の方が日本より多い。優秀な大臣を選ばなければダメ。 
Q4、日銀の政策について
A4、人事の問題。民主が反対した人なら今の様な硬直した政策を取らなかっただろう。

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2010年

北朝鮮による拉致問題について今後の政局と参院選の行方産經新聞大阪本社見学第16回フォーラムin関西

第16回新現役宣言フォーラム in 関西:テーマ「国と地域のつくり直し」(2010年10月4日(月))
 大阪朝日生命ホールで、「第16回 新現役フォーラム in 関西」が開催されました。テーマは「国と地域のつくり直し」です。
 事務局長挨拶に続いて、理事長の岡本 行夫さんが挨拶をしました。尖閣諸島を巡る政府の対応について苦言を呈しました。次に、白鵬大学法学部教授・新現役ネット理事の福岡 政行さんが演壇に立ちました。福岡さんは、小沢一郎氏に対する第5検察審査会2度目の「起訴相当」決議が9月14日になされていたことを報告しました。また、尖閣諸島問題については、9月22日~24日に外務省担当者が那覇入りしていたことを明かしました。

 ゲストの早稲田大学大学院公共経営研究科教授の北川 正泰さんが「国と地域のつくり直し」と題して講演を行いました。内容は以下の通りです。
 早稲田大学に中国留学生がいるが、現在の中国は東独末期の状態と言う。中国は人治国家。世界中に140万人の海外留学生がいるが、中国へ帰国したがらない。隣りにそんな国のあることを考えるべき。ドミナント・ロジック(その場の空気)に流されることに気づくことから改革が始まる。本気になって国のあるべき姿を考えなければならない。外交とはリアリズムである。
 国は通貨・外交・防衛・エネルギーに特化すべきである。公務員が30万人、国の出先に21万人、地方に300万人いる。補助金を貰うためにお土産に地方の特産物、そして裏金。中央集権だから仕方ない(ドミナント・ロジック)、国へ陳情、貰えなければ賄賂、こんな国では潰れる。
 政治改革運動。小選挙区制度で選挙の在り方を変える。選挙公約。マニフェスト(民との契約)を破ったら追及される。
 地域主権改革。一括交付金になると、どこに配布するかで大変。生活のことは地域の判断で決めるべき。主体的に首長も議員も住民も動き、住民は白紙委任せずに厳しく。投票は権利であり、義務ではない。首長がしっかりすれば議員もしっかりする。国が国の仕事に特化すれば90%の公務員がいらなくなる。

 福岡さんをコーディネーターに北川さん、岡本さんが地域主権や政治主導などについて意見を述べました。最後に、来場者との質疑交換がありました。

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【関西】産経新聞大阪本社見学-産経新聞のできるまで-(2010年9月29日(水))
 産経新聞大阪本社を見学しました。24名が参加しました。
 11時15分、地下鉄御堂筋線「なんば駅」出口で待ち合わせました。まず、行列のできる店「魚匠 銀平」道頓堀店で定番外特製昼食を食べました。並んで座った知り合いと一緒に生ビール中を1杯飲みました。昼食後に産経新聞大阪本社まで20分ほど歩き、13時に到着しました。
 大阪本社新社屋の玄関で記念写真を撮影しました。会議室で、産経新聞社の歩みと産経新聞のできるまでの簡単な説明を受けた後に、「産経新聞のできるまで」のビデオを視聴しました。その後、編集局、写真報道局そして制作局の各フロアを順次見学しました。各フロアを見学後に会議室に戻り、質疑応答を行い16時に解散しました。
 「新現役ネット会員24人、大阪産経新聞社を見学」と題した記事と写真(玄関で撮影したもの)を掲載した本日付夕刊の1面(もちろん市販はしません)を頂きました。ちなみに、1面トップは北朝鮮党代表会での「ジョンウン氏、指導部入り」でした。
新聞制作の仕事

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【関西】産経セミナー:テーマ「今後の政局と参院選の行方」(2010年4月12日)
 産経新聞政治部長の乾正人さんが、「今後の政局と参院選の行方~混迷する政局を見つめて~」と題して講演を行いました。参加者は40数人で、会場は熱かったです。乾さんの講演は昨年3月以来で、前回の講演「今後の政局を読む」で話したことが当たっていました。前回の講演は[こちら]を参照して下さい。
 参院選の行方は、新聞を読んでいれば大体のことはわかる。今日の夕刊の市長選の結果を見ればわかる。地方の市長選が国政の先行指標とな る。ほとんどの地域で民主党候補が負けており、民主党に風が吹いていない。多摩市長選は民主党の強い地域だが、かろうじて勝った(得票数:民主党 20904、みんなの党 19429、自民党・公明党 12657)。2位のみんなの党の候補とは僅差だった。本来なら自公候補(元市総務部長)なのだが、無名の民主党とみんなの党の候補が1週間の選挙運動期間でこれだけの票を集めた。それは、選挙民がムードで票を入れたからである。岡山県浅口市長選で、菅さんの義兄が負けた。都会でない所でも民主党は勝てない。
 参院選は雰囲気で票を入れるので、みんなの党が2人区以上で候補を立てれば当選する。2人区で民主党が1人だと、みんなの党が当選し民主党と自民党が僅差の勝負となる。民主党が2人区以上で2人を立てると、1人が大量の票を取らなければならない。選挙方式は、1人区、2人区、3人区、比例と異なる選挙制度となっている。小選挙区、中選挙区、大選挙区、比例が混在したおかしな制度となっている。
 1人区は極端から極端へ振れる傾向にある。民主党は徹底した組織固め(農協、医師会、建設など)を行っている。小沢選挙は自民党型の選挙で、風に流されずに底固めはできるが票は伸びない。民主党の1人区の当選圏内は29中10だろう。2人区以上の選挙区で28~30、比例が48中15で、合計で44か45だろう。小沢さんの考えは現職を落として新人(言うことを聞く人)を当選させたいと思っている。小沢さんは、自分だけ良ければよい人で、他人にとやかく言われるのが嫌い。参院選は民主党が負ける選挙だが、自民党が勝つ選挙ではない。民主党、自民党に入れない人がみんなの党に入れる。
 衆院選で民主党は「政権交代」を言い続けたから圧勝した。みんなの党はネーミングが良い。渡辺さん、江田さんのみ知名で他は知らない。わからないけど何かしてくれそう。一方、「たちあがれ日本」がなぜ悪いか?平沼さん、与謝野さん、園田さんのやることはわかっている。こんな考えの人と分かっている。7人でスタートするはずだったか、鳩山(邦)さんと鴻池さんが入らなかった。新党の場合、党首が選挙に出ないとダメ。若い人が入りたがらない。下で働く人がいないと政党として成り立たない。桝添さんは絶対に参加しない。功成り遂げた人、総理になりたい人のいる党には入らない。桝添さんは本当は党を出たいが、先手を取られてしまった。人気はあるが、手下がいない。「山田新党」の志は真面目だが、橋下知事に振られた。3つの新党に票が分散し、3党の内の一部と公明党が民主党と組む可能性がある。
 参院選後、公明党は99%与党入りする。民主党は60議席で単独過半数となる。もし、44か45なら国民新党、社民党を加えても過半数には足りない。小沢さんはなるべくこのカード(公明党の与党入り)をきりたくない。カードをきれば、次の衆院選で民主党は負ける。小沢さんが外れない限り、民主党とみんなの党が一緒になることはほとんどない。小沢さんは渡辺さん、江田さんが大嫌い。理屈を言う人が嫌い。一方、言うことをきけば、法に触れている人であっても支援する。
 反小沢の民主党7奉行(渡部恒三さんが名付け親)がいるが、7人が連携していない。他党との連携交渉などの泥臭いことができない。だから、小沢さんは辞めない。鳩山さんと小沢さんを一緒に辞めさせることが民主党の党勢回復の唯一の手段である。小沢さんが自発的に辞めても小沢支配体制は変わらない。小沢さんが政党助成金をすべて握って傾斜配分しているから強い。衆院選の時もすべて握っていた。
 民主党は、3月に小沢さんを切らなければならなかった。普天間移設問題で鳩山さんと小沢さんの2人が抱き合い心中しないと党勢反転はできない。抱き合い心中といっても小沢さんはだたでは引き下がらない。民主党は衆院で308議席あるので分裂しようと思わないし、ほとんどの議員は何も言わない。残念ながら政界再編は小沢新党ができた時のみである。50人の議員を引き連れて新党を作れば、政党助成金のおかげでお金の心配はない。過去、小沢さんはそのようにしてきた。
 普天間移設問題は、鳩山政権の命取りとなる。鳩山さんは解決できない。昨年12月に決断していれば、今頃は沖縄の人以外は忘れている。徳之島へ基地を持っていくなんてとんでもない。米国が港や遊興施設を造れと要求してきて、沖縄の2倍の金がかかる。徳之島に演習場が造れない。鳩山さんは自分で税金を払っていないから、そんな発想ができる。
 この後、参加者と質疑応答をしました。
Q1、普天間移設問題で日米関係はどうなる?
A1、普天間を継続して使用できれば米国は問題ない。軍事的にはベストである。オバマ大統領は鳩山さんを信用していない。鳩山さんだけでなく、日本をバカにしている。核サミットで他の国の首脳とは会うが、鳩山さんとは会わない。政治的にはダメ。
Q2、ここに至った原因に、寺島実郎さんの影響を受けているのか?
A2、影響される面もあったが、最近は会っていない。鳩山さんは自民党が対米追従し過ぎると思っているが、どう対等にするのかの具体策がなかった。自民党は沖縄の基地縮小を考えており、普天間移設はその一環だった。対等になるためには軍事力あるいは経済力をアップするしかない。政治力も必要。
Q3、管さんの影が薄いが?
A3、岡山県浅口市長選で義兄の応援に何度か行ってるが落選した。鳩山政権が潰れるのを待っており、わざと影薄くしている(何も言わない)。菅さんの良いことは目立つことなのに、影薄くしている。小沢さんが影響力を残そうとすれば次は菅さん。民主党がV字回復するためには小沢さんを切るしかないことは、民主党内ではわかっている。
Q4、橋下知事はどうなる?
A4、知事を辞めて衆院議員そして総理を狙っている。1チャンスで、知事を辞めた後にタイミングよく衆院選があれば良い。波に乗れば第2の細川政権だ。桝添さんのように、知られていない人ほど良い。
Q5、小沢さんの金の問題でなぜ国税は入らないのか?
A5、財務省は時の政権には黙っている。野党あるいは与党の非主流のみ入る。田中角栄さんは三木政権の時で、金丸さんは非主流だった。だから、小沢さんは幹事長を辞められない。政権与党の幹事長である限り国税は入らない。
Q6、幹事長、総理を辞めたら国税はどうする?
A6、同じ案件ではないが、別件で可能性ある。
Q7、今の日本に外交以外に問題がないか?
A7、(私見では)憲法改正。憲法改正と言っても、9条でなく参院の廃止。衆参平等は他国にない。衆参がねじれたら、政策が停滞して不安定になる。参院の規定をいい加減に決めたのが原因。郵政で国民新党が主導権を握れるのは参院で過半数確保のため。一院制になれば各党がマニフェストを真面目に作るようになる。4年あればかなりのことができるようになり、今よりましになる。しかし、自らを廃止することになるので参院での成立は難しい。工夫(身分保障等)が必要である。
Q8、自民党の復活は?谷垣さん以外に誰がいる?
A8、たちあがれ日本のように自民党内の年寄りが元気良い。今自民党内にいる人から探すが、いない。

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【関西】北朝鮮による拉致問題について(2010年2月19日)
 「北朝鮮による拉致問題について~貴方はこの事について、どれだけ知っていますか~」をテーマに、特定失踪者問題調査会 常務理事の岡田和典さんの講演がありました。参加者は20人ほどで、2時間の講演を熱心に聞いていました。私が初めて「北朝鮮による拉致問題」を知ったのは、2002年10月10日に開催された新現役ネット主催の第5回フォーラム北朝鮮の拉致問題」 でした。
 講演内容の真偽については確かめようがありませんが、納得できるものでした。以下に岡田さんの講演内容を記載致します。
 政権交代を大きなチャンスと考えていたが、変わらなかった。中井洽大臣(国家公安委員長・拉致問題担当)が一人頑張っているだけで進展しない。中井大臣の他、民主党の松原仁衆院議員ぐらいである。拉致問題が表面化すると困る抵抗勢力がブレーキをかける。それは、古傷を暴かれる恐れのある民主党内の旧社会党メンバーと国交正常化後の利権を狙う勢力(具体的に政治家の名前をあげたが省略)である。拉致被害者4~5人が帰ってきたら国交正常化したいと考えている政治家たちがいる。
 特定失踪者が全国で約470人(拉致の可能性が排除できない失踪者、内40名は日本で見つかった)で、ほぼ間違いないのが71人。少なくとも3桁はいると推定している。現在、拉致認定者が17人(日本国籍)、政府断定2人(北朝鮮国籍)である。拉致が確実なのに認定されない人が5人いるが、家族が表に出さないと認定されない。今も日本に北朝鮮のシンパがいる。3桁の人を狙いを定めて拉致するには日本国内に工作員に協力する人(何人か名前をあげたが省略)がいた。
 特定失踪者の内訳を分類すると年代、地域、職業に何らかの傾向がある。1970年前後に東京周辺で印刷関係の様々な分野の6人。90年前後に若い女性が20人近く。 70年前後に卒業を控えた男子高校生4名、アベック。自衛隊退役者20人、電信電話公社、日産の在籍者・出入り業者、東芝、日立造船堺、看護婦が多い。地域では、東京・千葉、高岡、大阪、神戸市灘区、舞鶴、米子、北九州が多い。
 拉致の可能性の高い関西の特定失踪者は次の通り。大阪府は約40人、堺市周辺・八尾市以東に偏る。兵庫県は20人強、神戸市灘区に関係者が偏る。京都府は20人弱、舞鶴周辺に多く、特に立命館大出身者が異常に多い。
 本気になって拉致問題を解決するには次の3つが必要。①拉致認定、②日本国内にいる拉致実行犯の逮捕、③金正日体制転覆後に、北朝鮮に入国して一人ひとり探す。政治家が金正日体制を延命させる政策をとるのなら信用できない。
 最後に、参加者の質問に対して、「現状で国交正常化しても北朝鮮内で自由に行動できない。一方、北朝鮮から大使館や領事館に多数の工作員を送り込まれ、恐ろしことになる」と答えました。

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2009年

今後の政局を読む政権交代で経済はどうなる?第15回フォーラム関西

第15回新現役宣言フォーラム in 関西:テーマ「人生はユーモアと音楽と共に」(2009年10月19日)
 ムラマツリサイタルホールで18時30分から20時40分まで「第15回新現役宣言フォーラムin関西」が開催されました。当初、5月25日に「第14回新現役宣言フォーラム in関西」の開催が予定されていましたが、新型インフルエンザ騒ぎのために中止されました。
 岡本理事長が「政権交代」について話しをしました。恐らく8年間は民主党政権が続くだろうとのことです。大企業に対する増税があるのか、環境問題で本当にCO2を25%削減できるのか、日米同盟関係がどうなるのか、なんとかうまくやって欲しいと話しました。
 続いて、ゲストの大塚清一郎さんが手にバグパイプを持ち、スコットランドの正装であるキルト衣装で登場しました。大塚さんは外交官や各国大使という経歴を持っています。衣装の細かな解説をし、大塚清一郎さんご自身の経験をもとに「外交とユーモア」というテーマで、得意のジョークをふんだんに交えながら、楽しいお話をしました。吉田茂元総理大臣がインドネシアのスカルノ大統領に対して言ったという外交上のユーモアの話をしました。さまざまな国の言葉やイントネーションにかけたジョークを紹介しました。そして、スコットランドで出会った日本軍の元戦争捕虜の方との話などをしました。「ユーモアや音楽は人の輪を広げる」と話しました。お話の後、バグパイプについて細かい解説をし、バグパイプの見事な演奏がありました。
 お二人と参加者との質疑応答があり、予定時間を10分超過してフォーラムは終了しました。 

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【関西】産経セミナー:テーマ「政権交代で経済はどうなる?」(2009年10月1日)
 産経新聞社大阪特派員・論説委員の小林毅さんが「政権交代で経済はどうなる?=グローバル金融危機を経て=」と題して講演を行いました。リーマンショックから1年、そして政権交代、日本経済はどう動くのかを話しました。
 講演の内容を箇条書きにします。
・民主党勝利の理由は自民党のていたらくのせい。小泉・竹中改革路線への迷いを小沢一郎氏が突いた。
・行き過ぎた規制緩和が鬼っ子(サブプライムローンの証券化)を生んだ。
・市場原理主義の根本は市場の監視にさらすことで、透明性の確保をしなければならない。
・四半期決算は止めた方が良い。短期の利益を上げることを努力することになる。
・郵政民営化は、官のガバナンスを市場のガバナンスに変えるのが趣旨である。
・郵便貯金は巨大になり過ぎた(ピーク時:260兆円、民営化時:210兆円で三大メガバンク合計と同じ、2009/6時:178兆円で三菱UFJと三井住友の合計をしのぐ)。市場にさらされていない金で、民を元気にするのに使われにくい。
・郵政事業の赤字を郵貯・簡保が補填している。
・地方は疲弊し、郵便局が削減された。郵貯を外国に引き渡すのかと小泉・竹中改革に対する批判が民主党勝利につながった。
・亀井氏の返済猶予法案はおかしいが、溜飲を下げた人は多い。大手銀行が批判されるのは当たり前。公的資金を投入したのだから、恩返しのために知恵を出すべき。
・民主党の経済政策の特徴は、利益を得る人(恩恵を受ける人)に直接渡すこと、予算の組み替え、官僚主導を止めること。
・高速道路の無料化について受益を受けない国民はいない(野菜、新聞等の配送)。作ったものは有効に使うべき。渋滞する道路は無料化しない方が良い。ドイツは原則無料、EUは車が多く修理代を負担。
・子供手当はもう少し検討した方が良い。認めるにしても、子どものために使って欲しい。親の遊興費に使われないような仕組みを考えて欲しい。
・CO2を25%削減の基準年が90年なのはなぜか。排出権取引ではCO2は減らない。日本が25%削減しても世界全体では1%に過ぎない。大きな×。
・民主党政権にはビジョンがない。目指すあるべき日本経済の姿がはっきりしない。
・金融機関に海外で頑張って欲しい。製造業に頑張って欲しい。生きる道は国際競争力。
・忘れてならないのは財政の問題。地方を含めて840兆円の借金。消費税の問題は避けて通れない。
・民主党最大の失敗は藤井財務大臣の「為替介入をしない」との言。
 講演の後、参加者と質疑応答を行い終了しました。 

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【関西】産経セミナー:テーマ「今後の政局を読む」(2009年3月25日)
 産経新聞社政治部長の乾正人さんが「今後の政局を読む」と題して講演を行いました。24日、東京地検特捜部は、政治資金規正法違反で今月3日に逮捕した小沢一郎民主党代表の公設第1秘書を起訴しました。しかし、その夜に小沢代表は続投を表明しました。そんな時に、タイミング良くセミナーが開催されました。参加者は40名ほどでした。
 乾さんは、「一郎は変わらなかった」と話し始めました。
 小沢代表は、昔も今も、良くも悪くも変わっていないそうです。平成元年、乾さんは政治記者になりたてで、海部首相の番記者をしていました。その時の自民党の中心が竹下派で、竹下さん・金丸さんが海部首相をコントロールしていました。小沢幹事長は46歳頃で、金丸さんに引き上げられました。平成2年、金丸さんが実質の首相で、小沢さんが実際に動かしていました。
 平成4年、金丸さんが東京佐川急便事件で失脚しました。小沢さんも略式起訴があってもおかしくない状況で、窮地に立って自民党を飛び出しました。平成5年の総選挙で自民党が過半数を割り、8党連立による細川内閣が発足しました。小沢さんがまとめました。小選挙区制度導入、政治資金規正法改正が行われました。小沢さんは自分の作った政治資金規正法(抜け道を考えて)なので、公設第1秘書が逮捕された時に「なぜ、逮捕?」と言ったのです。
 今回の事件、小沢さん自身はやっていないでしょう。首相が検察をコントロールできませんが、止めてくれとは言えます。例えば、二階大臣の秘書の逮捕を止めるとかです。田中さん逮捕の時は反田中の三木首相がストップをかけませんでした。検察と警察との間で情報の交換はありません。漆間内閣官房副長官は思ったことを気楽にしゃべってしまったのでしょう。麻生内閣には迂闊な人が多いです。麻生さんは厳しい処分ができません。
 小沢さんが今後どうするのかは、29日投開票の千葉知事選挙の結果と週末の世論調査の結果次第です。県知事は自民党系の森田健作さんが当選するでしょう。世論調査で小沢さん辞めろが8割を超えたら、辞めざるを得ないでしょう。民主党内は持ちません。来週の月曜か火曜が山場で、小沢さんの最後の正念場でしょう。小沢さんが辞めれば民主党は息を吹き返しますが、辞めないと支持が下がります。小沢さんは終わりになるでしょう。普通は幹事長が采配するのですが、党に入る金を小沢さんが事実上采配しています。だから、意見を言えません。お金を平等に配っていれば意見を言えます。小沢さんに替わりお金を采配できる人がいれば、クリーンさは強まります。
 解散総選挙の時期については、昨年末から「年内解散はできない、5月以降」と言ってました。自民党にとっては今解散するのが良いです。補正予算は連休明けにならないとできないから、政治的には空白になります。障害はテポドンの発射です。晴れれば、4月4日に発射します。昨年に選挙をすると民主党に半分以上取られる恐れがあり、菅さんがそのうち良いことがあると止めました。今は良いことが起きているのに、麻生さんはなかなか決断できません。また、一度言ったこと(補正予算の後に選挙)を変えられない性格です。本来なら予算成立直後が良いのですが、できなければ任期満了選挙となります。
 この後、参加者と質疑応答をしました。
Q1、民主党が政権を取ったら、ガソリン税を下げるとか他の事を実施するか?
A1、小沢さんが政権を取ったら前言を翻す。しかし、目玉の政策(子供手当26,000円、高速道路の無料化、農家への戸別所得補償制度)は実行する。消費税については次の選挙では掲げると言ってるので、小沢さんの次の世代にやらせる。
Q2、金にクリーンな民主党が、なぜ第1秘書逮捕に対して手続き上の問題と言ってるのか?
A2、金と人事を小沢さんが握っているので、意見を言えない。鳩山幹事長は小沢さんの言いなり。禅譲するなら鳩山さん?
Q3、民主党に官僚改革はできるのか?
A3、象徴的なこと(事務次官や局長を切る)はできるが、自治労が支持層なのでノンキャリアには手を付けられない。
Q4、一回民主党にやらせて見たら、との意見が多い。その場合の一番のリスクは何か?
A4、混乱するが産みの苦しみと考えれば良い。小沢さんが首相になった場合、恐怖政治となる。他の人なら事務的な混乱あるが、国民が我慢できるかだ。
Q5、米、英、韓国は与野党交代している。日本で与野党交代した場合、普通に生きている人間はどうなるか?
A5、やってみないと分からない。小沢政権では重苦しくなる。検察トップの交代させ、自民党の荒探しをやらせ逮捕させるかもしれない。二大政党賛成だが、小沢政権では反対。
Q6、政界再編はどうなるか?
A6、民主党が過半数取れば民主党主導。いい勝負になると微妙で、細川政権型の再編になる。良い政界再編をして欲しい。
Q7、小沢政権の体制は?
A7、小沢さんにとっては、小沢総裁で別の人が内閣が良い。
Q8、世論調査に当たったことがないがどのように実施しているか?
 若い人が育たないのはなぜか?
A8、全国で1000人程度なのでまず当たるはずない。
 日本が成熟社会だから、若い人が育たない。ハングリー精神がない。相撲界が良い例。昔は北海道や東北出身の力士が多かったが、今は朝青龍。日本の学校では政治の事を教えていない。政治に興味を持つのは変な人。だから二世議員が多い。選挙に出るには金が掛かる。一般の人がなりたいと言うと家族が止める。。政治を身近なものにしないといけない。
Q9、衆院選で現与党が多数になると、参院が野党多数のねじれは変わらない。その時、どうなるか?
A9、民主党の党首が常識的な人なら、あまり心配していない。
Q10、メディアの内容は偏向しているのではないか?
A10、街頭でのインタビューについて、民放テレビ局は面白くしたいので誘導することがある。NHKは賛否両論を放送する。
Q11、ある先生が、メディアは談合しているから同じような世論調査結果になると言ってたが?
A11、正しく世論調査をしている。回答側の好みの問題で、メディアによって差が出ることがある。
Q12、日本では党議拘束が多い。米国では議員一人ひとりの投票行動を調査している。日本ではできないのか?
A12、一部の新聞で議員の投票行動を調査したことがあるが、意味がなかった。ほとんど政党の決めた通りに投票していた。国会議員を減らして個々の議員の動向を調査できれば良いが。
Q13、安全保障、民主党政権になったらどうなるか?
A13、野党だから気楽に喋っている。政権を取ったら変わる。村山政権は変わった。
Q14、官僚組織の横暴はどうなるか?
A14、「政権交代すれば官僚組織改革ができる」は意味があるが、政権交代してもすぐ変わることはない。
Q15、自民党を離れた渡辺さんについて最近話題にならないが、どうしている?
A15、渡辺さんは講演活動をしているが、金がかかり大変だ。メディアの賞味期限は短い。

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2007年

第12回フォーラムin関西 

第12回新現役宣言フォーラムin関西:テーマ「5年後の世界情勢と日本の対応」~私達の時代をどう生きる~(2007年12月20日)
 ムラマツリサイタルホールで18時30分から20時30分まで「第12回新現役宣言フォーラムin関西」が開催されました。
 最初に、新事務局長と岡本理事長の挨拶がありました。その中で、中小企業庁が平成20年度に新事業「新現役チャレンジプラン」を立ち上げるとのことで、「新現役」の名称を借用したいとの要請があったとのことです。企業等を退職した団塊世代等の人材がその技術やノウハウを活用し、地域・中小企業において「新現役」として再活躍できる仕組みを構築する計画です。20年度の予算は20億円だそうです。
 プロデューサーの残間里江子さんが団塊の世代について講演を行いました。(会場に団塊の世代は10名程しかいませんでした)団塊の世代とは、1947年から1949年までに生まれた世代の約800万人です。堺屋太一さんが小説「団塊の世代」で命名しました。団塊の語源は鉱物学用語の「ノジュール」で、他と違う異質の塊のことです。この世代は前後の世代の影響を受けません。団塊の世代は若いと思っています。歌、芝居、ファッションなどは若い時に消費者になっていました。団塊の世代を対象にしたシニアプロジェクトでは、昔の概念でシニアをとらえています。旅行を例にとると、団体旅行はミスマッチで、今は工夫が必要です。友達5人が2組で10人の団体旅行、あるいは50人の団体を10人ずつに分けるとかです。多少のコストを払おうと思っている世代です。2006年にいろいろな企業に説明しましたが理解して貰えませんでした。2007年になってようやく理解されるようになりました。多くの都道府県が移住のポータルサイトを開設しています。移住によって数を求めるのであれば団塊の世代は乗りません。人材を求められ、そこに安い家があれば乗ります。銀座の山野楽器では高価なギターが団塊の世代に売れています。ちょっと今までとは違うように思います。経済にうねりを与えています。
 岡本行夫さんが5年後の国際情勢について講演しました。日本が並の国家になってしまう事が心配です。先日ニューヨーク州立大学の理事会に出席しました。大学はグローバルな交流を深めており、その中で中国は30回でインドは10回出てきましたが日本の名前は1回も出てきませんでした。世界中に中国人は居り中国のプレゼンスの多さ、日本のプレゼンスの少なさが目立ちます。中国は確実に世代交代をしています。今年の共産党大会で第6世代は2名が入り、5年後には第6世代に交代するでしょう。第6世代は米欧へ研修・留学し、英語・経済・テクノロジーに優れています。10年前の中国は田舎者でしたが、今では日本より立派になりました。第6世代に日本は太刀打ちできません。日本は毎年毎年国際社会で小さくなっており、元気になる兆候はありません。GDPは1993年に世界の18%だったのが、今は9%で18位です。ODAの金額もどんどん減っており、1997年をピークとして今は1/4です。国連安保理の常任理事国入りについても、ドイツに対する共同提案国18ヶ国対して、日本・インドに対するアジアの共同提案国は3ヶ国のみです。ODAあるいは企業が各国に投資して人・技術の育成をしたのに協力してくれる国がありません。日本がここ2~3年どんどん小さくなっています。なぜなのか? 海外にいるとそう思うのに、日本に帰ると「居心地の良いコミュニティ」があり忘れてしまいます。国際会議が減りました。飛行機も来ません。成田は未だに滑走路が1本です。国際社会で小さくなり、アジア学者も日本へ来なくなりました。日本の社会に自浄能力がなくなりました。皆が積極的に行動をとらなくなりました。週刊誌はスキャンダルばかりで、国会でのヤジが恥ずかしいとは思っていません。居心地の良い平穏な社会に居り間違っていないと思っている間に置いてけぼりにされました。NHKで赤福が1週間トップニュースになりました。新聞も同様です。世界の判断力とかけ離れています。「テロ特措法」の問題もおかしいです。日本自身のためにやっていたことで、給油がストップして損するのはアメリカでも給油を受けている国でもありません。アフガニスタンとイラクとは違います。アフガニスタンはテロとの戦いで、国際社会が合同で対応しています。アルカイダが「9.11事件」を起こしたのはアメリカでなく文明を破壊しようとしたのです。アヘンを売って武器を手に入れていますが、それをストップさせているのは日本以外の国です。海外の日本人は外国に助けられています。日本は国際社会から助けられて来ました。テロ特措法を成立できないのなら、今後国際社会に助けを求めるべきではありません。安全な給油活動を続けるべきです。シニアが経験と信念に基づいてもう一度世界で日本のプレゼンスを確かにしていかなければなりません。
 講演の後に来場者との質疑応答(省略)があり終了しました。

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2006年

操縦桿握り続けて40年第4回自然に親しむ会第5回自然に親しむ会2006年の日本経済と大阪経済【関西】正会員懇親会アサヒビール西宮工場見学第10回フォーラム関西正倉院展鑑賞と今西家書院で利き酒情報社会と私たちのくらし

【関西】学びの会:テーマ「情報社会と私たちの暮らし~高度情報社会の現状と将来展望~」(2006年12月11日)
 メディアプロデューサーの原企画事務所代表取締役の原惇さんが「情報社会と私たちのくらし」をテーマに話されました。
 原さんはケーブルテレビに携わっているとのことで、テレビを中心にメディアについて話しました。メディアとは「情報を運ぶ舟で、情報を伝達する仲介役」と定義しました。メディアは印刷物(新聞、雑誌等)、無線(テレビ、ラジオ、電話等)、有線(ケーブルテレビ)、電話、パッケージ(ビデオ、DVD、フラッシュメモリ等)に分類されます。
 高度情報化社会について年代を追って説明しました。1925年 NHKラジオ放送(JOAK)開始、1945年8月20日 太平洋戦争終了、その頃にコンピュータ出現、1959年 プログラム内蔵方式の電子計算機、1953年 NHKテレビ放送、日テレ放送開始、1953年 フジTV、関テレ放送開始、1955年 CATV第一号(群馬県伊香保温泉)、1963年 通信衛星による宇宙中継でケネディ大統領暗殺を生放送、1964年 東海道新幹線、東京オリンピック、1966年 人口1億人突破、1970年 日本万博(6400万人入場)、情報社会がテレビに取り上げられる、1972年 沖縄返還、1977年 ワープロ、2~3年後に個人向けワープロ、現在はPCのワープロ、1978年 初の人工衛星、1984年 民間衛星放送局(WOWOW)、1989年 昭和天皇崩御、ショルダーフォン、1990年 花と緑の博覧会、ハイビジョンテレビの実現、1994年 携帯電話、インターネット網の開放、1995年 阪神淡路大震災、携帯電話の便利さ認識、1996年 WOWOW契約250万世帯突破、2006年10月現在 CATV414局(多チャンネル型)、現在60~70チャネルがいずれ400チャネルへ。
 まもなくインターネットを使った放送局も出現するでしょう。放送と携帯電話の合体、ゲームにコマーシャル、電車のボディに広告が掲示されています。2007年1月にはPLC(高速電力通信)が許可され家庭の電力線がLANになります。2011年に地上ディジタル放送化される予定ですが、その間にもテレビは進化するでしょう。秒針分歩でいつの間にか新しい物が出てきます。
 民放で見るべき番組がありません。本当に広告の効果があるのか疑問です。本当に効果のある広告は何か? 対象を絞ったピンポイント広告、インターネットのバナー広告、携帯電話を広告の媒体にする伊藤ハムの無料レシピ等があります。劇場中継、野球中継は今後も続くでしょう。衛星放送になれば地域も関係なくなり、法律も変わってきます。
 NHKと民放が共同で製作した「テレビ40年の自画像」を記録したビデオが写されました。
 続いて、生駒市で実験された双方向CATVについてのビデオが写されました。メディアの4つの部門は、収集作成、処理加工、伝送、利用です。ニューメディアとは4つの部門の内の一つ、あるいは複数の部門で画期的な開発変革が行われることです。双方向のソフト作りの例としては出前寄席、インコマーシャル(Information+Commercial)があります。
 映像実験でいまだに出来ていないのが東芝と協力した「ビデオロボット」で、実用化できていません。2011年にテレビはディジタル化されますが、12月1日現在で84%の地域で受信可能になりました。PLCはCATVと真っ向からぶつかります。アメリカではゲームの中にピンポイント広告を挿入しています。テレビ電話を使って個人で生中継も可能です。AOLがタイムワーナーを買収したことで映画配信で著作権問題が解決されます。
 石原慎太郎さんが高度情報化社会への警告を行っています。「情報の氾濫でプロセスが省略される」とプロセスの重要性の認識が薄れることを警告しています。
 最後に、新しいソフトの説明がありました。伊藤ハムの携帯電話を使った無料レシピ、松下・角川・TBSによる電子書籍、音楽のダウンロードです。そして、深夜に高齢者向けの番組が出てくるでしょう。吉本が「笑うシニア.com」を始めました。
 松坂選手の代理人のスコット・ボラス氏のオフィスには選手ごとに70台のテレビがあり、シーズン中は30分に一度は選手の成績をオンタイムで受け取っています。そして、世界の少年野球を見て選手を発掘しようとしています。

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【関西】第58回正倉院展鑑賞と重要文化財・今西家書院で利き酒(2006年11月2日)
 奈良国立博物館で開催されている第58回正倉院展(10月24日~11月12日)を鑑賞しました。参加者は23名でした。
 奈良国立博物館正面玄関前に13時集合でしたが、5分遅れてしまい私が一番最後でした。入館後は各自が自由に鑑賞しました。私は音声ガイドを借りて宝物を鑑賞しましたが、展覧会場は鑑賞客で混雑していました。展示の構成は聖武天皇の御事績に始まり、天皇御遺愛の宝物、皇族・貴族による献納品、武器・馬具と続き、後半に奈良朝の東大寺で用いられた献物几・献物箱、種々の仏具類、法会所用具、文書、経典など68件(内初出陳13件)の宝物が出陳されています。光明皇后による最初の宝物献納の折の目録である「国家珍宝帳」が16年ぶりに公開されました。文書には現存する最古の戸籍をはじめ、奈良時代の社会や人々の暮らしを伝える貴重な文書が出陳されています。
 14時30分に正面玄関前に集合し、三々五々に江戸時代末から明治時代にかけての町屋の面影を今に伝える「ならまち」を歩き「重要文化財・今西家書院」へ向かいました。15時30分から今西家書院で利き酒と小料理を楽しみました。奈良のお酒「春鹿」で有名な今西酒造の会長 今西清悟さんのお酒にまつわるお話を聞きながら小料理と季節の利き酒をしました。出されたお酒は「大吟醸 ひやおろし」、酒シャンパンと呼ばれる「発砲純米酒 ときめき」、「純米吟醸 春鹿」の3種類でした。どれも美味しかったで、ずうずうしくもお代わりをお願いしました。3番目に出たお酒は正倉院展記念限定酒だそうで、帰りに1本購入しました。17時までの予定が20分ほど延びてしまいました。帰りは近鉄奈良駅まで歩きました。
 奈良の街を長時間歩いたので、いつも携帯している万歩計の1日の数字が1万5千歩を超えました。
   
左から 奈良公園の鹿 奈良国立博物館 ならまちの町屋 今西家書院

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第10回新現役宣言フォーラム関西:テーマ「関西の未来を拓く」女の本気・男の本音(2006年9月22日)
 大阪市中央公会堂で18時30分から20時30分まで、第10回新現役宣言フォーラム関西が開催されました。参加者は400名だそうです。
 事務局長の挨拶と新現役ネットの活動紹介の後、理事長の岡本行夫さんの近況報告がありました。夏は紅海へ行き、先週はジュネーブの国際会議に出席したそうです。1999年12月の冷戦終了後、現在はそれに次ぐ大きな変革の時期ではないかと言います。ヨーロッパではアメリカに対する批判が噴出したそうです。イラクの混乱、イスラエルとビズボラの戦い、イランの核問題、インドとパキスタンの核開発、テロの蔓延、アジアの3分の1の人口を占めるイスラム、ロシア、中国、ブラジル等について語りました。日本は国際会議では大人しいそうです。最近の中国は物を言うようになりましたが、日本は物言わぬ、自分の意見を言わない、自己主張をしないそうです。
 トークセッションはゲストの吉永みち子さん、コーディネーターの残間里江子さん、ホストの岡本行夫さんの3人が参加して行われました。吉永さんはABCテレビの「ムーブ!」に出演後に来場しました。大阪の特色や世の中の本音と建て前について3人が議論しました。吉永さんは「同じ出演者の発言が東京と大阪では異なる。大阪ではストレートな表現でストレスを発散している」と言います(確かに、東京と大阪では出演者の発言内容が異なり大阪の方が過激な発言と思うのは私も同様です)。岡本さんも大阪の人は皆素直だと言います。残間さんは団塊の世代の800万人が牽引役になることを期待していました。就職で本音と建て前があったと、吉永さんと残間さんが就職時のエピソードを話しました。在学中は男女同権と教わったが、世の中に出ると本音と建て前がありました。岡本さんは女が働くのは賛成であるが、能力のある女性にとって働き難い日本ではあることを認めていました。吉永さんは、男はなかなか本音を語らないが酒の席等でポロッと本音を漏らすと言います。岡本さんも、男は本音をすぐ言わない、居場所が確保できてから話すと言います。残間さんは職業で社会を見ることができると言い、団塊世代が最も専業主婦が多いことを話しました。「関西の未来を拓く」では、吉永さんは価値観の多様化がパワーを生んでくる、東京の価値観に対して大阪の価値観があって初めて対抗できると語りました。最後に岡本さんから一極集中では国がうまくいかないので、大阪に頑張って貰いたいと結びました。
 時間が少なかったために十分な議論が行えず、まとまりがありませんでした。トークショーの後は来場者との質疑応答(省略)がありました。大阪のおばさんは元気と言いますが、この日は女性から質問は出ませんでした。

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【関西】アサヒビール工場見学第4弾・西宮工場見学(2006年6月28日)
 梅雨の晴れ間の28日、アサヒビール西宮工場を見学しました。今回が4回目のビール工場見学(過去に神奈川工場、茨城工場、吹田工場を見学)で、初めて参加しました。36名の参加申し込みがあったそうです。
 13時50分にゲストハウス・ロビー集合で、14時から映写室で映画”「うまい!」をつくる”を観た後、工場見学をしました。仕込み工程の各装置(仕込釜、仕込槽、麦汁ろ過槽、煮沸釜)や屋外にある発酵・熟成タンクを眺めました。びん詰・缶詰工程では実際にビンや缶が高速で移動しているのを見学しました。はっぱの会 でアサヒビール茨城工場、キリン横浜ビアビレッジ、サントリー武蔵野ビール工場等を見学したことがありますが、いずれも土曜日だったのでビンや缶が動くのは見たことがありませんでした。映画と工場見学で約50分でした。工場見学の後に楽しみにしていたビールを試飲しました。1時間程、オードブルを食べながら美味しいビールをたっぷりと飲みました。アサヒビールは新現役ネットの応援企業であり、見学の実施協力をして頂いたそうです。
 お土産に28日新発売の「プライムタイム」を2缶を頂き、16時過ぎに工場を後にしました。

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【関西】正会員懇親会2006(2006年4月25日)
 岡本行夫理事長も参加されて、【関西】正会員懇親会が開催されました。
 始めに岡本理事長による講演会が行われました。テーマは「緊迫する日本を取り巻く国際情報」でした。日本がなぜ厳しい状況になったかについて語りました。世界に対して日本の立場を言うべきなのに、日本の立場を相手に伝えていません。例えば竹島の問題では、1954年と1962年に国際司法裁判所(ICJ)への付託を韓国に提案していますが、以後何も言ってません。文化の問題や国民の同質性に起因しているのか、日本の立場を相手に伝えるのが下手です。ある国の大使が「日本は中国、ロシア、韓国、北朝鮮の隣国全てと仲が良くない」と言いました。
 ロシアとの関係は今後動かないだろう思います。ロシアは石油高騰のおかげで日本の経済力を頼りにしなくと良くなり、領土問題は進展しません。しかし、中国との関係でロシアとの関係を今のままにしておくのは良くありません。
 北朝鮮は2002年9月の小泉首相の訪朝時に、金正日の持っているカードを全て出したのだろうと思います。しかし、日本側の要求はエスカレートし、北朝鮮はカードがないどうしようもない状態で、見切りをつけたのでしょう。アメリカは北朝鮮と正面から話すつもりはありません。アメリカは中東に兵45万人(内15万人が中東駐留)を取られています。北朝鮮の問題は前に進まない恐れがあります。
 韓国との関係はどうして悪くなったのでしょうか? 当初、ノ・ムヒョン大統領は小泉首相と親しく、「過去を問わない」と言ってました。しかし、靖国問題で小泉首相に裏切られたと思っています。そして、インターネットで国民に向けて日本非難のメッセージを送りました。そんなことで、100%韓国の責任ではありません。韓国内では世代交代が行われつつあります。シニア世代は北朝鮮が侵略してきた時にアメリカが助けてくれたと感謝して親米ですが、若い30~40代は反米です。若い世代は軍事政権に弾圧された思い出があり、背後にアメリカがいたと思っています。親米から反米へ、日本への警戒もあります。大統領が特別なだけではありません。
 中国との関係は当分良くなる気配もなく、手がかりもありません。江沢民の反日教育で、日本人に2000万人が殺され、1500万人が負傷したと誇張した教育を行っています。一方、日本は戦争についての教育を受けていません。日本にとっての戦争は1941年から1945年です。「240万人の民間人と70万人の軍人が死に、二つの原爆を落とされ十分に罪を償っている。今後は平和国家として生きていく」と考えています。一方、中国にとっての戦争は満州事変の起きた1931年から1941年で、一方的な被害者としての怨念が残っています。中国の教育は滅茶苦茶だが、中国の教育は憎悪感と理解しなければ間違います。中国の若者の7割が日本を嫌いと言ってます。真の友好関係はすぐには実現しません。15年から20年かかると覚悟して、その頃に友好関係を持つための政策を行わなければなりません。日中は分離不可能な経済関係にあります。
 日本はアジアに対する戦略を立てていません。国連安保理常任理事国入り問題についてもっと深刻に考えなければなりません。アジアの共同提案国は3ヶ国のみで、中国は反日キャンペーンを行いました。日本が中国と話し合わなければなりません。中国は大陸アジアと海洋アジアに分離させようとしている恐れがあります。海洋国家とは日本、台湾、フィリピンですが、中国はフィリピンを日本から切り離そうとしているのではないかと思われる戦略的な動きをしています。日本経済は復活し、日本はたいした国だと思われています。国民一人一人が努力して、アジアの信頼を得るようにして欲しいと思います。この後、質疑応答があり講演を終わりました。
 講演会は1時間ほどで終わり、場所を移して懇親会が行われました。立食パーティーで、アルコールと料理を食しながら参加者と歓談しました。懇親会では新現役ネット会員である歌手の荒尾一夫さんの歌と芸人の舟貝政夫さんの南京玉簾の余興もありました。最後にプレゼントのくじ引き大会があり、私には岡本さんのサイン入り著書「砂漠の戦争」が当たりました。懇親会は1時間半ほどで閉会となりました。

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【関西】産経ミニ・フォーラム:テーマ『2006年の日本経済と大阪経済』(2006年3月13日)
 産経新聞社経済部部長の廣瀬千秋さんが「2006年の日本経済と大阪経済」をテーマに話をされました。
 始めに関西経済について話しました。昨年、経済部内に阪神電鉄と三洋電機の二つの取材チームを作り取材を行ってきました。
 昨年9月27日、村上ファンドが阪神電鉄株を34.14%買い占めたことが明らかになりました。阪神電鉄幹部はどこかが買い占めていることは薄々気が付いていたが、手を打てなかったとのことです。現在、村上ファンドは45.7%を買い占めました。真意はよく分からないが、恐らく経営に参画する考えはなく高く売り抜けたいと考えていると思います。意外と簡単に手に入り、買い過ぎたのでしょう。阪神株は一般株主が多いので、高値で株を売ったのでしょう。株価が下がると村上ファンドが買い支え、昨年350円が本日は1056円になりました。村上ファンドの購入平均価格は610円くらいと予測されるので、7~800円以上で売れれば儲かります。村上さんは株価を上げる(株高政策)ためにいろいろと話します。例えば、阪神タイガースの上場、不動産の活用、配当を増やせ等で、一般の株主を味方にしようとしました。節目は3月末、5月の決算、6月の株主総会でしょう。
 三洋電機がここまで経営が傾くとは予想外でした。7~8年前に好調な企業を3S(ソニー、シャープ、三洋電機)と呼びました。シャープは液晶に特化して好業績を上げ、ソニーは一時厳しかったが最近復活しました。厳しいのは三洋電機だけです。関西財界は阪神より三洋電機のことを心配しています。昨年の決算は1715億円の赤字ですが、経営陣は新潟地震の被害を赤字の言い訳にしています。しかし、地震の被害は700億円に過ぎません。経営者の問題であり人災です。1715億円赤字の会社に素人の野中ともよさんを会長・CEOに据えること自体がおかしなことで間違いです。恐らく、井植ジュニアを社長にするためのカモフラージュです。11月18日の中間決算では平成18年度2330億円の赤字予測です。松下電器も3000億円の赤字を出しましたが、中村社長の「破壊と創造」により激しいリストラを行い、必死になって改革を実行しました。7、8年前、利益を上げていたトヨタ自動車は危機感を持ってリストラを続けていました。乾いたぞうきんを更に絞るリストラ、大胆な改革を行っています。三洋電機にはそういうものを全く感じず、改革を全くしていません。産経新聞が最初に野中さんとインタビューしたのは都内の一流ホテルのスウイートルームで行いましたが、なにを勘違いしているのかと思いました。野中さんのご主人の会社へ毎月1000万円振り込まれているとの噂があり社内で問題視されているそうです。内紛もあり、三本柱の一人の三井住友銀行出身の取締役が辞表を出しました。危機感を感じた金融機関が3000億円の増資を行い、金融機関管理下で再建を進めることになりました。経営者は変わるべきだと思います。しかし、技術者は優秀です。野中さんは6月に辞任するだろうと言われています。就任以来、野中さんは大阪には来ておらず、経営者としての資質に問題があります。野中さんは会長・CEOから会長になりました。
 関西の電機業界は松下とシャープが力強い業績を上げており、ベースアップも500円アップで決着するでしょう。大阪の経済は強い企業と弱い企業に二極化しています。景気が良くなったのは、強い企業が増えて来たからです。電機とそれを支える中堅企業で、技術を持っている会社は強いです。一方、昔ながらの規制に守られた企業は弱いです。許認可に守られた企業の代表は鉄道、飛行機です。(JALを例に挙げて批判しました)。シャープや松下は海外進出をしており、残ったのは許認可に守られた企業です。関西経済は地盤沈下しており、商社、銀行、繊維も大阪離れをしています。大阪に本社がある企業の社長TOPと広報部長が東京へ移っています。インフラを整備して大阪でビジネスをし易い環境を作らなければなりません。大阪の強みは中堅企業や東大阪の独自な技術を持った会社です。京都企業は京セラにしてもオムロンにしても強いのですが、独自の技術力を持った会社です。中堅企業が頑張ると大阪も活躍できると思います。
 日本経済はGDP5.4%、失業率低下、株価16000円を回復しています。日銀は景気が良くなったと、量的規制緩和の解除をしました。量的規制緩和やゼロ金利が続くのは異常です。日銀は金利政策の時代にして欲しいと望んでいます。
 以上でお話しは終わり、続いて質疑応答がありました。
Q1:阪急電鉄株買占め問題について
A1:プリベの松村さんが5%の株を取得しました。しかし、阪急側は防衛策を講じており、松村さんは手が出せない様です。松村さんの友好的な発言もあり、ある程度決着したとの感触があります。
Q2:イラン核問題と国際的な要因による影響について
A2:イラン核問題はアメリカの出方によって日本に影響があります。予断を許さないので注意深く見守る必要があります。国際的には中国の動向次第で日本に影響があります。8~9%の成長率は過熱気味で、臨海部と内陸部の格差問題も深刻化している様です。海外の動きは心配です。米英は政治と経済を絡めて考えているが、日本の政治家は外交は考えるが経済のことはあまり考えていません。
Q3:若い人だけでなく年よりも東京へ行ってしまうことについて
A3:人が集まれば経済規模も大きくなります。昔は大阪は東京の一割経済と言われましたが、今はそこまでありません。大阪でも都心ではマンションが建設されていますが、東京は更に多く、1000戸規模のマンションが建設されています。東京シフトは確かにあると思います。名古屋と大阪の違いは名古屋と東京は新幹線で2時間で行けることです。2時間なら日帰りできます。大阪、東京間が2時間で移動できれば東京へ引っ越すことがなくなるかも知れません。大阪の魅力は京都、奈良に近いことです。観光と文化もあるし美味しい食べ物があります。大阪の一番悪いのは治安が悪いと言われていることです。治安を良くしようとする動きもあるので、治安をよくして人を集めて下さい。大阪には文化と笑いの歴史があり、伝統芸能に人を呼び寄せられます。また、大阪は京都や神戸に近く便利で、歴史や文化に接し易い土地です。人集めのために、もう少しインフラを整備すると良いと思います。
Q4:国際問題とポスト小泉について
A4:なる人によって変わります。外交はあまり譲っても譲歩しても良いものは引き出せないと思っています。中国もイスラムの世界も絶対に譲りません。今までは日本の優しさが少なからずマイナスになっていました。外交では主義・主張をはっきりすべきです。国際会議では財務省は絶対に退きません。財務省は外務省が退くのを分かっているので、外務省に絶対に任せません。
Q5:道州制について
A5:道州制に賛成する人は多いが進みません。日本は中央集権体制であり、企業は政府に関わらざるを得ません。関西電力でさえ東京に200名います。地方自治体もお上頼りです。地方分権が進んできましたが、中央官庁から地方自治体へ多くの人が来ています。そのようなことを断ち切らないと道州制はできません。しかし、断ち切らせない力が中央官庁にあります。道州制実現には大きな政治力、リーダーシップが必要です。

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【関西】第5回自然に親しむ会:テーマ『竹林資源で広がる循環型社会』(2006年2月24日)
 「野と森の遊び文化協会」理事長の逸見祐司さんが「竹林資源で広がる循環型社会」をテーマに話されました。
 初めに「20世紀とは何であったか」、「竹に学んだ日本人」について話しました。20世紀とは理想の世紀(何々であるべき、何々でなければならない)であったと考えています。理論を持たなければダメで、理論を持つ証は論文を書ける人、卒論をかける人で、大卒を重んじていました。大学、高校、中学とピラミッド型の組織を作ってきました。そして、日本経済は機能しました。理論は合理的さを求めます。理論的かそうでないかは合理的かそうでないかということになります。合理性or非合理性、効率性or非効率性、善or悪、損or得などの二者択一の論理です。西南戦争が終わる頃に西郷隆盛が「我々日本人もイギリス人のように合理主義とか効率主義を気にするようになるのだろうか。一生懸命やったら結果は問わないでなく、結果主義に陥るのだろうか。勝ち負けにこだわる日本人になるのだろうか」と話したそうです。
 大和民族には灰色があります。甘いか辛いかでなく、甘辛があります。こういったグレーゾーンは欧米人にとって理解し難いと思います。竹は欧米にはありません。竹冠がついた漢字は多数あります。竹を良く使った民族です。竹は「しなる」がありますが、ヨーロッパでは固い木か柔らかい木かで中間はありません。甘いか辛いか、勝つか負けるかしかなく、我々のように七分勝ちとか窮鼠ねこを咬むとかの発想は出ず、とことんやってしまいます(中国人も同様)。
 平安時代には人の領地に入って竹を切ったら打ち首でした。矢竹の生産に力を入れており、その場所を知られることはまずかったのです。竹は非常に貴重で大切にしていました。広島に原爆が落ちた時はあらゆる植物がダメになるだろうと言われていましたが、淡竹(はちく)がはえていました。ベトナム戦争で米軍が枯葉剤を撒いても孟宗竹は生えていました。竹には生命力があります。我々の祖先は生命力に因む行事には必ず竹を使いました。例えば門松で、神道や仏教でも竹を使っていました。淡竹から精力剤が取れます。竹ろう(けい酸)が取れます。万博公園(竹林の管理業務を委託されている)での田作りにけい酸が役立っています。
 「しなる」という言葉は竹から学びました。昔の人は「八百万の神」と言い、神道では「あなたの信じたいものを自由に信じなさい、心が大切です」と言います。ここで言う神は一神教でなく多神教でいう神です。竹は神様です。「松竹梅」を神様と呼びました。松は常緑樹で黒松の防風林を指し(風林火山でいう山)、、梅は春の強い風に吹かれてもびくともしません(風林火山でいう林)。竹の柔軟性によって、祖先は「緩急自在」を学びました。竹によって生き方を学びました。雨の降る日もあれば風の日もあり、毎日が晴れではありません。
 昔は竹の皮で食べ物を包みました。竹の皮には物の腐るのを遅らせる作用があります。新鮮さを大切にするように竹の器を使いましたが、竹の箸にも意味があります。鉄器が現れる前は竹刀で赤ちゃんのへその緒を切りました。消毒の効果がありました。淡竹から竹瀝が取れます。竹瀝でO-157も死に、初期がんにも効き目があります。竹が薬として使われたことも多かったのですが、プラスチックの登場によって竹の皮を使わなくなり、東南アジアへ竹篭を発注するようになり、竹林管理を行わなくなりました。
 今は竹害と言われるようになりました。大阪府内の竹林面積は20年で1.7倍に増えました。竹の根が地中に生え広がり、防災林を引き倒し土砂崩れの元になり、経済林を引き倒し、畑は竹薮になり、民家に入ってくる、というようになりました。万博公園で竹害を竹益化する活動として竹炭作りを行っています。
 竹を復活させることは我々の祖先の物の考え方につながってくると思います。明治37年頃にNatureを自然(しぜん)と訳しました。それまで自然(じねん)という言葉がありましたが、じねんとNatureは違うということでしぜんと呼び区別しました。Natureには死生観がなく、死んだらそれまでです。死んでも思いを残す、祖先の意思を受け継ぐ、じねんには循環の教えが入っています。Natureは人間の役に立つ物ですが、じねんの内の一員が人間です。100年かかってわかった祖先の効率性、偉大さは20年くらいではわかりません。我々の言う合理主義、効率主義はしょせん20年位のものです。
 昭和、平成を生きたものとしてわが国の文化である物を残していきたいと思います。我々は体験を通して考える力はありますが、今の若者は体験しないでバーチャルです。それがニートを生みました。竹林資源活用ということを通して専門家を増やし(竹仙人養成講座:循環型社会を推進する竹林資源多目的活用の実践ボランティアセミナー)、最終的には若者たちが農業によって働きになったり、人を育てていくことが長い目で見てこの国のためになると思います。

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【関西】第4回自然に親しむ会:テーマ『行政としての自然環境への取り組み事例』(2006年1月25日)
 大阪府環境農林水産部循環型社会推進室の神牧智子さんが「行政としての自然環境への取り組み事例」をテーマに話されました。行政が住民と同じ目線に立って自然環境の再生に取り組んでいる事例の紹介をしました。
 資料として大阪府の環境総合計画の「計画目標と達成状況」が配布されました。環境総合計画で定めている中期的な目標(平成22年度)と短期的な目標(平成17年度)と平成14年度から16年度までの実績から見た達成状況が記載されています。この日は「豊かな自然との共生や文化が実感できる魅力ある地域の実現(共生・魅力)」についてお話ししました。そして、パートナーシップによる自然の再生をテーマに事例の発表がありました。事例1は「植樹、緑の再生」で大阪トラスト協会 が運営している「木になる夢銀行」 http://www.ogtrust.jp/acorn%20bank.htm です。事例2は「ため池環境の自然再生」で「大阪狭山副池の自然づくりの会」の活動です。事例3は「大阪湾再生」 http://www.kkr.mlit.go.jp/plan/suishin/ で「ダイバーによる大阪湾海底調査」、「魚庭(なにわ)の森づくり運動」 http://www.pref.osaka.jp/suisan/topic/naniwanomori.html 、「NPO法人 環境教育技術振興会(CAN)」 http://www.npo-can.org/ と協働している「アマモの田んぼづくり」でした。最後に自然環境は「みんなのもの」であり、自然環境の再生のためには、府民も行政も最初の一歩は「自然に親しむ」ことからと結びました。

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【関西】学びの会:テーマ「操縦桿握り続けて四十年」(2006年1月18日)
 正会員の空野和生さんが「操縦桿握り続けて四十年」と題して飛行機の歴史や自身の経験談を話されました。
 空野さんは40年間で25,000時間、距離にして11,100,000Kmを飛行されたそうです。自動操縦の飛行機でなく、YS-11を操縦していたので文字通り「操縦桿握り続けて四十年」です。今後、飛行25,000時間が達成されることはないだろうとのことです。
 ライト兄弟の初飛行から100年の間の飛行機の歴史を写真を紹介しながら話をしました。ライト兄弟が初飛行する10年程前の日本では、二宮忠八がカラス型模型飛行機(ゴム式)の実験に成功し、玉虫型飛行機(人力)を完成していました。玉虫型飛行機は飛行神社に奉られています。初のジェット旅客機であるコメット機やコンコルドの話をしました。コンコルドは2003年4月に運行を中止していますが、ライト兄弟の初飛行以来丁度100年目になります。日本における飛行艇の開発についても説明がありました。1976年に救難飛行艇部隊が発足し、現在まで確実に実績を上げています。ホットニュースとしてA-380についても話しました。総二階で560t、555人乗りの世界最大の飛行機は日本の技術なくしては製作も飛ぶこともできませんでした。現在は運用試験中で、2006年12月末にはシンガポール航空が運行を開始します。また、世界一周無着陸飛行を達成したボイジャーやグローバルフライヤーの話、数々の記録を作った日本の神風号、航研機、世界一周機ニッポン、A-26等の飛行機についても説明がありました。
 空野さんは日本には技術があるので航空機の将来のためにも国家の事業として新しい航空機の開発に取り組んで欲しいと強調していました。現在、航技研でプロジェクトが進行中だそうです。最後に空野さんが新聞に連載した「道ひとすじ」の説明を行いお話を終わりました。
 お話の後、場所を移して立食パーティーが行われました。

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2005年

2005年日本の大胆予測第1回シルクロードを学ぶ会3周年記念フォーラム第2回シルクロードを学ぶ会第25回フォーラム

第25回新現役宣言フォーラム:テーマ「海の美しさを語ろう ~日本一の海中写真家との夕べ~」(2005年11月14日)
 18時30分開演、最初に理事長の岡本行夫さんが挨拶をしました。
 次に、ゲストの写真家中村征夫さんがスライドを上映しながらお話をしました。内容は中村さんが執筆した「水中の賢者たち」の内容の一部をスライドにして上映しました。中国古典の名言名句集と出会い、漢文の詩の持つ流れるような言葉の響きに魅せられたそうです。そして、撮影した数万点の写真の中から90の漢文に合う写真を探し出し、漢文と海中生物たちとの合作による「水中の賢者たち」が誕生しました。例えば、砂の中からニターッと笑みを浮かべる(ように見える)コチの仲間の写真と、「嗔れる拳も笑う面は打たず」(怒って拳を振りあげても、笑っている顔は殴れない)の漢文の組合せです。いくつかのスライドを上映しながら漢文を読み上げその説明をしました。ただし、「子孫に財産を残す者は必ず失敗する」に合う写真はなかったそうです。なぜなら、海の生物は明日のことを考えていないからだそうです。写真が美しいので、フォーラムの帰りに「水中の賢者たち」を購入しました。
 続いて、中村さん、岡本さんそれに残間里江子さんと海中写真家の鎌田多津丸さんが加わり対談が行われました。 中村さんが写真家になったきっかけや海の魅力、環境問題等について話合いました。中村さんはこれまで74ヶ国に行きましたが、日本の様な海(東西南北、さんご、流氷、リアス式海岸:海岸線の長さは世界で3番目、多くの島)はないそうです。
 新現役ネットの活動紹介が行われた後に来場者との意見交換、質疑応答が行われ20時30分に閉会しました。

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第2回シルクロードを学ぶ会(2005年2月9日)
 第1回(2005/1/18)に続いてNHK・講談社主催「新シルクロード」セミナーに参加しました。3月から新現役ネット主催で「シルクロード」をテーマとした勉強会や交流会が予定されています。講演に先立ち、講談社が発行しているDVD BOOK「講談社版 新シルクロード 歴史と人物」の第6巻「トルファン 灼熱のオアシス」の一部が上映されました
 講師は写真家の稲越功一さんです。稲越さんはNHKの「新シルクロード」プロジェクト同行のスチール写真カメラマンとして取材を行っています。一昨日まで取材で西安にいたそうです。一昨年の7月に天山山脈を取材した時は大変過酷な旅だったそうです。それに比べれば今回の2週間の取材はかなり良かったとのことです。その西安での取材中の出来事と昨年7月の天山山脈取材旅行中のアクシデントの話をしました。筋書きのない事は記憶に残ると語っていました。最後にウルムチやトルファン等で撮った写真が映写されました。

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3周年記念フォーラム:テーマ「新現役世代 自分を語る」(2005年1月21日)
 新現役ネットがNPO法人として設立されて丸3年が過ぎました。3周年を記念して日比谷公会堂の大ホールで、石原慎太郎さん(東京都知事)と福井俊彦さん(日本銀行総裁)を招き、記念フォーラムが開催されました。2,000名を超える参加申込みがあったそうです。私はボランティア募集があったので応募し、当日は15時に会場へ集合して16時45分から2階右座席で会場誘導のお手伝いをしました。18時25分にお手伝いを終了し、所定の座席へ座りました。
 最初に理事長の岡本行夫さんの挨拶がありました。現在の会員数は14,200名との報告があり、皆で前へ進めて行こうとの呼び掛けがありました。石原さんは新現役ネットの正会員で会員番号007番だそうです。
 石原慎太郎さんがお話をしました。石原さんは現在72歳です。「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」と言われますが、40、50歳を過ぎると体を鍛える過程で培った健全な精神が老いらくを支えていきます。健全な精神とは意欲のことで、意欲を実現していくためには体が伴わないとどうしようもありません。石原さん自身の運動歴(子供の頃からゴルフとヨット、30歳からテニス、40歳でスキューバダイビング、50歳でウインドサーフィン、60歳は水泳)を披露し、冷静に物を考えたり頭をボケさせないめに体を工夫して維持することが、醜く生きていくことを防ぐ唯一の方法だと話しました。続いて、立場や世代や時代を超えて貫いていく垂直、鉛直な価値観があると話し、鉛直な価値観がどんどん歪んできた気がすると話しました。青少年健全育成条例改正の裏話をしました。渋谷や歌舞伎町で隠し撮りをさせて、それをベースに条例を変えたそうです。生セラ、試着した下着並びに唾尿の売買を禁止しました。生セラ、万引、出会い系サイトで男をカモにする女の子達の価値観がおかしいということを誰が言って上げたら良いのか、親は完全に責任を放棄しています。彼女達にどうやって人間にとって鉛直な価値を伝達していくかを本気になって考えないと、取り返しがつかなくなります。彼女達の価値観は金だと話します。良いアイデアがあれは提案して欲しいとお話を終えました。
 事務局から新現役ネット活動紹介があり、続いて岡本行夫さんがお話をしました。日本の国際社会へのつながり方は国際化とは言うが、本当ところは全然国際社会ときちんと交わっていない気がすると話し出しました。日本は非常に居心地の良い社会で、日本人独特の温かみや思いやりそしてルールがあり、そのルールを知っている者にとっては大変ほっとする暖かい家庭的なところです。しかし、我々は自分達の中だけのことしか考えないで生きているという気がします。10数年かけて日本は大変居心地の良い社会を作り上げてきましたが、その間に国は720兆の借金、無職者が20,000人の自殺者、少子化が進み国際競争力も落ちてきています。自分達だけで互いにこれで良いと言っている価値と正面から対決しないで逃げている社会は、どうなってしまうのかとの危機感があります。イラクで亡くなった奥克彦さんの話をし、日本だけの時なら良いが国際競争力が問われる時代になると、我々が抱える社会の問題点を解決するためには自分で考えて動く必要があると結びました。
 副理事長の加藤タキさんが挨拶を行った後に、福井俊彦さんがお話をしました。日本銀行の役割をサッカーのゴールキーパーに例え、守るだけでなく球をどこへ出すのかが非常に大事だと話しました。お金は貯めるだけでなく大事に、活き活きと使って下さい。活き活き使って余ったら投資をして、他の人に活き活きと使って貰って下さいと話します。日本は過去10年間位、お金を活き活き使って貰えるような状況にはありませんでした。グローバル化が日本のフィールドを変え、連戦連勝を重ねていた日本がそうでなくなりました。そこで、構造改革をバックアップするために日本銀行は甘い球出しをしてきました。最近は民間部門に元気が出てきて甘いボールを出さなくて良くなりつつありますが、デフレを脱却するまでは甘いボールを返します。戦略的に活き活きと使って頂く球出しをするそうです。現在三つの高いハードルがあるそうです。一番目のハードルは国と地方公共団体の大幅な赤字で、必ず消さなければなりません。そのためには小さな政府にして民間が頑張る気持ちに切りり替えることが必要です。二番目のハードルは人口が2007年をピークに年率0.4%位で減少することです。民間のイノベーションの力が大事になります。三番目のハードルはエネルギーと地球環境です。中国はエネルギーを大量に消費し非効率に使っており、環境問題は日本にも波及します。日本だけが過去に石油ショックや環境問題を解決してきました。地球規模で問題解決をしなければなりません。解決する技術も開発能力も日本が最先端を走っているだから、人口が減ってちっちゃな国になっても活躍の場は広がりると語りました。自分自身が心掛けていることはグローバルな発想で考える、できるだけ分かり易く整理して考えることです。学生時代にはハンドボールのフォワードをしており商社へ行こうと思っていたのですが、縁あって日本銀行に入りました。野球は守りと戦略性のあるキャッチャーをしていたそうです。
 最後に岡本さんが日本国債がボツアナと同じと格付されたことについて質問しました。それに対して福井さんは、国の借金は民間への投資だと説明します。民間が働いてキャッシュフローを生み出し、税金と言う形で返さなければなりません。そのためには政府に依存しないで自分達が頑張って稼いで国の借金を消すことで、相当長期間かかるだろうと予測していました。

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第1回シルクロードを学ぶ会(2005年1月18日)
 今年はNHKをはじめ、「シルクロード」にまつわる放送や展示会などが数多く企画されています。新現役ネットでは、この機にシルクロードにまつわる歴史や周辺地域の文化、生活を学ぶ会として、セミナー、見学会、美術館めぐりなどを順次開催するそうです。秋には希望者で現地訪問も予定しているとのことです。
 第1回はNHK・講談社主催「新シルクロード」セミナーに参加しました。講演に先立ち、講談社が発行しているDVD BOOK「講談社版 新シルクロード 歴史と人物」の第13巻「楼蘭さまよえる探検家たち」の一部が上映されました。
 講師は臨済宗妙心寺派龍源寺住職の松原哲明さんです。松原さんは仏教伝播の道を求めて、100回を超えるシルクロード行を続けている宗教家です。松原さんは東京の三田に生まれました。禅宗の寺の子供でしたが、学校は仏教に全く関係がなかったそうです。ちゃんと修行していなかったのを悩み、本当のことを知りたいと思い29歳の時から中国を中心に日本のお坊さんの修業した現場を訪ねました。そして、小さい頃から憧れていた玄奘三蔵法師の跡を追っかけているうちに25年が過ぎたそうです。松原さんは玄奘三蔵法師の子供の時のエピソードを話しました。そして地図や自ら写した写真を指しながら、玄奘三蔵法師が西安からインドへ行き戻った道程のお話をしました。三蔵法師が長安に戻ったのは43歳の時で、出発してから16年かかったそうです。三蔵法師は64歳の2月5日に亡くなりましたが、松原さん自身もその年齢になったと話していました。

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産経ミニ・フォーラム:テーマ『2005年日本の1年を大胆予測』(2005年1月13日)
 新春特別フォーラムが開催され、産経新聞社編集局編集長の鹿間孝一さんのお話を聞きました。用意された席はほぼ満席でした。編集長の役割は各セクションから売り込まれたニュースに対して読者の側に立って格付を行うことだそうです。2005年の予想を話すために事前に各部を取材をしたそうです。
 最初に政治の世界についての話でした。小泉さんは郵政民営化法案に執念を燃やしており、多分法案は通るだろうとのことです。小泉首相は外交面で大きな功績を残したいと考えています。北朝鮮との国交正常化とロシアとの領土問題への道筋をつけたいと考えていますが、どちらも難しいです。郵政民営化法案が通ると小泉さんはやることがなくなってしまいます。すると次の首相は誰だろうかということになってしまうので、それを避けるために内閣改造を行うのではないかと予想されます。対抗馬がいないので来年9月の任期までは多分もつだろう予想されます。ポスト小泉で有力なのは安倍さんあるいは財務大臣の谷垣さんで、禅譲という形になるので小泉さんも影響力を残せます。ひょっとしての要素は4月の衆院の補選で山崎拓さんが議員に復帰できない場合です。もう一つはイラクの自衛隊に何らかの被害があった場合です。また、都議選の後は政局になるとの定説があります。
 北朝鮮と関係、拉致問題についてはひとえに6ヶ国協議が再開できるかどうかにかかっています。北が複数の核兵器を持っているだろうというのが大方の見方です。しかし、それをミサイルへ載せる技術は未だです。北はブラフをかけるが何もできません。だからこそ6ヶ国協議を引き延ばして時間稼ぎをしようとしているのでしょう。そういうことで、ここ1年は何も動かないだろうとの可能性が高いです。日本の抱えている拉致問題はどうなるのかということですが、北はカードを切ってしまいました。8人死亡でその証拠を出すということで横田めぐみさんの遺骨を持ってきてそれが偽物と断定されました。多分、もうカードはありません。産経新聞で拉致問題を追っている記者は、益々横田めぐみさんが生きているとの感触を持っています。横田めぐみさんが北にとって大きな存在なのかあるは精神が不安定で日本に帰せない状態かは分からないが、生きている可能性が非常に強くなっているとの感触をその記者は持っています。その記者は今年の食糧事情の悪化は今までの非ではないと言っています。だからこそ経済制裁が効果ありますが、小泉さんは経済制裁をするつもりはなさそうです。どこかの時点でクーデターが起きるか、北の内部崩壊を待つしかないのかと思っています。
 鹿間さんはアテネオリンピックの現地取材班のキャップとして行く前に、日本が取る金メダルの予想を行ったそうです。金メダル8個(柔道4、レスリング女子2、野球1、体操種目別1)と予想しましたが結果は16個で、帰国後に何故外したのかと糾弾されたそうです。鹿間さんは相手が弱かったと説明しました。アテネオリンピックはドーピングがとても厳しい大会でした。アメリカは予選会の段階でドーピングで有力な選手を落としました。オリンピック前に有力な選手がふるいにかけられて強い選手が出てきませんでした。もう一つは中国です。中国はアテネを北京オリンピックのリハーサルと位置付けていました。連れて来ている選手は若く前回大会よりメダルは少ないだろうと予想されていました。しかし、中国はアメリカに次いでメダルを取りました。恐らくスポーツ界全体のレベルが低くなった過渡期の現象ではないかと思っています。日本が強かったというより相手が弱かったというのも一つの理由だと思っています。しかし、日本の運が良かっただけなのかと言うとそうでなく、非常に長期的な取り組みをした成果が出始めた大会だと思います。長期的な計画を立てそれぞれの競技団体が取り組んできた成果が一番大きなものだと思います。日本が強くなったからメダルだ取れました。しかし、メダルを取るのが早過ぎたと危惧しています。本来は北京あるいはその次の大会で大きな果実が実るのが望ましいのに、いきなりアテネで多くのメダルを取ってしまい果たしてどうなんだろうと思います。浮かれてバブルのように元の木阿弥になってしまうのではないか思っています。強い相手が出てきた時にそれに対抗できる地力がついているのだろうか、あるいは底辺を含めてピラミッド形のスポーツの強さを身に付けたのだろうか、たまたま北島康介というスーパースターが一人出たがために金メダルが2つ取れたが、それに続く選手がはたしているのだろうかという疑問が多少あります。本当の意味での強さが身に付いて16個のメダルが取れたのではなくて、その内半分はバブルのメダルではないかと社内で説明しています。
 経済部は経済の予想はできないと言っていました。中国経済が相当疲弊するのではないかと思っています。無理を重ねていますので、果たして今のペースで伸び続けることができるのか、あるいは中国が日本のバブルのようなことになったら日本への影響はどうなるのか想像がつきません。中国特派員の話では、中国の抱えている問題の第一は貧富の差です。農村部と都会との貧富の差がどこまで広がった時点で暴発するのか、あるいは経済自体が農村部の人達を食わせることができるのか疑問だと思っています。そうすると政治的に締め付けるしかないのです。2008年の北京オリンピックまでは意地になって、中国は今の姿で経済的にも政治的にも民主化を求めるアメリカにいい顔をして微笑みの外交を続けるのではないかと思います。恐らく北京五輪が終わった時点で恐ろしい崩壊と言うか転機が訪れるのではないかと思います。
 ワシントン特派員の話では、ブッシュ大統領2期目は益々自信を深めているそうです。テロリズムとの対決、世界へ民主主義を広げることを自信を持って進めるのではないかと思います。日本が考える以上にブッシュは日本を頼っています。小泉さんとブッシュのパートナーシップは中曽根さんとレーガンの関係以上に良いです。小泉さんの任期はあと1年ちょっとなので、その次の政権がどうなるかによって日米関係に微妙な影響が出てきます。産経新聞社内ではポスト小泉は安倍さんが一番良いのではないかとの意見が圧倒的に多いです。日米関係で協調関係を維持し、日米同盟を更に強化するための首相としては安倍さんが一番良いのではないかと思います。小泉さんの後の日米関係がどうなるかは日本がカードを握っているということになります。
 年末の十大ニュースで年初の予想と合っていたのは、ブッシュ再選とイラクの泥沼化くらいでした。社会部とスポーツはほとんど予測がつきませんでした。ダイエーが行き詰まるだろうと指摘した人は多かったです。西武鉄道の問題やプロ野球に再編問題が出て新しい球団ができるとは誰も予想ができませんでした。
 言葉が非常に大きな意味を持つような時代になったと思います。一言の重み、一言の失言・暴言が大きく流れを変えることを如実に見せた年はなかったかと思います。例えば、巨人渡辺オーナーの「たかが選手が」発言が全ての流れを変えました。西武の堤さんが「株の上場しなくても良かった」と発言したから投資家を怒らせました。NHKの不祥事、過去には森首相退陣のきっかけになった発言や雪印食中毒事件時の記者会見での社長発言等後々まで残ります。逆に言えば、うまく言葉を使えば事態を自分の思う方向に動かすことができます。今年を占う上で言葉使いのうまい人がどの世界にいるかを注目しています。
 確実なことは人口が減ることです。今年、「まったなしの人口減少時代」という企画をスタートしましたが、各新聞社で同じ問題で同じ様な企画連載が始まりましたのでびっくりしました。日本の社会にとって最大のテーマです。15歳から64歳までの労働人口8000万人が2050年の時点で3000万人減ると言われています。誰が働いて日本を食わしていくのかということが本当に目の前に来ています。一方、中国とインドは人口が増えています。アジアの経済は中国、インドへシフトしていきます。人口の多いところ、市場の多いところへ資源が流れるあるいは生産拠点を作るのは仕方のないことです。日本の地位が相対的に下がっていかざるを得ません。その時に日本はどうやって食っていくかを今から真剣に考えていかなければなりません。国際比較で日本の生徒の学力低下が話題になっています。学力低下が何を引き起こすのか何が問題なのか、日本はこれから技術あるいは知的生産ようするに知恵で食っていかなければなりません。高度に発達した先端産業それは物を作るのでなくアイデア、頭脳で日本は生きていかなければなりません。新しい産業を興す新しい研究分野の担い手を次から次へ育てていかなければなりません。その時に学力が低下している、特に理数系の能力が国際比較で明らかに落ちているのは由々しき問題です。今、教育基本法等の改正を含めて教育がテーマになっていますが、今までは政治的思想的な対立点で議論されがちだったこの問題をもっと実質的に学力一本に絞って議論をして欲しいです。人口減少時代への備えとして考える必要があります。次世代へ何を残すかを今年1年のテーマとしてやり遂げたいと思っています。
 鹿間さんのお話の後に質疑応答が行われました。
Q1、インドがインド洋大津波被害に対して、「他国の援助は要らない」と発表しているが、真意は何ですか?
A1、背景はインドの大国意識で、自立した国をアピールしたいのでしょう。インド経済は上り調子です。IT分野で、アメリカではインドなしではシリコンバレーは成り立たなくなっています。
Q2、日本の治安どうなりますか?
A1、日本の治安は悪化します。治安悪化の要因は外国人犯罪です。特に中国自身が日本の治安に中国人が拘わっていることを恥と思って貰わなくてはなりません。日本が中国に対して「犯罪者を輸出している」とアピールすることでしか治安は回復できません。もう一つは子供の犯罪です。子供の犯罪の対象者が低年齢化していることも問題です。家庭教育が一番大きなファクターだと思います。家庭での最低限の躾あるいは「悪いことはいけない」という常識的なことを身につけさせることをしていかないと子供達の犯罪はなくなりません。
Q3、NHKへの政治家の介入問題についてはどう考えますか?
A3、事実だろうとは思うが、介入という言い方が果たして適切かどうかわかりません。我々にも政治家から電話がありますが、それを圧力と取るかどうかは程度問題です。政治家が意見を述べることもあります。介入というのは受け手の意識の問題です。安倍さんの意見として捉えるのなら介入ということにはならないと思います。
Q4、学力低下はどのような基準で国際比較していますか? 本当に学力低下しているのですか?
A4、基準には分かりません。しかし、同じようにしてきたテストで日本の成績が下がったということは学力が低下したと言えるでしょう。
Q5、新聞の一斉休刊日は何故あるのですか?
A5、大儀名分は配達している人達を休めるということです。産経は朝刊しか発行していないので休刊日に発行しようと試みたことがありますが、新聞協会の会長から批判を浴びました。新聞は毎日配達するのが筋だとは思います。できることなら朝刊だけ出している産経新聞は休刊日に出したいと思っています。
Q6、政界再編はありますか?
A6、大胆な予想すれば、政界再編はあるだろうと思います。フジテレビと共同で行っている世論調査で、自民と民主がくっついたら良いと考えている人が一番多かったです。小泉さんはやる気ないが憲法改正問題で手を握れる新しい政党が出てくるのではないかと思います。

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2004年

2003年異文化国家東京裁判1新春会東京裁判2伎楽面第19回フォーラム日本の平和と安全(北朝鮮の拉致問題)第20回フォーラム第2回スペシャルトーク現代史の分岐点

近代日本の歴史研究会「第31回勉強会」:テーマ『現代史の分岐点』(2004年10月14日)
 田村忠孝さんが講師になり「現代史の分岐点」をテーマにお話しをしました。田村さんは1年前に近代日本の歴史研究会に入会されました。勉強になり刺激もあり、自らも発表した方が良いと思ったそうです。田村さんが発表することで、参加者の勉強の取っ掛かりになって貰えればと話していました。
 日本の現代史における対外行動のうち、分岐点と思われる「日露戦争・日英同盟消滅・三国同盟」に絞り、わが国の行動に対する肯定的見解と否定的見解を対比させてお話しをしました。田村さん自身は否定的見解の教育を受けましたが、現在では逆の考えになりマインドコントーロールが解けかけているそうです。そこで、両見解を整理し、対比して話しました。
 肯定的見解は 「大東亜戦争への道(中村粲著:展転社・1990年発行)」から引用し、否定的見解は「岩波講座日本歴史:岩波書店・1975年発行」から引用しました。日露戦争の評価、日英同盟の消滅と9カ国条約(ワシントン会議)、満州事変の評価、日独伊三国同盟の評価について両説を対比しました。まとめとして、両説の背景と展望(略)、私見(略)を話しました。
  「両説の背景と展望」の最後では、「歴史観の異なる両論を並べてみたが、両論は拠って立つ土俵が違う。議論を詰めてゆくと、日本国の存在をどうみるか、それと自分との係わりをどう考えるかに行き着く。国のあり方論議、教科書改革を始めとする教育改革、憲法改正、中国、韓国を中心とする対外関係など全てが近代の歴史認識と係わってくる。自虐史観(藤岡信勝氏命名)の勢力について、言論の自由を損なわずに相対的に低下させる道筋は憲法改正論議の高まりとこれによる世論の風向きによって見えてくるだろう。」と話していました。

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第2回スペシャルトーク:テーマ『僕のパソコンの中身全てお見せします』(2004年8月26日)
 新春会に続く第2回目の正会員・家族会員限定の会が開催されました。スペシャルトークのテーマは『僕のパソコンの中身全てお見せします~音楽と映像で語る我が半世紀~』です。理事長の岡本行夫さんがパソコンに記録されている音楽や映像をもとにお話をしました。
 岡本さんのパソコンには音楽が記録されています。来年60歳になるそうですが、各時代の好きな歌を記録しています。01小学校、02クアラルンプール、03中学校、04高校、05以降勤務地ごとに分類して約1500曲が記録されているそうです。最初に各時代の歌を聞きながらお話を始めました。「とんがり帽子」、「りんごの唄」、「僕は特急の機関士で」、「朝はどこから」と次から次と歌が流れました。ここで「占領中の日本では米兵に銃弾を飛ばさなかった。今のアメリカはイラクを甘く見た」と話します。各時代の歌を聞きながら、鎌倉から藤沢へ転居、クアラルンプールへ、クアラルンプールから帰国、湘南高校、30年代の学生運動等の話をしました。計12曲の歌が流れました。
 続いて映像を映しながらお話を始めました。湘南高校と35歳でサーフボードを買ったがうまくいかなかったことを話します。次に映像を見ながら映画の内容や俳優について語り始めました。「騎兵隊」ではジョン・ウエインは日本では高倉健に匹敵すると話し、「アラビアのロレンス」では亡くなった奥大使の話しをしました。俳優の高倉健は岡本さんが一番好きな人で、日本人であることを誇りに思うそうです。高倉健主演の「ホタル」と「鉄道員(ぽっぽや)」の映像の前で映画の内容を話しました。「ぽっぽや」は日本人に生れて良かったと思う映画だそうです。最後15番目映し出されたのは、飢餓に苦しむアフリカに救いの手を差し延べようと全米のアーティストが集結して製作された「We are the World」でした。

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第20回新現役宣言フォーラム:テーマ『国際情勢談義~20回笑わせます~』(2004年7月26日)
 最初に理事長の岡本行夫さんの挨拶がありました。理事の小島順彦さんが三菱商事の社長になり、会員はまもなく14000名になるとの報告がありました。次いで国際情勢について二つのトピックスを話しました。
 一つは日中関係です。岡本さんは今月の初め、先週そして来月も中国を訪問する予定だそうで、中国と日本がうまくやっていけるのかが最大の懸念とのことです。重慶で行われたサッカー対タイ戦で日本に対する激しいブーイングがありました。中国の反日感情が特に若者の間に高まっており、それが大規模な日本製品不買運動につがらないかと心配しています。インターネットを見るとどぎつい日本批判の言葉が並んでいます。政治的には小泉総理が最後に北京を訪問したのが2001年10月で、3年間近く首脳会談が行われていません。1972年の日中国交正常化以来、政治的には一番悪い関係にあります。原因は小泉総理の靖国神社参拝とそれを許容しない中国の姿勢にあります。中国のいたるところに抗日記念館があり日本軍の行った残虐な写真が掲げられており、記念館へ行った人は日本が嫌いになると思います。日本外交に欠けているのはその状況を放置して良いのかということです。中国人、特に子供達の胸に憎悪の念を植え付けています。抗日記念館は今も造られており反日教育が盛んになっていることについて心配しています。岡本さんは「中国についてフォーラムで主題として取り上げたい」、と話していました。
 二つ目はイラクで亡くなった奥克彦さんの話しをしました。奥さんは積極的にイラク中を走り回って、自分で問題を探し自分で問題を解決しようとしました。自分でリスクを取って物事を行いました。奥さんは、「防弾チョッキをつけるということは相手が自分を撃つかも知れないと言う意思表示だ」と、自分のリスクで防弾チョッキをつけずにイラク中を回っていました。日本の青少年に奥さんの人間像を知ってもらいたいと、本を書いたとのことです。
 東京大学大学院総合文科研究科教授の山内昌之さんがお話しをしました。イラクのテロは全てが同じ質ではなく、大きく三つに分けて考えられるとのことです。一つはイラク国内においてアメリカ軍に対する抵抗の延長で市民の間から出てくるようなレジスタンスや抵抗の一つの手段として武装競争が用いられます。その一つがテロという形になります。二つ目はサダム・フセイン政権の崩壊に伴って不平不満を持ったバース党員や権力から外れた人達が社会にかく乱・混乱をまねくことによって自らの復権を図ろうとします。こうした行為がテロという形で行われます。三番目はイラクとは関係のない外から入ってきた人達、つまりアフガニスタンで寄生虫のように住みつき寄生することによってタリバンやアフガニスタンそのものを食い物にしたアルカイダのような存在です。アルカイダはイラクの運動や人々の生活に関係のない人達です。イラクの混乱や無政府状態を利することによって自己主張しようとしています。テロによってひたすら中東を中心とした国際秩序に混乱を招くことに主眼を置いています。イラクで行われているテロは全て一緒ではありません。イスラムを知らなければアルカイダを理解できないということではありません。アルカイダの指導者達はアメリカやヨーロッパで教育を受けた人達が多く有産者です。テロに走った背景はイスラムで語るよりも、共産主義やナチズムと共通した面が非常に強いのです。人間は改造できる、人間の精神構造や行動の形態は力によって改造できるという考え方です。アルカイダはヨーロッパの19世紀ロマン主義の影響を受けてできました。特にロシアのテロリズムと似ていますが、違いはあります。19世紀のアナーキストやテロリストは無差別ではありませんでした。今のテロリストは全ての民間人、市民達を巻き込んでも是とし、イスラム教徒自身を巻き込んでも恥じません。ここに問題の恐ろしさがあります。テロとは対決せざるを得ません。対話だけでは解決できません。テロをなくすためにはいろいろな努力が必要です。日本としては、中東との文化交流、外交(政府、企業体、市民社会=NPO、NGO)を通じてテロをなくすことが大切です。市民社会が真正面から取り組まなければなりません。
 新現役ネットの活動紹介の後、山内さんと岡本さんの対談(略)がありました。中東に関する面白い話しがいろいろと出てきました。最後に来場者との質疑応答(略)があり、フォーラムは終了しました。

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サンケイ・ミニフォーラム:テーマ『日本の平和と安全は大丈夫?』(2004年6月25日)
 産経新聞社東京本社論説委員室論説委員兼編集委員の中静敬一郎さんのお話を聞きました。60名分の席が用意されていましたがほぼ満席でした。中静さんは1975年に産経新聞社へ入社し、現在は政治部に勤務しています。1997年から2年間、防衛大学総合安全保障研究科に学び、修士論文は「日米(旧)安全保障条約」だったそうです。
 最初に1970年代の北朝鮮による拉致事件について話し始めました。この時期は日本側の警備が手薄であり、多くの人が拉致されました。手薄だった原因は「考えもしなかった」ことと、力不足(海上保安庁、警察、自衛隊)だったことです。1980年に産経新聞の阿部雅美記者が「アベック行方不明事件」( 阿部雅美さんの講演内容へ )を記事にしています。海上保安庁も警察も自衛隊もそれぞれ情報を掴んでいましたが、総合力を結集できていませんでした。海上保安庁が逃げられた工作船が北朝鮮の港に入港したことを自衛隊は掴んでいました。警察は北朝鮮の工作員が日本に入ったことを掴んでいました。産経新聞社では拉致被害者(特定失踪者)は400名いると考えています。2~3名の工作員だけで拉致は無理で、国内に協力者の組織があるのではないかと考えられます。買い物帰りの曽我ひとみさんのお母さんの拉致については日本人の請負業者がいるとの、北朝鮮朝内部文書があります。朝鮮総連の幹部は朝鮮労働党の幹部でもあり、工作員5000名を上回る協力者が日本国内にいるとの推測から、既に日本は侵略されていると考えられます。万景峰号が入港しても日本がチェックできるのは人数のみで、積荷の内容は朝鮮総連しか分かりませんでした。2001年に初めて朝鮮総連本部を家宅捜索しましたが、それ以前には調査しようとする金丸さんが調査をするなと警察へ圧力をかけていました。
 日本の抑止力(日本に何かがあると相手にダメージを与える)が少しも働いていません。日本の防衛費は世界第2位で米国が賞賛する軍事力を持っていますが、防衛力行使には制約があります。相手が武器を使わなければ日本は使えません。「スパイ防止法」のない日本では工作員が日本で活動しても微罪です。工作員は「日本に来るのは朝飯前、撃たれることもない」と完全に見透かされています。また、抑止力を強めることに反対する勢力もいます。
 領域警備は警察の役割であり、警察が手におえない時に自衛隊が出動します。お互いに連携して押さえ込むということが欠如しています。自衛隊は専守防衛(日本独自の論理)で、日本は守られていません。5000Kmの海岸線を守るには国境警備隊が必要です。少しずつ改善(情報衛星の打ち上げ、北朝鮮の電波チェック等)はされていますが、どう活用するかが問題です。前の戦争の反省から力の行使には慎重です。武力行使すべき時に躊躇していて、日本は大丈夫なのでしょうか? 日本の民主主義を守るために政府/国会/自衛隊の枠組み作りが大切です。
 日本の平和と安全に対する脅威の7割は中国と北朝鮮で、3割が国際テロリストとの戦いです。警察庁長官も「日本でもテロは起り得る」と言ってます。アルカイダが小田原で新幹線をチェックしていたとの情報があります。アルカイダは核物質や有毒物質を使ったテロを計画しています。イラクにも数千人規模で入り込んでいます。国際テロリストをどう抑え込むかが課題です。
 日本の自衛隊は優秀で強力ですが、米軍の協力がないと対応できません。日米は役割分担(日本が盾、米国が鉾の役割)しており、二つが一緒になって初めて役に立ちます。全て米国に任せて良いのでしょうか? もし、米国と北朝鮮が不可侵条約を結んだらどうなりますか? 自力防衛をどこまですべきかを考えるべきです。中国は北朝鮮が核を持ったら日本も核武装をすると考え、北朝鮮に核を持たせまいとしています。核武装については曖昧にしておくことが日本の選択の幅を広げることになると思います。
 世界は安全ではありません。1946年から2000年までに武力行使が790件発生しています。中国は15件、日本は0件です。平和を唱えたり、祈っているばかりで良いのでしょうか? 抑制しながらいざという時に武力行使をし、外交面ではしたたかさと巧妙さを持ち、情報収集を怠らないことが望まれます。もう少し自力を強めて、その中で知恵を出しながら憲法の見直しをして欲しいと思います。闇雲に米国と一緒になってイラク対応を行って良いのでしょうか? 国連の基準に合わせた武力行使を日本が行えるようにし、国連に協力できることは協力すべきだと思います。
 戦略を作れる人が国のトップリーダーです。見えないものが見える力を持ち、勇気のある人がトップリーダーです。選挙ではそのようなリーダーを応援して下さい。
 お話は1時間で終わり、続いて参加者との質疑応答(省略)がありました。参加者の質問に対する回答の中で興味のあることを話していました。それは対北朝鮮「経済制裁法案」(外為法改正、特定船舶入港禁止法制定)が成立したのは、自民党の執行部体制の違いにあるとのことです。野中幹事長と安部幹事長の違いだそうです。

 

阿部雅美さんの講演内容

第5回ミニフォーラム:テーマ「北朝鮮の拉致問題」2002年10月10日)
 新現役ネット主催の「緊急開催-第5回ミニフォーラム」に参加しました。サンスポ編集局長の阿部雅美さんから北朝鮮の拉致問題の話を聞きました。今最も関心のあるテーマだったので、200名近い参加者がありました。
 阿部さんは産経新聞社会部時代に【「スクープ」北朝鮮による拉致疑惑】で平成9年度日本新聞協会賞を受賞したベテラン記者です。拉致被害家族と共にこの問題を大きく取り上げ見守ってきました。

昭和55年1月7日付産経新聞の第1面掲載
  「アベック3組ナゾの蒸発」53年夏 福井、新潟、鹿児島の海岸で
  富山の誘拐未遂からわかる  外国情報機関が関与?
   53年7月7日 福井県 地村保志さん、浜本富喜恵さん
   53年7月31日 新潟県 中大3年生、美容師
                         (注:蓮池薫さん、奥土祐木子さん)
   53年8月12日 鹿児島県 市村修一さん、増元るみ子さん

   53年8月15日 富山県 島崎裕二さん、佐伯さとみさん

 社会部の阿部記者が30歳の時に初めて拉致疑惑の記事を書きました。きっかけは1979年末に某氏から「日本海で奇妙なことが起きているよ」でした。最初は雲をつかむような話でした。図書館で日本海沿岸の新聞の記事をかたっぱしから調べたり、現地へも出かけました。
 昭和53年8月15日に富山でアベック未遂事件が発生していました。アベックはサルグツワをかまされたうえ、手に手錠、足をヒモでしばられ、さらに頭から布袋をかぶせられて近くの松林にかつぎこまれました。近所の人が近づくのに気がついたのか、間もなく逃走、アベックは難をまぬがれました。遺留品は輸入品でもなく、日本で作られていないことが判明しました。「とんでもない事件」との感じがし、各地の行方不明者の取材を行いました。
 行方不明者は年間に千人単位で発生しており、地元でも話題になっていません。様々な取材を行いました。新聞は事実を書かなければならなりません。先入観なしに取材をしなければならず、福井の地村さんや浜本さんの家でも取材を行い、家族に対して失礼な質問もしました。新潟の蓮池さん家を探すのは大変で、あきらめかけた時に乗ったタクシーの運転手が知り合いでした。疑いのあることを外した結果、3組のアベックの行方不明事件のみを記事にしました。

 「外国情報機関が関与?」の記事について国会で質疑がありましたが、警察庁長官は否定しました。

7年間無視された
 この後7年間は拉致疑惑については何も起きませんでした。昭和62年11月の大韓航空機爆破事件で、爆破犯人の金賢姫元工作員の教育係李恩恵(田口八重子さん 昭和53年6月失跡)が明らかになっても何も起きませんでした。大韓航空機爆破事件後、当時の自治大臣で国家公安委員長の梶山静六が一連の蒸発事件について「北朝鮮による拉致の疑いが濃厚である」との見方を示していましたが、産経新聞でさえもベタ記事でした。
 当時の雰囲気は「北朝鮮がそんなことをするはずがない」でした。富山の拉致未遂事件の証拠品も捜査当局は捨てました。変わり始めたのは「横田めぐみさん」の話が出てからです。

平成9年2月3日付産経新聞掲載

  北朝鮮亡命工作員証言 「20年前、13歳少女拉致」
  新潟の失跡事件と酷似


 1月22日頃に話を聞きましたが、記事にしたのは2月3日です。情報を精査したうえで記事にしました。元工作員はうそと本当を散りばめて話すので、情報の精度を高める作業を行います。会って話して、本当との感触を得ました。

家族会について
 世間や国会に働きかけるために家族会を作る手伝いをしました。共産党を除名されたヒョウゴさん(? 名前を聞いたが曖昧)や大阪朝日放送の石高さんと一緒に家族会を作る手伝いをしました。そんな縁があって、生存者5人のビデオも家族の皆さんと一緒に見せて頂きました。

拉致被害者の生存、死亡の話を聞いて
 拉致を認めて、謝罪したことについては驚きました。80%は本当でしょう。北朝鮮は何をするか分らない国です。明らかに嘘がありますが、北朝鮮が絶対に認めない線があります。アベック2組と曽我さんのことはビデオと調査結果を見ましたが、本当だろうと思います。李恩恵という女性の存在は絶対認めません。大韓航空機爆破事件の犯人2人のことも認めないでしょう。

正常化交渉について
 金正日体制が崩壊しなければ、国交正常化する必要はありません。崩壊しなくて、拉致の解決はありません。
 拉致被害家族と20数年間一緒に話してきました。原さん拉致の犯人は韓国で捕まっており、裁判記録を調べれば分ります。寺越さんの叔父さん一人が射殺されたのは本当でしょう。船は日本の近くでぶつけられて沈みました。船の壊れ方を見れば分かります。

拉致被害者帰国
 家族とは、絶対に北朝鮮へ行くべきでないと話しています。誘拐事件なのだから、原状回復をすべきで、被害家族が出かけるべきではありません。生存者5名のビデオは残酷でした。物心ついてから10年余りで拉致されて、それから25年間です。本心を隠して、25年間持ち続けることなどありません。ストックホルム症候群ということもあるが、良い暮らしをしており、洗脳どころではありません。寺越さんは本当は日本語がべらべらでです。
 不幸なこと(大韓航空機爆破、少女拉致)がないと社会的なニュースになりません。この先、想像はつきません。生存者5人が帰国するが、2週間で警察は事情聴取し、マスコミは殺到します。家族とゆっくりできる時間があるのでしょうか? 二組のアベックの子供は日本人です。寺越さんの状況は複雑です。父は北朝鮮、母は日本にいます。
 報道して良かったのかと思います。子供はいなくなったという事実はあるが、時間が経てば安穏な生活が送れました。家族を喧騒に引きずり込んでしまったとの思いがあります


情報について

 8人死亡の報告はそのまま認めることはできません。期待はしているが、事実が明らかになることはないかも知れません。金王朝が崩れたときのみ明確になります。
 7年もの間何の報道もありませんでした。日本国内で無視するのは良いが、ネガティブキャンペーンをされました。特異な事件だからマスコミも政党も思い込みがありました。友党だからあり得ないと思い込みました。
 自分の都合の悪い情報を集めて、先入観なしで精査しなければなりません。相当数の人が拉致されているとは思うが、年間千人単位で行方不明者がいます。お上が拉致を認定して国際手配をする、それなら安心して記事にできます。30歳の時の記事であるが、産経新聞の上司の判断、決断はすごいと思います。

質疑応答
Q1、25年間取材していて、9月17日の首相訪朝をどう感じたか?
A1、拉致を認めたり謝罪はないと思っていた。書いたことが事実であったが、満足感はない。虚脱状態になった。死亡の話は冷静にならなければと思いながら正常になるまで1日かかった。大阪朝日放送の石高さんも同じ思いだったとのこと。
Q2、将軍様が拉致を認めたが、国民には知らされていない。日本が強行に出ると窮鼠ネコを噛むことにならないか?
A2、北朝鮮は日本の世論とアメリカの対応にびくびくしている。経済的に困っていることとアメリカの圧力(悪の枢軸と指定)がなければ変化はなかった。譲歩しては駄目で、北朝鮮が飲めるかどうかで交渉すべきである。窮鼠ネコを噛んだら北朝鮮は自滅である。

Q3、現状回復をして欲しいが、国民はどうしたら良いのか?
A3、どうして良いかわからない。家族が署名活動をしても誰も見向きをしなかった。事件の解明は何もされていない。犯人も捕まっていない。情報を精査して一人ひとりが良く考えること。あるところまでいったら、家族に任せるしかない。家族にとって修羅場になる。
Q4、今まで政府代表が200人位訪朝している。金丸、田辺訪朝では80億ドル援助して、一部がバックされたと聞くが本当か? 社会党は犯人でないと言っていた。援助した米は国民に渡っているのか?

A4、バックのことは知らない。200万人から300万人が餓死している。日本から送った米は戦争用に備蓄された。
Q5、外務省の田中某が功名心から今回の訪朝を計画したと聞くが、本当か?
A5、国交のない国と国交を結んだら、外務官僚の勲章である。
Q6、招待所へなぜ行かないのか? 要求をしないのか?
A6、招待所には日本人も外国人もいる。中には日本の街やソウルの街がある。招待所へ行くという要求はしてない。拉致被害者を既に移している。始めは拉致の動機がわからなかったが、李恩恵の話でわかった。目的は日本語教育でなく、日本人化である。ちょっとした仕草で日本人でないことがわかってしまう。そこで生身の日本人が必要であった。拉致被害者は最初は大事にされていたはずである。大事に扱われる場所が招待所である。
Q7、蓮池さんのことで報告する。白門(中大)で蓮池さん支援をする。

A7、蓮池さんの父親は不明後も中大へ学費を暫く払っており、アパートも借りていた。学校側も戻ってきたら復学させると言っていた。学生時代の仲間と一緒になって話すことによって呪縛が解けるきっかけになるかも知れない。しかし、そんな環境が作れるか?
Q8、拉致問題が解決しないのになぜ国交正常化交渉を行うのか? 共同宣言に拉致の文言が盛り込まれていないが?
A8、外交的には先方に1本取られた。北朝鮮は国内的には何の問題がないから拉致の話をした。共同宣言が日朝交渉の出発点となる。
Q9、北朝鮮が崩壊するのは何%位か?

A9、5年前には5年後には崩壊すると思っていた。200万人、300万人の餓死が出る国がこのままであるはずがない。
 本人が悪い訳ではないが、本人の意思を尊重したら拉致被害者は日本へは帰って来ない。国家として国民がさらわれる、国家犯罪である。国民の生命と財産を守る義務があるのに、国家として何もしてこなかった。自分が拉致された立場だったらどうだったか? 自分にできないことは他人にさせられない。本文へ戻る

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第19回新現役宣言フォーラム:テーマ『後藤田正晴、佐々・岡本を叱る』(2004年4月22日)
 最初に理事長の岡本行夫さんから話がありました。前回のフォーラムに欠席したことのお詫びと3月末で首相補佐官を退任したとの報告がありました。ゲストの後藤田さんに、岡本さんと佐々さんはよく叱られたそうです。また、本を出版することになったとの報告もありました。題名は「砂漠と戦争」で内容の半分は亡くなった奥大使と一緒に行った仕事のことで、残り半分は4回の安全保障問題(イラン・イラク戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争)に関わったことだそうです。会員が13000人になったとの報告もありました。

 元内閣安全保障室長の佐々淳行さんは後藤田像を話しました。後藤田さんは旧内務省の筋金入りの役人で、「国民の身体・生命・財産を保護することが政治・行政の任務である。役人は公民官である」との信念に燃えて警察庁長官まで務めました。かみそり後藤田あるいは辣腕と言われ田中角栄の懐刀と恐れられました。しかし、厳しさの中に大変な照れ症で愛情が隠されています。後藤田さんは人間の扱い方について次の3通りの方針でやっていました。
  1、自分より明らかに優れている者については一切文句を言わずに、それの好きなようにやらせる。
  2、明らかにどうにもならない、役に立たない者には優しい。叱っても仕方がない。
  3、自分と同率、同級と思った者に対しては徹底的に叱る。
佐々さんが辞めるまで特別権力関係(上司と部下の関係)が35年4ヶ月間続き、その間叱られ続けたそうです。しかし、辞めて縁がなくなったと思っていたら、2年後にサダム・フセインがクエートに侵攻の時に呼び出され、それ以降特別権力関係が続いているとのことです。
 佐々さんの話が終わった時に、岡本さんから「後藤田五訓」の説明を求められました。1986年7月に内閣五室が設立された時に後藤田さんから訓示があり、その時の内容が「後藤田五訓」だそうです。
  1、省益を忘れ、国益を覚え。
  2、聞きたくもないと思うような嫌な本当の悪い事実を報告せよ。
  3、勇気を持って意見具申をせよ。
  4、消極的権限相異を禁ずる(俺の仕事でないと言うな)。
  5、決定が下ったら従い命令を実施せよ。

 元副総理の後藤田正晴さんが話しを始めました。今年90歳とは思えない力強い張りのある声です。最初にイラン・イラク戦争の話しです。アメリカがレーガン大統領、日本が中曽根総理の時です。官房長官の時に外務省の審議官と岡本さんが来てペルシャ湾へ海上自衛隊か海上保安庁の武装船を送りたいとの話がありましたが、言下にそれは駄目だと言いました。ペルシャ湾はすでに戦闘地域で、専守防衛の海上自衛隊あるいは海上犯罪の取締り等を行う海上保安庁の武装部隊を出すことは絶対に許されない、止めた方が良いと述べました。審議官は自説を固持してどうしても行かせて欲しいと言いました。最後には、「やれるものならやってみろ、一人でもこの件は俺が取り消す」と言って帰って貰った経緯がありました。どうも上の方でアメリカとの間で話が進んでいたのではないかと思います。それを受けて審議官が頑張ったのだと思います。中曽根総理には直接「止めた方が良い」と話しましたが、総理は「やりたい」と言いました。
 日本の自衛隊は外国からの不法な侵略があった時に武器を持って抵抗する性格のものです。そして同時に日本に対する不法な侵略を防止する、つまり日本の安全と独立を守ることに関連のある極東の事態に自衛隊とアメリカ軍が協力して当たります。自衛隊は日本に対する直接の侵略とそれに関連のある極東の事態にのみ自衛隊が海外に出てしかるべきで、他の地域に出すことはまかりならんというのが私の考え方です。
 安保条約には地域の概念がありました。地域とは日本と関連のある極東でした。当時、極東の範囲についてはやかましい議論がありました。しかし、クリントン・橋本会談の共同宣言でいつのまにやらアジア・太平洋地域へ拡大しました。本来は条約改正ですべき事を共同宣言でやってしまいしました。それを受けて「周辺事態法」を書きました。なぜかと言うと、東西対立がなくなりソ連がなくなったので日米安保条約に対するお互いの気持ちに緩みがでてはいけない、そこで日米安保条約の効力を確認するのだと共同宣言が出ました。アフガンの時は特措法を作り海上自衛隊をペルシャ湾近くまで派遣し、イラク戦争ではイラクへ自衛隊を派遣しました。まさにずるずるべったりであります。私はそれがいけない、国家というのはそういう時にはきちんとはけじめをつけるのが正しいのではないかというのが基本的な考え方です。岡本さんと意見が違うのは止むを得ないと思います。
 中曽根総理の意見で五室長を置いた時にそれらしきことを言いましたが、後藤田五訓を文章に作ったのが佐々さんではないかと思っています。また、人の使い方についてもちょっと間違っています。私が人の使い方について言ってるのは、自分が部下を使う時には
  1、できるなと思う部下は自分より上の能力がある人間だと思って使うべし。
  2、ちょっと足りない気がするがまあまあというのは自分と同じ程度の能力がある人間と思って使うのがよろしい。
  3、初めからはしにも棒にもかからない者は自分より下だ思って使う。
それが上の者の部下を使うやり方だと言っているのですが、それを佐々さんが上手に作ったのがさっきの話です。
変わった人間ばかり使うとも言われました。それは誰かというと佐々さん、亀井静香君、平沢勝栄の3人です。確かに変わってはいますが、能力は抜群でした。口八丁手八丁の人間ばかり集まって来ました。
最近、岡本さんが本を書くと言ってるが、将来のある人は本を書くなと言ってました。それにもかかわらず書いてしまったのです。先行きのある人にとっては将来必ず重荷になります。
 小泉内閣はあと4日経てば満3年になります。満3年経っても世論の支持率が50%あるのは戦後27人の総理大臣では初めての事だと思います。小泉内閣3年の政治の運営についてはそれなりの成果を収めていると評価するのが公平な見方であると思います。今日の政治の重大な時に国会が凪の状態にある原因は野党の無力化にあります。日本に野党が育っていないことで、政治の停滞があると考えています。グローバル化、ディジタル化の時代には内外ともに変化が激しいです。激しい変化に日本は1990年代の10年間立ち遅れたと思います。それを取り戻さなければならないと、小泉さんが自分が日本を変える、党も変える、構造改革のないところに日本の再生はない言ってます。これは政治のリーダーの標語としてはまさにそうあってしかるべきと思います。この小泉さんの言葉には賛成です。この言葉の中身を本当に実のあるものにしてもらいたいというのが、小泉内閣に対する私の注文です。これだけの高い国民の支持率が日本という国・国民の幸せを保証するのかどうかということになると、今にわかにそうだとは言い得ないのが遺憾ながら事実ではないかと思います。改革というのは時間がかかるのでまだまだ成果を充分に収めていないのは当然です。基本は、変えるのは良いのだけれども変えた先に日本という国の形をどう考えているのですか、その時の国民の幸せ・国民の暮らしのあり方はどうなるのですか、言わば国家目標が必ずしも明確でない、説明が足りないのではないかと考えます。目標がないが故に目標を実現するための道筋、やり方、政策が絶えずゆれているのではないかと思います。これからの問題になります。その時に自分のできないことは守旧派のせいだということを時々新聞・TVで見ますが、これは私はいささか無責任な話しだと思います。新しい日本を創ろうとするならば守旧派が出てくるのは当たり前のことで、それらを排除してでも自分はこうするんだと明確に国民に示して是非とも成果を上げて貰いたいと考えています。そういった観点から小泉内閣はこれからだと思います。
 今国会でやってもらわなければならないことは、年金制度をどうするのかということと有事関連七法案です。有事法制は本来昭和29年でやるべき事だったのです。専守防衛なので国土占領の時、国民をどう保護すれば良いのかという有事法制があってしかるべきでした。是非成立させて欲しいと思います。ただ最初の案には反対しました。なぜかというと、国土占領の時に時の政府がやるべきことは国民の命と財産を保護する事が目的でなければならないのです。ところがその点が必ずしも明確ではありませんでした。有事の定義も明確でありませんでした。自衛隊が国民に鉄砲を向けたあくる日から自衛隊は国民から遊離します。自衛隊の任務は外敵に当たり国民を保護することに徹底して欲しい。国内有事の際に、国の中の治安の維持は警察なり消防、海上保安庁にやらしたら良い。自衛隊は後で固める。例えば、発電所やダムのように守らなければならない重要な施設の護衛に回り、国民と直接接触するところは一般の行政機関にやらせる。その力がどうしても足りない時に初めて止むを得ず出ていくのが自衛隊です。最初から出て行くのではないのです。国会で議論がありだいぶ直ってきたと思うので、まだ怪しいところがあるがまあまあだと思うので、この国会でけりをつけて貰いたいと思います。
 年金法案は50年、100年先を見通して抜本的な改革をやると言ってるが、そんな制度ができるはずはありません(国民負担・税金負担と給付について数字を挙げて説明)。今提出してある法案を取り敢えず通す、そして同時に一本化を将来の目安にしながらお年寄りにも金持ちにも我慢して貰い、現役の人にも我慢して貰い、場合によったら消費税も考える。税制の根本改革をやりながら社会保障負担をどうするかと言うことを考えながら消費税にも手をつけなければなりません。
 国会が終わって参議院選挙になります。小泉さんは運の良い人です。今度の改選議席数は51です。その次の参議院選挙をやる総理大臣は大変です。改選数は64です。小泉政権には改革を堂々として進めて欲しいと考えています。

 後藤田さんのお話の後、佐々さんと岡本さんが補足のお話(略)を行いました。新現役ネットの活動紹介の後、来場者との質疑応答(略)がありました。

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法隆寺宝物館見学と「伎楽面物語」鑑賞ツアー(2004年3月20日)
 寒い雨の春分の日の午後、東京国立博物館へ出かけました。15時より、ボランティアのガイドで法隆寺宝物館内を1階から順に見学しました。第1室は灌頂幡(カンジョウバン)が展示されています。幡とは仏堂の天蓋や柱、境内に立てた竿の先にかけて用いられた荘厳具です。第2室には20~30cmの金銅仏がずらりと並んでいます。第3室には年間3ヶ月のみ展示される伎楽面(ギガクメン)があります。伎楽とは大型の面をつけ寸劇を交えながら音楽とともに野外を練り歩く仏教の儀式です。7世紀前半に朝鮮半島の百済から伝えられたといわれ、日本では7~8世紀に盛んに行われました。伎楽面は多くの種類がありますが、写真は酔った胡人を引き連れ登場する酔胡の王様と酔っ払いです。第2室に展示してある光背と押出仏(仏像などを浮き彫りにした型にうすい銅板をのせ、上からたたいて姿を打ち出したもの)を見て、2階へ上がりました。2階第5室には金工品が展示されています。第6室では聖徳太子・十七条憲法制定1400年を記念して国宝の「夢違観音像」と「聖徳太子像」が特別公開されていました。第6室には聖徳太子絵伝、十七条憲法版木や唐から伝わった細字法華経等が展示されています。第5室で水瓶や香炉を、第4室で木・漆工品を見学して終了です。
 17時閉館後に、1階のホテルオークラガーデンテラスで軽い夕食をとりました。人数を数えたところ、参加者は40名でした。「伎楽面物語」開演までの暫くの間同じテーブルに座った参加者と雑談をして、平成館へ移動しました。途中通り過ぎる東京国立博物館内の各館はライトアップされて綺麗です。
 19時から1時間半、平成館1階のラウンジで、生活芸術カフェイベントAir Artisan公演「伎楽面物語」を鑑賞しました。伎楽は7世紀にペルシャからチベットの山を越え、8世紀の天平時代に日本で盛んになりました。そこで、観客が飛行船Air Artisanに乗りペルシャから日本まで長い旅をするという設定です。チケットはBoarding Passで私の座席はC-43でした。ペルシャから西域、北京を経て奈良への旅を、迫力あるビッグバンドのジャズ演奏と歌、バレー、タップダンスそして中国民族舞踏で演じます。伎楽面公開に合わせて、この日だけの特別イベント「伎楽面物語」でした。ミュージアムでの舞楽も良いものです。
酔胡王の写真
酔胡王
酔胡従の写真
酔胡従

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近代日本の歴史研究会「第25回勉強会」:テーマ『東京裁判2』(2004年3月9日)
 「近代日本の歴史研究会」は2001年11月に準備会を開催し、①歴史を勉強する目的は日本人としての誇りを持つこと、②勉強するのは近代史(江戸末期~戦後)、③講師は自らが勉強して会員が持ち回りでおこなう、が決定されました。2001年12月から2002年9月まで持ち回りで講義を行いました。そして、知識を共有する機会を新たに提供し議論を深めるために、正しい近代日本史を共有する講座を2003年8月から始めました。
 前回に続いて、細谷順さんが「東京裁判」の開廷から結定までの話をしました。講義の前に、「占領軍は戦争についての罪悪感を日本人に植え付けるための宣伝を行い、日本が一方的に悪であるとの洗脳を行った。裁判中に日本の物資を奪い米国やアジアに送った。日本をアジアの最貧国にしようとした。米国から送られた脱脂粉乳は家畜用だった。」と話しました。
 昭和21年(1946年)4月29日昭和天皇の誕生日に、マッカーサーは極東国際軍事裁判の開始を宣言しました。5月3日に東京裁判(極東国際軍事裁判)が開廷されました。判事は連合国11か国の代表11名で、裁判長はオーストラリア代表のウエッブ判事が選任されました。
 キーナン主席検事は冒頭陳述で、「全世界を破滅から救う為に文明の確固たる闘争の一部」と位置付けて、「平和に対する罪」「人道に対する罪」等で起訴し、特に個人責任を強調しました。これに対して清瀬一郎弁護人は冒頭陳述で、「平和に対する罪」「人道に対する罪」で起訴する
権限は連合国側にはないと反論しました。法廷での裁判長の裁定や検察官、米国弁護人の発言内容は、日本人弁護団の申し立てにかかわらず、大部分は日本語通訳なしで行われました。
 米国のブレークニー弁護人は冒頭陳述で、「戦争は犯罪ではない」、「戦争は国家の行為であって、個人の行為ではない」と反論しました。昭和16年(1941年)7月21日南部仏印に日本軍の進駐が決行されたのは、米・英・蘭による日本資産の凍結並びに経済断行を実施し、日本の経済・軍事活動に重大な制限を加えて日本の孤立を図ったことによるもので、この対日経済封鎖は仏印進駐以前に決定されていたと指摘しました。
 検察側は「日本の政治家・軍人・財界人・学者などの指導者が共同謀議によって侵略戦争を計画・実行した」と決めつけました。そして、学校における軍事教練・日本民族の優秀性強調・大東亜共栄圏構想の鼓吹、それらと並行して基幹産業・造船・機械工業・自動車工業の振興などを、すべて共同謀議の行為であって許しがたい犯罪行為であるとしました。結局、共同謀議なる訴追はもっぱら状況証拠だけで、被告の誰一人として共同謀議に参画したとは立証されていません。
 昭和23年11月12日に判決が出ましたが、判事の意見は二つに分かれました。多数派は7か国で、少数意見は4か国でした。判決は公開の法廷では朗読されませんでした。パール判決書(インドのパール判事の判決書:各被告の起訴事実全部について「無罪」を主張)は昭和27年の講和条約発効まで禁書扱いになりました。しかし、「真珠湾の騙し討ち」は除外されました。判決は絞首刑7名、終身刑15名、禁固20年1名、禁固7年1名、病死2名、病気・入院1名でした。弁護団は、大部分の文明国では死刑を科するのは全員一致を必要としてると、再審査請求をしました。そこで、マッカーサーは極東軍事委員会11か国の代表を参集して助言を求めました。インド・オランダ代表が判決に反対し、それ以外は判決を支持しました。GHQは再審査請求を却下しました。
 昭和23年12月23日明仁皇太子(現天皇)の誕生日に絞首刑が執行されました。遺族の要請にもかかわらず遺体も遺骨も灰さえも遺族の元には渡されませんでした。人間の誇りに対する配慮の感情は一切示されなかったのです。
 国際法は弱小国はそれを頼りにすがりつき、強大国は自国に都合の良い場合には国際法を利用し、不都合の場合は国益を優先して平然と踏みにじる。永遠の平和と戦争防止を謳って、東京裁判という祭壇に捧げる生け贄として命を奪われた人達はいつの日酬われ名誉が回復されるのでしょうか。
 講義の後に質疑応答が行われ、次の意見が出ました。◎東京裁判の不当性を訴えるべきである。靖国神社問題も解決する。日本の国会では「戦争犯罪人」でなく「公務死」としている。国会議員が勉強して欲しい。国民運動にしていかなければならない。◎ニュールンベルグ裁判、東京裁判以前の国際法にはなかった法を作り、罪のない者に罰を与えた。◎BC級戦犯のほとんどは冤罪である。証拠はなくほとんどが名指してあった。◎いまだに罪の意識を持っている人がいる。これは、マッカーサーの巧妙な世論操作と教育界に左翼が入り込んで歴史教育を変えたせいだ。◎教育委員会を傍聴しだした。教科書選定に当たっては日教組の圧力があるので、排除しなければならない。◎東郷平八郎を載せた教科書はゼロ、北朝鮮の拉致問題を載せた教科書は1社のみ。日本民族がプライドを持てる教科書を作らなければならない。

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新春会(2004年2月21日)
 正会員・家族会員を対象とした講演会とパーティが開催されました。第1部が岡本行夫さんの講演と加藤タキさんとの対談、第2部が懇親パーティでした。最初に岡本理事長の挨拶があり、会員が1万2千名を超えたとの報告、新しく副理事長になった加藤タキさん、新理事および新監事の紹介がありました。
 続いて、岡本さんの講演が始まりました。「奥大使がやろうとしていたこと」と題して、スライドを説明しながら奥大使の思い出を語りました。
 すべての人が奥を好きになりました。見知らぬ人々の中に入って行く男で、防弾チョッキもつけていませんでした。防弾チョッキを着ていては信頼されないと言ってました。1980年代に数千人の日本人がイラクで活動していました。そのことが、イラク人にとって良い思い出となり、日本に対して良い感情を持っています。
 (奥さん、井上さんが襲撃された場所の辺りのスライドを見せながら、二人が警護も付けずに移動した訳を説明)日本以外の国の場合は奥のような役割を担った人をそれぞれの国の軍隊が護っていますが、日本はできません。警護を雇ったとしても、いざとなれば逃げてしまいます。警護をつけないことに対する批判がありましたが、結局は仕方なかったことだと思います。奥の考えは日本はこういう体制は無理だから高速で走り抜けるのだと思っていましたが、あの時はそれよりも早い車に襲われてしまいました。奥は焼酎が好きでした。紙パックなら荷物検査はされないので、紙パックの焼酎をお土産に持って行きました。
 大量破壊兵器が出てこなかったのですが、仕方なかったと思います。ヒッタのキャンプでは大量の死体が発掘されました。3千体の遺体を掘り出しましたが、更にその下に1万2千体が埋まっていました。そういう虐殺の現場がイラクのいたるところにあります。また、ハラブジャでは毒ガス攻撃で女・子供が7千人死に、更に2日以内に1万2千人が死にました。今も後遺症に悩む人がいます。大量破壊兵器は出てきませんが、フセインは大量破壊兵器を廃棄したことを証明をする義務があります。それによって1991年湾岸戦争が休戦状態になっています。その休戦状態を続けるためには毒ガスを廃棄したという保証証言がなければならないのに、14本の国連決議を無視し国連査察団を追い出してしまいました。そこで、休戦協定が崩れて再び戦争が始まった、というのが国際法上の説明です。
 イラク国内でアンケートを取ったところ、戦争前より良くなったと言う人と悪くなったと言う人の割合は3対2です。しかし、5年後が戦争前に比べてどうなっているかについては7割の人が今より暮らしが良くなると考えており、悪くなるという人は2割にも満たないのです。つまり、イラクの人達は将来に対して非常に大きな希望を持っています。それはサダム・フセインがいなくなったからです。ですから、民生の資本をあげて生活を改善さえすればイラクの人達は民主的な国家をつくることができます。
 発電所が止まっています。三菱重工が建設したイラク最大級の発電所も止まっています。バクダッド近くの発電所も8分の1しか動いていません。バクダッドの停電の大きな原因です。シンジャのセメント工場はルーマニアが建設しました。三菱マテリアルにお願いし、三菱マテリアルの社員が現地調査した結果100万ドルあれば修復できるとの報告がありました。これには感激されました。というのは、その前にアメリカの工兵隊が派遣され2500万ドルかかると言っていました。そこで、工員達は自分達で25万ドルかけて最低限の生産でスタートしました。その後に三菱マテリアルが行って、更に100万ドルかければ生産量は70%アップしますと報告したのです。今、文芸春秋はこれをスキャンダル記事として出しています。ひどい記事です。ワシントンポストの記事では、2500万ドルという米軍の査察に対して三菱マテリアルは100万ドルで動かせると言った、と三菱マテリアルを絶賛する記事です。ところが、文芸春秋には2500万ドルの話を一切書いてなくて、工員が25万ドルで動かせる言ってるのに三菱マテリアルは100万ドルと言う高値を吹っかけている、という記事になっています。民主党の首藤議員がその記事を鵜呑みにして予算委員会でワシントンポストの記事を撒いています。自分では何も読んでおらず、自分の論旨と反対の資料を国会で撒いています。首藤議員は私の罷免要求を出しています。
 病院を日本は全国で13つくっていますが、これらのリハビリもしなければなりません。医療水準はまだまだ低いです。水も更にきれいに直していかなければいけません。
 バクダッドとモスルとバスラでイラクの人口の3分の2位を占めます。自衛隊がサマワへ行くのは大変に良いのですが、サマワだけではなくて一刻も早くニーズの多い人口の多い大都市圏の復興支援ができるようにしなければいけません。
 (岡本さんの机の前に置いてある奥さんの写真のスライドを見せながら)生前から、私は「奥は日本の宝だ」と言ってました。奥は「リスクがあって何もしないのは簡単だけれども、それはしない。常に前に進めなければいけない。10年後にはイラクの人達が感謝してくれる。こんなやりがいのある仕事はない」と言ってました。45歳で亡くなりましたが、私の「道しるべ」でありつづけると思います。  

 岡本さんの講演の後、テレビでもお馴染みの正会員の露木さんが挨拶を行い、続いて加藤タキさんが壇上に上がりました。そしれ、岡本さん、加藤さん、参加者との間で討論を行いました。
 第2部は場所を変えて懇親パーティーが開催されました。パーティの最後に抽選があり、私は岡本さんのサイン入りの本(生きのびよ、日本!!)が当たりました。なお、この日はボランティアとしてクロークを務めました。   

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近代日本の歴史研究会「第24回勉強会」:テーマ『東京裁判1』(2004年2月10日)
 「近代日本の歴史研究会」とは、2年半前に発足した近代日本史の勉強会です。近代日本史を会員自らが勉強し、その成果を発表していました。昨年春に終了しましたが、再び成果を発表することで更に多くの会員と知識を共有し、議論を深めています。
 細谷順さんが「東京裁判」についてお話しました。細谷さんは専門家ではなく、「今の日本はおかしい。本当の日本は違うはずだ」と思い近代日本史の勉強を始めた方です。細谷さんは「自分の歴史観」であると強調して、東京裁判のお話を始めました。
 1945年8月15日に日本政府はボッタム宣言を受諾し講和条約を締結して終戦となりました。しかし、その後に連合国による条約違反が多くありました。日本国民の多くが、日本国軍隊の無条件降伏をあたかも日本国の無条件降伏が如く解釈し、また占領軍も強権をもって日本国が無条件降伏をしたと思わせる行動をしました。しかし、条約は条件付き降伏であったことを認識しなければなりません。
 1941年11月26日に米国は日本に対して「ハル・ノート」を通牒してきましたが、日本が到底受諾することのできない過酷な条件を押しつけてきました。その通告はわが国の存立を脅かす一種の最後通牒と解されました。米国は、この通牒は最後通牒であり宣戦布告にも等しいものであったので、日本政府がこれを拒否して実力行使に出るであろうことをはっきり予測してその対策を講じていました。ルーズベルト大統領とハル国務長官は日本側の回答を待たずに、通牒を日本に手交した翌日(11月27日)に米国の太平洋地域の前哨基地に対して戦争の警告を発し戦争態勢に対応する命令を発しています。従って、事実上の開戦は11月27日ということになります。
 1945年8月、米英仏ソの4カ国は現行の国際法や条約や慣習法などでは日本とドイツの指導者を裁くことはできないので、ロンドンに集まって戦争犯罪人の意義を拡張することを決めました。これがニュールンベルグ裁判の「チャーター」(国際軍事裁判所条例)です。日本はその前にボッタム宣言を受諾したのですから、その後に作られた「チャーター」で日本を裁くことの不条理を銘記すべきです。
 1946年1月19日、連合軍最高司令官マッカーサーは極東国際軍事裁判所条例(チャーター)を公布し、従来の国際法による戦争犯罪・略奪・スパイ・放火等の罪だけでなく、新たな法律を作りました。平和に対する罪と人道に対する罪(一般人に対する多量殺人・奴隷化・非人道的行為)を新たに追加しました。従来の国際法による裁判では、東条以下の日本の指導者を裁くことができなかったからです。不遡及の原則を破って、東条以下の日本の指導者をA級戦争犯罪人としたのです。さらにこの件における犯罪時期を1928年1月1日より1945年9月2日(降伏文書調印日)としています。パリ条約(1928年:侵略戦争否定のケロッグ・ブリアン条約成立)以前の米英仏ソによる過去の侵略行為が侵略の汚名をまぬがれ得ないとし、それ以後のみを侵略と規定したのです。
 マッカーサーは新聞・雑誌・ラジオ等に対して徹底的な検閲により、反米的・批判的な言論や記事を一切許さず言論統制は厳格を極めました。マッカーサー司令部(GHQ)は二つの部門を設置し、出版物を厳重に検閲しました。また、「戦争についての罪悪感を日本人に植え付けるための宣伝計画」を立案し、日本が一方的に悪であるとの太平洋戦争史観を植え付ける手段を考え出しました。ボッタム宣言の第十項には「言論・宗教・思想の自由」を保障することになっていましたが、日本国民の見えない所で過酷な言論統制が行われ、言論の自由は全く存在しなかったのです。出版社・新聞社・NHKに対して徹底した事前検閲が行われました。やがて、日本人自らが司令部の検閲基準に則って自己規制する習性を自然と体質化するようになってしまいました。
 占領が終わり戦後50年以上経った今日でも、上記戦略によって戦後の教育を受けた日本人の思考様式は定着し、これが当然のような風潮になってしまいました。多くの日本人が不当な占領政策を不当と思わない思考様式が定着し、覚醒した少数の人達を異端視するような現象が見られるのは実に情けないことです。
 占領軍が最も力を注いだのは、日本の伝統的な教育思想と家族制度を破壊することでした。マッカーサーは1945年9月から次々と指令を出しました。基本的教育指令、教職追放指令、修身・国史・地理の教科書の授業停止と教科書回収、神道指令、剣道・柔道・薙刀の授業禁止などです。また、「戦争犯罪」という新しい言葉を導入し、戦争罪悪視の意識を心の中に植え付ける政策を秘密裏に進めました。連合国の日本兵士捕虜に対する処置や連合国兵士の日本女性への暴行事件等は厳重な検閲によって報道されなかったために、国民の多くには知らされなかったのです。自国兵士の暴行のみが取り上げられ、敗戦の挫折感・屈辱感と相俟って国民の自信喪失を加速させました。
 この占領軍の戦争犯罪宣伝プログラムや、教育偏向は占領軍の心理作戦であることを少しでも匂わせるような記述は、厳密な検閲により巧妙に削除されました。それに乗じた、進歩的文化人と自称・他称の国家破壊を目論む左翼系の人達が自己の保身と栄達のために占領軍に摺りよって、日本の教育を崩壊へと進めてしまったのです。そのよう心理作戦を進めて、東京裁判の正当性を日本国民に認識させた上で、「法の不遡及」の原則をごまかして、戦争犯罪人という汚名を着せて処刑を断行したのです。
 東京裁判とは別にアジア各地の49箇所で捕虜虐待や住民虐殺などの罪で2万5千人の日本人が容疑者として逮捕拘留され、そのうち5千7百人が起訴されて、千余名が死刑(復讐と報復のでっち上げの証拠による冤罪が多かった)判決を受けました。
 お話の後で、参加者から感想や質問、新しい情報の提供がありました。

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学びの会:テーマ『異文化国家との勝てない戦い』(2004年1月21日)
 「学びの会」とは、講師(新現役ネットの会員でおもしろい有意義な話題を持っている方)の話を聞き、その後自由に意見交換をしながら、知識を深め、交流をはかっていく勉強会です。
 ビジネスコンサルタントの浜地道雄さんが『「異文化国家との勝てない戦い」ー(文明でなく)文化=宗教の衝突を考えるー』をテーマに話をしました。ニチメンの石油担当として長らく中東イスラム圏で生活し、後に帝国データバンクアメリカ社長としてニューヨークに赴任していました。9.11以後の一連の問題は宗教の衝突であり、「勝てない戦い」として泥沼化していると指摘しています。
 いくつかの事柄を例にイスラムの実態をお話し、コーランの内容についても説明がありました。 
その一つが元アフガニスタン大使の話です。元アフガニスタン大使が難民生活で困窮していたが、人々の助けにより現在は四街道市で「アフガニスタン食堂」を開店、家族皆で頑張っているそうです。「アフガニスタン復興国際会議」が開催され、カルザイ新政権が誕生しました。しかし、元駐日大使は「秩序化はほど遠い、民主化はありえない」と厳しい見方をしていました。現在も、アフガニスタンは混乱しています。
 「この世で苦労すればするほどあの世では楽園がある」というアッラーの言葉、そしてコーランはイスラム教徒にとって絶対的な生活訓なのです。宗教心を緩和することは堕落であり、自分の存在を否定することにつながります。また、コーランには「挑まれた戦いには堂々と立ち向かえ」と明記されています。
 9.11事件の直後にブッシュ大統領が「十字軍」と口走りました。十字軍はキリスト教徒から見ると「聖戦」ですが、イスラム教徒から見ると「宗教弾圧」と同義語です。また、開戦直後の演説では「Millenium」と言及しました。これはハルマゲドン後のパルシアによる千年紀を指しており、自己の正当化(=聖戦化)のために引用しているとも言えます。しかし、キリストを神と認めていないイスラムでは、千年統治そのものを認めていません。
 中東問題は「パレスチナ問題」に帰結します。宗教対決である以上、勝負がつかないのは歴史が証明しています。「勝てない戦い」だということを、ブッシュ大統領もブレア首相も、そして小泉首相も悟らなければならないと、結んでいました。
 その後、討論が始まりいろいろと意見が出て白熱しました。

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2003年

第18回新現役宣言フォーラム:テーマ『国際環境と新しい時代感覚』(2003年12月16日)
 最初に、代表の岡本行夫さんのビデオによる挨拶が放映されました。フォーラム開催時には、自衛隊のイラク派遣に伴い橋本元総理に同行してヨーロッパへ向かっていたそうです。
 ジョージ・フィールズさんの『国際環境と新しい時代感覚』、拓殖大学国際開発学部教授の森本敏さんの『イラク情勢と日本の安全保障』のお話がありました。
 最後に恒例の来場者との質疑応答が行われました。

 

第17回新現役宣言フォーラム:テーマ『新現役世代の生き方上手』(2003年10月7日)
 通常は、初めに新現役ネット代表の岡本行夫さんから挨拶と話があるのですが、この日はイラクから帰国し官邸に寄って来たために1時間程遅れて会場に着きました。
岡本行夫さんに代わり、テレビなどで活躍中の加藤タキさん(新現役ネット会員)が挨拶をしました。
 聖路加国際病院名誉院長の日野原重明さんの『新現役世代の生き方上手』というお話がありました。3日前に92歳になられたとのことでした。なお、加藤タキさんの母上の加藤シヅエさんの主治医だったそうです。
 続いて、日野原重明さん、加藤タキさん、岡本行夫さんによるディスカッションが行われ、最後に来場者との質疑応答が行われました。

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大阪市立大学

公開講座
 大阪市立大学では市民に向けた公開講座(文化交流センター講座、市民医学講座、インターネット講座、公開授業等)を開催しています。偶然に「インターネット講座2006」の募集を知り、2006年1月に初めて受講申し込みをしました。

2006年度2007年度2008年度2009年度2010年度2011年度2012年度2013年度

2013年度

公開授業「大阪落語への招待」専門家講座(文化・歴史コース《古代と現代のロマンを尋ねて》)

専門家講座(文化・歴史コース《古代と現代のロマンを尋ねて》)

「専門家講座(文化・歴史コース《古代と現代のロマンを尋ねて》)」受講案内(2012年11月27日(水))
 大阪市立大学文化交流センター専門家講座(文化・歴史コース《古代と現代のロマンを尋ねて》)の受講案内のメールが届きました。
 専門家講座は、一般市民及び本学学生等を対象に、各分野で活躍されている本学の卒業の卒業生・教員等の専門家が講師となり、最新の活きた知識と情報を提供し、実践的な教育と大阪の文化向上に寄与するために実施しています。18時30分から20時まで下記の日程で開講されます。
 2013年 3月 3日(月) 難波宮発掘60年と山根徳太郎博士 (永山雅一さん)
 2013年 3月10日(月) 宝塚歌劇100年             (平松澄子さん)

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公開授業「大阪落語への招待」

大阪落語への招待1(開講にあたって)大阪落語への招待2(初級編1)大阪落語への招待3(初級編2)大阪落語への招待8(中級編3)|大阪落語への招待12(上級編3)

公開授業「大阪落語への招待」受講案内(2013年2月6日(水))
 公開授業「大阪落語への招待」の受講案内メールが届きました。
 大阪を母体として発達した文化の一つに落語があります。平成25年度前期に「都市・大阪」を主題とした授業の一つとして「大阪落語への招待」が公開授業として開講されます。
 この授業は、、「大阪落語」の第一線で活躍する桂春團治一門をゲストスピーカーに迎え、落語のルーツや江戸落語との違いなどを題材とする初級編、落語に影響を与えた他の芸能などを題材とする中級編、「落語の情」をテーマとし、落語の本質をさらに深く掘り下げる上級編で構成し、大阪の文化・芸能について考える視座を提供します。4月12日から7月19日まで(4月26日を除き)の毎週金曜日16時20分から17時50分まで杉本キャンパスで授業が行われます。学生と一般募集の受講生が一緒に授業を受けます。
 なお、2008年度にも公開授業「大阪落語への招待」を受講し、修了証を受領しています。

 

大阪落語への招待12(上級編3)(2013年7月5日(金))
 大阪市立大学公開授業「大阪落語への招待」12回目に出席しました。この日は、学術情報総合センター10階会議室で落語会の実演が行われました。
 桂春雨さんが、注意事項を話しました。続いて落語会の実演が行われました。桂春雨さんが「稽古屋」を、桂梅團治さんが「皿屋敷」を、桂春之輔さんが「子は鎹」を演じました。もしかしたら桂春團治師匠の噺を聞けると期待していたのですが、残念でした。しかし、3人それぞれが持ち味を生かしてとても良かったです。大阪落語を十分に楽しみました。なお、三味線は春雨さんの奥様の中田まなみさんでした。

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大阪落語への招待8(中級編3)(2013年6月7日(金))
 大阪市立大学公開授業「大阪落語への招待」8回目に出席しました。教壇には高座が設けられていました。左膝の痛み、右肩の痛みのために、4週ぶりに出席しました。
○桂春之輔さんが紗合わせで現れました。(コミュニケーションカードを読みながら講義を進める)桂春團治師匠と一緒の時には色紋付は着ない。何故なら色紋付は春團治の売り物だから。手塚治虫が二代目桂春団治のポスターを書き、谷崎潤一郎は二代目桂春團治の死を惜しんだ。落語家は髪が短い方が良い。落語家は左翼にも右翼にも好かれる。
○文学研究科準教授の久掘裕朗さんが浄瑠璃義太夫節の講義を行いました。竹本義太夫は1714年没で来年は300回忌を迎える。人形浄瑠璃の語りの部分が義太夫節。昭和の初め頃まで素人も語っており、書物もたくさん出版されていた。DVDで世話物と時代物を上映された。
○桂春雨さんが浄瑠璃義太夫の稽古事について解説した。義太夫は音曲の司。褒める順序は①声②節③言葉。稽古事は小唄、端唄、長唄。芸をかじる。この後、高座に上がり「豊竹屋」を演じた。オチは「芸をかじる」だった。
○代わって春之輔さんが登場(コミュニケーションカードを読みながら講義を進める)。春之輔さんが文楽に興味を持ったの落語家になろうと思った時。遊郭について解説を行った。花街(かがい、いろまち)、芸妓、女郎、遊女、パンパンの解説。近松門左衛門は女郎の悲しい話を書いた。芸のない芸人は「芸NO人」。
○コミュニケーションカードを記入して退出しました。

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大阪落語への招待3(初級編2)(2013年5月2日(木))
 大阪市立大学公開授業「大阪落語への招待」3回目に出席しました。教壇には高座が設けられていました。
○桂春之輔さんが大島紬の着物で現れました。女性用の大島だそうで、ミヤコ蝶々さんの着物を仕立て直したそうです。
 (コミュニケーションカードを読みながら講義を進める)前回、桂春雨さんが実演した「明礬丁稚」は春之輔さんの初舞台(昭和40年、道頓堀の角座)で披露したネタ。漫才と落語の違いは、バナナの皮で滑った時の描写が違う。漫才はバナナの皮で滑った姿を見て笑い、落語はなぜバナナの皮で滑ったかを話す。師匠と先生、稽古と練習の違い。古典と創作(新作)の違い。
○続いて、桂春雨さんが講義を行いました。
 (コミュニケーションカードを読みながら)かんながけとカツオ削りの違い。扇子と手拭。落語で女性の頻度が少ない。登場人物の描写(せりふあり)は7、8人が限度。見台は笑福亭一門では常に置くが、桂春團治一門ではあまり使用しない。
 小道具(扇子と手拭)の使い方を高座に上がって説明しました。煙草入れとキセル。高い煙草と安い煙草の吸い方の違い。ろのこぎ方。箸。釣竿の長さ。鼻をかむ。がまの油売りの刀の長さ。紙と筆。
 実演前にかつおぶしと魚の三枚おろしの説明をし、「寄合酒」を実演しました。扇子と手拭を小道具として使用して、ぼうだら、かつおぶし、かずのこ、鯛などを表現しました。
○再度、春之輔さんが講義しました。(コミュニケーションカードを読みながら)大島紬は高価だが正装にはならない。高価でも普段着、おしゃれ着。桂文枝は「六代」と名乗っている、六代目というと笑福亭松鶴師匠。桂米朝師匠は「一期一会」と書く。トリを取れるようにと、5人の噺家(三枝、春之輔、鶴光、染丸、小枝)で「トリの会」を作った。「つる」に始まり「つる」に終わるは奥が深い。文楽に関心を持って欲しい。
○コミュニケーションカードを記入して退出しました。

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大阪落語への招待2(初級編1)(2013年4月19日(金))
 大阪市立大学公開授業「大阪落語への招待」2回目に出席しました。教壇には高座が設けられていました。
○桂春之輔さんが講義を行いました。公開授業の受講者は学生と一般を合わせて380名。コミュニケーションカードを読むのに4時間、楽しみながら読んでいる。(コミュニケーションカードを読みながら講義を進める)落語の宣伝と思って講義を行っている。落語実演はサンプルを観せる。落語について詳しく知りたい人は専門書を読んで欲しい。男性ファンの方が女性ファンより多い。男性は想像でき、女性は直接的な笑い(例えば漫才)を好む。しかし、繁盛亭は女性と年配の方が頼り。
 東京は長唄で、声が高く三味線の竿は細い。一方、大阪は義太夫で、低い声と太い竿。大阪落語はだみ声が特徴。
 落語家と言われるより噺家の方が良い。落語という言葉は戦後で、戦前は「はなし」。
 「寄席」という字を、大阪では「せき」東京では「よせ」。「粋」を大阪では「スイ」東京では「イキ」。「イキ」は単にかっこ良い、「スイ」には味わいがあり哲学がある。
○続いて、桂春雨さんが講義を行いました。アカデミックな講義を行う。落語のルールから説明する。
 舞台の下手と上手。商家の人物(旦那、番頭、手代、丁稚)。丁稚は無給で6年働いた後、1年間のお礼奉公。
 高座で「明礬丁稚」と「つる」を実演。「つる」に始まり「つる」に終わると言われている。登場人物は明礬丁稚が旦那と丁稚の定吉、つるが喜六と清八と甚兵衛。
○コミュニケーションカードを記入して退出しました。

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大阪落語への招待1(開講にあたって)(2013年4月12日(金))
 大阪市立大学公開授業「大阪落語への招待」の1回目に出席しました。杉本キャンパスの基礎教育実験棟1F階段教室は学生と一般募集の受講生で一杯でした。
○宮野副学長が挨拶をしました。
 平成19年度より開講し、公開授業は今年で7年目になる。都市大阪の文化の楽しさ、奥ゆかしさ、大阪の芸能について考える。
○桂春之輔さんが講義をしました。
 上方には223人の落語家がいる。その内110名が大卒か中退。昭和40年に桂春團治さんに弟子入りした頃では信じられない。
 毎回、コミュニティカードに質問、コメントを記述して欲しい。この授業で落語を理解して落語会へ来て欲しい。
 「上方落語」でなく「大阪落語」にこだわりたい。上方=大阪・京都ではない。大阪と京都は違う。落語は大阪の庶民を演じている。「落語の情そして思いやり」。
 春之輔さんは高校を中退せずに1年間は土、日曜日に師匠の家に稽古に通い、卒業後に内弟子になったそうです。今は内弟子を取っている噺家はいない、嫁さんが理解できなくなっている。弟子がいくら儲けようと師匠には一銭も入らない。
○文学研究科準教授の久掘裕朗さんが科目開講の趣旨、講義計画、講義の進め方等について説明した後に、「落語」について講義しました。
 「落語」という言葉は江戸時代も下ってから。落語は「庶民の情」、どこにでも居る人たちのやり取りを描いている。思いやり、優しさ、良い面を演じている。
  落語とは一人の話し手による話芸。映画・ドラマ等の映像は、俳優がそれぞれにふさわしい姿を演じ、特殊効果などを駆使して映像化する。落語の話芸は、一人の話し手が、衣装を変えず。小道具も最小限で、全ての内容を所作と話だけで表現する。落語は時代とともに変化している。古典と呼ばれるものでも変化している。
 最後に、「浄瑠璃も落語も無くなったら嘆きとなる。人間の営みを軽視することになる」と結びました。
○コミュニケーションカードを記入して退出しました。

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2012年度

7月・8月夏期講座《学問の先達は語る》大学サポーター登録専門家講座3月《大坂と大阪をたずねるⅩⅢ》

専門家講座3月

上方落語の考察(2)大阪の建物を観ると大阪がもっと好きになる(3)

「専門家講座3月」受講案内(2012年12月21日(金))
 大阪市立大学文化交流センター専門家講座3月「文化・歴史コース《大坂と大阪をたずねるⅩⅢ》」の受講案内のメールが届きました。
 各界の第一線で活躍する大阪市立大学卒業生を中心とした講師陣が最新の情報に基づき解説する講座です。18時30分から20時まで下記の日程で開講されます。
  4日(月) 上方落語についての考察(2)             (庄野 達也さん)
 11日(月) 大阪の建物を観ると大阪がもっと好きになる(3)  ( 山田 奈津さん)

 

大阪の建物を観ると大阪がもっと好きになる(3)(2013年3月11日(月))
 大阪市立大学文化交流センター専門家講座「文化・歴史コース《大坂と大阪をたずねるⅩⅢ》」を受講しました。2回目は「大阪の建物を観ると大阪がもっと好きになる(3)」と題して、Office CANAAN(オフィス カナン)代表の山田奈津さんが講義を行いました。講義の内容は以下の通りです。

 大阪の名建築物は大阪の誇りを表している。それは大阪の基礎を作った先人たちの努力の結果でもある。では、その先人たちを育てあげたのはいったい誰だったのだろうか。グローバル化の流れの中、混沌とする日本、そして大阪。先人たちの足跡をたどり、現在と未来の大阪を考える。
 山田さんの専門はまちづくりで、建物を通して人がどうやって行動を変えるかを研究している。大阪生まれの大阪育ち。なぜ大阪がしょぼくれたのか。子供が自慢できることがない。大阪に住んでいて楽しくない。まちを好きになるために、建物を通してまち全体を見直す活動(open! architecture:オープン・アーキテクチャー)が東京で始まった。つまらない大阪より住んで良かったと思う方が良い。建物を通じて大阪を好きになってもらいたい。誇りを取り戻して欲しい。建物は歴史の証言者である。建物に関係した人に語ってもらい、建物それぞれに誇りを持って欲しい。
1、近代大阪の物語-ひとと建物と学び
 ○ひと
  五代 友厚 1836年2月12日-1885年9月25日 薩摩出身 北浜証券取引所の前に銅像
  関 一 1873年9月26日-1935年10月26日 静岡出身
 ○建物
  北船場の近代建築物、難波、、、
  大大阪の繁栄が最先端の技術(セントラルヒーティング、タイル)
  モダニズムの効率化を求めた四角の建物に対して独特のデザイン。優秀な若い人が大阪へ集まった。優秀な人が自分のアイデアを具体化できた。
 ○物語
  岩本栄之助 1877年4月2日-1916年10月27日 株で損しても中央公会堂の建設に寄付をした。
 ○学び(私塾)
  懐徳堂(鴻池又四郎ほかの五同志)、梅花塾(篠崎小竹)、適塾(緒方洪庵)心学明誠舎(石田梅岩)
2、大大阪の繁栄の要素-「来るものは拒まず」とソーシャルネットワーク
 ○人財の「孵化器」としての大阪
  大大阪までの大阪では人を柔軟に育てた。良い物は良い。
3、なぜ建築物を観るとまちを好きになるのか
 ○建築物は、生活・経済・社会といった世の中のあらゆる事象の背景や歴史、かかわったひとや土地の物語が詰まっている。
 ○つまり建築物を建築学の視点だけで見ず、建築された「とき」の「目撃者」という視点で観るということ。
 ○自分とは何のつながりもない建築物が「とき」の「目撃者」だと知ると、建築物の建っている地面と自分の足元の地面がつながっていることに気づく。
 ○建築物を観ることを通じて空間を、まちを見直し誇りをもつと「まちをもっと好きになる」。
 ○ソーシャルネットワークが「まちをもっと好きになる」ことを強化。
  自分がまちにかかわっていることで影響を与えることができる。
                ↓
  大阪へのコミットメント(本気でかかわろうとする気持ち、本気で考えようとする気持ち)が強化される。
  中高生にまちを観てもらって提案・意見をしてもらう。そして、大人が道筋を作ることで世の中が変わる。
 ○建物の紹介(写真)
  ・高麗橋 野村ビル(北浜を南下した所) 大阪はこの様なデザインを受け入れる。層、瓦。
  ・大阪倶楽部 男性の社交場で長い間女性が入れなかった。直線的な美しさ。上に壺(金融機関に多い、権威の象徴。
   いろいろな文様(卵、ぶどうの飾りは産めよ増やせよの象徴)。
  ・泉布館(桜ノ宮、造幣局の前) 泉布はお金という意味。迎賓館、宮様が宿泊。ウォーターズが設計、施工は日本人の大工(屋根が想像できず瓦を置いた)。
   泉布館の特徴は照明とタイル(明治時代は日本でタイルとレンガが作れなかった、輸入品で高価)
  ・高島屋東別館(前が堺筋) 表(1、2、3期工事)は綺麗、裏はでこぼこ(4期工事)
   内部にアーケード。建物各所にアカンサスの文様(大事なものにアカンサスを張り付けた)
  ・なんばPARKS 新しいが趣のある建物(効率が上がると建物は四角なるが、南海の若手が大阪の役に立つ建物に)
4、新世界
  日本の近代化、大阪の近代化によって土地が初めて資産化した(大阪土地建物㈱)。
 ○新しいまち 海外と新しい技術への憧れ。冷蔵庫、活動写真、大林高塔など。光と電気の祭典(最新、文字通り新世界)。
 ○遊興のまちへ 演芸、料亭、花柳界・・・
 ○新世界オブ新世界-塔へのあこがれ、近代国家の権威の象徴
  ・商業倶楽部洋館五層楼
  ・大林高塔
  ・初代通天閣(1912(明治45)年7月完成。新世界の誕生。1943(昭和18)年1月火災)
  ・二代目通天閣(1956(昭和31)年再建 内藤多仲設計
  ・その他 パリ エッフェル塔(明治22年)、浅草 凌雲閣(明治23年)、東京タワー(昭和33年)
 ○上海は大阪と似ている。人財インキュベータ。租界時代にいろいろな人が入ってきたことでいろいろ発展した。芸術・技術・金融で世界の中心だった。

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上方落語の考察(2)(2013年3月4日(月))

 大阪市立大学文化交流センター専門家講座「文化・歴史コース《大坂と大阪をたずねるⅩⅢ》」を受講しました。1回目は「上方落語についての考察(2)」と題して、NPO法人宝豊連理事長(昭和56年法学部卒)庄野達也さんが講義を行いました。なお、2011年3月14日に庄野さんの「上方落語についての考察」の講義を受講しました。講義の内容は以下の通りです。

はじめに
 落語との出会いは受験勉強中に深夜ラジオ番組で笑福亭仁鶴を知り、その落語を録音(50本ほど)したのが始まり。大学入学後落語研究会に入部、活躍した。
大学卒業後、一旦落語から離れるも、先輩からの誘いで演芸クラブの旗揚げ公演を手伝うようになり、社会人落語家の人たちと交流するようになった。東京の社会人落語連盟への対抗意識から平成12年12月12日に上方社会人落語連盟が結成された。阪神大震災後に仮設住宅の被災民を力づけるために落語会を開催した。笑うことで活力が向上し、社会貢献にもなる。平成20年4月、NPO法人宝豊連を設立し、理事長になった。
1、落語が衰退しない理由
 落語が衰退しない理由として下記が上げられる。
 ①浪曲・講談との比較
  最近の新聞に春野恵子が「英語で浪曲をした」との記事が載っていた。二代目桂枝雀が1980年頃から英会話教室に通い始め、校長の協力のもと始めた英語落語で海外へも進出した。現在は後輩落語家が受け継いでいる。
  浪曲師は40人ほど、上方落語家は一時20名を切ったが現在では200名を超えた。東京には400名以上いる。
 ②プロ集団の数と質
  浪曲は若い人が少ない。一方、ピン芸人が落語に魅力を持ち落語家(月亭方正、桂八度)へ転身している。プロ集団の数と質が落語の輝きを取り戻した。
 ③アマチュアの裾野
  アマチュアは好きで落語をしている。それが結果的に裾野を拡げた。
 ④古典と新作
  新作は無数にできている。新作も100年経てば古典になる。代表的なのは「代書屋」。アマチュアも創作落語を作っている。
 ⑤リアリズムと奇想天外
  リアリズム:根底に貧乏がある。落語には、①金持ちを批判しない、②お上を批判しない、③女のアホ(アホは男で十分)は出てこない。奇想天外:本当のように見えてくる。
 ⑥笑いと話術
  高い話術がある。
 ⑦高齢社会と景気の低迷
  時間の余裕のある人が落語に興味を持つ。景気が悪いとじっくりと落語を楽しむ。景気が良いと漫才が受ける。今、落語に風が吹いている。
2、「上方落語名題圖繪百選」の研究
 ①旅ねた:東の旅=七度狐・こぶ弁慶・三十石 地獄八景
 ②商家噺:口入屋・質屋敷・菊江仏壇
 ③お茶屋噺:けんげしゃ茶屋・せむし茶屋・親子茶屋・辻占茶屋
 ④地名が入った噺:池田の猪買い・池田の牛ほめ・有馬小便・明石飛脚・兵庫舟・紀州飛脚・住吉駕籠・天王寺詣り・京の茶漬け・野崎詣り・高津の富
 ⑤武士の出てくる噺:佐々木裁き・次の御用日・鹿政談
 ⑥落ちが面白い話:ぞろぞろ・高津の富・百年目
 ⑦私の持ちねた:池田の猪買い・高津の富・住吉駕籠・地獄八景・らくだ・宿屋敵・口入屋・花筏・壺算・はてなの茶碗

3、「池田の猪買い」の公演
 現在の池田市は、ダイハツ工業の影響で財政が比較的豊かで、文化施設が充実しており、落語ミュージアムも存在する。
「池田の猪買い」の噺に続き創作落語の「ロボット甚兵衛さん」を実演。

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大学サポーター登録(2012年12月21日(金))
 大阪市立大学の大学サポーターへ登録しました。
 大学サポーターに登録すると、大阪市立大学についてより良く理解するために、広報誌をはじめ公開講座・行事等のお知らせが送信または郵送されてきます。

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7月・8月夏期講座

第2次大戦前における輸出-中小企業と大阪-「ボランティア」する人、される人

「7月・8月夏期講座」受講案内(2012年6月4日(月))
 大阪市立大学文化交流センター7月・8月夏期講座《学問の先達は語る》の受講案内のメールが届きました。
 長年、各分野において研究と指導にあたってきた名誉教授等が、専門的な知識を交えながら分かりやすく解説します。高齢化が進むわが国においてのうつ病対策や介護保険制度、情報社会でのセキュリティ問題についてなど7つのテーマを取り上げ開催します。7テーマの内4テーマを選んで受講します。18時30分から20時まで下記の日程で開催されます。
 7/14(水) 情報セキュリティ                      (中野 秀男さん)
 7/30(月) 第2次大戦前における輸出 -中小工業と大阪 -  (安井 國雄さん)
 8/ 3(金) 「ボランティア」する人、される人              (谷 富夫さん)
 8/ 7(火) 介護保険制度と私たちの生活               (白澤 政和さん)

 

「ボランティア」する人、される人(2012年8月3日)(金))
 大阪市立大学文化交流センター夏期講座《学問の先達は語る》を受講しました。第3回は、「『ボランティア』する人、される人」と題して、元大学院文学研究科・文学部教授の谷 富夫さんが講義を行いました。内容は以下の通りです。
1、卒論「ボランティアの現在」
 市大社会学コースの女子大生の卒論の内容を紹介:ボランティアをしている4名に質問したところ、本人たちにボランティアをしている意識はなかった。
2、ボランティアとは?
 ・手助けを必要とする人に対するお世話する ・ある程度つづけて行う ・仕事以外に行う ・自発的に行う
3、奉仕型と交換型
 Volunteer :志願兵  Voluntary :自由意思   語源Volo(ラテン語):I wish,will 自発性
 良い悪いの判断:罪と恥の文化の違い
  ・欧米(キリスト教の世界):神の教え
    キリスト教世界:内なる神の声の命令 ⇒ 志願 ⇒ 報酬(最高の報酬:神に嘉せられる=天国に行ける)
  ・日本:世間(情けは人の為ならず:交換、互酬性 情けをかけてかけられる)
 まとめ
  ・欧米:神 ⇒ 人 ⇒ 行為:一方向性(奉仕型) 神様に命令される
  ・日本:自分 ⇔ 情けの行為 ⇔ 他人:双方向性(交換型)
4、無償(奉仕型)か有償(交換型)か?
 ボランティア活動というのは、奉仕する人が困っている人の何かの役に立ったと思い、奉仕を受けたい人が、有り難いと感謝をすれば、それだけで充分。
 依頼する人の要望が多種多様化している現在、無償奉仕だけにこだわっていては、より良い奉仕活動はできない。たとえ有償でも困っている人の手助けをしようとする目的は同じはず、共に理解し合い協力して行かなければ今後の福祉向上亜望めない。

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第2次大戦前における輸出-中小工業と大阪-(2012年7月30日(月))
 大阪市立大学文化交流センター夏期講座《学問の先達は語る》を受講しました。第2回は、「第2次大戦前における輸出-中小工業と大阪ー」と題して、元大学院経営学研究科・商学部教授の安井 國雄さんが講義を行いました。
 大戦前において雑貨が輸出において無視できない役割を果たしたことはあまり注視されていません。大阪を主要な生産地とする雑貨(メリヤス製品、自転車、ブラシ、玩具、洋傘、陶磁器等)が世界に向けて輸出されました。そして、その製品は輸出向けに構成された下請け制度(分業システム)によって生産されました。その分業システムは戦後においても高度成長を支えました。統計数字を提示しながら講義を行いました。

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2011年度

センター企画講座5月「中国・東アジアのダイナミズム」|6月ターム講座「都市大阪のこれから」|専門家講座3月「町屋にみる庶民の暮らしと住文化」

専門家講座3月

京の町家、大阪の町家祭のしつらい-町家と町並み

「専門家講座3月」受講案内(2012年1月23日(月))
 大阪市立大学文化交流センター専門家講座3月「生活・科学コース《町屋にみる庶民の暮らしと住文化》」の受講案内のメールが届きました。
 社会の第一線で活躍中の、大阪市立大学卒業生を中心とした専門家が講師を務め、一般の受講者向けに解説します。18時30分から20時まで下記の日程で開講されます。
 2日(金) 京の町屋、大阪の町屋
 9日(金) 祭りのしつらい-町家と町並み

 

祭のしつらい-町家と町並み(2012年3月9日(金))
 大阪市立大学文化交流センター専門家講座3月「生活・科学コース《町屋にみる庶民の暮らしと住文化》」を受講しました。第2回は、「祭のしつらい-町家と町並み」と題して摂南大学外国語学部教授の岩間香さんが講義を行いました。京都の祇園祭宵山のように、祭りの際に店の間や座敷に屏風を飾る「屏風祭」の風景が各地に残ります。その歴史をひもとき、各地の現状、まちづくりへの応用などを写真や絵画資料などを用いて講義しました。内容は以下の通りです。

はじめに
 祇園祭宵山の「屏風祭」・・・京の町家の伝統を感じさせる
                   普段は見せない家の中を奥深くまで見せる
                   江戸末・明治の祇園祭・・・山鉾巡行を見せるための桟敷だった
 屏風祭は京だけではなかった  山鉾巡行の日に屏風を飾った

1、祭り桟敷の発達
 桟敷=見るための場所  例:相撲の桟敷、芝居桟敷(天井桟敷)、祭り桟敷
 1)平安時代  祭桟敷に貴族の力を示す立派な建物が造られた
   賀茂祭の桟敷の記録  例:藤原道長 寛弘2年(1005)賀茂祭(今の葵祭)
                   例:花山院が「我こそ見はやさめ」
 2)桃山時代  桟敷の屏風飾りが一般に広まった。
   豊国祭礼図 石垣の上に見物桟敷、屏風で囲う
 3)江戸時代  町家の開放が進み幕・屏風・毛氈がハレの空間を作るようになる
           神様を迎えるためのハレのしつらえ、山鉾、神輿
   賀茂競馬図 庶民の桟敷
   祇園祭礼図 通りの桟敷 → 町家から見物

◎ハレのしつらい
 屏風・・・風よけ → 装飾 → 貴人・客をもてなす 神を迎える
       中国から奈良時代に伝来  例:正倉院「鳥毛立女図屏風」
 御簾(みす)・・・平安時代の障屏具  貴人の姿を隔てる
 幔幕(まんまく)・・・陣(戦場での陣の在所の目印) → 花見などの目隠し・特別な席
 緋毛氈(ひもうせん)・・・緋:茜と紫紺で染めた色を深こき緋とし、紫に次ぐ官位に用いた
                毛氈:獣毛に湿気・熱・圧力・摩擦を加え、線維を密着させて織物にしたようなもの
                    フェルトの様な布、日本では作れない輸入品
 提灯・・・夜が明るくなる
 正徳元年(1711)  朝鮮通信使を迎えるためのお触れ

2、各地へ伝搬
 1)江戸(新しい都市)・・・天下祭(江戸城の中へ山車を入れられる)  神田祭・山王祭
 2)藩の庇護する祭・・・東照宮祭礼  例:御三家の祭礼
         藩主の祭神         例:仙台 大崎八幡宮
 3)江戸時代後半  地方都市で曳山や練り物
         江戸と上方の交流を通じて祭見物の作法が各地に伝搬
   長崎諏訪明神祭礼 オランダ人の見物
   山形酒田 地方色のある妻入りの町並み
   福井 馬縅祭(うまおどしまつり) 雁木(がんぎ)(昔のアーケード)の町並み

3、近・現代の屏風祭
 1)近代
  祇園祭では屏風祭がさかんに、新進画家に描かせる、新聞が特集など
  明治45年には100軒以上  巡行経路に多い
 2)現代
  京都  祇園祭、鞍馬火祭、上・下御霊祭、嵯峨野祭
  地方に残る屏風祭
       大津、日野、亀岡、三国、城端、八尾、高山、小浜、能登黒島、角館、篠山
  復興と消滅の最前線 
       亀岡、岸和田・・・かなり前に復活
       三条、倉敷、村上・・・ここ5、6年間に町おこしのために復活
       天神祭・・・最近
  新しい工夫
       京都・・・ビルでの屏風飾りをはじめた例 新進の画家に絵を描かせる
       倉敷・・・モダンアートの参加、美術館の参加

おわりに
 都市祭礼は絵画資料が多い=①公的な記録として制作 ②祭りが鑑賞性に富むため
 絵師や注文主の存在  地方の経済的・文化的な水準の高さ
 屏風祭・桟敷・・・祀られるものを高めるため、あるいは町の繁栄を示すために意図的に行われた
 近代に屏風祭が衰退した原因・・・祭りの庇護者の不在 藩 分限者
 祭桟敷は各家で自由に行っていた?
 屏風祭は町全体で維持されたもの。
 ◎祭の研究は風流や曳山中心だったが、「桟敷」や「祭りの町並み」も重要な要素
 ◎屏風祭の歴史を振り返ることは、現代の都市や生活を考える上でも、重要な意味をもつ

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京の町家、大阪の町家(2012年3月2日(金))
 大阪市立大学文化交流センター専門家講座3月「生活・科学コース《町屋にみる庶民の暮らしと住文化》」を受講しました。第1回は、「京の町家、大阪の町家」と題して大阪市立住いのミュージアム副館長の新谷昭夫さんが講義を行いました。庶民の伝統的な住居である町家について、建築的特色や空間構成のあり方、京都と大阪の違いなどを建物の写真や絵画資料などを用いて講義しました。内容は以下の通りです。

1、年中行事絵巻に描かれた町家
 1)やすらい花の場面-『日本の絵巻8 年中行事絵巻』中央公論社・・・12世紀末に描かれた絵巻物
 2)馬長行列の場面-同上
 3)正月毬杖(りっちょう)の場面-同上・・・毬杖とは今のクリケットのようなもの
(参考)町家と農家の比較
  町家(住吉)・・・職住一致、面路性 農家(千年家)・・・日本で一番古い農家

2、間取りからみた町家の種類
 1)通りにわ形式-寛延3年(1750)うろこ形や五兵衛家指図(田中家文書)・・・一列三室、田中家は京都の町大工
 2)通りにわ形式-宝暦10年(1760)山さき屋作兵衛家指図(田中家文書)
 3)表屋造り形式-加賀屋清左衛門家指図(田中家文書)
 4)大塀造り形式-林家住宅外観、林家住宅表座敷・・・町家の変形、職住一致が崩れサラリーマン化
 5)大塀造り形式-仲屋住宅1階現況平面図・・・表屋造りの変形、二列

3、町家の空間構成
 1)ケの空間ー長江家住宅間取り絵図(明治末期)・・・日常的な使い方
 2)ハレの空間-『在京日記』宝暦7年(1757)7月25日条(聖護院宮の御峰入の行列に関する箇所)
 3)ハレの空間-祇園祭礼図屏風(部分)・・・桟敷として使う
 4)ハレの空間-『在京日記』宝暦6年(1756)6月6日条(祇園祭の宵山に関する箇所)・・・店⇒会所飾り、奥座敷⇒座敷の屏風飾り
 5)まとめ

4、町家の地域性
 1)上方の町家-大坂建:大坂の町家(住吉)、江戸の町家(川越)
 2)大坂の町家-綴屋根:京都の町家(三上家)、大阪の町家(北垣家)
 3)大坂の町家-壁塗込:京都の町家(秦家)、大阪の町家(北垣家)・・・防火性に配慮した造り
 4)大坂の町家-屋根材:桟瓦葺(京都)、本瓦葺(大阪)、鬼瓦(大阪)・・・江戸時代
 5)その他

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6月ターム講座

大阪の三大住宅「長屋・文化アパート・ミニ戸建」下水の熱を使う生活と移動を考える

「6月ターム講座」受講案内(2011年5月2日(月))
 大阪市立大学文化交流センター6月ターム講座「都市大阪のこれから」の受講案内のメールが届きました。
 大阪市立大学の各研究科・学部教員がテーマを決めて講義します。全3回の講義を受講します。18時30分から20時まで下記の日程で開講されます。
  8日(木) 大阪の三大住宅「長屋・文化アパート・ミニ戸建」
 15日(木) 下水の熱を使う
 29日(木) 生活と移動を考える

 

生活と移動を考える(2011年6月29日(水))
 大阪市立大学文化交流センター6月ターム講座「都市大阪のこれから」の第3回「生活と移動を考える」を受講しました。講師は大阪市立大学大学院都市系専攻教授の日野泰雄さんです。内容は以下の通りです。

 生活に欠かせない移動。何をどう使えば良いのか、協働の取り組みについて講義があった。
1、大阪の交通を振り返る
 1)都市の開発を考える:御堂筋建設(本町通りから御堂筋へ)-1926年着工、1937年完成
 2)都市の開発を考える:地下鉄建設-1930年地下鉄着工、1938年梅田・天王寺間開通
 3)都市の開発を考える:公共交通整備(公共交通の都市 大阪)
 4)人口集中の問題:混雑と渋滞(自動車の選択と交通問題へ)

2、交通状況の変化と問題
 1)人の動きを考える
  ・大阪市のシェアが増加(全トリップの約26%(業務では36%))
  ・鉄道:横ばい、自転車・原付:増加 徒歩、バス:減少 自動車:周辺で増加、都心で微減
  ・高齢者(10年間で30%以上の増加)と女性(出勤で40%弱増加)のトリップが増加
  ・自由目的、短距離での自転車利用の増加
 2)移動手段の変化を考える
   自動車と自転車(原付含む)の増加 鉄道・バス・徒歩の減少
                         ↓
               公共空間(道路)の私的利用の増大
                         ↓
                    交通問題の深刻化
 3)モータリゼーションを考える
  ・自動車の普及は生活利便性を向上
    →今や、ほぼ全世帯に普及(8,700万台)
            ↓
  ・交通事故の増加と対策
    →昭和45年、16,765人の死者(交通戦争)
  ・渋滞による経済損失と環境悪化
  ・運転環境によるモラルの低下 etc.

 4)交通安全を考える
   ・車は少数派:人対車 - 歩車分離による安全確保(歩道橋等)
        ↓
   ・車が多数派:車中心?- 事故原因に基づく集中対策(幹線対策)
        ↓
   ・車が多数派:人中心へ - 物的対策から人的対応へ(協働型対策)
  ①交通事故死者とは
   ・日本:事故発生後24時間以内  ・OECD:事故発生後30日以内
  ②死者は減ったけれども
   ・重度後遺症障碍者を含むと9,500人?
  ③交通事故死者の減少は下げ止まり?
   ・平成20年はわずか1%の減少
  ④高齢者の死者数は横ばい? 
   ・高齢者の割合が増加し、全体の50%  ・歩行者が6割  ・今後運転免許保有者の増加→?

 5)環境問題を考える
  ①自動車による環境問題
   ・開発:自然破壊  ・存在:地区分断  ・運用:交通公害(大気・騒音・振動)・温暖化
  ②交通環境問題の特長
   ・不特定多数の自動車による移動発生源  ・原因者の特定が困難(→訴訟では管理者)
   ・原因者負担原則に対する理解不足
  ③自動車による大気汚染
   ・渋滞と高速が問題  ・加速・減速を繰り返すと濃度もガス量も増えるため排出量が増える
  ④自動車による騒音
    騒音:ない方が良い音、好ましくない音
        ↓
   ・大きさだけではない
   ・場所や時間帯によって基準が異なる(暗騒音=生活騒音が異なる)
   ・聞こえない音(低周波音)もある
   ・自動車騒音は変動騒音
  ⑤自動車による環境問題の対策
   ・人と車と道 
    人:車の使い方
    車:規制と低(無)公害自動車の開発
    道:形(地下構造等)と舗装(排水性舗装)
                ↓
   ・自動車による問題は環境だけではない
    手段の選び方・自動車の使い方が問題

 6)自転車の利用を考える
   ・環境・健康に良い
    → 自転車利用促進施策(国土交通省・警察省)
              ↓
   ・バスや徒歩からの転換 → 健康?
   ・年間100万台埋め立て → 健康?
   ・専用道でなく自歩道 → バリアフリーは?
   ・速度の異なる自転車 → 安全?  etc.
 7)バスの利用を考える
   ・公共交通利用促進計画の立案
    ← 移動困難者の救済(福祉的観点)   税による運行支援
      買い物難民? ↑                   ↓
   ・核家族化による高齢世帯の増加      税負担の継続的増加
   ・車や自転車利用によるバス離れ
   ・まちなか居住による住宅地区の空洞化

3、交通の新たな展開
 1)ユニバーサル社会の実現
   ・ノーマライゼーション
              ↓
     バリアフリー → ユニバーサルデザイン
 2)交通需要の管理(TDM:Traffic Demand Management)
   ・シンガポール:入域許可制度(Area License Scheme)
   ・ロンドン:混雑税(Congestion Charge)
 3)交通静穏化(Traffic Calming Measures)
   ・狭窄(Narrowing):自動車の流入制限
   ・ハンプ(hmp):速度抑制
 4)交通問題の改善と高齢化社会の移動支援
   ・交通管理による自動車利用抑制の受け皿   ・公平なアクセシビリティ(モビリティ)の提供
                          バス優先システム
                          小型巡回バス
                          ディマンドバス
                          福祉有償輸送(STS) etc.
 5)バス優先システム(Public Transport Priority System)

4、協働で実現する大きな力
 1)市民と行政は一体
   --------------------------------------------------
       コミュニティの中で相互互助
               ↓
    コミュニティ拡大による専業化と費用負担
                    ↓   ↓
                   公務員 税金
   --------------------------------------------------
         ↓             ↓
       市民活動       行政の組織化
         ↓             ↓
       Civic Trust  ←   行政=市民
 2)これから変わる市民と行政
  ・公開から参加、そして協働へ
    公開(publicity)とは、市民がまちづくりを知ること
    参加(participation)とは、行政の活動に加わること
    協働(public involvement)とは、権利と義務を共有し、共にはたらくこと
  ・学習による合意と継続
    権利と責任に対する共通の理解と合意が不可欠
    継続を可能にする協働の考え方
 3)協働の取り組みで目標と期待される効果
  ①具体的対策を実現する   身近なことから始める
  ②公共事業を学ぶ       公共とともに学習する
  ③協働の方法を知る      相互理解を大切にする
  ④学校や家庭で教育する   種々な立場で考える
  ⑤地区の共同活動を育む   取り組みを発展させる
 4)先進的事例から学ぶ
  ①{交通安全}地区住民による交通安全対策(加古川・西条山手)
  ②{交通安全}PTAと一緒に考える会(尼崎・田能)
  ③{交通安全}協議会とワーキング方式(西宮)
  ④{まちづくり}まちづくり支援(大阪市浪速区)
  ⑤{道路と公園}新しい道路整備(天王寺大和川線)
 5)地区住民による活動事例(省略)
 6)PTAの取り組み事例(省略)
 7)協議会とワークショップ(省略)
 8)まちづくり支援の事例(省略)
 9)新しい道路整備の事例(省略)

5、上手な移動のヒント
 例えば
  ①物事の理屈を考える         エスカレータはどっちに立つ?
  ②高齢者免許返納を考える      施設整備や優遇制度は?
  ③高齢者の公共交通割引を考える  交流や活性化のため同伴者割引が良い?
  ④費用負担のあり方を考える     道具利用には費用が必要/誰が負担する?
 学んだこと: ・学習と理解  ・車の使い方  ・手段の選び方  ・協働の方法
  ①公共交通と自転車文化を守る
  ②都市の空間をみんなで使う
  ③誰もが得する移動を実現する
  ④賑わいと優しさを実現する
  ⑤新しい方法に挑戦する
 学習が生活と移動を豊かにする

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下水の熱を使う(2011年6月15日(水))
 大阪市立大学文化交流センター6月ターム講座「都市大阪のこれから」の第2回「下水の熱を使う」を受講しました。講師は大阪市立大学大学院 都市系専攻教授の中尾正喜さんです。内容は以下の通りです。

 下水は水道水より温度が高い。都市内に張り巡らされた下水道管路で熱を汲み上げ、都市生活に必要なお湯を得るための方策について講義があった。
1、都市におけるエネルギー・熱代謝
 エネルギー(電気・ガス・石油)を供給し、都市域で都市活動を行うことで、人工排熱が環境(気圏・水圏・地圏)へ熱として排出される。化石燃料を減らし(⇒温暖化対策)、排出量を減らす。特に、大気(気圏)への排出を減らす(⇒ヒートアイランド対策)。

2、日本のエネルギー消費
 1)部門別最終エネルギー消費構成比(2007年度)
   産業48%  家庭(徐々に増加)15%  業務(オフィス・学校)12%  運輸24%  非エネ1%
 2)家庭部門所帯あたり 用途別 エネルギー源別 エネルギー消費量の特長
  ・用途別エネルギー消費量
   暖房用25%  給湯用30%  冷房用3%  厨房用8%  動力他34%
  ・給湯、暖房のエネルギー源別 エネルギー消費量
   灯油41%  都市ガス28%  LPG17%  石炭0%  電力12%  太陽熱2%
 3)業務部門あたり用途別 エネルギー源別 エネルギー消費量の特長
  ・用途別エネルギー消費量
   暖房用18%  給湯用16%  冷房用12%  厨房用9%  動力他45%
  ・給湯、暖房のエネルギー源別 エネルギー消費量
   石油59%  ガス29%  石炭4%  電力5%  熱3%

2、熱回収の方式
 1)熱交換機による熱回収
 2)ヒートポンプによる熱回収
3、ヒートポンプの活用
 1)ヒートポンプの仕組み
 2)家庭用ヒートポンプ給湯システム(エコキュート)

4、下水熱利用の現状(国内)
 1)下水処理場における処理水の熱利用
  ①大型プラント:幕張新都心、品川ソニーシティ
   ・処理場と需要地が近い
  ②小型プラント(処理水熱利用のほとんど):
   ・東京都下水道局(11カ所)、名古屋市下水道局(6カ所)
   ・配管の費用がかかるので施設内のみで利用
 2)未処理下水
   熱の需要地に比較的近いポンプ場での大型プラントが2カ所のみ
  ①後楽1丁目地区
   ・熱供給管(約400m)の建設費は熱源設備に匹敵
  ②盛岡西口地区
   ・需要のある所とポンプ場が近い

5、排水からの熱回収
 1)建物における排水熱回収
  ①熱交換器による熱回収(住宅)
  ②浴室熱回収システム
  ③熱回収システム(住宅)
  ④建物排水枡に熱交換機能を付加(集合住宅)
 2)管路における熱回収
  ①熱交換用管を組み込んだ下水管(スイス)
 3)ポンプ場で
  ①地域冷暖房システムでの下水利用(後楽地区)
 4)処理場で
  ①ソニーシティの下水処理水の熱利用
  ②熱源水ネットワークと温水ネットワーク

6、今後の展望
 1)大阪地域での下水幹線における下水熱利用
  ・首都圏と比べて夏期の水温が高く、冬季はやや高い傾向
  ・北野抽水所の場合
   首都圏と比べ季節による違いが少ない
   深夜に落ち込み、明け方上昇して、昼ごろピーク
 2)熱利用が普及すると下水熱が足りなくなる
 3)排熱処理を併用する
 4)より安価な熱交換器・きょう雑物分離機器 

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大阪の三大住宅「長屋・文化アパート・ミニ戸建」(2011年6月8日(水))
 大阪市立大学文化交流センター6月ターム講座「都市大阪のこれから」の第1回「大阪の三大住宅『長屋・文化アパート・ミニ戸建』」を受講しました。講師は大阪市立大学大学院工学研究科教授の横山俊祐さんです。内容は以下の通りです。

 大阪独自の住文化を形成してきた「長屋・文化アパート・ミニ戸建」は狭小、劣悪な住環境と批判されているが、新たな都市再生住宅として再評価した。

1、大阪長屋:都市型住宅の最高傑作
1)基盤整備を起点とする長屋の建設(130ha:大正13年~昭和6年) 大阪市阪南土地区割整理組合
 ①予防の都市計画「昭和初期のニュータウン計画」
  ・スプロール化の計画的受け皿
  ・用途地域による住宅地
 ②耕地整理、道路、下水暗渠、宅地造成
 ③基盤整備と上物整備の整合性
  ・街区規模を建築土地に合わせることで、調和のとれた市街形成(街区:57間×40間/2)
  ・脱「裏長屋」
 ④建築取締規則との連動(防災・衛生・家並み)
2)住棟計画:高密性・二重の対面性・沿道景観
3)多様な住戸形式:敷地形状・サイズへの対応
  直接型・通り庭型  直接型・台所型  堀型・台所型  前庭型・台所型
4)格式性:長屋のモデルはお屋敷
  ・「塀」-「前栽」-「式台玄関+舞良戸+長押」-「座敷+床の間+違い棚+吊り棚+書院」-「二階座敷」
  ・動線計画
5)サスナビリティ:持続可能性
  ・接地性と分割可能性(連棟型)
  ・水廻りとニワ(前栽・後庭)のセット→改造要求の高い箇所における余地性
  ・構造的な自由度(ワンスパンの無柱空間)の高さ
  ・玄関廻り、トイレ廻りのゆとり
  ・通り抜けの生活スタイルの継続性

2、文化アパート(文化住宅):限界高密住宅ー長屋より詰め込んでいる、1階と2階で別の人が住んでいる
1)高密性
  ・敷地形状と住棟の方向性
  ・住宅の間口と奥行き-間口2間が多い
2)多彩な住戸計画
  ・押入の位置
  ・断面計画:通路を飲み込む1階住宅
  ・端部住戸:敷地形状のトレース
3)相隣関係の配慮

3、ミニ戸建:庭付き・車庫付・戸建・都市住宅
1)ミニ戸建の魅力と住戸の特徴
2)ミニ戸建の特性 

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センター企画講座5月

東アジア国際秩序の近未来

「センター企画講座」受講案内(2011年5月2日(月))
 大阪市立大学文化交流センター企画講座5月「中国・東アジアのダイナミズム」の受講案内のメールが届きました。
 文化交流センターが企画する講座です。月ごとにひとつのテーマを設定し、そのテーマに対してさまざまな角度から掘り下げて解説します。全6回の内2回の講義を受講します。18時30分から20時まで下記の日程で開講されます。
 17日(火) 東アジア国際秩序の近未来-東南アジアからの視点-
 27日(金) 激流の中国に生きる人々-文学者の視点から-

 

東アジア国際秩序の近未来(2011年5月17日(火))
 大阪市立大学文化交流センター企画講座5月「中国・東アジアのダイナミズム」を受講しました。
 1回目は「東アジア国際秩序の近未来-東南アジアからの視点-(中国・東アジアのダイナミズム)」と題して、大阪市立大学大学院法学研究科教授の永井 史男さんが講義を行いました。講義の内容は以下の通りです。
0、ASEAN(東南アジア諸国連合)とは
 *ssociation of outhast sian ations
  ・1967年8月、5カ国(フィリピン、タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア)で結成
   加盟国は現在10カ国(+ブルネイ、カンボジア、ラオス、ミヤンマー、ベトナム)
 *ASEANの性格
  ・反共、資本主義の5カ国でスタート
  ・軍事同盟ではない。
  ・5カ国間の友好関係を築くため
  ・東南アジア友好協力条約(1976年) ⇐ 初めて条約(基本的なこと)ができた
1、東南アジアと中国の関係(冷戦期)
 *ASEAN成立当時:対立と警戒(中国は共産党を通じて「革命」を輸出)
 *パターン1:フィリッピン、タイ、マレーシア
  ・1970年代半ばに、台湾政府承認から中国と国交樹立へ
  ・アメリカのベトナムから撤退とベトナムの統一 ⇒ 社会主義国と対立するのでなく、平和共存を目指す
 *パターン2:シンガポール、インドネシア
  ・1990年に、中国との国交樹立(インドネシアは1967年に国交断絶)
  ・1990年:冷戦終結、中国の改革開放、新たな市場の開拓
2、ベトナムと中国(冷戦期)
 1)第1次インドシナ紛争期(1946~54年)
  ・中国は強大なベトナムを好まず
 2)ベトナム戦争期(1960頃~75年)
  ・米中接近(1971年)に対するベトナムの敵意
 3)ベトナム統一(1976年)以降
  ・ソ連への接近(1978年6月コメコンに加入、11月ソ越友好協力条約調印)
  ・カンボジア侵攻(1978年12月) ⇒ カンボジア内戦
  ・中越紛争(1979年2月)
  ・中越海軍船交戦(1988年5月) ⇐ ソ連傍観的態度
3、カンボジア紛争①(1979~91年)
 1)カンボジア内戦
  ・ヘンサムリン政権 ⇐ ベトナム ⇐ ソ連支援
  ・3派連合(ポル・ポト派、シハヌーク派、ソン・サン派) ⇐ 中国、米国、ASEANなど支援
 2)地域レベル
  ・ベトナム ⇐ ソ連(軍事同盟)
 3)国際レベル
  ・米ソ対立
  ・中ソ対立
4、カンボジア紛争②(1979~91年)
 1)ASEAN内部は必ずしも一枚岩だったわけではない
  ・タイ、シンガポール:反ベトナム
  ・インドネシア:親ベトナム、中国に対する警戒
 2)中国から見れば、ソ連とベトナムによって南北から挟撃 ⇒ 3派連合に軍事援助することで事態を打開(タイも中国の武器輸出を黙認)
5、冷戦終結前後の国際環境の変化
 1)フィリピンから米軍撤退(1991年) ⇒ ASEAN内に米軍基地がなくなった
 2)カンボジア紛争終結(1991年)
 3)南沙諸島問題:中国、台湾、ベトナム、マレーシア、フィリピン、ブルネイの合計6カ国が
  石油・天然ガスの豊富な埋蔵が見込まれる南シナ海の南沙諸島の領海権を互いに主張対立している問題 ⇒ 中国領海法(1992年)
 4)ベトナムのASEAN接近(1991年)、加盟(1995年)
6、ASEANによる多国間安全保障枠組み構築
 *1994年 ASEAN地域フォーラム(ARF)設置(方針自体は1992年に決定)、年1回、外務大臣/国防大臣(話し合いの場)
 *目的:東アジア・東南アジアにおける安全保障の信頼醸成構築(可能ならば、予防外交、紛争の平和的処理も)
 *メンバー:ASEAN諸国、日、米、豪、NZ、加、韓、EU、中、露、インド、北朝鮮など
 *敵をも取り込んで話し合いの席に着かせる
 *意義:アジア太平洋地域で唯一の公式枠組み
7、中国とASEANの関係(アジア経済危機まで)

 *1989年:天安門事件 ⇒ 国際的に孤立
 *1990年:インドネシアと国交回復、シンガポールと国交樹立
 *1991年7月:第24回ASEAN外相会議に出席(cf.この頃、「東アジア経済グループ」(EAEG)をマレーシアが提唱)
 *1991年11月:カンボジア紛争解決を受け、中国はベトナムとの国交正常化(すべての東南アジア諸国と正常な関係構築)。APEC(アジア太平洋経済協力会議)参加
 *1994年7月:第1回ARF参加
 *1996年:第29回ASEAN拡大外相会議に参加(ASEANの全面対話国となる)
 *1997年12月:第1回ASEAN+3会議参加、第1回ASEAN中国首脳会議
8、アジア経済危機後のASEAN域内経済協力①
  アジア経済危機がきっかけで1997年以降、東アジア経済を重要視
 *ASEAN域内経済協力をめぐる変化の特徴
  1)中国のさらなる急成長と影響力の拡大
  2)WTOによる貿易自由化の停滞とFTA(自由貿易協定)の興隆
  3)東アジアの相互依存性拡大と東アジア内の地域協定形成
 *ASAN自身の課題
  1)加盟国拡大(CLMV諸国)による経済格差拡大
  2)域内経済協力に関するスタンスが異なってくる
  3)広い協力枠組みの構築(例:ASEAN+3) 3:日本、中国、韓国
9、アジア経済危機後のASEAN域内経済協力②
 *ASEAN共同市場形成に向かっての模索
  ・2003年1月:AFTA(ASEAN自由貿易地域)6カ国による5%以下への関税引き下げほぼ達成
  ・2003年10月:「ASEAN協和宣言Ⅱ」でASEAN経済共同体実現を宣言」
   2020年までに財・サービス・資本・熟練労働力の自由移動に特徴づけられる単一市場・生産基地構築の構想
   ⇒ 2007年「ASEAN憲章」制定へ
 *特徴:域外経済協力と域内経済協力の両輪
10、中国とASEANの関係①(アジア経済危機後)
 *1997年12月:第1回ASEAN+3会議
 *1998年:第2回ASEAN+3会議-中国:金融問題を話し合う会議提案。、韓国、EACG(東アジア・ビィジョングループ)設置提案。日本、新宮澤構想
 *200年5月:チェンマイ・イニシアチブ-通貨スワップ協定(1977年)を10カ国に拡大、日本、中国、韓国も含める
11、中国とASEANの関係②(アジア経済危機後)
 *EAVG報告書 ⇒ EASG(東アジア・スタディグループ)報告書:東アジア首脳会議(EAS)開催提言
 *2005年12月:
   ・第11回ASEAN首脳会議 ⇒ ASEAN+3が引き続き東アジア共同体形成の「主要手段」
   ・第1回東アジア首脳会議(EAS):16カ国(ASEAN+3+インド、豪、NZ) ⇒ ASEANが推進力であることを確認
12、東アジア地域経済協力とASEAN
 *特徴:東アジア地域経済協力において、ASEANがきわめて重要な位置を占めている
  ・ASEANが交渉の場を提供している(ASEAN拡大外相会議、ASEAN+3、ARF、日中韓会議)
  ・ASEANが東アジアにおけるFTA構築の最も重要な軸
  ・ASEANの域内経済協力の延長に一部の協力が東アジアに拡大(例:チェンマイ・イニシアティブ)
13、ACFTA(ASEAN中国自由貿易協定)①
 1)「枠組み協定」(2002年11月調印、2003年7月発効)
 2)「紛争処理メカニズム協定」「物品貿易協定」(2004年11月調印、2005年1月発効)
 3)「サービス貿易協定」(2007年1月調印、7月発効)
 4)「投資協定」(2009年8月調印、2010年1月発効)
14、ACFTA(ASEAN中国自由貿易協定)②
 1)「枠組み協定」締結までの経緯
  ・200年11月:朱鎔基首相、ASEANにFTA提案、作業部会設置
  ・2001年11月:交渉開始で合意
  ・2002年11月:調印、翌年7月発効
 2)内容
  ・農産物8分野で自由化前倒し実施(アーリー・ハーベスト)
  ・2010年までにASEAN6と2015年までにCLMV(遅れた地域)と関税撤廃で合意(AFTAの関税引き下げ方式採用)
  ・経済協力(特にCLMV諸国)
15、ACFTA(ASEAN中国自由貿易協定)③
 *特徴
  ・完成時期:AFTAと同じ
  ・関税引き下げ方式を分野ごとに徐々に進める方式、通常品目と敏感品目に分けるのはAFTAと同じ
  ・原産地規制(累積原産地比率が40%以上)もAFTAルールと同様
 *なぜACFTAは締結されたのか?:①輸出市場の確保、②投資促進、③東アジア地域協力のイニシアティブ確保、④(特にASEANにとって)経済協力支援確保、⑤(特に中国にとって)資源確保
16、メコン地域開発①
 *メコン地域開発:
  ・中国に源流をもつメコン川流域地域の流域開発、とりわけ国境を越えた複数国にまたがるインフラ整備(道路、橋梁・鉄道建設、電源開発など)を指す概念
 *メコン地域開発の中心的枠組み:大メコン圏(Greater Mekong Sub-region;GMS)計画
  ・GMS:1991年に設置 
  ・参加国:カンボジア、ラオス、ミヤンマー、タイ、ベトナム、中国(但し、雲南省のみ)。事務局はアジア開発銀行
17、メコン地域開発②
 *ASEANのメコン地域開発への取り組み
  1)AMBDC(ASEANコメコン流域開発協力):1995年、マレーシア提案。中国雲南省からベトナム、カンボジア、タイ領を通ってシンガポールに至る南北縦断鉄道建設が中心
  2)LAI(ASEAN統合イニシアティブ):2000ン年、シンガポール提案。ASEAN域内先進国による域内後進国に対する人材開発協力を核とするソフト支援が中心
 *留意点
  1)フィリピンとインドネシアは独自に提案していない
  2)タイ:2002年にECS/ACMECS(経済協力戦略・イラワジ、チャオプラヤー、メコン経済協力)構想立ち上げ
18、まとめ① 中国と東南アジア
 *一筋縄ではいかない関係:協力と緊張
 *安全保障面:南シナ海では今後も緊張が続く。ARFによる解決は難しい。現実には米国頼み
 *地域経済協力面:
  ・中国の中進国化 ⇒ ASEANの中進国と競合
  ・中国国内の非関税障壁
  ・大メコン圏開発 ⇒ 中国からカネ、モノ、ヒトが来ている
19、まとめ② 日本への示唆
 *中国が経済成長を続けて行くためには、良好な国際環境の保持は重要
 *東南アジアと日本の協力関係は引き続き維持するのが望ましい。東南アジアにとっても利益あり
 *但し、日本の動きが遅いという認識がASEANサイドには存在

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2010年度

センター企画講座5月「なにわ文化のダイナミズム」センター8月夏期講座《学問の先達は語る》9月ターム講座《現代社会の変容と『安全社会』の新しいデザイン-法学・政治学的検討》専門家講座2月「マスコミコース《ネット時代の新聞の使命を考える》」専門家講座3月「文化・歴史コース《大阪と大阪をたずねるⅩⅠ》」

専門家講座3月

上方落語についての考察

「専門家講座3月」受講案内(2011年2月18日(金))
 大阪市立大学文化交流センター専門家講座3月「文化・歴史コース《大阪と大阪をたずねるⅩⅠ》」の受講案内のメールが届きました。
 社会の第一線で活躍中の、大阪市立大学卒業生を中心とした専門家が講師を務め、一般の受講者向けに解説します。18時30分から20時まで下記の日程で開講されます。
  7日(月) 大阪の建物を観ると大阪がもっと好きになる
 14日(月) 上方落語についての考察 

 

上方落語についての考察(2011年3月14日(月))
 大阪市立大学文化交流センター専門家講座3月「文化・歴史コース《大阪と大阪をたずねるⅪ》」を受講しました。
 2回目(最終回)は「上方落語についての考察」と題して、NPO法人宝豊連理事長・上方社会人落語連盟理事(昭和56年法学部卒)庄野達也(芸名:桂一豚)さんが講義を行いました。講義の内容は以下の通りです。
1、自己紹介(省略)
2、落語との出会い
 受験勉強中に深夜ラジオ番組で笑福亭仁鶴を知り、その落語を録音(50本ほど)したのが始まり。大学入学後落語研究会に入部、活躍した。卒業後、一旦落語から離れるも、先輩からの誘いで演芸クラブの旗揚げ公演を手伝うようになり、社会人落語家の人たちと交流するようになった。
3、上方社会人落語連盟について
 関西の素人落語集団の輪で、東京の社会人落語連盟への対抗意識から平成12年12月12日に結成された。大衆芸能はプロだけでは駄目で素人も必要。
4、NPO法人宝登豊連について
 阪神大震災後地元で落語会を開催した。笑うことで活力が向上し、社会貢献になる。学校、寺、老人ホーム、病院等でニーズがある。歌うことで老人たちの目が生き生きしてくる。落語・歌・文化を通して喜んで貰いたい。
5、上方落語の噺家について
 1950年代瀕死の状態から、現在では200人以上の落語家がいる。
 松鶴・米朝・春団治・文枝の四天王、枝雀・吉朝の死、三枝・染丸・鶴瓶、小春団治・文我などの噺家の話。次の松鶴・米朝・春団治・文枝の襲名候補の話。
 なお、庄野さんの好きな噺家は雀三郎で、古典も新作も歌もこなすエンターテイメント。
6、落語の歴史とこれからの落語
 1950年代-どん底の時期
 1960年代-関西の各大学にオチケン誕生→アマチュア落語家が草の根文化の担い手
 1970年代ー落語ブーム

 ゆとり社会が文化・芸術を育てる。現在はブームと感じていない、安定している。
 落語人気が上昇する条件(「上方芸能と文化」木津川計さん著より)
  ①話芸に秀でた落語家の輩出 ②自由時間を多く持つゆとり人間の増加 ③経済拡大時期ではなく安定社会の現実
 天満・天神繁昌亭の創立(ほとんど寄付で)、NHK朝の連ドラ「ちりとてちん」、世界のナベアツの落語家転身など。

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専門家講座2月

競争から協調へ-新聞業界の生き残り策新聞は「紙」で読むものか?

「専門家講座2月」受講案内(2011年1月13日(木))
 大阪市立大学文化交流センター専門家講座2月「マスコミコース《ネット時代の新聞の使命を考える》」の受講案内のメールが届きました。
 社会の第一線で活躍中の、大阪市立大学卒業生を中心とした専門家が講師を務め、一般の受講者向けに解説します。18時30分から20時まで下記の日程で開講されます。
 17日(木) 競争から協調へ-新聞業界の生き残り策
 24日(木) 新聞は「紙」で読むものか? 

 

新聞は「紙」で読むものか?(2011年2月24日(木))
 専門家講座2月「マスコミコース《ネット時代の新聞の使命を考える》」を受講しました。
 第2回目(最終回)は「新聞は『紙』で読むものか?」と題して、産経新聞印刷 常務取締役大阪代表(昭和49年、経済学部卒)田谷 信友さんが講義を行いました。田谷さん自身は結論を持っていないとのことでした。「イエスでありノーであり、紙は残っても新聞社の地位は変動するだろう」とおっしゃっていました。講義の内容は以下の通りです。
1、アナログからディジタルへ
 ・原稿用紙にボールペンで手書き → パソコンにキーボード入力
 ・鉛活字 → CTP(Conputer to Plate) ・凸版印刷 → オフセット印刷

2、夕刊紙の消滅
  ・夕刊紙が消滅した → 大阪新聞 大阪日日新聞 関西新聞 新大阪 新関西 現在大阪の夕刊3社のみ
  ・なぜ読まれなくなったのか? → ケータイに喰われた
  ・朝刊でも同じようなことが起こるだろう
3、米国新聞社の窮状
  ・広告収入は2009年までの3年間で43%減(2009年:前年比26%減)
  ・部数(4400万部)も急減(1940年以来の低水準)
  ・経営破たんが続出(リーマンショック後)
  ・2009年、全米で約15000人がリストラ
 a)廃刊寸前のSFの2紙
  ・フランシスコ・クロニクル(北部カリフォルニア:かって55万部が現在25万部)
   部数減 赤字経営 購読料値上げ 社員リストラ 紙面サイズ・ページ縮小
  ・オークランド・トリビューン
   特色が無くなって来て、記者も減らした
   地元メディア22社の「Bay Area News Group」(カリフォルニア州)加盟:グループ全社で記事共有、整理記者5~6名
 b)NYタイムズもWポストも
  ・NYタイムズ     負債総額11億ドル 新築本社ビルを売却 社員1300人 → 1100人
  ・ワシントン・ポスト 社員900人 → 600人 国内支局を全閉鎖 海外に1人 ワシントンの一地方紙になり下がった
4、「負け組」の理由
  ・インターネット登場で新聞広告のシェア激減  米の新聞は広告収入に依存(7:3)
  ・ネット戦略の立ち後れ
  ・「クレイグリスト」(年11億ドル)の出現  新聞に車や家の広告を掲載(収益源) → パソコン上で検索し易い
  ・負のスパイラル  ネット戦略で負けた → 経費減・記者減 → 紙面の質低下 → 負のスパイラル
5、「3年後」の日本の新聞社
  ・米国で起きたことは5年後に日本でも起きる
  ・部数減  10年で440万部減 一所帯当り部数 1.13部(2000年) → 0.92部(2010年)
  ・広告費減  2009年の広告費でインターネット(対前年微増)が新聞を上回った
  ・従業員減  新聞社も販売店も
  ・朝日、日経は赤字 産経、毎日は若干黒字(2009年)
6、「護送船団」で守られて
  ・宅配 + 再販制度  宅配率80% 定価が自由に付けられない・値下げ競争がない
  ・大手新聞社の体制はほとんど変わっていない
  ・1県1紙 10万部~60万部  全国紙 5社  スポーツ紙
  ・米国 1000社  日本 100社(ほとんど残っている)
  ・地方紙が夕刊やめる  全国紙の地方も夕刊やめる
7、ネット事業に活路
  ・うまくいってるのは2社 ウオール・ストリート・ジャーナル(米国)  ファイナンシャル・タイムズ(英国)
   ここを読まないと分からない独特のニュースがある
  ・ウオール・ストリート・ジャーナルの料金体系(年間) 有料会員100万部
   新聞購読 119ドル Web版 103ドル 新聞購読+Web版 155ドル
  ・日経 有料会員(新聞購読+1000円でWeb版が見放題) 半年で10万人 まだ日経を支えられない
       無料である程度読める会員が60万人
  ・朝日 社長が年頭挨拶で春からやりたいと言っていたが具体に出てない
  ・読売 あくまで紙でいく  部数至上主義 → 部数多ければ広告費多い
8、0.99ドルの潮流/課金の壁
  ・The Daily iPad版 週0.99ドル
  ・インターネット上で無料のニュース 産経iPhon版 200万ダウンロード
  ・有料にするとアクセス数が減る
  ・コンテンツを金にする  ウオール・ストリート・ジャーナル 日経
  ・アクセス数を多くして広告料を取ろう
  ・なんとか課金できるのならやりたい
9、新聞は敗北したのか
  ・「紙」というプラットフォーム → 新プラットフォームの構築、コンテンツ提供者になる
  ・新聞は徐々に減っている、編集の機能のみになるか?
  ・小学校の新指導要領に「新聞の活用」が盛り込まれた
10、省工程・省コストの延命化
  ・紙サイズ変更  4×1輪転機  デジタル印刷
  ・輪転機の寿命は20年  オフセット化してから20年が経った  20年後にはリニューアルない?
   産経はリニューアル済み  朝日はこれから 
11結論
  ・自身パソコンでBlogを発信していしている、レコードも好き
  ・結論:紙の新聞を読み続けるだろう  

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競争から協調へ-新聞業界の生き残り策(2011年2月17日(木))

 専門家講座2月「マスコミコース《ネット時代の新聞の使命を考える》」を受講しました。
 第1回目は「競争から協調へ-新聞業界の生き残り策」と題して、元朝日新聞記者の青木耕治(昭和44年、経済学部卒)さんが講義を行いました。講義の内容は以下の通りです
1、新聞業界の現況
 a)
部数減が止まらない
  新聞業界全体の発行部数は、平成12年には5380万部ほどだった。それが平成21年10月には5035万部に減少、さらに22年10月は約4900万部にまで減った。この1年間で100万部減少したことになる。6年連続の減少。(日本新聞協会調べ)
 10年で公式の数字で500万部減(公式数字)となったが、実際はもっと減っただろう。
 
平成22年12月現在の購読部数は、①読売新聞1001万部、②朝日新聞795万部、③毎日新聞359万部、④日経新聞305万部、⑤産経新聞175万部、他に中日新聞グループ338万部。
 毎日新聞は西山事件が原因で部数が激減した。
 ただし、この数字ですら、広告主は本当にそんなに読者が読んでいるのか疑問に思っている。広告単価を上げるためかと。
 
b)広告出稿量も減少
   
平成21年度の業界の広告費総額は6739億円で前年比18.6%減。この10年で半額に落ち込み、初めてインターネットの広告費を下回った。
  朝日新聞社の広告収入も21年度、前期比15%の減収となり、総営業収入は3279億円で、前期比163億円の減となった。広告は5期連続の前期割れになったが、第4四半期には前期比95%まで回復基調になった。
31億2500万円の純損失となった。1919年以来初めてのこと。22年度はだいぶ回復している。
 c)
多メディア化で、速報性に劣る
  インターネットはリアルタイム。
  
新聞は夕刊締切が午後1時30分、朝刊締切が午前1時50分。これは京阪神の真ん中に住んでいる人に配られる新聞の締切。周辺部や田舎はもっと締切が早い、午後10時半以降に発生した事件などは2日遅れになる。
2、生残り策を模索
 
a)印刷の提携
   
各地で新聞社が地元の新聞社に印刷を委託している。なんと、読売と朝日も相互に印刷を委託している。
  b)
販売の提携
  
地方では地方新聞に中央紙が販売を委託する例が目立つ。
  2007年に販売の提携を結んだ朝日、日経、読売の3社は、とくに都会では3社の販売店が話合って、販売を分担するケースが相次いでいる。「このマンションは朝日さんで」などというように。

  c)
記事の相互交換
   
合理化と地方の切り捨て
  
地方取材網だけでなく、本社内でも人減らしが。
   
朝日は定年後不補充では追いつかず、4、50代に希望退職を募る。
  
毎日は共同通信に再加盟するとともに、傘下の地方紙とも個別に契約を結び記事の提供を受ける。
   
ついには朝日、読売の両社でも記事交換の動きが。
 
d)夕刊の廃止
  
産経新聞の東京本社版夕刊が2002年3月30日で廃止。大阪の夕刊は継続するものの、それと引き換えられる形で大阪新聞も同時期に産経夕刊に紙面統合する形で休刊となり、大阪府の夕刊地方紙は全滅となった。
  
全国紙では毎日も北海道で夕刊が2008年8月末で廃止。朝日も西部本社の大分、佐賀県の夕刊を2010年3月末で廃止した。
3、将来の展望
 
a)電子新聞
  
日経は昨年3月から新聞をパソコンと携帯電話で読める有料の「日本経済新聞 電子版」(通称Web刊)を発行した。
   
朝日は1月14日から、リコーと提携し新しいビジネス向け有料配信情報サービス「NewsPlaza」を始めた。
 
b)データベースコンテンツの販売
  
新聞各社は、長年蓄積した記事などのデータベースコンテンツの販売を始めている。
  
戦前・戦中・戦後の膨大な写真資料をデータベース化したフォットアーカイブも、各社で競い合って利用を呼び掛けている。
 
c)不動産業
  
日経、朝日、読売の新聞大手3社は、立地条件の良い本社土地を有効活用して、不動産事業に乗り出している。
   
すでに、日経は2009年4月に新社屋を完成させ、貸し会議室やホールの利用を呼び掛けている。
  
朝日は来年秋に大阪本社新社屋をオープン、読売東京本社は再来年秋に完成の見込み。

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センター9月ターム講座

学校行事の安全「安全」社会と刑法の役割

「9月ターム講座」受講案内(2010年8月13日金)
 大阪市立大学文化交流センター9月ターム講座《現代社会の変容と『安全社会』の新しいデザイン-法学・政治学的検討》の受講案内のメールが届きました。
 大阪市立大学の各研究科・学部教員がテーマを決めて講義します。全3回の講義を受講します。18時30分から20時まで下記の日程で開講されます。
  9日(木) 学校行事の安全-誰が注意を払うべきか
 16日(木) 「安全」社会と刑法の役割
 30日(木) 生活保障の比較政治学  

 

「安全」社会と刑法の役割(2010年9月16日(木))
 9月ターム講座《現代社会の変容『安全社会』の新しいデザイン-法学・政治学的検討》を受講しました。
 第2回目は「『安全』社会と刑法の役割」と題して、大学院法学研究科教授の恒光 徹さんが講義を行いました。講義の内容は以下の通りです。
1、最近のわが国の安全にかかわる犯罪の動向と人々の安心感
 統計上、犯罪は基本的に減っています。殺人、強姦、交通事故死者数、少年の強姦・強盗も減っています。しかし、人々の犯罪への不安感は強くなっています。認知犯罪減少の事実の啓蒙だけでは、不安感は減らないと考えます。それは、生命犯・身体犯・生命身体危険犯に対する不安感および処罰感情の構造に由来するからです。その構造を理解し、適切・冷静な対応をとることが必要です。
2、生命身体の罪に対する処罰感情の構造
 生命身体の罪に対する処罰感情は2つの力のベクトルとして存在します。
第1のベクトルは、社会の基本的道徳(人を殺したり、傷つけてはいけない等)との強い結びつきです。
第2のベクトルは、死に対する社会の態度の変化で、3つにまとめることができます。
 ①死への恐怖の増大:死亡が隠される、納棺が近親者でなく業者(納棺師)によりひそやかに行われる、死期の告知の減少
 ②死期の後退の成功:伝染病予防の成功や他の医学的進歩、栄養状態の改善、貧困の減少、暴力による死の減少、戦死の消滅
 ③死後の世界への信仰の減少:宗教への無関心の増大
 日本社会においては、人の生命は一層貴重になっています。生命侵害被害者(遺族)のダメージの増大、被害者への同情が高まっています。しかし、このことは、重罰化を正当化しない、被害者遺族の支援とならない、犯罪を減らすことにならない、犯罪が減っても不安感はなくなりません。
3、刑法の役割に関するナイーヴモデルからの脱却
 ナイーヴモデルとは次の3つ。
 ①いかなる人間行動も刑法・刑罰という国家的コントロールにより予防できる。
  批判:刑法は全能にはほど遠く、刑法の可能性について誤りを含んだ過程である。
 ②行動コントロールの方法による国家権力の増大はコントロールの改善をもたらす=刑罰を重くすれば犯罪は減る。
  批判:計算して犯罪を犯す人は少ない。.
 ③国家的コントロールは常に市民の支持を得ている=刑法は常に市民の支持を得ている。
  批判:法律がすべて正しいとは限らない。
 犯罪は増えていません。特に凶悪犯罪が減っています。犯罪がセロになればそれに越したことはありません。そのためには、貧困の減少や家庭の養育力の強化などの社会政策の充実が肝要です。
(注)刑法:社会の道徳を基準にしており、基本道徳を確認するのが刑法。

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学校行事の安全(2010年9月9日(木))
 9月ターム講座《現代社会の変容『安全社会』の新しいデザイン-法学・政治学的検討》を受講しました。
 第1回目は「学校行事の安全-誰が注意を払うべきか」と題して、法学部教授の高橋 眞さんが講義を行いました。
 学校行事関係で事故が起こり損害賠償責任について裁判が行われると、教師の過失が問題とされます。しかし、責任論で問題とされることと、事故防止のために必要とされることは、必ずしも一致しません(例:航空機事故の「事故調査委員会」の役割)。事故を防止するためにはどうするべきかについて、いくつかの判決を手掛かりに講義を行いました。
(損害賠償責任の根拠条文、判決例については省略)
 法的な責任追及の場合には、根拠規定の構造により、誰かの過失が要件となるため、その背景が捨象されます。しかし、予防を考えるときには、その背景を整えることこそが問題となります。すなわち、様々な人が結びついたシステムが適切に設計され、適切に機能することが不可欠で、そのシステムを構成する「人」がどのような状態にあるべきかが重要となります。
 危険と、それに対処する人の活動との関係はどのようでなければならないでしょうか。
1)(それが可能である限り)危険を発生させないこと
2)避けられない危険への対処
  ・個人で可能な場合:個人の力量を高めるとともに、適切な人事配置を行うマネジメントの責任。
  ・個人でできない場合:システム設計と、その実効性の確保。どのような状況で、誰がどのようなデータを根拠として判断するのか、そのシステムの確立が必要。
3)システムの形骸化の危険
 安全マニュアルの形骸化と責任者による運用の懈怠。システムを作っても、その部分部分が切り離されると、全体が見えなくなり、ひとつひとつの措置の意味、その「つながり」の意味がわからなくなる恐れがあります。
4)新たな危険の認識の問題
 既存のシステムも、その意味を常時認識していないと形骸化し、本来想定していた危険に対処することが困難になります。システムの意味が十分に理解されていれば、新たな危険が現場で発見され、それが全体の問題として受け止められて、マネジメントする者がそれに対処すること(システムの改善)が可能になります。
 各自が新たな危険に敏感であり、それがマネジメントに反映されるためには、①各自が現場の状況とその全体との関係をよく知ることができること(一定の熟練が必要)。②それを全体のものになるように伝達することが出来ること(現場の風通し)が必要です。そして、③各自が①のような力をつけることを保障するような体制を確保することが、マネジメントの責任者の任務です。

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センター8月夏期講座

正倉院文書研究と私

「8月夏期講座」受講案内(2010年7月10日土)
 大阪市立大学文化交流センター8月夏期講座《学問の先達は語る》の受講案内のメールが届きました。
 大阪市立大学で長年研究と指導にあたってきた名誉教授等が、一般の受講者向けに解説します。今年度の6つのテーマの内から下記の1テーマを選びました。
 3日(火) 正倉院文書研究と私

 

正倉院文書(もんじょ)研究と私(2010年8月3日火)
 8月夏期講座《学問の先達が語る》を受講しました。
 「正倉院文書研究と私」と題して、栄原永遠男さんが講義を行いました。栄原さんは長い期間、「正倉院文書」にかかわってきました。そのきっかけ、その後の進展などを振り返って、正倉院文書研究の問題点を講義しました。大学院演習で岸俊男先生から1年間「正倉院文書」について手取り足取り教えられたのが、きっかけで研究を始めたそうです。講義の内容は以下の通りです。
1、正倉院の文書
 正倉院の宝物と関係する文書は少ない。正倉院には3つの独立した倉がある。
 1)北倉文書 17巻
  北倉に、聖武天皇ゆかりの宝物が収められている。
  献物帳5巻(献上品の目録を記載)、曝涼(虫干し・点検)の記録、出入を克明に記録した出納文書等17巻。
 2) 中倉文書 写経所文書(写経所の事務帳簿)
  いつ収められたのかは不明。1693年(元禄年間)に収められていることが分かり、1833年(天保年間)から6年間に最初の整理が行われた。
 3)東南院文書 112冊
  明治8年に中倉に納められた、東大寺の根幹文書。
 4)その他
2、天保年間の写経所文書整理
  紙が貴重だったので写経所文書は戸籍や正税帳(国単位の決算報告書)、反古帳簿(写経所で使い古した文書)の裏を事務帳簿として使っていた。古い帳簿を切断して表裏逆転して切断面を順次貼りつぎ事務帳簿として使った。
 1833年から、穂井田忠友が写経所文書(写経所で作られた事務帳簿)の整理を行った。穂井田忠友は戸籍、正税帳に注目して整理を行った。事務帳簿をはがしとり、表裏逆転して分類・整理(つなぎ目を白い紙で裏貼り)した。正集45巻。
3、浅草文庫で写経所文書整理
 明治以降も写経所文書の整理を続行した。正倉院文書を浅草文庫に持ち込んで整理をした。整理の方法は天保年間と同じ方法。続修50巻、続修後集53巻→43巻(10巻は東南院文書)、続修別集50巻、続々修(抜き取られた切れ端の集合体)440巻2冊、塵芥(痛んでいた文書で、奈良時代の文書がそのまま残る)39巻3冊。
4、流通経済史から見た正倉院文書
 流通経済史から見ると写経所事務文書の方が重要。そこで、抜き取った部分と抜き取られたを整理した。
 原本でなく写真を基に整理したものを戻すのは難しい。推測ではだめで証明できなければならない。原本調査しかないが、数名しか触ることができない。1983年、東大史料編纂所の皆川完一先生の正倉院ゼミにより劇的に研究が進歩した。写経所のさまざまな分析ができるようになった。
 写経所文書により写経所の経済活動を明らかにして、奈良時代の流通経済を知るために、20年間正倉院文書を研究してきた。
5、正倉院文書の紹介(省略)

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センター企画講座5月

中世大阪の風土と文化大坂奉行所の出入筋大坂の陣を描いた人形浄瑠璃近世大坂都市下層民衆の生活世界幕藩制支配の地域類型と都市文化・なにわ文化

「センター企画講座5月」受講案内」(2010年4月5日)
 大阪市立大学文化交流センター企画講座5月の「なにわ文化のダイナミズム」の受講案内のメールが届きました。
 文化交流センターが企画する講座です。月ごとにひとつのテーマを設定し、そのテーマに対してさまざまな角度から掘り下げて解説します。全5回の講義を受講します。18時30分から20時まで下記の日程で開講されます。
 12日(水) 中世大阪の風土と文化
 14日(金) 大坂町奉行所の出入筋
 18日(火) 大坂の陣を描いた人形浄瑠璃
 25日(火) 近世大坂都市下層民衆の生活世界
 27日(木) 幕藩制支配の地域類型と都市文化・なにわ文化

 

幕藩制支配の地域類型と都市文化・なにわ文化(2010年5月27日)
 企画講座5月「なにわ文化のダイナミズム」を受講しました。
 第5回目は「幕藩制支配の地域類型と都市文化・なにわ文化」と題して、大学院経済学研究科・経済学部教授の大島 真理夫さんが講義を行いました。
1、老舗の地域類型 -なにわ文化理解の手がかりとして-
 1)東京の老舗
  ・「東都のれん会」:江戸~明治初期に創業し、東京で三代・百年以上の歴史をつむいできた53軒の老舗の集まり
 2)金沢の老舗
  ・「金澤老舗百年會」:金沢で商いを始めて三代以上、百年を超えて市民に親しまれ愛されてきた「老舗」54社の集まり
  ・「森八」(和菓子):寛永2年(西暦1625年)創業、金澤老舗百年會に不参加
 3)大阪の老舗
  ①「大阪有名大店会」:いろいろな業種の小売業50店舗の集まりで、三代・百年以上の条件はなし
  ②煩雑に別家・のれん分け
   例)昆布商・小倉屋 をぐらや、小倉屋山本、小倉屋松柏、小倉屋松下、小倉屋大阪千林、三国小倉屋、八木小倉屋・・・
  ③名前より味が大切:大阪戎橋南詰にあった和菓子の老舗の長男の談話
  ④まとめ
   ・非権威主義:偉ぶらない、庶民的、反権威の色彩、お客様目線・・・
   ・実質主義:建前より本音、形式より中身・・・
2、なにわ文化の制度的基盤(1) ―畿内非領国論など研究史-
 1)「畿内非領国論」 安岡 重明「日本封建経済政策史論」(大阪大学経済学部社会経済研究室、1959年)
   ・藩領国 VS 非領国
   ・経済政策  藩専売性 VS 民間の自由な経済発展
          ↓
   ・大坂=「天下の台所」・「町人の都」論の親和的
 2)「畿内=幕府領国論」 八木哲弘先生遺稿集刊行会「八木哲弘先生と幕府領国論」(同刊行会、2007年。初出論分は1967など)
   ・大坂城中心の同心円状規則的所領配置(幕領-旗本領-役職大名領[両者とも、「役職領主所領」と言える]=幕府領国
   ・大坂城中心の所領配置
   ・畿内=幕府領国+畿内譜代大名領国
   ・大坂=西国地域の監視拠点(軍事的視点)   
 3)「大坂=軍事拠点」論 岩城卓二「近世畿内・近国支配の構造」(柏書房、2006年)
   ・所領配置の目的性=大坂城守護体制の構築
 4)まとめ
  ・畿内=非領国、大坂=天下の台所・町人の都 VS 畿内=幕府領国、大坂=軍事拠点・武士の町
3、なにわ文化の制度的基盤(2) -幕藩制支配の地域類型の視点から-
 1)幕藩制支配の地域類型(省略)
 2)「旧族居付型」地域 -薩摩藩の例-
   薩摩藩の農村支配 大島真理夫「書評:秀村選三「幕末期薩摩藩の農業と社会」(「経済史研究」10号、2006)
  ①強固な支配体制の理由
   ・幕府に対する臨戦態勢の継続(辺境の外様大名としての戦略)
   ・武士団編成の維持
   ・軍事補助員(陣夫)の確保
  ②農村支配における武家の在地到達度
   ・薩摩藩は最大
   ・幕府領・畿内入り組み支配地域は最小
 3)「将軍番城周辺地域(大坂、甲府、駿府)
  ①静岡の老舗について
    小汐明子氏(経済学研究科社会人院生OG、静岡出身)の調査による
   ・江戸時代からの老舗の菓子屋・料理屋・呉服屋は、創業時からの同じ業態で老舗として生き残っている店は大変少なく、殆どが業態を変化させて生き残って来たか、撤退している。
   ・京都や金沢などと大いに異なる。
  ②抹茶と煎茶
   ・静岡のお茶は煎茶が中心に作られており、庶民が中心の飲み物で、何倍でも飲むことが出来、抹茶の様な作法(菓子・服装・料理・器類・建物)を必要としない。
   ・京都や金沢の場合は、抹茶が中心で、公家・武家が中心の作法で、伝統的な様式で行われる。
   ①②から 静岡では菓子・呉服・料理・器もの・建築などの店が長続きせず、それらの伝統的な老舗が育ってこなかった。
  ③城主の不在
   ・静岡の場合、家康の死後、駿府の政治的役割が衰えて、抹茶の需要が無くなり、抹茶の生産は宇治が独占的に行い、静岡の抹茶生産技術は衰え、以後は煎茶生産が中心。
  ④今日の状況
   ・京都・金沢・松江:伝統的な抹茶・茶道(名門)・料亭・和菓子屋が隆盛。
   ・静岡:抹茶道(名門)・料亭・和菓子屋は衰退。
4、結論、提言
  -甲府や静岡との比較-
  「なにわ文化=大阪の固有性」と理解するのではなく、甲府や静岡と共通する「将軍番城周辺地域」(なにわ文化の制度的基盤)という、「幕藩制支配の地域類型」が、その地域の文化に特徴を」与える。
      ↓
  提言:甲府や静岡と「将軍番城周辺地域」としての共通性を基盤に歴史研究・イベントなど

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近世大坂都市下層民衆の生活世界(2010年5月25日)
 企画講座5月「なにわ文化のダイナミズム」を受講しました。
 第4回目は「近世大坂都市下層民衆の世界-非人身分の組織とくらし-」と題して、大学院文学研究科・文学部教授の塚田 孝さんが講義を行いました。
 江戸時代の社会を「士農工商えた非人」の身分制度によって固定された社会と考えることはできない。近世大坂の非人身分に光を当てながら、流動的な都市下層社会の状況を紹介した。
1、近世大坂の非人集団
①大坂三郷
 a)大坂町奉行所(東・西)
 b)大坂三郷:天満組 109町、北組 260町、南組 251町
   人口最大時 40万人余(19世紀に30万人後半に減)
②大坂の垣外(かいと)仲間
  大坂の非人・・・乞食(こつじき)貧人(ひんにん)として出発
 a)四ケ所垣外仲間を形成:天王寺垣外・鳶田垣外・道頓堀垣外・天満垣外
 b)各垣外の構成:長吏 1人、小頭(あるいは組頭) 5~6人、若き者(小屋持非人)、弟子(抱えられた存在)
  ・長吏・小頭を御仲と称するようになった。
  ・小屋持非人は「垣外番株」(垣外番を派遣する権利)を分割・所持した。弟子は垣外番(番人)として派遣される者もいた。
 c)垣外仲間の身分内法
  ・第1形式:申し渡し(御仲 ⇒ 若き者)、誓約(若き者 ⇒ 御仲)、第2形式:御仲の申合せ(長吏 ⇔ 小頭)
  ・若き者までが身分法共同体の構成主体。弟子層は非人集団内の存在であるが、法共同体の客体。
 d)垣外仲間の御用と身分内法
  ・町奉行所の手先の御用(警察業務の末端):17世紀中に徐々に御用を担うようになった。
    盗賊方与力-犯罪捜査・犯人捕縛(刑事警察):長吏・小頭が務める
    定町廻り方与力-巡回・警備(パトロール、交番のお巡りさん):小頭と若き者がともに勤める
  ・第1形式:定町廻り方の下で御用・・・当りり役(当番)、第2形式:定町廻り方と盗賊方の下での御用
    垣外番は盗賊方(長吏・小頭)の御用に機能的に包摂
 e)勧進(乞食=貧人として生きていく手段)
  ・定式勧進:布施米・奉加物(四ケ所札・・大黒舞・鳥追・節季候)
    垣外番の報酬
  ・吉凶勧進:町年寄就任、普請上棟、結納・結婚、帳切・名前替、死去・年忌法要、宮参りなど
    対象は非人だけではない。
  ・四ケ所の論理:四ケ所内に平等に解放、四ケ所外には閉鎖的
    吉凶勧進は早く聞いた者が貰える。
  ・町の論理:特定の非人(町番の者)に限定
 f)家督・家屋敷
  ・家督=垣外番株(事実上の勧進権)
    御用への出役の基準  当り役
  ・垣外番を派遣する権利(垣外番株)
    垣外仲間の内部秩序として定立、小屋持非人が所有
  ・垣外仲間内部で売買
    売買証文の作成、「御仲」管理の株帳面の切替え
    売買過程に、町もしくは町人は介在しない
2、19世紀の大坂の非人身分
①御用の代勤
  ・垣外仲間の御用(当り役・・・若き者)
    家督との関係、代銭(役銭で御用を免除)化、負担個数の減少
  ・弘化2年(1845)12月・・・代銭から代勤(御用の代役)へ変化
  ・若き者当り役代勤願(サンプル省略)からわかること
    弟子による代勤(弟子の出身地:北陸地方の百姓倅)、若き者が家として確立?、弟子が没落流入が続く、
    15歳になると当り役見習い出役
②病気療養願い
  病気であれば御用が免除された。
  最初は簡単な文章だったが、御用の人数が減ってきたために内容が厳しく(医師名も書かせる)なった。
  ・病気・療養出願(サンプル省略)からわかること
    病気と御用放免の関係(町医者の治療、出養生)、垣外仲間と都市下層社会の幅広いボーダー

 19世紀半ばの大坂の非人は文字の読み書きができていたことがわかった。     

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大坂の陣を描いた人形浄瑠璃(2010年5月18日)
 企画講座5月「なにわ文化のダイナミズム」を受講しました。
 第3回目は「大坂の陣を描いた人形浄瑠璃」と題して、大学院文学研究科・文学部准教授の久掘 裕朗さんが講義しました。
 大阪の人間の気質として権威に反発する反骨精神がある。この気風は江戸時代に形成され、現在まで続いている。これは、大坂の都市の特徴に基づ いている。江戸は幕府の中心であり、人口の半分くらいは武士で政治の中心であった。それに対して大坂は町人の町で商売・経済の中心であり、武士は一握りしかいなかった。大坂は幕府の下にあるとはいえ比較的自由であった。権威に対する反発があり、それが現在まで続いている。
 江戸時代の歌舞伎・人形浄瑠璃は、元があって脚色している。時代物と いっても江戸時代の世相を中世以前の時代に置き換えて演じている。義太夫節人形浄瑠璃(文楽)は江戸時代の大坂で生まれた。大坂人の気質が人形浄瑠璃の中に表れている。上演された時代物は大坂なので江戸に比べて若干咎められにくかった。
 人形浄瑠璃に見られる政道批判の例として2つあげる。近松『相模入道千疋犬(さがみにゅうどうせんびきのいぬ)』(正徳4年1714以前初演)は生類憐みの令(貞亨2年1865~宝永6年1709)と新井白石による正徳の治を踏まえている。『大塔宮曦鎧(おおとうのみやあさひのよろい)』(享保8年1723)は吉宗の享保の改革を踏まえている。時代物だがカモフラージュしながら現代の政治を批判していた。
 大坂の陣を描いた時代物浄瑠璃には徳川に対する大坂人の考えがわかる。大坂人は豊臣びいきである。「大坂の陣」を脚色した人形浄瑠璃作品は7つある。初演後にすぐ上演禁止になった作品もある。大坂冬の陣や夏の陣を鎌倉時代の戦いに仮託している。『南蛮鉄後藤目貫(なんばんてつごとうのめぬき)』(享保20年1735)は大坂落城を題材とし後藤又兵衛一家の悲劇を中心に描いた。初演後しばらくして上演禁止となった。『近江源氏先陣館(おうみげんじせんじんやかた)』(明和6年1769)は大坂の陣を鎌倉時代の近江源氏(佐々木一族)の戦いに仮託している。徳川家康を豊臣の敵として描いている。『太平頭鍪飾(たいへいかぶとのかざり)』(明和7年1770)は大坂夏の陣を描いている。初演後すぐに上演禁止となった。『鎌倉三大記』(天明元年1781)に改作して江戸で上演した。この二つの違いは物語の最後にある。前者は秩序が収まっていないが、後者は乱れた秩序が回復(降参してる)している。

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大坂奉行所の出入筋(2010年5月14日)
 企画講座5月「なにわ文化のダイナミズム」を受講しました。
 第2回目は「大坂奉行所の出入筋」と題して、大学院法学研究科・法学部 教授の安竹 貴彦さんが講義しました。出入筋とは、概ね今日の民事訴訟に該当します。
 大坂奉行所の出入筋は、江戸や近隣の町奉行所に比べて債権者保護や迅速性の点で多くの特徴を有していました。それは、商都としての大坂の性格が反映していました。「大坂法」の形成過程や変遷、周辺への影響などについて資料を基に平易な解説があ りました。
1、出入筋の地域性(19世紀初頭)
  江戸において、「金公事」(利息付、担保なし)と「本公事」(利息なし)とははっきり区別し、金公事を冷遇していた。
 ①借金銀(江戸では金公事)
  ・江戸:滞高に関係なく三十日日切済方(期限付支払命令)とし、期間内に一部でも弁済すれば、以後月に2度ずつの切金(分割)が認められる。切金の済方が不埒であれば身代限(強制執行)となる。
  ・京都(省略)
  ・大坂:滞納額に応じた日切済方(3段階)。日切中に弁済不能であれば三十日の手鎖(手錠)あるいは押込(軟禁)となり、なお弁済のない場合には身代限となる。但し、最初の日切中に過半(半分以上)を返済した場合に限り、再度同期間の日切が認められる。この期間中に完済できないと、債務者に先の弁済分を一旦戻した上で身代限とする。
 ②家賃(江戸では本公事)
  ・江戸:滞高に応じた日切済方。日切中に弁済不能であれば屋敷の引渡が命ぜられる。
  ・京都(省略)
  ・大坂:借金銀出入同様、滞高に応じた日切済方。期間内に弁済不能であれば、直ちに帳切(家屋敷の名義変更)を命ずる。これに債務者が従わない場合には追訴7回で本人に牢舎又は手鎖・預が科され、その間に帳切あるいは弁済があれば急度叱りの上、済口(訴えの取り下げ)を聞き届ける。
2、享保期における「大坂法」の形成
 ・享保期以前における大坂の金銀出入は、他都市(江戸・京都・奈良・伏見など)と類似していた。
 ・享保期以降における大坂の金銀出入には独自性があった。
  緩慢な弁済手法から、日切→一括弁済→身代限 という迅速な制度、先訴・後訴(最初に提訴した者が優先、10年の出訴期限
 ・大坂においては、「金公事」と「本公事」の区別は曖昧だった。
 ・「享保の国分け」(上方8ヶ国について国分けが行われ、摂河泉播の管轄権を京都町奉行所から大坂町奉行所へ委譲)と四国・西国・中国28ヶ国との間の金銀出入を管轄(「遠国」出入)
  ←集中している諸藩蔵屋敷を利用した
3、大坂法の展開とその影響力-江戸法と大坂法-
 ・延亨期の改革により大坂の「金銀出入」と「金銀出入外出入」を差別化
  ←「江戸法」(金公事と本公事の峻別)導入の端緒?
 ・主に延亨期以降の大坂奉行所における「取捌」(判例)や「評議」(合議)による補完・修正とその蓄積により大坂法を精緻化
  ←内済を重視せず画一的処理を指向するという特徴ゆえ?
 ・明和期において「大坂法」を「江戸法」へ統一(取捌法および遠国出入)したが失敗
  大坂奉行所の抵抗を排して「公事方御定書」を金科玉条化したが、準拠の強制が金融の閉塞感を招いた。
  →約7年で旧に復する(明和3(1767)~安永3(1774)年)
 ・天保の改革により「大坂法」の江戸へ導入(身代限、先訴・後訴、10年出訴期限制)
  →但し、課題は実効性の問題
    更に細かく分割して債務者保護に傾斜。上限利息の引き下げと大坂法(分割弁済をやめる)を同時にするはずだったが、利下げが先行した。

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中世大阪の風土と文化(2010年5月12日)
 18時30分から、企画講座5月「なにわ文化のダイナミズム」を受講しました。
 第1回目は「中世大阪の風土と文化」と題して、大学院文学研究科・文学部 教授の仁木 宏さんが講義を行いました。四天王寺、渡辺津、尼崎、堺、大坂寺内町などの近世大坂成立の基礎条件について学びました。
 中世大阪の地形は、上町台地が半島状で東側は低湿地、西側は砂丘であった。水陸の交通の要衝で、人、もの、情報が集まり、首都京都と西国、朝鮮半島、大陸を結ぶ「入口」であった。水陸の交通の発達により、小規模な都市がたくさん生まれ、ネットワークから港町が形成された。宗教勢力が台頭し、武家の姿はほとんど見えない空間であった。
 広々とした「水」の世界は、地形を作り、もの・ひと・文化を運んだ。さまざまな信仰の世界が展開し、密教・浄土・法華・真宗は地域社会の中に浸透した。地形を利用し町をつくり、経営・流通・政治(軍事)・文化の結節点となった。そして、日本一の都市ネットワーク地域となった。

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2009年度

インターネット講座2009「IT(ICT)の基礎応用そしてこれから」三大学連携記念公開講座「水都大阪 ”汽水”文化の都市(まち)と暮らし」専門家講座2月「マスコミコース《新聞で宝塚と大阪を語る》」専門家講座3月「文化・歴史コース《大坂と大阪をたずねるⅩ》」

専門家講座3月

大阪の企業家と企業家精神について詩と人生と本創り

「専門家講座3月」受講案内(2010年2月24日)
 大阪市立大学文化交流センター専門家講座3月の「文化・歴史コース《大坂と大阪をたずねるⅩ》」の受講案内のメールが届きました。
 社会の第一線で活躍中の、大阪市立大学卒業生を中心とした専門家が講師を務め、一般の受講者向けに解説します。18時30分から20時まで下記の日程で開講されます。
 3月 1日(月) 大阪の企業家と企業家精神について
 3月 8日(月) 詩と人生の本創り
 3月15日(月) 食べものさんありがとう-なにわの伝統野菜復活と食育-

 

詩と人生と本創り(2010年3月8日)
 18時30分から、「専門家講座3月」文化・歴史コース《大坂と大阪をたずねるⅩ》を受講しました。
 第2回目は「詩と人生と本創り」と題して、出版社竹林館の代表取締役・詩人の佐子 真由美さんが講義を行いました。
 自己紹介の後、出版をめぐる状況、電子出版、復刻版の出版について話しました。全国に4000社余りの出版社があります。日本書籍出版協会に462社が加盟し、大阪支部は32社で、京都(36社)より少ないです。
 Kindle(アマゾン社)やのipad(アップル社)など電子出版が話題になっています。電子化(データ化)の流れは止まらないが、いままでの本は決してなくなりません。本にはデータにないものがあります。形があり、装丁、紙質、しおり、活字などを考えて本を作ります。
 竹林社では、2003年から復刻版の出版を始めました。ものの実感が失われてゆく時代にモノとしての本創りには、手触り・風合いなどがあり、テキスト+アルファの価値があります。復刻版は原本そっくりに作るために、紙探しに苦労しました。○伊東静雄詩集「わがひとに與ふる哀歌」(昭和10年)復刻2003年、○堀辰雄「かげろうふの日記残闕」(昭和28年)復刻2004年、○杉山平一詩集「夜學生」(昭和18年)袖珍本として復刻2007年
 声(朗読)によるに詩の運動について話しました。詩を朗読する詩人の会「風」が1974年に誕生し、第一回目の朗読会には70人を超える参加者があり、以来場所を変えながら毎月一回の例会を持ち、現在は400回を超えました。最後に、与謝野晶子(源氏物語)、坪内逍遥(ハムレット)、萩原朔太郎(乃木坂倶楽部)、北原白秋(「思い出」序詩)による詩の朗読を聞きました。昭和初期に録音されたものです。
 帰りに、杉山平一詩集「夜學生」の復刻版を購入しました。

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大阪の企業家と企業家精神について(2010年3月1日)
 18時30分から20時まで、専門家講座3月の「文化・歴史コース《大坂と大阪をたずねるⅩ》を受講しました。
 第1回目は、「大阪の企業家と企業家精神について」と題して、大阪商工会議所大阪企業家ミュージアム課長の大西 奈緒美さんが講義を行いました。
 大阪企業家ミュージアムでは、明治時代以降に大阪を舞台に活躍した企業家 105人のチャレンジとイノベーションを紹介しています。ミュージアムでは7つのキーワード「志」「変化」「先見性」「挑戦」「創意工夫」「自助自立」 「意志」を掲げています。大西さんは、ミュージアムで用意されている「大阪の企業家精神のルーツ」の映像を映写後に、代表的な14人の企業家の紹介(事 績、ヒット商品開発のバックステージ、モットー)を行いました。
 江崎 利一(江崎グリコ) 小林 一三(阪急電鉄) 五代 友厚(大阪商工会議所) 水野 利八(ミズノ) 大林 芳五郎(大林組) 竹中 籐右衛門(竹中工務店) 上山 英一郎(大日本除虫菊) 黒田 善太郎(コクヨ) 鳥井 信治郎(サントリー) 石橋 信夫(大和ハウス工業) 松下 幸之助(パナソニック) 井植 歳男(三洋電機) 早川 徳次(シャープ) 安藤 百福(日清食品)  

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専門家講座2月

宝塚歌劇100年への道「大阪力!」の連載で見えて来たもの

「専門家講座2月」受講案内(2010年2月3日)
 大阪市立大学文化交流センター専門家講座2月の「マスコミコース《新聞で宝塚と大阪を語る》」の受講案内のメールが届きました。
 社会の第一線で活躍中の、大阪市立大学卒業生を中心とした専門家が講師を務め、一般の受講者向けに解説します。18時30分から20時まで下記の日程で開講されます。
 2月25日(木) 宝塚歌劇100年への道
 3月 4日(木) 「大阪力!」の連載で見えて来たもの

 

「大阪力!」の連載で見えて来たもの(2010年3月4日)
 18時30分から20時まで、「専門家講座2月」マスコミコース《新聞で宝塚と大阪を語る》を受講しました。
 第2回目は「『大阪力!』の連載で見えて来たもの」と題して、朝日新聞社シニア・スタッフの林梓生さんが講義を行いました。「大阪力!」はPart1からPart4まで、4年余り(2005年4月~2009年5月)毎日曜日の朝刊に連載されました。大阪には、洗練された文化や芸能、先進的な取り組みをしている企業や大学があります。林さんが、それらを支える人々に会い、現場を訪ねてレポートしました。掲載された5つの記事を取り上げて、取材の様子や林さんの思いをお話になりました。
 ボクサーが建築家に(安藤忠雄)、常識を破る色で人気(黒いケーキと白いカレー)、笑い 言葉の壁超えた(NY繁昌亭)、59年継続に反響(児童作品集「はとぶえ」)、学外拠点 街に融合(大阪市立大学URP)

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宝塚歌劇100年への道(2010年2月25日)
 18時30分から20時まで、「専門家講座2月」マスコミコース《新聞で宝塚と大阪を語る》を受講しました。
 第1回目は、「宝塚歌劇100年への道」と題して、産経新聞社 文芸部の平松 澄子さんが講義を行いました。平松さんは、宝塚歌劇を中心にミュージカル分野の取材を行い、記事にしているそうです。私は宝塚歌劇については全く知りません。平松さんの講義内容を箇条書きにします。
*1914年に宝塚少女歌劇公演開始以来、宝塚歌劇は昨年95周年を迎えた。
*現在、商業演劇はミュージカルが主流となっている。劇団四季以前に宝塚歌劇があった。
*宝塚歌劇にしかないものがある。音楽学校(1919年設立)を併設して人材供給が恒常的に行われていることと、阪急電鉄が一貫してバックアップしていること。OSK日本歌劇団の場合、1922年に設立されたが、経営は松竹→近鉄と渡り2003年に解散した。その後、NewOSKとして復活し、今も細々と活動している。
*1927年、日本初のレビュー「モン・パリ」を上演。
*男性団員もいたが、一度も舞台を踏まなかった。
*戦争で宝塚大劇場(旧)閉鎖。
*1967年、初の海外ミュージカル「オクラホマ」上演。
*1974年、「ベルサイユのばら」初演。以来、空前のブームとなり劇場はいつも満員。
*1989年米NYのラジオ・シティ公演。
*阪神大震災後、1993年に現在の宝塚大劇場(2500人収容)が新築開場。
*1996年、「エリザベート」初演で満員。
*1998年、宙組を新設。花・月・雪・星の5組体制となる。1組80人。
*2001年、現在の東京宝塚劇場(2000人収容)が新築開場。宝塚と東京で通年公演を行うようになった。
*音楽学校には毎年4~50人が入学。倍率は20倍で、ピーク時(第2次ベルばらブーム)には48~49倍。中学から高校までの4回受験できる。1年目は社会人教育。
*2002年、CSの衛星放送「タカラヅカ・スカイ・ステージ」開局。
*2005年、韓国ソウル公演。
*団員は未婚の女性。5組にはそれぞれ男役のトップスターとペアで女役のトップスター。トップスターは2~3年で交代する。
*公演は芝居とレビューの2本立て。トップほど忙しく、出ずっぱりとなる。退団しても舞台の魅力を忘れられずに女優になる。
*演目は海外を視野に決めている。外国人には評判が良い。2009年、韓国歴史ドラマ「太王四神記」と「カサブランカ」を公演。
*劇団四季は作品主義で、何年も同じ脚本。宝塚歌劇はスター主義で、何回公演してもスターごとに脚本を書き換える。
*舞台、大道具、オーケストラ、衣装は自前。
*阪急電鉄の経営も苦しく、将来どうなるか危惧している。創業者の小林一三さんの遺産で、歴史的な資料が残っている。
*男役10年と言われる。
*勲章は紫綬褒章どまり。活躍する期間が短いが、もっと評価されても良い。
*最近は男性のファンが増えている。
 質疑応答の後に、「出演者は綺麗で若い魅力があるので、一度ご覧になって下さい」と締めくくりました。一度、観劇に行かなければなりません。

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三大学連携記念公開講座:「水都大阪 ”汽水”文化の都市(まち)と暮らし」(2009年7月18日)
 大阪市中央公会堂 大集会室で開催された、三大学(大阪市立大学、大阪府立大学、関西大学)連携記念公開講座を受講しました。定員は1000名でしたが、シニア層が多数を占めていました。もっと学生が関心を持って参加すると良いのに、と思いました。
 統一テーマは「水都大阪 ”汽水”文化の都市(まち)と暮らし」です。淡水と海水が入り混じり、その水にはぐくまれた大阪。その水で育ち、甘いも辛いもかみ分けて営まれてきた大阪の都市と人々の暮らしを考えます。
 第一部の基調講演では、建築家の安藤忠雄氏が「水辺の都市~大阪の可能性~」と題して講演しました。
 第二部のパネルディスカッションでは、大阪市立大学(大学院生活科学研究科教授 谷直樹氏)、大阪府立大学(21世紀科学研究機構教授 橋爪紳也氏)、関西大学(文学部教授、なにわ・大阪文化遺産学研究センター長 高橋隆博氏)の三大学が、「なにわの履歴書 汽水文化が生んだ都市と暮らし」についてディスカッションしました。
 各大学の展示物は以下の通りです。
・大阪市立大学展示:絵図・模型「大坂名所一覧と大坂蔵屋敷」
・大阪府立大学展示:版木『源氏物語評釈』「末摘花」部分一枚、及び版本
              『大阪図』『浪華の賑わい』『浪華の魁』『淀川両岸一覧』
・関西大学展示:「豊臣期大坂図屏風」(複製:関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター所蔵)
       オーストリア・グラーツ市のエッゲンベルク城博物館の「日本の間」壁面に8枚に分割されて飾られている

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インターネット講座2009

インターネット講座受講案内(2009年3月23日)
 文化交流センター所長から、インターネット講座の受講案内のメールが届きました。実際に大学で行われている講義と同レベルの内容のものをインターネット上で受講致します。講義の内容等について、電子メールを通して講師と自由に意見交換を行うことができます。
 受講するテーマは、「ITまたはICTの基礎、応用そしてこれから」です。創造都市研究科の中野秀男教授がIT(ICT)について講義します。コンピュータ、ネットワーク、情報システム、モバイル、セキュリティやプライバシー、インターネットからセンサーネット等、毎回テーマを定めて基礎、応用、近未来的な話をVOD(Video/Voice On Demand)講義で行います。

 2009年 6月30日 第3回:ネットワークからインターネットへ、自宅学習

 2009年 6月29日 第2回:コンピュータの進化、自宅学習

 2009年 6月29日 第1回:はじめにーこの講座/講義の形式とIT/ICT概論、自宅学習

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2008年度 

公開授業「大阪落語への招待」インターネット講座2008「知価(知識)社会の幕開け」専門家講座2009/2専門家講座2009/3

専門家講座2009/3

「専門家講座3月」受講案内(2009年2月25日)
 大阪市立大学文化交流センター専門家講座3月の「文化・歴史コース《大坂と大阪をたずねるⅨ》」の受講案内のメールが届きました。
 社会で第一線で活躍中の、大阪市立大学卒業生を中心とした専門家が講師を務め、一般の受講者向けに解説します。18時30分から20時まで下記の日程で開催されます。
  2日(月) ビルとまちづくりの歩み -大阪”再生”に向けてー
  9日(月) 平城遷都1300年記念事業について
 16日(月) ミナミ アメリカ村の今昔 

 

2月17日に妻が左手の手首を2か所骨折しました。そのため、私が外出できくなり講義を全く受講できませんでした。

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専門家講座2009/2

「専門家講座2月」受講案内(2009年1月29日)
 大阪市立大学文化交流センター専門家講座2月の「マスコミコース《新聞で世の中を読み解く》」の受講案内のメールが届きました。
 社会で第一線で活躍中の、大阪市立大学卒業生を中心とした専門家が講師を務め、一般の受講者向けに解説します。18時30分から20時まで下記の日程で開催されます。
 19日(木) 落語と暮らしと新聞と
 26日(木) アスベスト被害と情報公開

 

2月17日に妻が左手の手首を2か所骨折しました。そのため、私が外出できくなり講義を全く受講できませんでした。

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インターネット講座2008

第1回:インターネットで出来た事(今まで)第2回:インターネットで出来る事(これから)第1回レポート提出第2回レポート提出第3回レポート提出修了証

インターネット講座受講案内(2008年3月22日)
 文化交流センター所長から、インターネット講座の受講案内のメールが届きました。実際に大学で行われている講義と同レベルの内容のものをインターネット上で受講致します。講義の内容等について、電子メールを通して講師と自由に意見交換を行うことができます。
 受講するテーマは、「知価(知識)社会の幕開けーコンテンツを支えるインフラ、激増するコンテンツー」です。創造都市研究科知識情報基盤研究分野の職員が大学院で担当する講義「情報ネットワーク論」「情報セキュリティ論」「情報メディア組織化論」「空間情報システム論」「オープンスタンダードシステム論」等から10テーマ程度を選んでVOD(Video/Voice On Demand)の形で提供されます。

 

修了証(2009年5月13日)
 インターネット講座2008の修了証が送付されてきました。インターネット講座受講で、初めて修了証を頂きました。
 修了証の内容は次の通りです。

あなたは 大阪市立大学インターネット講座2008「知価(知識)社会の幕開け―コンテンツを支えるインフラ、激増するコンテンツ―」を修了されたことを証します 
  平成21年3月31日
 大阪市立大学長 金児 曉嗣

 

第3回レポート提出(2009年3月21日)
 北克一先生担当の講義(第8回)についてのレポートを提出しました。
 テーマは、「インターネットを利用した同人誌発行」です。現在、私は在職していた会社のOB会の会員です。2004年5月にOB会員の中から同好の士が集まり文芸同人会を設立しました。同人誌を年2回(春・秋)発行しています。2004年11月に第一号を発行して以来、今年の5月で第十号の発行を迎える事になります。原稿募集案内から印刷・製本まで、インターネット(電子メール)をどのように利用して同人誌を発行しているのかについてまとめました。
 これで、インターネット講座2008のレポート提出が終了しました。

 

第2回レポート提出(2009年3月16日)
 大西克美先生担当の講義(第4回~第5回)についてのレポートを提出しました。
 テーマは、「自宅パソコン環境」についてです。現在、パソコンを3台保持しています。Windows 3.1に始まりWindows 98、Windows XPそしてWindows Vistaに至る変遷とMS Officeとブラウザ、メールソフトについてまとめました。今回のレポートをまとめたことで、私のパソコン歴が15年以上でインターネット歴が13年以上である事が分かりました。

 2009年 3月 8日 情報化社会から情報社会へ:5年後、20年後、100年後(中野秀男教授) 自宅学習

 2009年 3月 8日 第9回 まとめ(中野秀男教授) 自宅学習 

 2009年 2月28日 第8回 電子図書、電子出版、データベースの三題話(北克一教授) 自宅学習

 2009年 2月17日 第7回 オープンソースWebGIS(ベンカテッシュ・ラガワン教授) 自宅学習

 2009年 2月16日 第6回 オープンソース地理空間ソフトウエア(ベンカテッシュ・ラガワン教授) 自宅学習

 2009年 2月13日 第5回 GUIのお話(大西克美准教授) 自宅学習

 2009年 2月11日 第4回 アプリケーションソフトウェアの機能と課題(大西克美准教授) 自宅学習 

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第1回レポート提出(2008年9月26日)
 中野秀男先生担当の講義(第1回~第3回)についてのレポートを提出しました。
 テーマは自由で、3回の講義の内のどれかまたは全体を通しての感想や意見でも構わないとのことでした。そこで、2007年5月以降に記録していた「迷惑メール」の受信状況についてまとめました。

 2008年9月25日 第3回 セキュリティ(中野秀雄教授担当) 自宅学習

第2回:インターネットで出来る事(これから)(2008年8月29日)
 インターネット講座の第2回を受講しました。
 創造都市研究科梅田サテライトの教室で、創造都市研究科教授の中野秀男先生が「インターネットで出来る事」と題して、50インチのディスプレイを使い講義を行いました。「インターネットはこれからどうなるのか」が講義の主題です。
◇これからどうなるのか?
 これからは以下の時代になるだろう。
  ・ユビキタス/アンビエント社会へ
  ・インターネット+センサーネットワーク時代へ
 インターネットが成熟しセンサーネットワークと融合することで、人と人、人と物、物と物が喋る時代になる。セキュリティやプライバシーが危うくなる。
◇要素技術やシステム技術の進化
 初めに、前提となる要素技術やシステム技術について講義しました。
 *計算機回り ・PC、ノートPC ・ゲーム機:DS、PSP、Wii ・携帯電話
 *映像系 ・デジタルテレビ ・ネットTV ・地上波デジタル、1セグ放送 ・家庭内情報化(白物も含めて)
  パソコンがなくても、家庭ではテレビが主体となる。
 *周辺機器 ・ストレージ:SD、USB、Portable HDD、外付けHDD、NAS ・ポインティングデバイス:マウス、リモコン
   ・ディスプレイ:大型、個人用、携帯 ・ディスプレイ:電子ペーパー、HMD、立体、グラスビジョン ・スピーカー、マイク
 *通信 ・有線:光ファイバー(WDM)、メタル系(ADSL) ・無線LAN ・可視光通信、屋内測位(屋内GPS)
 *センサー(識別技術) ・RFID、ICカード(交通)、QRコード ・IPカメラ(追尾型) ・車両検知、照度、温度、湿度、炎、降雨、人感
◇プライバシー制御技術(人、もの、場所、時間)
 いつどこで誰と会い何をしたかをコントロールする技術である。センサーネットワークとインターネットが融合することで、ライフログ(いつ、どこで、何をしたかを記録)される。自分のプライバシーがどこにあるかを知り、消すことができる。
 プライバシーが取られる時代で、プライバシーが売れる時代が実現できるのはストレージの役割(容量大)である。
◇Googleを超えて
 現在のGoogleは誰が検索しても結果は同じであるが、年齢・嗜好に合わせた検索(多軸検索)ができるようになった。
◇環境とIT:グリーンIT
 *ITを使ってCO2削減、省エネを実現する。根元はセンサーネットワークである。
◇新しい町づくり
 インターネットとセンサーネットワークによって新しい町づくりをする。大阪市はユビキタスシティを目指しており、JR大阪駅北ヤードはその1地点である。便利になるがプライバシーの問題があるので、今から対応方法を考えていく。

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第1回:インターネットで出来た事(今まで)(2008年7月31日)
 インターネット講座の第1回を受講しました。
 創造都市研究科梅田サテライトの教室で、創造都市研究科教授の中野秀男先生が「インターネットで出来た事」と題して講義を行いました。
◇インターネット以前
 1970~80年代は通信手順(プロトコル)標準化の争いがあった。大型汎用計算機において、SNA、FNA、HNA・・・があり、ヨーロッパ主導のOSI(Open Systems Interconnection)があり、アメリカ主導のTCP/IPがあった。日本はOSIを目指したが、1990年にTCP/IPになった。
 TCP/IPの階層図(上から、文化層、利用層、アプリケーション層、トランスポート層、ネットワーク層、データリンク層)を使って講義しました。上がコンテンツで、下がキャリア、真中がTCP/IPである。1995年を境にキャリアとコンテンツが分かれた。
◇インターネット以後
 1990年頃はパソコン通信とインターネット併存の時代で、やがてパソコン通信がインターネットに飲み込まれた。時代とともに、1986、87年に電子メールが、1990年頭にWEBが、1990年終わりから動画の時代になった。
◇問題点
 コンテンツの氾濫:どこにあるのか分からない。Googleで対応しようとしたが、欠点は没個性的である。
 ITリテラシー(使いこなせるか?):パソコンを使いこなせる人が多くなくて良い。テレビがメジャーになれば使い易くなる。モバイルはケータイで勝負がついた。家庭にディジタルテレビが普及すると、多くの人が見るテレビと個人用のテレビに分かれる。パソコン好きはパソコンを操作する。
 匿名問題や誹謗中傷:ネットワークでのいさかいは無機質な言葉のために陰湿になり易い。良い人ばかりでなく、悪い人もいる。インターネットが世界67億人にオープン化されている。環境倫理、生命倫理、情報通信倫理とあるが、情報通信倫理は100年かかる。

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公開授業「大阪落語への招待」

大阪落語への招待1(開講にあたって)大阪落語への招待2(初級編1)大阪落語への招待3(初級編2)大阪落語への招待4(初級編3)大阪落語への招待5(初級編4)大阪落語への招待6(中級編1)大阪落語への招待7(中級編2)大阪落語への招待8(中級編3)大阪落語への招待9(中級編4)大阪落語への招待10(上級編1)大阪落語への招待11(落語会の実演)大阪落語への招待12(上級編2)大阪落語への招待13(上級編3)大阪落語への招待14(終講にあたって)

公開授業「大阪落語への招待」受講決定通知(2008年3月15日)
 大阪市立大学公開授業「大阪落語への招待」の受講決定通知書が郵送されて来ました。昨年度は抽選で外れて受講できませんでした。
 大阪市立大学では、昨年度に引き続き、平成20年度前期に「都市・大阪」を主題とする授業の一つとして「大阪落語への招待」を公開授業として開講致します。「大阪落語」の第一線で活躍する桂 春団治一門をゲストスピーカーに迎え、大衆芸能と私たちの生活に溶け込んでいる落語を通じて、大阪の文化・芸能について考える視座を提供しようとするものです。4月11日から7月18日まで(4月18日を除き)の毎週金曜日16時20分から17時50分まで杉本キャンパスで授業が行われます。なお、学生と一般募集の受講生が一緒に授業を受けます。

 

大阪落語への招待14(終講にあたって)(2008年7月18日)
 大阪市立大学公開授業「大阪落語への招待」の第14回、最終授業に出席しました。
 桂春之輔講師が教壇に立ちました。いつもの通り、コミュニティカードの紹介を行いました。毎回、コミュニケーションカードを一通り読むのに3時間、授業の紹介準備で2時間かかっているとのことでした。
 久掘先生が教壇に立ちました。初めに4月25日~7月11日の授業の内容をまとめと参考文献を紹介しました。続いて最終講義を行いました。
◇芸について(芸と技術)
  ・技術→何かを行う際の方法や手段(難易度関係なく)
  ・芸→修練を重ねることによって得た技能(方法手段でなく)
 *芸の性質
  ・芸には、芸を実践・習得する「道」が存在する ※「芸道」
  ・芸には法則・規範(型)が存在し、ふつう先人が積み重ねてきたものを「稽古」((いにしえ)(かんが)える)によって習得していく
  ・芸の究極を目指す精神的な姿勢が存在する ※名人(欧州には当てはまる言葉がない)
   天才(個人的営為)←→名人(先人の蓄積を重視し、それを前提に自身の芸を完成させる)
                  ※現在まで伝承されて残っている(日本の特徴)
◇芸NO人 現代の「お笑い芸人」
  ・所謂「お笑い芸人」の笑いが面白くない→テレビ時代の刹那的笑いが多い(知識を前提としないナンセンスな笑い =飽きやすい)
  ・チャンネルを変えさせないように、瞬間的なインパクトを重んじる
  ・笑いの前提となる話題自体、万人向けの常識的な内容になりがち(深みのない笑いになる、万人に向けた笑いは 生みにくい)
  ※大衆の関心がバラバラなので、誰もが知っているような単純な事柄・話題に基づくものになっており、深みがなく低俗で、洗練があまり期待できない。テレビ(視聴率史上主義)文化
◇伝統芸能に対する国の保護
  ※伝統芸能・古典(文化)は、広く現在の大衆の人気を集めるものではないが、歴史的に蓄積された「芸」そのものの価値に基づいて、国が保護(国民の税金)すべき。
◇「貧乏花見」と「長屋の花見」 ※大阪と東京の文化の違い
  ・大阪「貧乏花見」 長屋の住人が自主的に花見にでかける。酒肴としてあり合わせのものを自分たちで用意(酒→茶、卵の巻焼→香々)
   ※花見に行く経緯が描かれる(雨で仕事を休み、止んでから出かける)→大阪落語の合理性
  ・東京「長屋の花見」 大家が長屋の住人を誘って花見に連れて行く。酒肴も大家が用意。
   ※大家が花見に誘う理由(世間で貧乏長屋と言われて景気が悪い)
    →江戸気質(見栄っぱり)、武士の町江戸/武士は食わねど高楊枝
◇大阪落語の「情」と「思いやり」について
  ・普段の人づきあいが緊密、町人の町大坂(武士のいない町)
   ※都市の性格が落語に反映している
 最終講義の後、金児学長から修了証を授与されました。公開授業「大阪落語への招待」を、一般受講者161名、学生受講者219名が受講しました。一般受講者が10回以上講義に出席すると、修了証が授与されます。116名が修了証を授与されましたが、内私を含めて57名が皆勤でした。なお、一般受講者の応募は675名(5.2倍)だったそうです。

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大阪落語への招待13(上級編3)(2008年7月11日)
 大阪市立大学公開授業「大阪落語への招待」の第13回に出席しました。
 桂春之輔講師が教壇に立ちました。この日は、一つ紋の呂の着物を着ていました。コミュニケーションカードの紹介をしました。大阪には落語家が240名いるそうです。桂米朝師匠が上方落語で、春之輔講師は大阪落語と話しました。前回話した「演技」と「芸」に関連して、テレビで「お笑い芸人」と紹介されるのを嘆き、ホワイトボードに「芸NO人」と書きました。
 代わって、桂春雨講師が教壇に立ちました。今回が最後の出番となります。「落語の深いところ」を講義しました。落語に必要なことは、「呼吸(いき)」と「間」です。そして、小話を例に、呼吸と間の「なし」と「あり」の違いを示しました。書いて面白い噺を喋るのは簡単で、面白くないことを舞台で喋ってお客さまに楽しんでもらうのは難しいことです。「間」は「魔」に通ずと言います。「京の茶漬け」の登場人物(大阪の男と京都の女)を紹介し、「京の茶漬け高松の熱燗」の説明をしました。この噺は演者がお客の呼吸と間をはかりながら語ります。春雨講師が高座に上がり、「京の茶漬け」を演じました。高座を降り、「早く話せば10分で済む噺を本日は15分かかりました。5分の間をお客が与えて下さった」と話しました。
 春之輔講師が教壇に現れ、春雨講師に「東京生まれの東京育ちなのに、なぜ大阪へ来て大阪弁を習い大阪落語を演じるのか?」と問いました。東京の落語家が大阪へ来て噺だけを持って帰ることはあるが、春雨講師のような例は初めてのことだそうです。春雨講師は、「小学校4年の時、ラジオで春團治の『皿屋敷』を聴いた。それを録音し何回も聴いた。噺に立体感があるように思った。」と応じました。春之輔講師が東京落語と大阪落語の違いを解説しました。東京落語の「時そば」は言葉で笑わし、大阪落語の「時うどん」は呼吸と間があり客とキャッチボールしてます。東京落語は平面的で、大阪落語は立体的です。十二代目 市川團十郎の著書「團十郎の歌舞伎案内」の中で東京と上方の差が出たのは徳川家康に関係があると記述しています。「関ヶ原の戦いを挟んで東西が変わった。勝者の論理では『勧善懲悪』であり、悪い者を懲らしめる。負けた方は弱者が分かり、男女の情愛を語るようになった。東は長唄、常磐津、清元で高い声で唄いあげる。一方、西は義太夫で、低い声で語る。」とあります。これらから、「東京落語はカッコよさ、大阪落語は情にうったえる」ことに結び付け、「落語の情、優しさと思いやりと」と話しました。最後に、春之輔講師は、「東京落語には敬意を持っている。東京の噺を大阪へ持って来ている」と話しました。

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大阪落語への招待12(上級編2)(2008年7月4日)
 大阪市立大学公開授業「大阪落語への招待」の12回目に出席しました。
 桂春之輔講師が教壇に立ちました。この日は、桂春団治一門の浴衣を着て足袋を履いていました。コミュニケーションカードの紹介を行いましたが、学生相手の方が楽しいそうです。「はめもの」は大阪落語独特のもので、東京落語にはありません。「演技」と「芸」の違いを話しました。演技は誰でも出来ることで、「うどんを食べているみたい」です。芸は修練が必要で、「うどんを食べている」となります。落語は独り芝居ではなく登場人物の役を演じきってはいけないそうです。
 桂梅団治講師が高座に上がりました。落語を演じる前に、落語に登場する人物について解説しました。恋愛、酒と女性、子供、夫婦と子供、丁稚と家族等の噺を例示し解説しました。落語の中の子供は腕白だが乱暴な言葉使いをしません。言葉使いがしっかりしています。解説の後、しっかりした子供が登場する「佐々木裁き」を演じました。
 春之輔講師に代わりました。落語に登場する人物は大人も子供も下品な言葉遣いをしないと話します。コミュニケーションカードの紹介の後、落語家(春之輔講師の兄弟子)のエピソードを話しました。

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大阪落語への招待11(落語会の実演)(2008年6月27日)
 大阪市立大学公開授業「大阪落語への招待」の11回目に出席しました。この日は、学術情報総合センター10階会議室で落語会の実演が行われました。
 桂春雨講師が、桂春團治師匠の「野崎詣り」の解説をしました。大阪らしいのどかな風情の噺で、東京落語では真似できないそうです。
 続いて落語会の実演が行われ、桂春之輔師匠が「まめだ」を、桂春団治師匠が「野崎詣り」を演じました。どちらの噺にも「はめ物」が効果的に入っていました。大阪落語を十分に楽しみました。
 実演の後、春之輔講師がコミュニケーションカードの紹介を行いました。

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大阪落語への招待10(上級編1)(2008年6月20日)
 大阪市立大学公開授業「大阪落語への招待」の10回目に出席しました。初めに久掘先生より、学生レポートと一般受講生の感想文提出について説明がありました。
 桂春之輔師匠が講義を始めました。黒紋付きの着物を着ており、授業の後に「四代目旭堂南陵」の襲名記念公演に出演ために姫路へ行くそうです。いつもの通り、コミュニケーションカードの紹介を行いました。
 桂春雨講師に交代し、落語の中の女性について講義を行いました。落語の中に登場する女性は少なく、女性の落語家も少ないそうです。落語の中の女性は日常の女性より誇張されており、おばさん系となります。抜けてる亭主としっかり者のおかみさん(かか)の組み合わせです。例として、1~2分の落語を2つ(鳩おやじ、青菜)演じて見せました。落語の中には長屋のおかみさんと色街の女性がよく出てきます。お茶の葉っぱを売るのが「葉茶屋」で、今の喫茶店のようにお茶を飲む所を「水茶屋」、「お茶屋」は場所を提供しました。お茶屋は場所を提供するだけで、お酒や料理は仕出しを取り、芸子はよそから呼びます。場所を提供するだけで莫大なお金を取る商売です。色街の噺を「茶屋(さや)咄」と言います。芸子は年季奉公で、お客を金と見ていました。狂歌「楽しみは後ろに柱 前に酒 左右に女 懐に金」と、川柳「色街が明るくなれば うちは闇」と「色街がまだ暗いのに うちは闇」を紹介しました。続いて、代表的な落語「親子茶屋」を演じました。続いて、本日の本題、「悋気の独楽」について講義を行いました。主役は商家の御寮さんです。店は、「旦那ー番頭ー手代ー丁稚」とピラミッドを作っています。奥は、「御寮人(ごりょうさん、お家はん(=おえはん)」-「女中さん(女子衆さん(=おなごっさん))」となっています。ステータスは高いが顔が面白い商家の後家さんが主役の「猿後家」の冒頭を演じて見せました。悋気とは嫉妬心がめらめら燃える様を言います。「悋気の独楽」の登場人物の説明を行いました。旦那が外へ女性を囲っている噺です。お囲い者を、大阪では「お妾はん(=おてかけはん)」と呼び、東京では「お妾さん(=おめかけさん)」と呼びます。お妾はんは女中と一緒に、黒塀に見越しの松の屋敷に住んでいます。春雨講師が高座に上がり20分ほど「悋気の独楽」を演じました。御寮さんが20分の内8分間喋る落語でした。
 次回は落語会の実演で、桂春之輔師匠と桂春団治師匠が演じます。

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大阪落語への招待9(中級編4)(2008年6月13日)
 大阪市立大学公開授業「大阪落語への招待」の9回目に出席しました。今回は前に高座は用意されていませんでした。
 桂春之輔講師が講義を始め、前回のコミュニケーションカードの紹介を行いました。浴衣について、「浴衣は風呂上りに着るもので素足が基本。しかし、高級料亭へ招待された時などは白足袋を履いた方が良い。前座が高座の座布団を引っくり返す時には足袋を履かせる。」と説明しました。テレビ放送で、大阪では「おっちゃんは良いが、おっさんは怒られる」とありましたが、昔は「おっさん、おばはん」と言ったそうです。大阪落語では「旦那が使用人に対して丁寧語を使う」と話しました。
 大阪大学招聘教授の高島幸次さんが講義を行いました。高島講師は近世日本史を専攻し、大阪天満宮文化研究所の研究員です。高島講師の講義はとても面白かったです。春之輔講師の講義に対してツッコミを入れてました。大阪落語のルーツについて講義を行いました。
1、御伽衆の話芸
 ・御伽衆(御咄衆とも):室町時代末期・戦国期に大名に近侍して、話し相手を勤めたり、書物の講釈をした側近で、僧侶・神主・医師・茶人・元将軍・大名などがいた。
 ・秀吉の御伽衆:800人を数え、大村由己・足利義昭・織田信雄・織田有楽・六角義治・荒木村重・山名豊国・三好康永。曽呂利新左衛門?
 ・大村由己:大阪天満宮の神宮寺であった宝珠院の社僧で、秀吉の御伽衆も務めた。出雲阿国のパトロンでもあった。秀吉の伝記「天正記」12巻を著し、新作能の作品もある。
 ・御伽衆の下野:江戸時代初期に、在野に下り、神社の境内や河原で話芸を披露した。この活動(話術で楽しませる)が落語が成立する下地となった。
2、落語の祖たち
 ・安楽庵策伝:説法僧。「醒睡笑」で有名。
三都で同時代に落語の祖が出現
 ・鹿野仁左衛門:大阪で生まれ江戸へ出て話芸で人気を得る。「鹿野仁左衛門ばなし」「鹿の巻筆」を著す。
 ・露の五郎兵衛:四条河原や北野天満宮において、「軽口はなし」で人気を得、落語の祖となる。「露がはなし」「露新軽口ばなし」「露五郎兵衛ばなし」など著す。
 ・米沢彦八:大阪落語の祖と称され。生国魂神社において、「しかたはなし」で人気を得る。「軽口御前男」「軽口大矢数」などを著し、落語の原話を収める、
 ・17世紀後半の文化:各分野のトップクラスの人物(省略)が同時期に現れた。
3、落語の成立
 ・18世紀後半に大阪で、「咄の会」が盛んになり、素人が咄を創作し口演をを競う風潮の中、1800年ころ大阪落語中興の祖・桂文治が坐摩神社で定席を開く。
 ・明治期に全盛期を迎えたが、大正・昭和初期には吉本興業が発展するなかに初代桂春團治が亡くなり、寄席の主流は漫才に移った。
 ・1950年代には、笑福亭松鶴・桂米朝・桂文枝・桂春団治の四天王により、大阪落語の復興が図られる。
 ・2006年9月15日「天満天神繁昌亭」こけら落とし。
最後に、天満八軒とその周辺について解説しました。
 桂春之輔講師に代わりました。コミュニケーションカードを紹介を行った後、落語家(古今亭志ん生)のエピソードを話しました。
 授業の後、コミュニケーションカードを記入して提出しました。

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大阪落語への招待8(中級編3)(2008年6月6日)
 大阪市立大学公開授業「大阪落語への招待」の8回目に出席しました。今回は前に高座は用意されていませんでした。
 桂春之輔講師が講義を行いました。今日は機嫌が良いと話し始めました。「今日着てきた着物は仕立て上がりで、裄も丈も自分の思い通りになっている」と話しました。知り合いの女性の着ていた縞の着物を仕立て直したそうです。前回のコミュニケーションカードの紹介を行いました。着物に関することが多かったようで、春之輔講師は「着物は仕立て直しができる。女物を男物に、体格に合わせて仕立て直すことができる。浴衣は古くなったらおしめになる。夏祭りで浴衣を着るのは間違いで、宗教行事なので昔は盛装ででかけた」と語りました。はめものに関して「はめものは東京のセンスでは野暮となる。かって東京では出囃子がなかったが、今はある」と解説しました。
 桂春雨講師が芝居噺(落語の中に出てくる歌舞伎話)について講義しました。「芝居噺は登場人物の一人が芝居好きの噺で、段どりがややこしくて、難しくて、あまり面白くない」と話しました。「蔵丁稚」という落語が題材です。芝居が好きな丁稚の定吉が使いの帰りに旦那に黙って忠臣蔵の芝居を見に行った噺です。始めに、学生向けに忠臣蔵のあらすじを説明しました。そして、DVDの歌舞伎「仮名手本忠臣蔵 四段目」を放映しました。続けて、2代目桂枝雀の「蔵丁稚」の録音を聞きました。こらしめのために、旦那に蔵へ閉じ込められてしまった定吉は、空腹を紛らわすために(DVDで観た通りに)芝居の真似をします。芝居噺はやり手のない難しい落語だそうです。
 春之輔講師に交代しました。コミュニケーションカードの紹介をしました。「つる」と「時うどん」は同じ趣向で、同じ高座ではやらないそうです。今回は時間が足りなくなり、落語家のエピソードはありませんでした。
 授業のあと、コミュニケーションカードを書いて提出しました。

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大阪落語への招待7(中級編2)(2008年5月30日)
 大阪市立大学公開授業「大阪落語への招待」の7回目に出席しました。
 桂春之輔講師が講義を行いました。始めに、前回のコミュニケーションカードの紹介を行いました。「笑いは独裁国家でもある」に対して「笑いは独裁国家でもあるが、文化・芸術として形として残るのは豊かであること」と回答しました。落語に行く時の着物については、「歌舞伎にはお洒落着で、落語には普段着で来て欲しい」と答えました。この日の春之輔講師の着物は21歳頃に付き合っていた女性の母親から貰ったそうです。そして、「大阪は身丈が長めで、東京は短くくるぶしが見える。着物が高いのは仕立て代である。かって、東京は高座に木綿の着物で上がり、大阪は絹の着物を着ていた」と説明しました。母が着物を縫ったり、洗い張りをしていたことを思い出し懐かしく思いました。板張りの板も自宅にありました。春之輔講師は、子供の頃は大の巨人フアンだったそうですが、ラジオの中継が切っ掛けで嫌いになったそうです。巨人/中日戦で乱闘となった時に、解説の川上元巨人軍監督が「ジャイアンツの選手は乱闘してはいけません」を聞いた時だそうです。久しぶりにすき焼きを食べた話をしました。「鍋をつつき合う事は情を通わすことで、情のある間でないと食べられない。鍋をつついて別れ話はできない」と。
 桂春雨講師が講義を行いました。東京の「時そば」と大阪の「時うどん」を演じる前に時代背景について講義しました。「これまでの噺の時代は明治時代だが、こちらは江戸時代の噺」と、江戸時代の時刻制度について解説しました。そして、高座に上がり「時そば」を演じました。高座を下り、江戸時代の貨幣制度について説明を行い、再び高座に上がり「時うどん」を演じました。春雨講師は東京出身なので、「時そば」を演じてもちゃんとした東京弁になっています。大阪出身の落語家だとそうはいかないでしょう。笑うポイントは「東京はあっさりしてドライ、大阪は立体的でウエット」と解説しました。「時うどん」はもともと大阪の噺ですが、明治30年頃に3代目柳家小さんが初めて「時そば」を演じたそうです。
 春之輔講師に交代しました。春雨講師を呼び、着物の帯を比較しました。春雨講師が着けているのは帯源の帯で細く、春之輔講師の帯は太いです。扇子の種類を説明し、コミュニケーションカードの紹介をしました。最後に落語家のエピソード(破門されたが別の師匠の弟子になった)を紹介しました。いつもは実名で話すのですが、今回はさすがに落語家の実名をあかしませんでした。
 授業の後、コミュニケーションカードを記入して提出しました。

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大阪落語への招待6(中級編1)(2008年5月23日)
 大阪市立大学公開授業「大阪落語への招待」の6回目に出席しました。
○桂春之輔講師が講義を始めました。前回は大島でしたが、この日は木綿の着物でした。春之輔講師はとても恥ずかしいと言いました。東京の落語家は客より安い着物を着るが、大阪の落語家は客より高い着物を着るとのことです。前回のコミュニケーションカードの紹介を行いました。毎回、350枚のコミュニケーションカードを3時間かけて読んでいるそうです。
○桂春雨講師に交代し、寄席囃子について講義を行いました。
*寄席囃子は歌舞伎の下座囃子の影響を受けている。パクった? のでなく、本歌取りした。
 ・寄席囃子の楽器を実物で紹介
  「大ド」(大太鼓)、「締め」(締太鼓)、「銅鑼(どら)」、「柝(頭)(きがしら)」(拍子木)、「当り鉦(あたりがね)」(摺鉦)
当り鉦は、本来は摺鉦(すりがね)と呼ばれるが、「する」という言葉が縁起良くないので、「する」を「あたり」にかえて当り鉦とした。「するめ」を「あたりめ」というのと同じ。
 ・儀礼的囃子:始まりや休憩を合図する。
  一番太鼓:ドンドンドントコイ  初めに木戸開け
  二番太鼓:オタフクコイコイ
  バレ太鼓:デテデテ テンテンバラバラ  木戸閉める
 ・出囃子:演者が出てくる時に演奏される。前座専用の出囃子、落語家ごとの出囃子がある。
 ・ハメモノ:落語の効果音的な音楽(三味線、太鼓、笛などを演奏)
  雨の音、風の音、水の音、波の音、雪の降る音などを大太鼓や締太鼓、銅鑼を使って実演した。
○春雨講師の兄弟子の桂梅団治講師が現れて、儀礼的囃子や出囃子、ハメモノの実演の司会をしました。
*春雨講師と春之輔講師の弟子の咲之輔さんが楽器を使って実演した。
 ・一番太鼓は大太鼓で、二番太鼓は大太鼓と締太鼓で実演
*三味線の中田まなみ(春雨講師の奥さん)さんが加わり出囃子の実演をした。
 ・石段:前座の出囃子で咲之輔さんが高座に上がるまでを実演
 ・かっこ:桂米朝師匠の出囃子(長唄から)
 ・野崎:桂春団治師匠の出囃子(義太夫から)
*梅団治講師が高座に上がり噺をするのに合わせてハメモノの実演した。
 ・野崎詣り、姫路の皿屋敷の噺に合わせてハメモノを実演
○春之輔講師に交代しました。
*出囃子やハメモノは歌舞伎と文楽から取り入れた。東京が大阪の真似をした。
*「粋」の違い
 ・東京は「いき」、大阪は「スイ」と読む
 ・東京は着物の柄が縞柄や格子、大阪は女物の長襦袢を着る
コミュニケーションカードの続きを紹介をしました。最後に落語家(桂ざこば)のエピソードを紹介して授業を終わりました。
 授業の後、コミュニケーションカードを記入して提出しました。

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大阪落語への招待5(初級編4)(2008年5月16日)
 大阪市立大学公開授業「大阪落語への招待」の5回目に出席しました。
○桂春之輔講師がコミュニケーションカードへの応答や着物(この日は大島を着てきた)について講義しました。
*コミュニケーションカードへの応答
 ・貧乏を悲観してない
 ・男尊女卑でなく、ほとんどかかあ天下で女性を卑下していない
 ・敬語、丁寧語は未来永劫続いて欲しい。
 ・故郷の落語があって良い。韓国語や英語で語る落語家がいる。
*落語家は普段着やお洒落着で高座に上がらない。
○大阪大学総合学術博物館教授の橋爪節也さんが「落語的? おもしろグラフィック」と題して講義を行いました。OHPで書物の実物を見せながら解説を行いました。
*鳥羽絵 大坂で発達した戯画(鳥羽絵三国誌、鳥羽絵扇の的、軽筆鳥羽車、など)
 ・耳鳥斎(にちょうさい)
*絵口合種瓢(えぐちあいたねふくべ)
 ・山田案山子著述
 ・洒落を競い合う、駄洒落だけで楽しんでいた
*咄本 戯文
 ・一枚づつ売られた
*諺臍の宿替(ことわざへそのやどがえ)
 ・諺をそのまま絵にしたらどうなるか、を描く
 ・一枚ずつ売られた
*造物趣向種(つくりものしゅこうのたね)
 ・趣味人が考えた造物で、後に造物を実際に作った
 ・例:嫁入り道具一式で造った獅々、油屋道具で造った狸、など
○再び、春之輔講師が講義を行いました。
「コミュニケーションカードで敬語について沢山の反応があったことが嬉しい」と話しました。
春之輔講師は笑福亭松鶴師匠からよく稽古をつけてもらったそうです。自分の師匠以外に稽古をつけて貰うのは東京でも同じと、落語家のエピソード(柳家小さんと桂小金治)を紹介して授業を終わりました。
 授業の後、コミュニケーションカードを記入して提出しました。

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大阪落語への招待4(初級編3)(2008年5月9日)
 大阪市立大学公開授業「大阪落語への招待」の4回目に出席しました。
 授業開始前に、文学部准教授の久掘裕朗さんから上方文化講座2008「義経千本桜」(8/27~29)紹介がありました。
○桂春之輔講師が講義を行い、前回のコミュニケーションカードの紹介を行いました。
○続いて、桂春雨講師が講義を行いました。
*長屋の暮らし
 ・長屋の構成や物差し(曲尺と鯨尺)について説明
 ・全て手仕事で物は高いが賃金が低い(労働生産性が低い)、貧乏が当たり前(大阪の8割が貧乏)、掛け払いが普通
 ・貧乏長屋の名称:三月裏(戸がひし形)、六月裏(年中裸)、戸無し裏(戸を燃やした)、釜ひとつ裏(長屋に釜ひとつ)
20年前に録音された6代目笑福亭松鶴の「貧乏花見」を聴きました。聴く前に、学生にもわかるように半襦袢、羽織、胡粉などの説明がありました。
○桂春之輔講師に交代しました。
*大阪の「貧乏花見」が東京の「長屋の花見」になった。
 ・「貧乏花見」は遊び心で花見に行くのに対して、「長屋の花見」は大家が無理やり誘う
*人物
 ・大阪の喜六と東京の与太郎、横町の甚兵衛さんと横丁の大家さん
*大阪のユーモラスと東京のユーモア(演芸作家の三田純市さん)
 ・沖縄返還の直前に大阪で豚肉の安売り「懐かしい内地の皆さん、一足先に豚肉が帰ってまいりました」
 ・戦争中で小豆も砂糖も手に入らず東京で店を閉める時の張り紙「糖分休業」(単なるダジャレ)
最後に落語家(笑福亭松鶴)のエピソードを紹介して授業を終わりました。
 授業の後、コミュニケーションカードを記入して提出しました。

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大阪落語への招待3(初級編2)(2008年5月2日)
 大阪市立大学公開授業「大阪落語への招待」の3回目に出席しました。
○桂春之輔講師が講義を行いました。はじめに、前回のコミュニケーションカードの紹介を行いました。
*受動型と能動型
 ・受動型とは客の表情を見ながら噺をするのに対して、能動型は客を合わせさせる。大阪の場合は受動型が多い。師匠の桂春団治は能動型であり、まくらなしで噺をするがいつも同じではない。
*敬語について
 ・弟子の咲之輔さんに、「羽織をたため」と命じ、着物をたたむと咲之輔さんは「たたましてもらいました」と応えた。
○桂春雨講師に交代して講義を行いました。
*見台と膝隠し
 ・大阪落語独特のもので、東京落語では使われない。200年前の文化文政の頃の寄席では45度に傾いた書見台の上に本を置いて読みながら語った。それが、覚えて話すようになって見台を真直ぐに立て膝を隠すようになった。見台を置かない落語家が増えた。春雨講師も使用しない。
*小道具
 ・落語で使う小道具は扇子と手ぬぐいである。扇子はきせるになったり刀になったりつりざおになる。一方、手ぬぐいははながみになる。
扇子と手ぬぐいを使い筆で紙に書く動作を、「牛ほめ」の一部を語って見せました。つづいて、登場人物の多い「寄合酒」を語る前に、魚のおろし方(三枚、二枚)や子拍子で時間の経過を表わすことを説明しました。子拍子を効果的に使いながら「寄合酒」を語りました。
○再び、春之輔講師に代わりました。
*咄と噺と落語
 ・噺家は「噺」を好む。落語家は明治終期に現れ、落語は戦後に侵透した。東京は「寄席」で、大阪は「席」と呼んだ。
「御伽衆」や「滑稽本」については別の先生に講義して頂くとのことです。最近大卒の落語家が多いが、春之輔講師の同期では桂三枝のみだったそうです。最後に落語家(笑福亭鶴瓶)のエピソードを紹介して授業を終わりました。
 授業の後、コミュニケーションカードを記入して提出しました。

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大阪落語への招待2(初級編1)(2008年4月25日)
 大阪市立大学公開授業「大阪落語への招待」の2回目に出席しました。一旦、JR天王寺駅改札を入りましたが、ホームで時刻表を見たところ開講時間に間に合わないことが分かりました。改札を出てタクシーで杉本キャンパスへ向かいましたが、5分遅れで教室に到着しました。
○既に、教室では桂春之輔講師の講義が始まっていました。教壇には高座が設けられていました。授業のテーマは、「落語の情」と「東京落語と大阪落語」で東西の文化の違いを知って貰いたいとのことでした。
*落語の歴史
 ・御伽衆(戦乱の世の中、戦国大名にさまざまなお話を語って聞かせた)あるいは、お寺のお坊さん(信者に対して面白可笑しく語った)との説がある。僧侶が儀式に使う「中啓」が扇子の元であり、安楽庵策伝作の「醒酔笑」の中に前座噺の「平林(たいらばやし)」が載っている。
 ・1600年代後半に大阪、京都、東京で噺家の原点が出現した。大阪で米澤彦八が、京都で露の五郎兵衛が、東京で鹿野仁左衛門が出た。毎年9月の第1土曜、日曜日に生國魂神社で「彦八まつり」が開催されている。
 ・噺家の原点は、東京が座敷芸(芸者=幇間・太鼓持ち)で、大阪は大道芸(バナナのたたき売り、ガマの油売り等)である。
*大阪落語
 ・大阪落語は東京落語より素晴らしい。東京の「時そば」の元は大阪の「時うどん」である。また、大阪の「貧乏花見」が東京の「長屋の花見」になった。
 ・大阪落語の先祖は米澤彦八で、「軽口咄」「辻咄」を行った。昔、冗談を言う人のことを「あいつは彦八だ」と言っていた。
○桂春雨講師に交代して講義を始めました。
小話「明礬丁稚」の前に、話の基本を説明しました。舞台の下手と上手、商家の身分(旦那、番頭、手代、丁稚)、銅こ、大通りと横町などについて説明してから、高座に上がって小話をしました。つづいて、甚兵衛、喜六、清八の役回りについて説明した後に、高座で落語「つる」を語りました。
○再び、春之輔講師に交代しました。
若い人に、落語で敬語の使い方を知って欲しいと話しました。そして、最後に噺家(笑福亭鶴瓶と明石家さんま)のエピソードを紹介して授業を終わりました。
 なお、授業中に居眠りをしている学生を多く見ました。授業の後、コミュニケーションカードを記入して提出しました。

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大阪落語への招待1(開講にあたって)(2008年4月11日)
 大阪市立大学公開授業「大阪落語への招待」の1回目に出席しました。杉本キャンパスの基礎教育実験棟1F階段教室は学生と一般募集の受講生で一杯でした。
 金児学長の挨拶に続いて、桂春之輔講師が挨拶をしました。講義の二つのテーマは「落語の情」と「大阪落語」と話していました。「上方」でなく「大阪」を強調していました。挨拶代わりと小話をしました。
 文学研究科準教授の久掘裕朗さんが科目開講の趣旨、講義計画、講義の進め方等について説明した後に落語の面白さについて話しました。新作落語「まめだ」(私は2006年12月の島之内寄席で、桂春之輔の「まめだ」を聞いています)について、桂米朝と桂春之輔の実演比較を行いました。「まめだ」は演芸作家の三田純市さんが昭和41年に桂米朝に書き下ろした新作落語です。「まめだ」には「芝居」と「少し間抜けなところのある動物・同情をひく動物」の要素があるので、古い落語と思われる理由があると結びました。そして、少し間抜けなところのある動物(狸)や同情を引く動物(猫、キツネ、犬)が出てくる落語の例を話しました。

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2007年度

センター企画講座2007/5≪いま、日本で何が起こっているか≫9月ターム講座2007/9≪好況にひそむ雇用問題≫第36回市民講座2007/10≪都市のあそびー大阪再発見ー≫センター企画講座2007/12≪今、食を見つめなおす専門家講座2008/2専門家講座2008/3≪大坂と大阪を探ねるⅧ≫

専門家講座2008/3

空海と楠正成黒門市場源氏物語 門内の情感

「専門家講座3月」受講案内(2008年2月25日)
 大阪市立大学文化交流センター専門家講座3月の「文化・歴史コース《大坂と大阪をたずねるⅧ》」の受講案内のメールが届きました。
 社会で第一線で活躍中の、大阪市立大学卒業生を中心とした専門家が講師を務め、一般の受講者向けに解説します。18時30分から20時まで下記の日程で開催されます。
  3日(月) 空海と楠正成ゆかりの名刹・史蹟
 10日(月) 黒門市場の昨日・今日・明日
 17日(月) 源氏物語 門内の情感 

 

源氏物語 門内の情感(2008年3月17日)
 18時30分から、大阪市立大学文化交流センター「専門家講座3月」文化・歴史コース≪大坂と大阪をたずねるⅧ≫の講座を受講しました。
 第3回講座は、「源氏物語 門内の情感」と題して、大阪教育大学教授の神尾暢子さんが講義をしました。神尾さんは、「作品の中に登場する素材は無意味に存在するのでなく、何らかの意味、価値、プラスアルファの何かを担っている。辞書を引いて分かる以上のことを指し示している」と話し、「門」に関する記述の意味について講義しました。門は家の格を示すと共に通る人の人格も表すそうです。
 資料を下記の通り分類して、その意味を解説しました。
*家格の象徴 *箻門の美女 *門前の車馬 *門の賑わい *拒否の施錠 *叩門と佇立 *内密の叩門 *門内の風景 *荒廃の門扉 *門扉と女君
 源氏物語をはじめとする古典文学を全く知らない私にとって、今回の講義の内容は殆ど分かりませんでした。

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黒門市場の昨日・今日・明日(2008年3月10日)
 18時30分から、大阪市立大学文化交流センター「専門家講座3月」文化・歴史コース≪大坂と大阪をたずねるⅧ≫の講座を受講しました。
 第2回講座は、「黒門市場の昨日・今日・明日」と題して、黒門市場商店街振興組合 http://www.kuromon.com 理事長の西優さんが講義しました。はじめに、全国で商店街が13,300ヶ所あるが、商売が成り立っているのは2%強で、経営者は70歳平均だと話しました。
1、黒門市場の由来
 明治末期まで堺筋に面した日本橋二丁目に圓明寺という大きなお寺があったことから、黒門市場は圓明寺市場と呼ばれていた。圓明寺の北東に向って黒い山門があり、この黒い門の存在が後日、黒門市場と呼ばれる所以である。古書「摂陽奇観」に「文政5年(1822年)~6年頃より毎朝魚商人、此の辺に集まりて魚の売買をなし、午後に諸方のなぐれ魚を持ち寄りて日本橋にて売り捌くこと南陽の繁盛なるや」とあり、この記述が黒門市場の起源であると考えられる。
2、市場の変遷(昨日)
 大正期:明治35年に公認市場となった圓明寺市場(現、黒門市場)は明治45年に難波の大火災を経験したとはいうものの、大正期に入って中央市場を凌ぐ勢いで発展した。鮮魚を中心とした市場としての名は不動のものとなった。
 昭和期(前半):昭和に入ってからの市場の様相は、大正時代にも増して活気があった。午前5時~10時の間は白いカッポウ着の板前さん、午前11時~午後3時頃までは一般の買い物客、そして午後3時以降は料理屋等の玄人衆が客としてにぎわいを見せた。
 昭和期(戦後):昭和20年3月14日の空襲で黒門市場は焼失し、住人は離散を余儀なくされた。戦後すぐに市場は復興され、大阪府の払い下げのバラック住宅を建設し、かっての黒門仲間でいち早く市場を再建した。
 昭和25年~26年に配給制度が解除となり、「大阪の胃袋」としての黒門市場に再び脚光が当てられた。ミナミの街も活気づき、キャバレー・アルサロの全盛となり、黒門市場もその恩恵に浴した。市場の周辺には、ミナミのネオン街で働く女性たちの為のマンションが立ち並ぶようになった。
 昭和25年から昭和40年頃にかけて夜店の全盛期となり、昼間の営業店が閉店と同時に夜間店が開店し、早朝から夜間まで活況を呈していた。
 昭和40年代後半は、黒門市場のみならず全国各地の市場にとって「冬の時代」であった。巨大資本に圧倒され、日常生活の変化にともない、黒門市場にとって客数は横バイ状態で苦難の時期であった。
 昭和50年代に入って、対面販売の良さが消費者に見直され、スーパー等の冷たさとは反対に市場の持つ温かさが再認識されつつあり、PR活動も積極的に展開し、徐々に一般の買物客が増えつつある。昭和58年から百貨店にも催事出店した。年末には、戦前と同じく人も身動きできない程の盛況ぶりとなっている。
 平成期:長期的な市場振興策として、平成元年10月2日からスタンプ事業(90店舗参加)を実施し、販売促進と顧客の定着化を図っている。市場の活性化と環境改善のためのビジョンを策定している。
3、現在の黒門市場(今日)
 黒門市場は、大阪市中央区の南にあり、地下鉄・近鉄日本橋の南東に中心街が堺筋に平行に延びる形で広がっている。総延長は580m、店舗数は165店前後で、全体の約50%が魚・肉・野菜・卵といった生鮮食料品の店である。種類が豊富であり、鮮度がよく、活きの良さが特色である。界隈の飲食店や歓楽街向けの業務用販売が全売り上げの60%を占めている。来場者数は平日1日平均18,000人、年末1日約150,000人である。
 平成元年10月からスタンプ事業(名称:くろもんフレッシュスタンプ)を実施し、販売促進と顧客の定着化を図るため、店頭販売に力を入れている。また、黒門市場の将来を展望した「ビジョン策定」を行い、大阪における食文化の核となるように努力している。
4、これからの黒門市場(明日)
 黒門市場の知名度は高く、立地が良く、販売経費(小さな商店)が少ない。一方、信用度低く、少々高い値段、経営者の高齢化(跡継ぎがなく発展させる気持ちがない)の問題がある。
 黒門市場は商売になるので店の借り手があり、一切の規制をしていない。やる気を出すための意識革命、世代交代(息子へ交代)を促している。
 販売促進のために毎月売り出し、週1回の「ほんまもん土曜市」を開催している。海外の観光客が増えてきたので、その取り込みを考えている。また、知名度を利用して、ホームページの開設、インターネット注文を受けている。
 地域との共生も大事なことである。黒門市場があることで、従業員の宿舎や工場がある。若い人たちが店を休み、高津神社の祭りの手伝いをしている。住宅地に近い商店街で買わずに安い郊外の店へ行くことで地域が疲弊する。商店も頑張るので、客も買って欲しい。自分たちのためでなく、地域のためにもなる。一度潰れた店は再生できない。海外の若い人を呼び込むことで市場に活気が出てくる。スーパーと対抗するには値段でなく何か工夫が必要である。

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空海と楠正成ゆかりの名刹・史蹟(2008年3月3日)
 18時30分から、大阪市立大学文化交流センター「専門家講座3月」文化・歴史コース≪大坂と大阪をたずねるⅧ≫の講座を受講しました。
 第1回講座は、「空海と楠正成ゆかりの名刹・史蹟」と題して、元河内長野市助役の伏谷勝博さんが講義しました。伏谷さんは南河内で生まれ育ち、小学校・中学校・高校を通じて菊水の帽章・徽章で過ごし、菩提寺は薬樹山延命寺(真言宗、紅葉の名所)です。知らず知らずのうちに楠公さんとお大師さんに親しみ、身近に感じるようになり、伏谷さんの人生観に影響を与えてきたそうです。南河内には古寺・名刹や史蹟が各地に散在し、気候温暖で比較的災害が少ない土地です。伏谷さんはこの恵まれた土地に生まれ育ったことに感謝しているとのことです。
 南河内に縁りのある歴史上の人物、空海と楠正成の二人について話をしました。
1、役の行者
 役の行者は御所市に生まれ、葛城山で修業、後、吉野・大峰に移り、修験道(山岳宗教)を確立した。河内・和泉の山岳(河泉28峰)に法華経を写経して納め、修行の中で諸寺(高貴寺、広川寺、観心寺(雲心寺)、慈光寺など)を開いた。これらの寺はやがて衰退し、100年後に空海が再興している。
2、空海の事績と南河内との係わり
 空海は私費で遣唐使として中国へ渡り、帰朝後に真言密教を確立した。嵯峨天皇に願い出て高野山に金剛峰寺を開いた。京の東寺と高野山への往来の途次、巡鍚、布教の過程で諸寺の再興、創建に係わった。かつ、疫病対策、雨乞いなどの民生福利に尽くした(例:龍泉寺の雨乞い、盛松寺の柚子みそ)。
 諸寺の再興、創建・・高貴寺、広川寺、観心寺、滝谷不動など
 諸寺との係わり・・・・龍泉寺、河合寺、聖徳太子太子廟、盛松寺、金剛寺、延命寺など
3、高僧縁りの諸寺
 南河内には仏教史に残る高僧縁りの寺が集中している。
 広川寺・・西行法師終焉の地
 延命寺・・浄厳和尚(綱吉が江戸へ呼ぶ)、昭遍和尚(~明治40年、廃仏毀釈に反対)
 高貴寺・・慈運尊者(~1804)、役の行者→空海→慈運
4、楠木正成と南朝
 楠正成は6歳から14歳まで観心寺で瀧覚御坊の下で修行(教養と仏法を敬う心)し、大江時親に兵法(戦術)を学んだ。千早城(本丸)、赤阪城、18の出城(砦)を築き、河内の守護職として治世した。また、寺社(観心寺(建掛塔)、建水分神社など)に帰依した。
 正成の出自は謎(名門の出でなく、悪党と呼ばれた)で、彗星の如く現れた。情報収集力に優れ、時代を洞察する力、至誠・無私の生き方、信仰心の篤い人物であった。

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専門家講座2008/2

脱クルマ社会

「専門家講座2月」受講案内(2008年1月30日)
 大阪市立大学文化交流センターの「専門家講座2月」の受講案内のメールが届きました。
 社会で第一線で活躍中の、大阪市立大学卒業生を中心とした専門家が講師を務め、一般の受講者向けに解説します。3コースの講座を受講します。18時30分から20時(一部、14時30分から16時)、下記の日程で開催されます。
 スポーツコース≪する楽しみ・見る楽しみ≫
  18日(月) 今話題のハワイのフラについて
  25日(月) 街を活性化し、人を元気にするスポーツとは
 マスコミコース≪新聞で楽しく学び・遊ぶ≫
  21日(木) 新聞鉄則の「ウソ」
  28日(木) 人生のセカンド・ステージと新聞
 まち・住宅コース≪交通のまちづくりへの取組み≫
   8日(金) 脱クルマ社会ー公共交通と自転車をいかした街づくりー
  22日(金) 交通からはじめるまちづくり

 

脱クルマ社会ー公共交通と自転車を活かした街づくりー(2008年2月8日)
 18時30分から、大阪市立大学文化交流センター「専門家講座2月」まち・住宅コース≪交通のまちづくりへの取組み≫の講座を受講しました。
 第1回講座は、「脱クルマ社会ー公共交通と自転車を活かした街づくり」と題して、都市交通問題研究家の堀内重人さんが講義しました。
1、問題認識
 現在は、自動車に依存した日常生活がある。
 *自家用車で郊外型の大型商業施設で買物および食事をしている。
 *物流業界では、輸送量の9割以上をトラックが担っている。
 自動車に依存し過ぎる交通・物流政策の見直しが課題である。
2、自動車の利点と便益
 20世紀は自動車の世紀だった。
 *ドアtoドアで機動性に富む *好きな時間に移動が可能 *家族や仲間達だけの私的空間の確保
 *自動車産業と裾野産業の成長
 自動車=富の象徴であった。
3、クルマ依存社会の弊害
 *地球温暖化の促進 *大気汚染の深刻化(NOx、SOx、PM2.5) *騒音・振動の激化
 *交通事故の増加 *中心市街地の空洞化 *治安の悪化 *公共交通の衰退による高齢者の外出困難
 *行政コストの増加(新規の生活道路や上下水道の整備、ごみ収集コストや除雪費の増加)
4、地方都市で生じている問題
 *都市の低密度な郊外化による中心市街地の衰退と、それに伴う郊外型の大規模商業施設周辺の道路交通渋滞の激化→駅前商店街のシャッター通り化
 *歩行者の減少に伴う凶悪犯罪の増加 *公共交通の利用者減少による減便と路線の廃止
 *地方自治体の財政難
 自動車が増え過ぎると都市運営が難しい。
5、大阪市内も他人事ではない
1)大阪市内の更地の増加
 阪堺電気軌道沿線では、小規模工場の中国移転後の更地化と人口の高齢化が進んでいる。阪堺電気軌道も利用者の少ない堺市内の路線の廃止を検討していた。
2)商店街の衰退
 クルマ依存型社会への移行が原因で、郊外型の大規模商業施設が林立する一方、昔ながらの商店街が衰退している。
3)商店街の衰退2
 店舗の撤退により、跡地のコインパーキング化が進展し、商店街の持つ文化・歴史が崩壊している。
6、地方鉄道
1)地方鉄道の現状
 2000年3月の規制緩和により、不採算路線からの撤退が届出制に緩和された。
 *不採算路線の廃止が進展する危機が高る。 *設備の老朽化の進展(事故の増加が懸念)
 *不充分な補助金(設備更新の近代化補助や災害復旧費補助は国から支給されるが、金額は少ない)
 災害などで被害を受ければ、即座に経営を断念する。JRも例外ではない。
2)地方鉄道の経営危機の背景
 *モータリゼーションの進展 *少子高齢化の進展(通学生の減少) *不況(運賃を上げると乗らない)
 *都市構造の変化(都市の郊外化) *地場産業の衰退による過疎化の進展
 *内部補助に依存した路線網の維持の限界
 近鉄、南海でさえも例外でない。
3)和歌山電鐡
 南海電鉄が貴志川線の廃止を表明したことにより、岡山電気軌道の100%出資により、2006年4月1日に誕生した。
 *和歌山県がインフラを所有する上下分離方式を採用
 *貴志川線沿線が苺の産地であることにちなみ、「いちご電車」を導入し、車内には木材を多用している。
 *活性化に向けて:貴志川駅周辺に無料の駐輪場の設置、サポーター制度の導入、「いちご電車」のグッズの販売
7、地方のバス
1)地方のバスの現状
 2002年2月の道路運送法の改正により、需給調整規制が撤廃となった。路線廃止は、半年前までの「届出制」に規制が緩和された。
 *不採算路線からのバス事業者の撤退が加速
 *損失補填は、原則として地方自治体が行うが、財政難のために充分な補助が出来ない
 公共交通の空白地域が増加している。大阪市の人口密集地も同様である。
2)地方バス路線の存続危機の背景
 *モータリゼーションの進展 *少子高齢化の進展(通学生の減少) *不況(運賃値上げが困難)
 *都市構造の変化(都市の郊外化) *地場産業の衰退による過疎化の進展
 *内部補助に依存した路線網の維持の限界 *撤退に関する規制の緩和
3)特にバス運営が厳しい地方都市圏
 地方都市は、バス運営が最も難しい。
 *都心部では道路交通渋滞に遭遇し、バスの定時運行が困難
 *郊外は山林や水田が広がる過疎地
 都市型バスと過疎バスの両方の問題を抱え持つ。大阪市郊外も同様である。
8、コミュニティーバスの運行
 小型バスを用いて、100円および200円均一という低廉な運賃で、住宅地と駅や病院・スーパーマーケットなどを結ぶバスである。1995年の東京都武蔵野市の「ムーバス」(現在は黒字)が、今日のコミュニティーバスの原点であると言われている。採算性よりも、地域住民の日常生活の足の確保を目的としている。コミュニティーバスはゆっくり走るので、通過交通が減り渋滞が解消された。
1)住吉台「くるくるバス」
 背景は、昭和40年代に造成された神戸市の高台の住宅地は高齢化が進んでいるのも拘わらずバスが無いため外出が不便であった。マイクロバスを使用して、大人200円均一運賃による独立採算制である。
 市内との標高差が100mもあるため、潜在的なバス需要はあった。7:00から21:00まで15分ヘッドの便利なダイヤのため、1日当たり900人以上の利用者がある。ラッシュ時は座れない状態である。黒字で。
2)醍醐コミュニティーバス
 背景は、京都市営地下鉄東西線の開業に伴い醍醐地区のバスの再編が行われた。それによる公共交通空白地域の解消と、高齢化が進む小栗栖団地の住民への足を確保する。
 1、2、4号線はミニバス、3号線はワゴンタクシーで200円均一料金で、1日券は300円である。運賃以外に、地元企業や商店などの協賛金(高齢者に買物に来て貰う)でバスを支えている。1日当たり4路線の合計700人強が利用している。
3)くりちゃんバス、デマンド型くりちゃんタクシー
 2003年5月1日より運行を開始した。背景は、栗東市内から、バス事業者の路線撤退が相次ぎ、市内に公共交通の空白地域が生じた。
 バス5路線、デマンド型乗合タクシー(普通はタクシーで要請があれば路線運行)が6路線で、運航は帝産バスと湖国交通に委託した。運賃は大人200円、子供100円である。
4)「ムーバス」、「Cバス」(三重県鈴鹿市)から得たこと
 *1周3~5kmで、所要時間が20~30分の範囲で運行 *駅への乗り入れ *回数券の設定
 *60分の等間隔ダイヤの設定(「Cバス」から) *嘱託職員の活用
9、過疎地の公共交通(バス)
1)過疎地の公共交通(バス)の問題点
 *利用者のニーズに適応していない(コスト削減が最優先)
 *「バス事業者の車両(バス)でなければ」という発想がある・・・タクシーや旅館・幼稚園・自動車教習所・ゴルフ場のバスも積極的に活用したい
 *補助金は地域住民の足を確保するというよりも、やる気のない事業者の経営存続に使用されている
2)「くりちゃんバス」からの教訓
 *自治体が一方的に、コミュニティバスを作り、与えるべきでない
 *「ムーバス」「Cバス」の真似をしても、有効に機能(定員の半分以上乗車)しない
 *バスは自治体と事業者、地域住民が知恵を出し合って作り育てる必要がある。NPOが事業者と利用者の仲介を行うのが理想
 *タクシーは自治体の資源である、乗合タクシーを普及させたい
 *他のバスと区別が付く塗装を行う(利用者にわかり易い)
3)過疎地の公共交通(バス)の今後の課題
 *評価基準を変える(交通事業(バス)の採算性だけで評価するのではなく、外部効果も加味して検討する)
 *交通事業者と利用者の間にNPOが仲介役として積極的に係る(健全なNPOの育成)
 *交通事業者(バス・タクシー事業者)は、規制緩和をピンチとして捉えるのではな、くチャンスとして捉え、自ら企画・立案を行い、行政にプッシュする
10、自転車を活かした街づくり
 先進事例はドイツのミュンスター(人口28万人、市内交通の42%を自転車が担う)とオランダのアムステルダム(後述)である。
1)オランダの詳細
 *人口は、約1,570万人 *自転車台数は、1,700万台 *面積は九州とほぼ同等の41,000平方km
 *自転車道の延長は約19,000km(日本は6,445km) *オランダの道路総延長は約110,000km
2)アムステルダムの自転車道
 アムステルダムの人口は、約73万人で、市内交通の35%が自転車で、5km以内の移動に関しては50%を自転車が担っている。自転車レーンは車道側に設けられ、わかり易くするために色を変えて舗装している。中心部では車は一方通行とし、路面電車(LRT)と自転車に優先権を与えている。
3)欧州の自転車事情
 *自転車道が無い場合、自転車は車道を走行している *自転車レーンに歩行者は入ってはいけない
 *欧州は右側通行が多く、クルマが右ならば自転車も右 *5万~10万円程度の良い自転車が主流
 *変速機は普通に使用する *20~30km/h程度で走行 *走行マナーは極めて良い
4)日本の自転車の位置付け
 *歩行者の延長 スピードが出ない、遠くへ行けない
 *自転車は、駅やお買物などの近距離の移動に使用するだけの交通手段になっている
 *質の悪い安い自転車が普及
 *平気でその場に放置する、盗まれたり、撤去されたら新品を購入
(注)道路交通法
 *車両(自転車は軽車両)は、車道を通行しなければならない(道路交通法第17条)
 *車両は、道路の中央から左の部分を通行しなければならない(同第17条4項)
 *長さ190cm、幅60cm以下の普通自転車は、自転車歩道通行可の道路標識等により通行することが可能とされている歩道の通行が可能(同第63条の4(1978年の改正で追加))
11、道路における今後の優先順位
 *車椅子/ベビーカー(最優先)
 *歩行者(自動車から歩行者へ)
 *バスと路面電車(公共交通の中心)
 *自転車(足の不自由な高齢者には利用しづらい)
 *タクシー(高齢化社会の到来を考慮して)
 *トラック(経済活動を担う。極力、鉄道や内海海運へのモーダルシフトを行う)
 *乗用車(歩行者や公共交通を邪魔してはならない)
12、商店街の活性化を阻む要因
 *モータリゼーションの進展
 *郊外型の大規模商業施設の豊富な品揃えと割安な価格攻勢
 *病院・図書館・市役所・公民館などの公共施設の郊外への移転
 *割高なテナント料(共益費が高い)
 *後継者不足?(子供には、親と異なる商売をやらせれば打開できる可能性あり)
13、商店街を活性化させるには
1)行政の役割
 *病院・公民館・市役所などの公共施設を都心部へ戻す *都心部にある市役所は職員用の食堂を廃止(食事の補助)
 *都心部に高齢者用の住宅(マンションを建設)
 *公共交通の整備と充実
2)商店街側の対応
 *NPOを組織して活性化を模索する
 *商店街の持つ歴史や地域制の再構築
 *商品を売るのではなく、文化・歴史を売る
14、新しい街づくりの試み(コンパクトシティ構想)
1)富山市
 富山港線をLRTとして再生(新駅の設置、大増発)し、LRTの沿線に高齢者用の住宅を整備した。
2)青森市
 青森駅周辺に高齢者用の住宅を整備し、商店街の活性化を行った。自動車の一方通行化と歩道の拡幅して住みやすい都市を目指している。背景として、東北新幹線の函館延伸による都市の衰退を危惧している。
15、活気溢れる魅力的な街とは
 *歩きたくなる街(瀟洒な店がある、くつろげるスペースがある、市民の出会いおよび交流のある街)
 *地域経済の活性化と雇用の創出・・・治安も向上
 地域住民が主体となり、行政がサポートする形で創出

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センター企画講座2007/12

健康と食生活活性酸素と現代の医食同源学何が問題?遺伝子組換え作物日米BSE牛肉問題とWTO世界の食糧需給と日本農業

センター企画講座12月≪今、食を見つめなおす≫受講案内(2007年11月27日)
 大阪市立大学文化交流センターのセンター企画講座12月の《今、食を見つめなおす》の受講案内のメールが届きました。
 文化交流センターが企画する講座です。月ごとにひとつのテーマを設定し、そのテーマに対しさまざまな角度から掘り下げて解説します。全6回の講義の内5回受講します。18時30分から20時まで(または、14時30分から16時
)下記の日程で開講されます。
  3日(月) 健康と食生活ー健やかで長生きするためにー
  4日(火) 活性酸素と現代の医学同源ー生物進化から栄養学を診るー
  5日(水) 何が問題?遺伝子組換え作物
 11日(火) 日米BSE牛肉問題とWTO-食の安全と国際貿易の問題からー
 13日
昼(木) 世界の食糧需給と日本農業

 

世界の食糧需給と日本農業(2007年12月13日)
 14時30分から、大阪市立大学文化交流センター「センター企画講座」(テーマ:今、食を見つめなおす)の講座を受講しました。
 第5回の講座は、「世界の食糧需給と日本農業」と題して、大学院経済学研究科教授の松島正博さんが講義しました。1時間半で講義するには無理であると講義を始めました。
1、世界の食糧需給略史
1)マルサスの予言
 19世紀の経済学者マルサスは「人口は等比級数(1から2、2から4、4から16)で増加するが、食糧は等差級数(1から2、2から3、3から4)でしか増加しない」と予言した。人口増加については当たっているが、食糧不安については当たっている部分と当たっていない部分がある。
2)人口爆発の世紀
 20世紀になって人口が爆発的に増加した。それまでは人口は増えていなかった。日本の人口は、1900年4300万人、2007年1億3100万人である。世界の人口は、1900年16億人、2001年61億人、2007年65億人である。一方、食糧についてはラウンドすると生産力水準は過不足なしである。しかし、購買力がないと食糧は流れていかない。飢餓と飽食が混在している。
3)20世紀型増産システムー品種改良、化学化、省力化、多投入、装置化(灌漑)
 緑の革命により食糧増産が試みられた。品種改良を実現するための最低条件は科学化(化学肥料)と装置化(灌漑:給排水できること)である。多投入は化学肥料、省力化は機械化である。
2、何が基礎的な条件か(1)-供給面
1)収穫逓減の法則
 同一地点で肥料を追加投入すると、当初は収穫量が増加してもやがて収穫量は頭打ちとなる。
2)優良地の限定性=土地豊度の差
 投入量が一定でも土地豊度により産出量に大きな差が出る。高単収地域は限定されている。
3)世界の土地分布
 PAOの統計によると、農用地を100とすると耕地が28%、永年牧草地が69%とのことである。農地に適した土地は人間にとっても快適な場所であり、高単収地域から工場や住宅用に潰されていく。(土地利用の競合)
4)20世紀型増産システムの限界
 緑の革命の先頭にいたアメリカが1980年代半ばになって、多投入に対する反省を言い始めた。地下水、土壌の汚染、表土がもろくなり風や水で土壌が流出するなど農業基盤を危うくした。
5)三つの競合:水利用と土地利用と生産物用途
 土地利用(前出)と水利用の競合性については皆言っていたが、生産物用途の競合は予想外であった。食糧とエネルギー(石油代替のバイオエタノール)が競合している。
3、何が基礎的な条件か(2)-需要面
1)人口要因
 世界の人口は2007年65億人、2050年95億人と予測されている。食糧需要面からは大したことはない。1.5倍の増加は可能である。
2)所得要因
 中国、インドの人口大国の所得水準が上がっている。経験則によると所得水準と肉類消費量が相関する。それが穀物消費の増大をもたらす。肉1Kg当たりの穀物消費量(Kg)は、枝肉ベースで鳥2、豚4、牛8で、精肉ベースで鳥3、豚6、牛12である。人口増加の比ではない。所得水準があがると食物が変わる。21世紀の食糧事情は楽観できない。
4、日本農業の宿命、そして我が国が出来ること
1)食糧自給率低下ーそれは問題なのか、問題だとすればどういう意味で問題か
 フリーなマーケットが維持できるかである。日本国民にはアメリカ大統領に対する選挙権はない。食糧が余っている時はフリーなマーケットと言うが、政治が絡んだ時にフリーなマーケットが維持できるかが問題である。従って、ある程度の自給率を維持する必要がある。
2)自給率低下はどうして生じたのか
 偶然だが、ブラザ合意の1985年が分岐点となっている。1985年をピークに国内農業総生産額が下がり始めた。1985年以前の自給率低下の要因は新大陸の粗粒穀物、大豆等の飼料用穀物の輸入増加である。これらは低単収で低価格の作物は低地代の国が得意で、日本の農業が不得手としており合理性があった。
 1985年以降、他の作物が外国ともろに競合し始めた。それ以前は国内不作の時に緊急輸入をしていたが、輸入が恒常的に行われるようになった。スーパーと商社が組んだ開発輸入が増加した。また、その他商品(分類不可:1ロット小で高価格)の輸入が増えた。金額/重量で比較すると、新大陸が安く、ヨーロッパが高く、アジアが中間である。食生活が豊かになり、個人商店が減少してスーパーに主導権が移った。スーパーは定番商品を揃えなければならず、開発輸入を推進した。
3)低下傾向を反転できるか
 国内農業生産だけの問題ではない。飼料穀物は日本ではできないことと肉類の消費動向から考えて、がんばっても自給率1~2%増ほどにならざるを得ない。
4)何が出来るのか
 農業技術協力(ODA利用の活発化)によって安定的な輸入先を確保する必要がある。1970年、輸入を安定するために輸入先の多角化をスローガンに掲げた。しかし、35年が経過した今は寡占化して特定の国に依存している。手をこまねいていても、この傾向は止まらない。そこで、農業技術協力によって新たに農業生産にふさわしい国に開発支援を行うことが、人類にとっても貢献することになるだろう。

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日米BSE牛肉問題とWTOー食の安全と国際貿易の問題からー(2007年12月11日)
 18時30分から、大阪市立大学文化交流センター「センター企画講座」(テーマ:今、食を見つめなおす)の講座を受講しました。
 第4回の講座は、「日米BSE牛肉問題とWTO-食の安全と国際貿易の問題からー」と題して、大学院法学研究科・経済学部教授の平覚さんが講義しました。
1、はじめに
 BSEとは牛海綿状脳症、いわゆる「狂牛病」のことで、牛の起立不能や運動失調をもたらす悪性の疾病である。世界25ヶ国で19万頭が感染した。英国で18万5000頭、日本で33頭(全頭検査)、米国で2頭(サンプル調査)である。
 1996年英国で、BSE汚染牛の食肉等の摂取により新変異型クロイツフェルトヤコブ病(vCJD)が人に発症した(らしい)。BSEと同じように人間の脳をスポンジ状に変化させる。vCJD患者数は204人(英国、2007年8月現在)で、日本人1人(英国滞在経験者)である。潜伏期間が10年~20年と長い。
2、問題点の所在
 問題点の所在は以下の通りである。
  *米国産牛肉の輸入制限問題
  *食の安全と自由貿易という2つの価値の対立
  *WTO(世界貿易機関)協定の中の衛生植物検疫措置協定(SPS協定)による調整問題
  *国際ルールの下で日本はどのような権利と義務があるか
3、日米BSE牛肉問題の経緯
 1)国産牛のBSE対策
  *2001年9月 国内初のBSE感染牛の発見
   ・対策→牛の特定危険部位(脳やせき髄)の除去と全頭検査を全国一斉に開始
  *2005年5月 内閣府食品安全委員会が国内対策の見直しを答申
   ・BSE検査対象牛の月齢を全年齢から21ヶ月齢以上に変更しても人に対する食品健康影響(リスク)は低い
  *2005年7月 BSE検査対象牛、0ヶ月以上から21ヶ月以上へ変更、全頭検査体制の緩和
   ・3年間は地方自治体による全頭検査に国庫補助
  *2007年8月 厚生労働省は2008年7月末で国庫補助の打切りを宣言
   ・全頭検査体制の一斉終了の重要性を強調
   ・一部の地方自治体は反発し、全頭検査体制の継続を宣言
   ・政府と地方自治体の間の対立と混乱
 2)米国産牛肉等の輸入制限
  *2003年12月26日 米国内で飼育されるカナダ産牛にBSE感染が発見され、米国産牛肉等の輸入禁止が発動
   ・2002年現在、日本は米国産牛肉の最大の輸入国(25万トン、米国の全輸出量の30%)
   ・日本国内の米国産牛肉のシェア27%
   ・米国畜産農家、日本の牛肉輸入業者、飲食業に大打撃、消費者にも影響
  *2004年10月 日米政府間で輸入再開条件について合意
   ①特定危険部位を全月齢の牛から除去
   ②20ヶ月以下の牛由来の牛肉に限定
  *2005年12月 食品安全委員会が上記輸入再開条件を満たす米国産牛肉について「リスクは非常に小さい」と答申
  *2005年12月12日 輸入再開
  *2006年1月 特定危険部位(せき髄)が混入された牛肉が発見され、輸入停止。                  *2006年6月 対日輸出条件の遵守のための措置と、全箱確認などの水際検査を強化することを条件に輸入再々開を日米政府が合意
  *2006年7月27日 輸入再々開
  *2007年5月22日 国際獣疫事務局(OIE)が米国を準安全国に認定
   ・米国産牛肉は月齢に関係なく安全→国際基準
  *2007年5月 米国は国際基準に従って月齢制限の撤廃を要求
  *2007年11月16日 ブッシュ大統領が福田首相に国際基準に従った輸入を要求
  *現在、日本政府は月齢制限を20ヶ月以下から30ヶ月未満に緩和する方向で検討中。
  *しかし、米国は月齢制限の撤廃を要求し、対立。
   ・今後、条件が合意されれば、その条件で米国産牛肉の安全性について、食品安全委員会によるリスク評価の答申を受けて、新たな条件で輸入予定。
4、WTO-SPS協定
  *衛生植物検疫措置協定(SPS協定)
   ・1995年WTOの発足とともに成立
   ・加盟国の衛生植物検疫措置(SPS措置)を国際貿易における保護主義的な濫用の防止という観点から規制
  *SPS協定の特徴
   ・科学性要件の導入
    ・SPS措置を十分な科学的証拠なしに維持してはならない
 1)国際基準より厳しい措置を導入する加盟国の権利と義務
  *米国産牛肉に対する現在の国際基準
   ・OIEのBSEコード→米国産の一定の牛肉について月齢制限なしに輸入を認めるべき
  *日本の現在の輸入条件
   ・月齢20ヶ月以下の米国産牛肉
  *SPS協定上、日本は国際基準より厳しい輸入条件を課すことができるのか? できるとして、その条件は何か?
  *SPS協定前文→国際基準に基づき加盟国の措置を調和させることを目標とする
  *SPS協定3条1項→加盟国は自国のSPS措置を国際基準に「基づいて」とるべき(義務でなく、奨励)
  *SPS協定3条2項→加盟国のSPS措置が国際基準に「適合する」場合は、SPS協定やWTOの他の協定との適合性を推定
  *SPS協定3条3項→科学的に正当な理由がある場合、国際機基準より厳しいSPS措置をとることができる
  *「科学的に正当な理由がある場合」とは?→SPS協定5条に基づいてSPS措置をとること
 2)SPS協定5条の義務
  *5条1項→加盟国は自国のSPS措置を「リスク評価」に基づいてとらなければならない
  *リスク評価とは?→①特定の飲食物がもたらす人の健康に対する悪影響を確認し、
                ②そのような悪影響が発生する「可能性」を評価すること
  *可能性とは?
   ・高い蓋然性である必要はないが、科学が完全に払拭しきれない理論的な不確実性ではなく、確認可能な可能性でなければならない
  *リスク評価における考慮要因(5条2項)
   ・入手可能な科学的証拠その他
   ・消費者の嗜好、文化的・道徳的嗜好などの非科学的証拠(日本人は食の安全に敏感)
   ・科学実験室の証拠だけではなく、現実の人間社会のリスク(人為的過誤や違法行為も含む)
  *国家による適切な保護水準の決定
   ・適切な保護水準とは、受け入れられるリスクの水準
   ・各加盟国は、当該リスクの社会的受忍の程度、経済的・技術的実現可能性、適正な資源配分、消費者の嗜好などを考慮して、決定。
   ・ゼロリスクもありうる
  *5条4項→保護水準の決定にあたり、貿易に対する悪影響を最小限にするべき(義務でなく、奨励)
  *5条5項→類似の状況において同じ保護水準を維持すること→整合性の確保(義務でなく、奨励)
  *5条6項→決定された保護水準を実現するためにSPS措置の選択に当たって、必要以上に貿易制限的でないこと
  *日本が国際水準よりも厳しい条件を維持していく場合の条件
   ・科学的なリスク評価だけでなく、現実の社会的なリスク評価をする必要
    ・食品安全委員会は科学的なリスク評価だけ
    ・現実の社会的なリスク評価は、農林水産省と厚生労働省(リスクを管理する機関とリスクを評価する機関が区別されている)
     →リスク評価と保護水準の決定(リスク管理)の混同の恐れ
  *日本のリスクと国際基準のリスクの比較
   ・20ヶ月齢での線引き理由は、350万頭のうち21ヶ月齢と23ヶ月齢の2頭で感染を発見
    →ここから推定するとリスクは350万分の2
   ・国際基準は、全年齢制限を撤廃→したがって、当然リスクはより高いはず→しかし、それでも安全
   ・ということは、日本の350万分の2の確率のリスクは、リスクといえるか。科学的不確実性にとどまるのではないか(リスクとはいえない)
  *日本の保護水準(日本政府は保護水準について明確にしていない→暗黙の保護水準)
   ・20ヶ月齢による線引きは。20ヶ月齢以下でBSE感染牛が未発見ということによる→すなわち、ゼロリスクを設定(していると推定)
   ・このような厳しい保護水準を維持する限り、現行の輸入制限を撤廃することは困難
   ・もし保護水準を下方修正する(輸入を認める)とするとどのようにそれを国民に説明し、説得してもらうか。
  *5条7項
   ・予防原則に基づく暫定措置を認める
   ・予防原則とは、重大な損害の恐れがある場合に科学的確実性がなくても損害を防止するための措置をとれる
   ・関連する科学的証拠が不十分な場合に、暫定措置がとれる
   ・「関連する科学的証拠が不十分な場合」とは、5条1項で求められるようなリスク評価ができない場合。
  *日本がこの5条7項を援用する場合、BSEに関連してリスク評価ができないほど、「関連する証拠が存在しない」か?
   ・国際基準であるOIEのBSEコードは、国際機関がリスク評価を行った結果作成されたという事実
    →リスク評価を行える程度の「関連する科学的証拠が存在」。
5、おわりにー結論
 米国産牛肉の輸入について、日本は国際基準よりも厳しい輸入条件を課すことができるが、そのためには、科学的および社会的なリスク評価に基づき、適切な保護水準を決定し、必要である以上に貿易制限的でないSPS措置を選択しなければならない。SPS協定はかなり厳しい要件を課しているといえる。

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何が問題?遺伝子組換え作物(2007年12月5日)
 18時30分から、大阪市立大学文化交流センター「センター企画講座」(テーマ:今、食を見つめなおす)の講座を受講しました。
 第3回の講座は「何が問題?遺伝子組換え作物」と題して、大学院理学研究科・理学部(付属植物園)講師の植松千代美さんが講義しました。初めに植物園を紹介し、講義を始めました。講義は大学の2コマ(3時間)分を1時間30分で話すとのことでした。
1、遺伝子組換え作物はどのようにして作られるのか?
 1)人口の増加と食糧の確保
  *狩猟、採集から農耕へ
  *野生種から栽培種へ
  *品種改良による収量の増大(最大の目標は収量の増加)
    ・従来の品種改良(交配、選抜、固定)→新種誕生には少なくとも10年を要す
    ・遺伝子組換え(既存の郵政新種の目的の遺伝子を導入)→理論的には数年で新種誕生も可能
 2)植物の遺伝組換えを可能にした
  遺伝学、分子生物学の発達
    ・メンデルの遺伝の法則と遺伝子の本体 ・制限酵素とDNA連結酵素 ・プラスミドの組換え
 3)植物の組織培養
 4)遺伝子組換え植物の作出
植松先生は遺伝子や組織培養、遺伝子組換え植物の作出について詳細に講義しましたが、私には分りませんでした。
2、どのような組換え作物が作られているのか?(下線は日本で食品として利用可能)
 1)除草剤耐性作物(ダイズナタネトウロモコシテンサイワタ
  *除草剤(ラウンドアップ、バスタ)を撒いても枯れない。
    ラウンドアップやバスタはアミノ酸合成を阻害
     →阻害されるアミノ酸合成経路のバイパスとなる酵素の遺伝子を導入
 2)害虫抵抗性作物(ジャガイモトウモロコシワタ
  *BT(バチルス。チューリンゲンシス)が生産する殺虫性蛋白質(BT毒素)の遺伝子を導入。
    害虫が摂食すると死ぬことで被害が軽減される。
    人は腸管内に受容体を持たないために摂食しても害はないとされている。
 3)ウイルス病抵抗性作物(パパイヤ、ジャガイモ、イネなど)
  *植物がいったんウイルスに感染されると防除は困難。
  *弱毒ウイルスを予め接種→病原体ウイルスを感染しにくくなる。
  *ウイルスのコート蛋白質を生産するための遺伝情報を植物体に導入して防除。
3、問題点は何か?
 1)食品としての安全性
  安全性確認の根拠は「実質的同等性」(「組換えで導入された遺伝子の産物についてのみ調べれば良い」とする考え方)
  *期待されない成分が含まれる可能性
  *期待した成分が含まれない可能性
  *新規のアレルゲンとなる可能性 
 2)生態系への影響
  *花粉を介した遺伝子の水平方向への拡散
    ・近隣で栽培される同種の非組換え作物への影響
    ・畑周辺の近縁野生種への影響
  *こぼれた種子の雑草化=国内ではすでに確認(後述)
  *遺伝子の産物であるタンパク質の影響
    ・例:BT毒素は害虫だけでなくあらゆるりん翅(チョウやガ)に作用する
  将来、問題があるとわかったときに組換え作物や組換え遺伝子を回収する手段がない。
 3)作物の遺伝的多様性の喪失
  *自家採種=農家による種子の再生産
  *F1種子の開発により自家採種が激減
    ・品種の画一化により害虫、異常気象により世界的な皆無作となる恐れ
    ・バイオメジャーによる種子市場の独占
      開発会社は何世代も栽培、採種したい。しかし、農家が購入した後の自家採種を防止したい。
        (ターミネイターテクノロジーが明らかにしたGMの目的)
4、こぼれ落ちたナタネの問題(こぼれ落ちたナタネに由来するGMナタネの出現)
 1)2002年~2004年に環境庁ならびに農水省が全国の港湾周辺を調査
  *ラウンドアップ耐性のナタネが鹿島港、千葉港、名古屋港、四日市港、神戸港で検出
  *バスタ耐性のナタネが鹿島港、名古屋港、四日市港で検出
  *河川敷からは今のところ検出されず
 2)2007年に大阪市大・都市生物学研究プロジェクトが神戸港周辺を調査
  *こぼれ落ちに由来するナタネを検出
  *同所的にアブラナ科雑草(外来種)が自生(イヌカキネガラシ、マメグンバイナズナ、未同定の1種)
  これらへの影響を評価する実験を開始

 国内で商業栽培は行われていないが、試験栽培は始まっているそうです。

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活性酸素と現代の医食同源学ー生物進化から栄養悪を診るー(2007年12月4日)
 18時30分から、大阪市立大学文化交流センター「センター企画講座」(テーマ:今、食を見つめなおす)の講座を受講しました。
 第2回の講座は「活性酸素と現代の医食同源学ー生物進化から栄養学を診るー」と題して、大学院医学研究科・ 医学部教授の井上正康さんが講義をしました。プレゼンテーション資料を映して講義を行いました。講義の内容については一部しかメモが取れなかったので、配布された資料から抜粋して下記に記載します。
◆活性酸素の産出と消去
 ヒト成人は酸素を利用してエネルギーを再生産している。この際、生体内に取込まれた酸素の一部は不完全還元されて活性酸素やフリーラジカルに代謝されている。
 「活性酸素は諸悪の根元」と危険視されているが、酵素などでわざわざ産出しているのは無くてはならない分子であるためである。このため生体には活性酸素の有毒作用を無毒化する高度なシステムが備わってる。例えば、スーパーオキサイドジスムターゼ(SOD)、グルタチオンオキシダーゼ(GPX)、カタラーゼなどの消去酵素系やグルタチオン、ビタミンC、ビタミンEなどがその例である。体内で生じたほとんどの活性酸素はこれらの防御システムで部位特異的に速やかに制御されてる。
◆細胞の生と死の決定者
 虚血や低酸素などにより電子伝達系が還元状態になることで活性酸素の産出量が増えたり、SODなどの消去系に異常をきたして速やかに代謝できなくなる。この際、活性酸素によりミトコンドリアや細胞の膜脂質、タンパク質、DNAなどが酸化的に障害され、細胞死が誘発される。すなわち、ミトコンドリアは活性酸素代謝を介して局部的な細胞の生と死を決定している。
◆活性酸素依存型生存j機構
 活性酸素は、生体のあらゆる成分を攻撃しうるため、多くの病態の発症に関与している。スーパーオキシドが病態へ関与する根拠としては、長時間循環型の病巣指向性SODや血管内皮細胞指向性SODなどが脳虚血障害や高血圧を改善することなどからも明らかにされている。
 解析の結果、血圧がスーパーオキシドとNOのバランスにより制御されているのみならず、前者が正常血圧の維持にも不可欠であることが判明している。したがって、ヒトをはじめとする哺乳類の生存は活性酸素なくしては不可能である。
◆活性酸素と循環エネルギー制御
 ミトコンドリアの周辺の酸素、スーパーオキシド、及びNOのバランスにより循環エネルギー代謝が制御されていることが判明した。分子状酸素から生じる2種類のラジカル(スーパーオキシドとNO)は互いに牽制し合い、そのバランスにより多彩な生体反応を制御している。
◆活性酸素NO系と感染防御機構
 白血球が生産する活性酸素やNO系は病原体を殺菌排除するために不可欠な成分である。これは病原菌の最大の進入口である口腔や消化管内での必須の因子として作用している。
◆活性酸素NO系と生殖反応
 活性酸素NO系は排卵や勃起反応などを介して遺伝子を体外に放出する生殖反応にも関与している。この仕組みが雄で判ったのがバイアグラの研究であった。活性酸素が遺伝子の旅立ち反応に関与している様子は雌においても観察できる。
◆活性酸素NO系と変態のスーパーシステム 水棲から陸棲への進化
 活性酸素NO系は動物の成長や進化にも関与することが示唆されている。両棲類が水から陸上へ進出する際に起こる変態現象などでも重要な役割を果たしている。オタマジャクシがカエルに変態する際に起こる尻尾の筋肉細胞の特異的な自殺反応はNOによって誘起されている。
◆陸から空への進化
 研究室では、陸から空へ駆け上がった生物の代表として昆虫の変態における活性酸素NO系の役割を解析している。例えば、カブトムシや無菌カイコに心臓血管薬の亜硝酸剤を与えると、瞬く間に変態が誘起される。一方、NO合成酵素の阻害剤を与えると変態は抑制される。カイコでは蛹の状態で長期間眠り続ける。
 カルニチンが細胞死を抑制して変態速度を減速させる。この際、細胞死を免れた細胞が蓄積されていくので幼虫はドンドン大きくなり、巨大な芋虫が誕生する。この幼虫もやがて変態を起こして成獣になるが、芋虫のサイズに比例して巨大化してくる。現在、研究室では巨大なクワガタムシがぞろぞろ歩き回っている。
 変態生物は活性酸素やNOの代謝を利用して細胞死を起こす部位のスピードを特異的に制御し、多彩なボディサイズや形作りを可能にしてきた。
 多彩な疾患の原因となる活性酸素やNOは、生物の生存に不可欠な循環エネルギー代謝、感染制御、生殖、成長などを統合するスーパーシステムを構築している。長い歴史の中で、生物が海から川、陸、空へと生存領域を拡大してきた背景にも本スーパーシステムが関与していたと思われる。
◆活性酸素NO系と遺伝変質
 近年、活性酸素NO系は遺伝子変異に関与することも明らかにされつつある。例えば、ミトコンドリアの電子漏出で活性酸素が増産されると遺伝子変異が加速される。その結果、異常蛋白が産出され、活性酸素がさらに増産される悪循環が起こる。これに感染症が加わると、白血球由来の活性酸素障害が加わり、悪循環は一層加速する。
 慢性肝炎から肝癌を発症するプロセスが解明されつつある。肝硬変や肝癌の患者ではミトコンドリアの遺伝子に多数の突然変異が加速度的に生じていること、あるいはインターフェロンに反応する肝炎患者ではミトコンドリアの突然変異が停止しているのに対して、インターフェロンに反応しない肝炎患者では突然変異が続いていることなどが判明した。これらのことから、「ミトコンドリア遺伝子の突然変異が感染症などに加速されること」が発癌に関与している可能性が考えられる。
 同様のプロセスは潰瘍性大腸炎に付随して起こる大腸癌でも確認されている。この際、癌の悪性度はこのミトコンドリアの突然変異度に相関することも実証されている。
◆活性酸素と抗癌剤治療
 現在、活性酸素NO系代謝制御の観点から新たな癌治療が提案されつつある。
 抗癌剤による多くの化学療法にでは、癌細胞が死亡する前に患者が副作用で死亡することが大きな問題になっている。これまでの検討により、副作用死の重要な原因の一つが活性酸素であることが判明した。抗癌剤シスプラチンの殺細胞作用を解析した結果、ミトコンドリアの密度に逆相関していることが判明した。このためミトコンドリアへの依存性が高いほどシスプラチンの毒性が高く現れ、逆にミトコンドリア依存性が低いほど毒性が低いことになる。従って。ミトコンドリアの多い正常細胞の方が少ない癌細胞よりもシスプラチンの殺細胞作用を受けやすくなる。増殖しやすい癌細胞はミトコンドリアが少ないため、癌細胞が死滅する前に患者の正常組織が障害されて死亡することになる。  
◆抗癌剤の副作用抑制
 腎臓の近位尿細管に特異的に分布する塩基性SOD誘導体を開発した。シスプラチンをマウスに投与すると、投与1日目から近位尿細管のミトコンドリア遺伝子が崩壊し、呼吸機能が低下して細胞がアポートシスを起こしていく。この際、上記の近位尿細管指向性SOD(AH-SOD)を併用すると腎での障害が長期にわたって抑制され、シスプラチンン腎症を発症しないことが判明した。SODに限らず、特異的な能動輸送系を介して腎臓に濃縮されてミトコンドリアの劣化を抑制する物質も同様な作用を有することが判明している。今後、このような部位指向性保護分子群を系統的に開発し、臨床応用していくことが癌治療の大きな課題と考えられる。
◆おわりに
 生物が酵素や電子伝達系などで産出する活性酸素やNOは、生物の誕生から死に至る全過程で生存を支える必須の分子群であり、生存のスーパーシステムを形成している。しかし、これらは時間経過とともに遺伝子の突然変異などを介して避けがたいマイナス要因にもなってくる。このマイナス要因を最小化するための重要なターゲットがミトコンドリアの品質管理であると考えれれる。今後、日々の生活の中でより良いミトコンドリアの品質管理法を開発し、そこそこの健康をエンジョイできる環境を創りたいと願っている。

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健康と食生活ー健やかで長生きするためにー(2007年12月3日)
 18時30分から、大阪市立大学文化交流センター「センター企画講座」(テーマ:今、食を見つめなおす)の講座を受講しました。第1回目から第3回目までの講座は満席で応募を締め切りました。第4回から第6回の講座はまだ募集中です。
 第1回の講座は「健康と食生活ー健やかで長生きするためにー」と題して、大学院生活科学研究科・生活科学部教授の山本由美子さんが講義しました。生活習慣病と野菜の機能について述べました。
1、生活習慣病
 1)生活習慣病の種類
  ・糖尿病 ・脂質異常症 ・高血圧症 ・動脈硬化症 など
 2)生活習慣病の発症要因
  ・生活習慣要因(食生活、運動、休養、喫煙、飲酒など)
    (注)健康づくりの3要素:食生活、運動、休養
  ・外部要因(病原体、有害物資、事故、ストレッサー など)
  ・遺伝要因(遺伝子異常)
 3)肥満と生活習慣病
  ・肥満(内臓脂肪)が生活習慣病の発症に密接に関与していることがわかってきた。
 4)肥満の判定
  ・BMIが25.0以上:肥満 ・BMIが18.5未満:低体重(やせ)
   (注)BMI=体重Kg÷身長m×身長m Body Mass Index(体格指数)
2、メタボリックシンドロームとは
 1)内臓脂肪症候群ともよばれる
                          →(糖代謝異常)→
                          ↑           ↓
  (内臓脂肪蓄積)→(インスリン抵抗性)→(脂質代謝異常)→(動脈硬化症疾患)
                          ↓           ↑
                          →  (高血圧) →
 2)メタボリックシンドロームの診断基準
   ①腹部肥満(ウエスト径):男性 85cm以上、女性 90cm以上
   ②血清トリグリセリド値    150mg/dl以上、かつ/または
      HDLコレステロール値 40mg/dl未満
   ③血圧:収縮期血圧 130mmHg以上、かつ/または 拡張期 85mmHg以上
   ④血糖値:空腹時血糖値 110mg/dl以上
  ①の腹部肥満に加えて②から④の2項目以上が当てはまる場合
 3)メタボリックシンドロームの予防と食生活
  ・体重コントロール ・野菜を食べる 規則的な食事(食生活のリズム)
3、野菜の機能
 1)栄養機能     ・ビタミン、ミネラルの供給
 2)嗜好的機能    ・特有の味、香り、食感
 3)生体調節機能  ・ポリフェノール類などの抗酸化成分 ・食物繊維の供給 ・その他の機能成分の供給
4、野菜の生体調節機能
 1)ポリフェノール
  ①野菜や果物の色素としてのポリフェノール
    野菜の色素     色        食品
    フラボノイド    無色、黄     タマネギ、リンゴ、ソバ、茶
    アントシニアン  赤、紫、青    紫キャベツ、ナス、ブルーベリー
  ②ポリフェノールに期待される生理機能
   ・抗酸化効果 ・脂質異常予防効果 ・動脈硬化症予防効果 ・血圧上昇抑制効果
 2)食物繊維
  ①栄養学でいう食物繊維とは”人の消化酵素で消化されない食品中の難消化性成分”
   ・水溶性食物繊維(ペクチン、ガム質など)
   ・不溶性食物繊維(セルロース、リグニンなど)
  ②食物繊維はどこにあるか
   ・食物繊維は食品の構成成分として野菜、果物に含まれる。
   ・増粘剤、結着剤、乳化安定剤などの添加物として、あるい生理機能物質として加工食品に利用されている。
  ③食物繊維の生理効果
   ・エネルギー摂取調節(肥満) ・便性の改善(下痢、便秘)
   ・血中脂質上昇抑制効果(動脈硬化症) コレステロール上昇抑制効果 中性脂肪上昇抑制効果
   ・血糖値上昇抑制効果(糖尿病) ・(大腸癌予防効果)
  ④厚生労働省 健康日本21計画(2001~2010)
    成人 1日あたり野菜の平均摂取量の増加(目標値:350g/日)
  ⑤すこやか大阪21(平成13~22年)(大阪市の健康日本21計画)
    野菜の摂取量の増加(1日当たりの平均摂取量) 成人256g → 350g
5、生活習慣病が増えてきた理由
 1)食事の欧米化(高脂肪、低繊維食)
 2)食生活の変化
 3)運動不足
 4)ストレス
6、食生活の変化
  ・不規則な食生活(欠食、遅い夜食、外食の増加) ・サプリメントなどの普及 ・食情報の氾濫
 ○すこやか大阪21(平成13~22年)(大阪市の健康日本21計画)
  朝食を欠食する人の減少(欠食する人の割合)
    中学・高校生  12.1% →  0%
    男性(20歳代) 41.4% → 15%以下
    男性(30歳代) 18.2% → 15%以下
☆心身ともに健康で健康寿命の延伸を

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第36回市民講座

江戸時代の大坂観光草の根から創造都市・大阪を文楽散歩水辺の都市・大阪

第36回「市民講座」≪都市のあそびのすすめー大阪再発見ー≫受講決定通知書(2007年9月29日)
 第36回大阪市立大学「市民講座」の受講決定通知書が郵送されて来ました。
 テーマは「都市のあそびのすすめー大阪再発見ー」で、大阪市立大学文化交流センターにおいて下記の日程で18時30分から20時まで開講されます。4日以上出席した場合は修了証を授与されます。
  9日(火) 江戸時代の大坂観光ー日本の巴里ー
 12日(金) なにわ再生を考えるー創造都市への大阪モデルー
 16日(火) 大阪タンポポ事情ータンポポの雑種戦略ー
 19日(金) 生まれ変わる天王寺動物園ー大阪のど真ん中にサバンナが!!-
 23日(火) 文楽散歩ー人形浄瑠璃でめぐる大阪ー
 26日(金) 水辺の大阪を遊ぶーその履歴と展望ー      

 

水辺の都市・大阪(2007年10月26日)
 18時30分から20時まで、第36回大阪市立大学「市民講座」(テーマ:都市のあそびのすすめー大阪再発見ー)の講座を受講しました。用意された席はほぼ満席でした。若い人の姿もちらほら見えます。
 第6回の講座は「水辺の都市・大阪」と題して、大学院工学研究科准教授の嘉名 光一さんが講義しました。現在の研究テーマは「船場・中之島をはじめ京阪神における都心をフィールドにした都市デザイン、都市再生に関する研究」だそうです。
 「江戸時代から今までの大阪の水との関わりについて話し、写真や資料を見て頂く」と話し始めました。最初に、大阪市パノラマ地図(1923)を映しました。大正時代の大阪市には街の中に堀川が多くあったのが分ります。
1、近世 大阪の水辺
 秀吉、徳川幕府により市街地整備が行われ水路を骨格とした街づくりをしました。天下の台所と称され、大阪が栄華を極めた時代で、水辺にあふれる文化がありました。船場は秀吉が、江戸幕府が西へ開発しました。今の道路に代わるのが水辺でした。
 ○流通・物流の背骨○市場○銀行○上下水道・ごみ回収○遊び・社交空間○オープンスペース○盛り場○祭り
浜(東京は河岸)という空間形態があり、水辺を中心に都市が構成されました。200余の橋があり、その内12以外は民間が造りました。
2、明治・大正 大阪の水辺
 ○文明開化○居留地・大阪港の開港○鉄道○輸入鉄橋○市電開通○舟運から陸上交通へ
 明治時代の建物はレンガづくりで、建物の間が階段で水辺とつながっていました。
3、大正・戦前昭和 大阪の水辺
 ○都市の近代化○大阪が輝いていた時代○陸上交通へのシフト○東洋のベニス○風致都市格○東洋のマンチェスター
昭和の初めに、御堂筋、百貨店、中之島の整備、大阪城の整備が行われました。舟から水辺に建っているモダンな建物を見学しました。水辺に正面をもってきた建物も多かったです。
4、戦後・昭和 大阪の水辺
 ○復興と経済成長○ジェーン台風による高潮被害○地下水くみ上げによる地盤沈下○交通問題の深刻化と道路整備○環境・衛生問題の深刻化
水辺がなくなり、水辺にアクセスできなくなりました。川が迷惑化しました。
5、水辺再生の取り組み
 世界各地で水辺再生の取り組みがなされています。
 ・広島:水辺の再生、オープンカフェ
 ・ソウル:清渓川の復元(道路を廃止して川を再生)
 ・東京の日本橋:首都高速道路を廃止して川を再生(案)
 ・ロンドン:水辺に人の集まる仕組み(水辺に市役所、観覧車、観光船)
 ・アムステルダム:港を住宅へ
 ・ビルバオ(スペイン北東部):文化の都市再生(ブッケンハイム美術館)、工業の街を人の行ける場所へ
6、大阪の取組
 大阪で水辺を活用しようとする動きがあります。
 ・道頓堀川に船着場(夕涼みの人が集まる)、遊歩道(街の表情が変わる)
 ・水上タクシー
 ・大阪交際会議場に船着場
 ・新ABC社屋の前にスーパー堤防、船着場
 ・水辺のまち再生プロジェクト(NPO)
 ・ご来光カフェ(10/6-8、水辺を楽しもう)
 ・水都大阪2009(淀川改修100周年)
 ・八軒家浜:大阪府の事業で復元、平成の桜の通り抜け
 ・大阪市大:再び、水郷へ Aqua Metropolis OSAKA 
        場所(Place)としての水辺づくり、水辺を楽しみましょう
 講義終了後に閉講式が行われ、修了証の授与(4日以上出席者が対象)が行われました。名前を呼ばれ、一人ひとり中村副学長より修了証が手渡されました。私も修了証を頂いた118名の内の一人です。修了証授与の後、中村副学長の閉講挨拶がありました。

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文楽散歩ー人形浄瑠璃でめぐる大阪ー(2007年10月23日)
 18時30分から20時まで、第36回大阪市立大学「市民講座」(テーマ:都市のあそびのすすめー大阪再発見ー)の講座を受講しました。用意された席はほぼ満席でした。
 第5回の講座は「文楽散歩ー人形浄瑠璃をめぐる大阪ー」と題して、大学院文学研究科准教授の久堀 裕朗さんが講義しました。現在の研究テーマは「人形浄瑠璃」だそうです。
1、はじめに(人形浄瑠璃と大阪)
 上方の古典落語には、素人が義太夫を稽古する場面が出てきます。義太夫は浄瑠璃という語り物(楽器に合わせ、節を付けて物語を語る芸能)のうち、江戸時代に大阪で生まれた一つの流派です。現在「文楽」と呼ばれている伝統的な人形芝居の語りはこの義太夫です。第二次世界大戦以前、大阪の町では一般の家庭から義太夫が聞こえてくることは珍しいことではありませんでした。大正から昭和の初め頃には、義太夫のレコードも沢山作られています。江戸時代後半から近代にかけて、今のカラオケのように、沢山の人が義太夫を楽しんだ時代がありました。この義太夫や、義太夫と人形によって演じられる劇(文楽)が大人の娯楽でした。江戸時代には実際に起こった心中や殺人事件が、すぐに人形芝居で演じられました。例えば、近松の「曾根崎心中」や「女殺油地獄」が有名です。また、昔の歴史的事件を素材とする作品でも、同時代の現実が強く反映されています。
2、人形浄瑠璃の興行地
 義太夫節の元祖竹本義太夫は、貞亨元年(1684)に道頓堀で竹本座を旗揚げしました。義太夫は近松との提携のもとに、今日の文楽に繋がる義太夫節の人形浄瑠璃を確立していきます。義太夫改め筑後掾との提携で優れた作品を次々に生み出していきます。近松は宝永2年(1705)から竹本座専属になりました。元禄16年(1703)に、筑後掾門下の竹本采女が竹若太夫と名乗って独立しました。道頓堀の竹本座より東に豊竹座を創始し、座付作者には紀海音を迎えて竹本座に対抗しました。両座は18世紀の中頃まで長きにわたって競い合いました。
 その後、明和期に相次いで閉鎖され、人形浄瑠璃興行地はやがて、道頓堀のみならず北堀江市の側や、坐摩や御霊などの神社境内に拡散していきます。そんな中で頭角を現したのが、現在の文楽のもとになる植村文楽軒が経営した芝居小屋です。植村文楽軒は淡路の出身で、寛政年間に大阪へ出て浄瑠璃の稽古場を開きました。二代目の文楽軒のとき、船場博労町の難波神社境内に進出します。境内には博労町のお稲荷さんと親しまれる稲荷神社があり、「稲荷の芝居」と呼ばれていました。明治になり政府の命令で宮地芝居(寺社境内にある芝居小屋)が強制的に移転を命じられ、文楽軒の芝居は松島へ移ることになりました。明治5年(1872)のことですが、この時初めて「文楽座」と名乗りました。明治17年(1884)に御霊神社境内に(大正15年焼失)、昭和5年(1930)には四ツ橋に(昭和20年焼失、戦後復興)、昭和31年(1956)に道頓堀に(昭和38年朝日座と改称)移っていきました。当初、江戸時代には文楽軒の芝居ができたとき、それはいくつかあった人形浄瑠璃の劇場の内の一つでした。近代に入り大正期には文楽座が人形浄瑠璃唯一の劇場となり、人形浄瑠璃という芸能自体が文楽と呼ばれるようになりました。
3、時代浄瑠璃の中の大阪
 久堀先生は、「摂州合邦辻」という作品を例に、人形浄瑠璃ゆかりの場所の説明をしました。四天王寺の西に合邦辻閻魔堂があり、天王寺区生玉町に月江寺(光明山林照院という尼寺)という寺があります。この合邦辻閻魔堂と月江寺の由来譚として作られたのが 「摂州合邦辻」です。あらすじ(省略)を聞き、、浄瑠璃「摂州合邦辻」合邦住み家の段(省略)を聞き、ビデオ(昭和48年NHK放送)を鑑賞しました。その後、「摂州合邦辻」にゆかりのある場所の説明がありました。
 時代浄瑠璃を楽しむには、その物語の起源となっているゆかりの場所や、その土地にまつわる伝説を知ることが、浄瑠璃の本質に関わる大切な要件です。

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草の根から創造都市・大阪を(2007年10月12日)
 18時30分から20時まで、第36回大阪市立大学「市民講座」(テーマ:都市のあそびのすすめー大阪再発見ー)の講座を受講しました。
 第2回の講座は「草の根から創造都市・大阪を」と題して、大学院創造都市研究科教授の佐々木 雅幸さんが講義しました。「大阪は好きではないが、大阪を見るに見かねて大阪へ来た」と話し始めました。先生は名古屋生まれだそうです。
1、「世界都市」から「創造都市」へ
 オフィスが減り、工場が減ると都市は衰退します。都市を別の使い方をすることで、どうしたら元気になる可能性があるのかについて話します。創造都市とは創造する人が多く集まる都市です。創造都市研究科は社会人が学んでおり、大阪で創造都市を築く人材を育てています。創造都市として有名なのはバルセロナで、沢山の芸術家が活躍しています。世界都市から創造都市への転換は9.11事件がきっかけです。世界都市には金融センターがあり、オリンピックが開催されています。東京は世界都市ですが、大阪は三流都市で世界都市の条件を満たしていません。
2、日本における創造都市の取り組み
 ●金沢市
  ・金沢創造都市会議の立ち上げ
  ・老舗・文学・ロマンの会の活動
  ・都市環境保全と町づくりで最も進んだ条例
  ・文化資本の集積を活かした金沢産業の新展開
   ・グローバル・ニッチ・トップ:回転寿司用コンベアのメーカー2社が世界へ展開
    小さな企業でも立派な企業、職人型で小さな企業でも都市型
   ・伝統産業のルネッサンス:金箔の箔打ち紙からあぶらとり紙
   ・IOデータも金沢市
  ・経済活動の基盤は文化、文化で飯を食う(大阪:飯を食えるようになって初めて文化)
  ・芸術や文化は都市の背骨
  ・金沢市民芸術村(1996年開設:旧紡績工場)
   都市の中に空洞化したスペースを市民が自由に使える芸術村
   1日24時間、1年365日自由に使える(真夜中に使えないと創造活動ができない)、市民がボランティア
  ・21世紀美術館を新設(2004年)
   空洞化した都心部に現代アートを中心とした美術館を新設(有料スペースと無料スペースが混在)
   新文化・新産業の創出と都心再生を試みる、芸術や文化への投資は経済効果がある
   産業を変え、創造性のある人を育て、美術館の周りに人が集まる(1年目45万人の人口に対して158万人)
 ●横浜市
  ・「クリエイティブ・シティ・ヨコハマ」(2004年1月)構想
  ・全国初の創造都市担当課を設置
  ・BankArt1929(バンカート1929)
   2銀行の建物を記念碑として残し、3年間の時限で若いアーティストに貸した
  ・横浜市の文化関連組織は縦割りでない組織となっている
 ●創造都市としての京都の可能性
  ・西陣町家倶楽部:西陣の町家から都市再生が始まる
   空家にアーティストやオーナーシェフのレストラン
   伝統工芸は文化的価値と経済的価値の両方が必要
   大阪は大学を郊外へ追い出し京都は都心にある
  ・都市景観条例の制定
  ・手描き友禅をパソコンで:ITを活用して伝統職人が挑戦
  ・京都芸術センター:明治2年創立の小学校跡を利用
   廃校を売らずに利用、大阪の学校は売られている
3、草の根から大阪の再創造を目指して
 ●進む空洞化
  ・大企業本社と主力工場の流出
  ・高まる雇用不安と経済危機(倒産とホームレスの増加)
  ・萎える企業家精神(中小企業の高い廃業率)
  ・名古屋は真のグローバル企業が在り、大阪には中途半端なグローバル企業
 ●上方文化の再創造を目指す
  ・企業メセナの衰退
  ・創業産業のインキュベーション(空洞化による遊休施設を劇場支援インフラへ)
  ・クリエーティブ・カフェの実験(2006年から)
 ●創造都市戦略への提言
  ・都市危機の認識(市民が先頭に立って) ・芸術文化の創造性 ・都市文化政策
  ・「区」に権限を委譲して思い切って分権化 ・社会インフラ(市民の中からプロデューサー)
  ・「創造都市会議」等の草の根

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江戸時代の大坂観光ー日本の巴里ー(2007年10月9日)
 18時30分から20時まで、第36回大阪市立大学「市民講座」(テーマ:都市のあそびのすすめー大阪再発見ー)の開講式が行われました。大阪市立大学文化交流センター所長の谷 直樹さんが挨拶しました。定員120名(16歳以上)に対して280名の応募があったそうです。用意された座席はほぼ満席でした。若い人の姿も見えましたが、多くが高齢者でした。

 第1回の講座は「江戸時代の大坂観光ー日本の巴里ー」と題して、大学院生活科学研究所教授の谷 直樹さんが講義しました。谷先生は江戸時代の大阪を研究しています。大阪には歴史もあり、文化もあり、江戸時代には都市観光のメッカであったと話し始めました。
1、江戸時代の大坂は遊興都市
 幕末に日本を訪れたイギリスの外交官ローレンス・オリファントの三都評は、江戸はロンドン、京都はローマ、大坂はパリに相当する都市としています。「大坂にはもっとも有名な劇場やもっともぜいたくな茶屋、もっとも広い庭園がある。そこは奢侈と富裕の地であり、また快楽と遊興とに時を費やそうとして来る当世風の日本人の遊び場である」と述べ、パリに匹敵する遊興都市であると指摘しています。「京大坂優劣」(文化11年<1814>刊『繁花風土記』)で、京都と大坂を比較(詳細省略)しています。江戸時代の京都や大坂では、名所・名物を紹介した案内書が出版されました。「新板都名所旧跡名物尽」と「新版大坂名所名物廻絵図」は、ともに絵解きの双六です。両者を比較すると、京都の方は名所28ヵ所のうち社寺が6割で、伝統的な名所が大きな比率を占めています。大坂の方は社寺が4割程度で、市や商店、遊び場など、都市的な要素が魅力としてとらえられています。
2、「浪華大紋日上高金銭山」(なにわおおもんびあがりだかこがねのやま)
 大坂日本橋の本屋安兵衛が文政8年<1825>に開板した「浪華大紋日上高金銭山」は、四季の紋日や神社仏閣への賽銭、茶屋の儲けなどを推計した一枚摺です。大坂の遊興の経済波及効果を算定しています。次項3で記述の金額は「浪華大紋日上高金銭山」と「天保増補」の数字を円換算した値です。
3、遊興都市の仕掛け
 ●蔵屋敷の仕掛けー蔵屋敷祭
 蔵屋敷には、米蔵や武家長屋のほかに、国元と江戸の間を往復する藩主が滞在する立派な御殿があり、しかも国元から著名な神社が勧請されていました。蔵屋敷の祭礼の日には、年に一度、屋敷の内部が大坂市民公開されていました。大坂市民にとっては、日本全国から市中の蔵屋敷に勧請された神々を居ながらにして参詣できました。一方、高松藩の金毘羅社のように、年間1億2000万円という賽銭は、藩財政にとって有難い御利益になったのでしょう。
 ●寺社の仕掛けー祭礼・参詣・開帳
 大坂を代表する十日戎(今宮戎)や天神祭(天満天神社)の賽銭の上がりや料理屋の売上、その他は莫大な額でした。十日戎で総額約24億円、天神祭で総額約16億円と記載されています。もともと寺社には、正月や彼岸の参詣、縁日や祭礼など、参詣客を集める豊富なノウハウがたくわえられていました。幕末の資料に、1月から12月までの日別に300項目にわたる年中行事が記載されています。そして、これらを横につないで様々な「霊場巡り」のネットワークが仕掛けられていました。しかも巡礼のコースには大坂城や両御堂、阿弥陀池、道頓堀などの観光スポットも組み込まれて、行楽的な意味合いも含まれていました。
 ●行楽地の仕掛けー都市近郊のレジャー
 天保山は天保2年<1831>に行われた淀川の川浚えによって生まれた人工の山です。この時の土砂運びはお祭り騒ぎとなり、大坂の町人たちはイベント感覚で参加しました。土砂の上には松や桜を植え、小川を設け、茶店が並び、やがて高灯篭も設置されて、天保山は大坂の新名所となりました。年間約8億円を稼ぐレジャーランドになっていました。
 大坂郊外の桃花の名所であった桃谷は花見の人出がある30日間で約30億円の額になりました。
 ●商売の仕掛けー誓文払と見世の間
 三井を初めとする1300軒の呉服店が小布を売り出し、約9億円の売上があったそうです。大坂見物のコースに豪商が含まれていました。
 ●盛り場の仕掛けー芝居と見世物
 道頓堀はは大坂の代表的な盛り場であり、芝居は大歌舞伎や中芝居、茶屋商売等であわせて1日約1億円でした。道頓堀の芝居は大坂最大の遊興場所で、寛永3年<1626>に新地開発の一環として設けられました。
 幕府は明和元年<1764>に道頓堀に隣接する難波村の畑地を買上げ、その地を請負って金田屋正助が開発したのが、難波新地です。川口を川浚えした土砂を埋め立てたが、その地固めのために夏の夕涼みが行われました。人出を当て込んで料理屋が軒を連ね、また見世物は年とともに盛んになり、庶民の好奇心を満足させました。
4、都市の楽しみ方ー現代につながる近世の大坂
 江戸時代の大坂は独自の文化を育んだ都市でした。大坂には蔵屋敷、寺社、商家、盛り場など各所に人を招き寄せる文化の仕掛けがありました。こうした都市の楽しみ方を一枚の摺物にまとめた「浪華名所独案内」というコンパクトな観光案内図が発行されていました。現代風に言えばウインドウ・ショッピング、タウン・ウオッチングといった、都市的な性格を帯びたものでした。大坂は都市における最先端の成果をみせる、都市観光のメッカでした。

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9月ターム講座2007/9

働き方の多様化と女性間格差ワーキングプアの日米欧比較

9月ターム講座≪好況にひそむ雇用問題≫受講案内(2007年8月27日)
 大阪市立大学文化交流センターの9月ターム講座月曜コース≪好況にひそむ雇用問題≫の受講案内メールが届きました。
 ターム講座は大阪市立大学各研究科・学部が企画する講座で、それぞれの研究成果をわかりやすく解説します。月曜コースは大学院経済学研究科・経済学部が担当致します。18時30分から20時まで下記の日程で開講されます。
  3日(月) 働き方の多様化と女性間格差
 10日(月) ワーキングプアの日米比較ー日本の現状を比較の視点から知るー

 

ワーキング・プアの日米欧比較(2007年9月10日)
 大阪市立大学文化交流センターの9月ターム講座 月曜コース≪好況にひそむ雇用問題≫2回目を受講しました。大阪駅前第二ビル6階の大阪市立大学文化交流センターで18時30分から20時まで受講しました。1回目より空席が多かったように感じました。
 講師は大学院経済学研究科・経済学部教授の福原宏幸さんで、テーマは「ワーキング・プアの日米欧比較ー日本の現状を比較の視点から知るー」でした。
 ワーキング・プア(就労貧困層)は昨年放送されたNHKの番組で注目されるようになりました。福原先生著の資料「日本のワーキング・プア問題」にワーキング・プアについて詳しく記載されています。ワーキング・プアを「年収が生活保護基準かそれを下回る勤労所帯、およびこの世帯に暮らす就業者」と定義しています。90年代後半以降、ワーキング・プアは確実に増えています。ワーキング・プアの増加をもたらしている最大の要因は、非正規雇用者の増大です。第2の要因は、賃金水準の低下と、非正規雇用者の賃金を規定する最低賃金が低位に据え置かれたままであることです。第3に、一人親世帯の増加がワーキング・プアの増加に寄与していることが予想されます。第4に、自営業者におけるワーキング・プアが増加していることです。
 アメリカにおけるワーキング・プアの登場と雇用・福祉政策、日本の現状(格差論からワーキング・プアへ)、EUにおけるワーキング・プアの「発見」と施策について、資料を見ながら講義を受けました。配布資料は、以下の通りです。
 1、アメリカのワーキング・プア率の推移 2、日米欧の失業率の推移 3、ワーキング・プアの最も長く就いた職種 4、日本のワーキングプアの定義 5、ワーキングプア世帯・ボーダーライン世帯率の推計(%) 6、単身世帯のワーキングプア・ボーダーライン率、普通世帯のワーキングプア・ボーダーライン率 7、生活保護被保護世帯数の動向、生活種類別の就労率 8、労働者の正規・非正規の数と割合、若年労働者の正規・非正規の数と割合 9、欧州各国と日本の最低賃金、平均所得に対する最低賃金の比率 10、EU諸国のワーキングプア率 11、先進諸国のワーキングプア定義 12、OECD諸国の貧困率ワースト5 13、OECD諸国の雇用関連支出(対GDP比率)、教育における公的支出の国際比較 15、税と社会保障による再分配効果 16、国民所得に対する税負担率の国際比率
 講義の最後にホワイトボードに日米欧比較をまとめたのが以下の図表です。
雇用政策 所得保障 新たな雇用支援
解雇規制ゆるい
非正規雇用少ない
就労が条件 なし
自己責任
EU 解雇規制強い
非正規雇用増
無条件に最低所得保障 積極的な雇用政策
就労能力の引き上げ
日本 EUと同じ 最低所得保障なし 現状:米流
今後 ?
 日本の今後の雇用支援が米流になるのか、EU流になるのか、あるいは第3の施策を選ぶのかは不明です。日本は、OECD諸国の雇用関連支出(対GDP比率)、教育支出(対GDP比率)の国際比較で共に低位にあります。

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働き方の多様化と女性間格差(2007年9月3日)
 大阪市立大学文化交流センターの9月ターム講座 月曜コース≪好況にひそむ雇用問題≫1回目を受講しました。大阪駅前第二ビル6階の大阪市立大学文化交流センターで18時30分から20時まで受講しました。いつもの公開講座と違って空席が見られました。受講者は変わらずに大部分が年配の方達でした。
 講師は経済学研究科・経済学部准教授の滋野由紀子さんで、テーマは「働き方の多様化と女性間格差」でした。
1、戦後最長の景気拡大
 2002年2月より始まった現在の景気拡大期間は戦後最長、しかし実感されていません。1965年~70年のいざなぎ景気は成長率は年率10%超で、所得の伸びも大きかったです。それに対して、実質成長率は平均2~3%です。企業の利益は負債の返済に回され投資と株主配当は増えていますが賃金は後回しになっています。アップしたとしても一時金に反映して、生涯所得には反映し難くくなっています。社会保障に対する不安、財政赤字による将来不安、雇用問題も大きく影響しています。
2、非正規労働者の拡大
 総務省「労働力調査」の男女別非正規雇用者比率によると、この10年間に非正規雇用者は男女共に増加しました。特に女性、若年者において顕著です。同じく、女性の年齢別非正規雇用者比率によると、15歳~24歳と25歳~34歳の上昇率増加が大きくなっています。男性も若年層が増加しています。特徴は、週35時間未満労働のパートタイム・アルバイト労働者が多く、週40時間以上労働の派遣労働者が増えました。非正規労働者のメリットは雇用形態の選択肢の多様化、労働者と企業サイド共に雇用の確保につながることです。自らが非正規労働者を選んだのなら問題はありません。自発的に非正規労働者を選択したのか否かの調査を行ったところ、正社員として働ける会社がなかったのが女性の2割で男女で1/4であり年々増加しています。
3、賃金格差
 厚生労働省「賃金構造基本統計調査」によると、一般労働者では男女間賃金格差は縮小傾向にあります。しかし、女性のパートタイム労働者と一般労働者の賃金格差は拡大傾向を示しています。女性一般労働者の賃金を100とすると女性パートタイム労働者は65位です。
4、企業における出産・育児と就業の両立支援に関する格差
 厚生労働省「平成17年度女性雇用管理基本調査」によると、事業規模別出産・育児と就業の両立支援施策導入の割合は従業員500人以上、100~499人の企業で高い率になっています。
 滋野先生の研究内容を説明しました。第1子出産関数の推計結果・第2子出産関数の推計結果・シミュレーションの条件を示し、第1子出産確率と育児休業制度、第2子出産確率と育児休業制度についての分析結果の説明がありました。慶應大学の樋口教授によると、フリーター経験があると結婚確率が下がるそうです。
5、施策
 パートタイム労働法(同一価値同一賃金)(2008年4月施行):まだ厳しい条件だが、第一歩にはなります。
 次世代育成支援対策推進法(2003年):子供達の健全なる育成を目的とし、従業員300人以上の企業と自治体が対象となります。2005年から行動計画の届け出が開始されました。結果、中小企業との間で更に格差が開きました。導入時コストは高まるが、企業イメージは高まります。マイナスなのかプラスなのかはわかりません。しかし、労働人口減に対するためにも中小企業にも取り入れて欲しいです。
 再チャレンジ支援策(2006年12月):女性、男女フリーター、退職後高齢者を対象とします。

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センター企画講座2007/5

「格差」か、それとも「排除」か社会安全システムわかものと社会保障

センター企画講座5月≪いま、日本で何が起こっているか≫受講案内(2007年4月24日)
 大阪市立大学文化交流センターのセンター企画講座5月の《いま、日本で何が起こっているか》の受講案内のメールが届きました。
 文化交流センターが企画する講座です。月ごとにひとつのテーマを設定し、そのテーマに対しさまざまな角度から掘り下げて解説します。全7回の講義の内3回受講します。18時30分から20時まで下記の日程で開講されます。
  8日(火) 「格差」か、それとも「排除」か
 10日(木) 社会安全システム
 23日(水) わかものと社会保障

  

わかものと社会保障(2007年5月23日)
 大阪市立大学文化交流センターのセンター企画講座≪いま、日本で何が起こっているか≫5回目を受講しました。大阪駅前第二ビル6階の大阪市立大学文化交流センターで18時30分から20時まで受講しました。1、2回目と同様に座席はほぼ満杯で、大部分が年配の方達でした。
 講師は大学院法学研究科法学部教授の木下秀雄さんで、テーマは「わかものと社会保障」でした。初めに、昨年7月23日放送のHHKスペシャル「ワーキングプア~働いても働いても豊かになれない~」を20分ほど放映しました。働いているのに生活保護水準以下の収入しかない人達が増えています。今回の講義の主旨は「若者に対して社会保障・社会的支援が必要」ということです。今、昼間働いて夜は漫画喫茶やネットカフェに泊り込んでいる若者が増えています。「ネットカフェ難民」と呼ばれ、路上生活同然の生活を送っています。1990年代半ば以後若者の雇用状況が激変しました。15~34歳の年齢層の失業率が高まり、フリーター(注)の数が年々増加しています。フリーター率は家族の経済力が貧しいほど、学歴が低いほど高くなっています。貧困の再生産が貧困を固定化しかねません。正社員の賃金は年齢とともに上昇しますが、正社員以外の賃金は横ばいとなっています。また、正社員も中心的な正社員と低賃金の正社員に2分化しています。そして、若者の過労死や自殺が増えています。若者の失業者と(正社員でも)低賃金は個人の責任ではなく、社会の仕組みが変わったことによります。1980年代半ばから進められてきた「日本型雇用」(新卒一括採用+年功序列賃金+終身雇用)の解体再編です。親と同居して初めて生活可能な「若者」層が出てきました。親の中にも、子供の生活費・年金保険料を負担しながら自らの生活を賄わざるを得ない層が出てきています。若年人口に占めるフリーター比率の上昇は社会全体に経済的な損失(税収、消費額、貯蓄の減少)を生じさせます。若者が悪いといって済むことでなく、本人任せにして済む問題ではありません。若い人達の大変さを思いやって、社会的支援を行って欲しいと思います。使う立場では偽装請負や労働基準法違反等をせず、最低賃金と医療を保障すべきです。連絡場所がないために就職ができないフリーターや路上生活者のための連絡場所を用意すべきです。これからの人達に対する教育については親の持っている金で差をつけるのでなく、可能性のある子供たちには社会が平等に支援を行うべきです。昔の大学の費用は安く、国立大学に入れば何とかなりました。今は小学校の段階から競争が始まっています。親は年金で暮らし、子供に対する支援を社会が行った方が良いです。
 (注)フリーター:学生、主婦を除く若年(15歳~34歳)のうち、パート・アルバイト(派遣等を含む)及び働く意志のある無職の人

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社会安全システム(2007年5月10日)
 大阪市立大学文化交流センターのセンター企画講座≪いま、日本で何が起こっているか≫2回目を受講しました。大阪駅前第二ビル6階の大阪市立大学文化交流センターで18時30分から20時まで受講しました。1回目と同様に座席はほぼ満杯で、大部分が年配の方達でした。
 講師は大学院創造都市研究科教授の中野潔さんで、テーマは「社会安全システム」です。「社会安全システムと児童生徒の安全確保」のための実証実験について報告がありました。社会の安全・安心を確保するために、情報通信技術(ICT)と人的仕組みを組み合わせたシステムを構築しています。背景としては、1)関西における学校内外での児童を対象とした残虐な事件、2)学校を舞台にした児童や教員を対象とした残虐な事件、3)大阪府:30年連続ひったくり認知件数全国1位→犯罪の多い土地柄として社会に認知、が挙げられます。社会安全システムの具体的ターゲットは、1)防犯(無線ICタグによる児童の見守り、防犯カメラによる商店街、学校の見守り)、2)防災、減災=震災、水害などの損害を軽減、3)交通の安全確保、4)食の安全確保、5)医療・福祉分野での安全確保、です。活用されるICTの具体例は、カメラ、無線ICタグ、非接触ICカード、バイオメトリックス(生体認証)、GPS(全地球位置確認システム)、地理情報システム、メール自動配信システム、各種データベースによる情報共有、です。また、人的仕組みの具体像は、従来の血縁、地縁、企業縁の枠を超えた人的ネットワークの再構築です。近畿地区の社会実証プロジェクトの概要と課題の説明がありました。アクティブ型ICタグを利用した生徒の安心安全確保(古江台中学校)、Nコードを使った安全・安心まちづくり(堺市)、子供の登下校見守り(帝塚山学院小学校)、街角見守りロボット(中央区中央小学校)の4つの社会実証実験の説明がありました。

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「格差」か、それとも「排除」か?(2007年5月8日)
 大阪市立大学文化交流センターのセンター企画講座≪いま、日本で何が起こっているか≫1回目を受講しました。大阪駅前第二ビル6階の大阪市立大学文化交流センターで18時30分から20時まで受講しました。座席はほぼ満杯で、大部分が年配の方達でした。
 講師は大学院経済研究科・経済学部教授の中村健吾さんで、テーマは「格差か、それとも排除か?」です。最初に「いま、日本の社会で起きていること」として、「週刊東洋経済」表紙見出し、野宿者の顕在化と野宿生活の長期化(野宿者の高齢化)、正規雇用者の減少と非正規雇用者の増加、ジニ係数の上昇、資産格差が所得格差に比べて大、生活保護受給世帯と貯蓄ゼロ世帯の拡大、給与所得者の2極化(中間層の減少)、社会保険システムの腐食と医療難民・年金難民、働いても貧困状態にある人(ワーキングプア)の増加を挙げました。アメリカやEUには「貧困」の基準があるが日本にはありません。
 EUにおいては1980年代末から「貧困」の代わりに「社会的排除」という語を使い始めました。社会的排除の概念は、1)多次元性(市民的な権利、政治的な権利、社会的な権利)、2)結果のみならず過程にも着目、3)累進性、4)関係の側面(社会的紐帯の側面)、5)相対性の5つの特徴があります。一方、「排除」概念への批判があります。1)経緯も因果関係も様々な現象を「排除」という語に一括してしまう怖れ、2)雇用のフレキシブル化や不安定化は社会の中心をなしてきた階層(男子正規従業員)を巻き込む(安定していた者たちの不安定化)から「排除」という概念を当てはめるのはふさわしくない、3)「排除」は普遍的な政策でなく特定の集団に絞った選別的な政策を誘発しやすい、という批判です。
 「排除」の難点を考慮に入れ、なおかつ静態的で経済的な「貧困」概念に代わる新しいアプローチとして「降格」があります。S・ポーガムは「社会的降格」の過程を、1)第1の局面:「脆弱」=失業しており、失業保険給付が終了し扶助を需給する場合もあるが、しかし自分にはまだ仕事を得るチャンスがあると考えている局面、2)第2の局面:(ソーシャルワークへの)「依存」=扶助の受給が恒常的になる局面であるとともに、いくつかの職業訓練や就労の試みが成功しなかった後に、本人がしばしば仕事探しを放棄してしまう局面、3)第3の局面:「社会的紐帯の解消」=労働市場への参入の見込みのなさ、健康の問題、住居の喪失、そして家族のつながりの消失、アルコールや薬物への依存、と言ってます。「貧困」に対するポーガムの理解は、社会サービスに対する依存のせいで、「貧困者」は、彼がかかえている一定の属性(たとえば低所得)ゆえに「貧困」なのではなくて、「貧困者」向けの社会サービスを受けているから「貧困」なのです。現代の発達した資本主義国における貧困は、もはや戦前のような「統合された貧困」でも、高度経済成長時代のような「縁辺的な貧困」でもなく、これまでの「中流」をなしていた(そして、価値生産活動の中心をなしていた)階層にまでおよぶ「降格をともなう貧困」だということです。(「統合された貧困」等:S・ポーガムによる貧困の3類型)
 日本の自立支援は就労自立です。日常生活や社会生活における自立も重要です。「自立」という言葉は危うい言葉です。完全に自立した人間はいません。我々は社会保険のお世話になっています。社会保険の面からみると、野宿者の方が自立していることになります。

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2006年度

インターネット講座2006≪運動する人へのアドバイスー身体と運動の探究ー≫文化・歴史コース2007/3≪大坂と大阪を探ねるシリーズⅦ≫

文化・歴史コース2007/3

大阪市文学碑大阪災害史近江商人の商法「あくがる」光源氏と夕霧

専門家講座3月「文化・歴史コース」受講案内(2007年2月20日)
 大阪市立大学文化交流センター専門家講座3月の「文化・歴史コース《大坂と大阪を探ねるシリーズⅦ》」の受講案内のメールが届きました。
 2月の初めに受講申し込みをしましたが、その受講案内です。専門家講座とは社会の第一線で活躍中の大阪市立大学卒業生を中心とした専門家が講師となり、わかりやすく解説します。3月の毎週月曜日18時30分から20時まで下記の4講座が開講されます。
  5日 「温故知新」大阪探訪 その1-「大阪市文学碑」15基建立のエピソードを語る
 12日 「温故知新」大阪探訪 その2-「大阪災害史」から学ぶもの
 19日 日本経営の源流ー近江商人の商法
 26日 「あくがる」光源氏と夕霧

  

「文化・歴史コース」4回目(2007年3月26日)
 『「あくがる」光源氏と夕霧』を受講しました。大阪駅前第二ビル6階の大阪市立大学文化交流センターで18時30分から20時まで受講しました。座席は大部分が年配の方達でしたが、前回に比べて空席が見られました。
 講師は大阪教育大学教授の神尾暢子さんです。最初に「物語底流の話型」について説明しました。オリジナルの物語を書くことは困難で、学んだことを利用して書くことがあります。以前に書かれた物語に載っていた話をうまく利用して書きます。以前の物語の話型(物語外部の話型の導入)の用例は、羽衣の物語が竹取物語のかぐや姫の物語に変形したことに見られます。同一物語内での話型(物語内部での話型の反復)の用例は源氏物語に見られます。講義内容は「あくがる」をキーワードに素材の類似性と相違性について、光源氏と夕霧親子の物語の解説をしました。光源氏の藤壺に対する思慕、父親の妻妾に対する息子の慕情の関係について解説しました。講義後に受講者の質問に答えて、初心者用として漫画の「あさきゆめみし」版の源氏物語を薦めました。また、注釈や現代訳を見ないで「本文」のみを読むことも薦めていました。
 受講前には退屈してしまうのではないかと思っていましたが、始まるとだんだんと講義内容に引き付けられました。源氏物語について初めて講義を受けましたが、論理的に物語が描かれていることが分かり、源氏物語に興味がわきました。先ずは漫画のあさきゆめみし版を読んで見ようかと思います。

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「文化・歴史コース」3回目(2007年3月19日)
 『日本的経営の源流 -近江商人の商法-』を受講しました。大阪駅前第二ビル6階の大阪市立大学文化交流センターで18時30分から20時まで受講しました。座席はほぼ満杯で、大部分が年配の方達でした。
 講師はツカキ・グループ代表の塚本喜左衛門さんです。京都で140年続く老舗の6代目で、本業はきもの、宝飾、毛皮の製造卸です。また、近江商人の語り部として各地で講演を行っているそうです。資料として、「近江商人の里の子どもたち わたしの五個荘むかし話」と「ツカキグループ創業140周年 伝統文化の保存再生」の小冊子が配布されました。講演で話された内容は冊子にも記述されています。
 最初に、売り手よし、買い手よし、世間よしの近江商人の理念「三方よし」について話しました。商売にとってまず大切なことは「売り手」の算盤が合うことで、借金せずに自立することが肝要です。しかし、「買い手」のお役に立って、お客様に喜んで頂き長い付き合いをできないと、商売ではありません。そして、商いを通じて「世間」のお役に立ち、更には世間様にご恩返し、つまり社会貢献できることが近江商人の目標であり、本願と説明しました。CSR(企業の社会貢献)の原型として、10年目に入ったカナダ産毛皮製品のプロジェクトを挙げていました。カナダでは森林保護のためにビーバーを間引いています。イヌイットがビーバーの堅い皮をなめします。また、カナダの主婦がカットされたビーバーの若毛を編んで、着色、デザインしています。カナダの森林を守り、少数民族の仕事を確保するために中国で製造を行うようなことはしていません。
 琵琶湖の湖東地域には多くの実業家が輩出しています。上場会社が多く、その出現率は全国平均の50倍に相当するそうです。近江商人の家訓として共通しているのは、真っ先に「互譲と融和」を掲げています。第二番目に重要なのは、倹約と早起きです。第三は楽しみ・芸事を謹み、人との交際範囲を慎ましくすること、つまり仕事へ精神を集中し、時間を有効に使えということです。第四は世間よしを実行し、世の中のお役に立つ、それを人生の使命としました。ちなみに、塚本家の家訓は「積善の家に必ず余慶あり」(善いことをすると、必ず子孫に幸福がやってくる)だそうです。
 太く短く豪快な人生でなく細くて長い人生、男は才覚と度胸でなく運・鈍・根、今をときめくやり方でなくアホでも続くやり方が近江商人だそうです。近江商人は昔から商いをするなら、財産は三つに分けておけと言われました。近代でいうなら「預金」・「土地」・「株」ということで、近江商人の三分法といわれます。そこで、本業を「きもの」・「宝飾」・「毛皮」という三つの専業部門に分け、会社の資産を「本業」・「不動産」・「財務」と三分の一ずつ配分しました。
 「過去に学ぶ」、「世の中を見る眼」、「近江商人の謎」(以上省略)と講義を続け、1時間半は瞬く間に過ぎました。最後に町並み保存地区「近江商人の里 五個荘」へ是非来て下さい、来て頂くと嬉しいと結びました。
 近江商人のイメージはあまり良くないのですが、今回の講演を聞いて改めて近江商人のすごさが分かりました。暖かくなったら、五個荘を訪れて見たいと思いました。

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「文化・歴史コース」2回目(2007年3月12日)
 『「温故知新」大阪探訪 その2-「大阪災害史」から学ぶもの』を受講しました。大阪駅前第二ビル6階の大阪市立大学文化交流センターで18時30分から20時まで受講しました。座席は満杯で、大部分が年配の方達でした。
 講師は前週と同じ郷土誌家の安井司(まもる)さんです。翌13日は62年前に大阪が1回目の空襲を受けた日で、安井さんの実家は全焼したそうです。その日のことを念頭において話を聞いて欲しいと話し始めました。配布された資料「大阪災害史」には過去500年余りの歴史の中で記録されている洪水・台風、地震・津波、火災などを中心にまとめてあります。地震・津波を始めとして台風や火災等の大阪の災害について話しました。災害に備えるものとして飲み水3日分と携帯用トイレを挙げていました。また、地震の時にとるべき行動について予め話し合ってみようと語りました。これまでの災害に対する先人の体験を尊重し、歴史に学ぶという姿勢を堅持していくことが大切であるとも話していました。
 今回が安井さんの最後の講義(大坂と大阪を訪ねるシリーズ)となりました。最後に、安井さんはこれまでの講義を大阪のために生かして欲しいと結びました。安井さんに花束が贈呈されました。

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「文化・歴史コース」1回目(2007年3月6日)
 『「温故知新」大阪探訪 その1-「大阪市文学碑」15基建立のエピソードを語る』を受講しました。大阪駅前第二ビル6階の大阪市立大学文化交流センターで18時30分から20時まで受講しました。180名が受講したそうですが、大部分が年配の方々でした。
 講師は郷土誌家の安井司(まもる)さんです。大阪市は大阪出身の作家(生存者を除く)または大阪を舞台にした文学作品を明治以降に限定して顕彰し市民文化の向上に質したいと考えて、昭和54年に「大阪市文学碑建立委員会」を結成しました。安井さんはその委員会の座長を務め、昭和55年より平成元年までの10年間に15基の文学碑建立に携わりました。この日は、それぞれの文学碑建立にまつわるエピソードを中心にお話しました。大阪市文学碑第1号は「織田作之助(木の都)」で「林芙美子(めし)」、「川端康成(反橋)」、「梶井基次郎(檸檬)」、「宇野浩二(清次郎 夢見る子)」、「三好達治(乳母車)」、「折口信夫(折口信夫全集)」、「武田麟太郎(井原西鶴)」、「谷崎潤一郎(蓼喰ふ蟲)」、「伊東静雄(百千の)」、「水上瀧太郎(大阪の宿)」、「森本薫(女の一生)」、「直木三十五(南國太平記)」、「百田宗治(何もない庭)」、「薄田泣菫(金剛山の歌)」と15基が建立されました。
 大阪市内に大阪にゆかりのある文学者の生没の地や文学作品の舞台となった場所が多くあることを初めて知りました。今後、文学碑15基と作家ゆかりの場所を廻ってみようと思いました。

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インターネット講座2006

「インターネット講座2006」受講案内(2006年3月22日)
 大阪市立大学文化交流センター所長から「インターネット講座2006」受講案内のメールが届きました。
 今年初めに大阪市立大学の「インターネット講座」の受講申し込みをしましたが、その受講案内です。講座名は「運動する人へのアドバイス-身体と運動の探求-」です。開講は4月1日で、1年間で3回のレポート提出があり、それに合格した場合には、学長名の修了書が授与されることになっています。講座の内容は下記の通りです。
 日本人の平均寿命は世界のトップクラスです。しかし、今日では単に長寿を目指すのでなく、生活の質(QOL)の向上を図りながら、自分の目的を達成し、人生を全うすることこそ重要であると認識されつつあります。その一手段として、身体的、精神的、社会的に良好で、快適な日常生活をもたらし得る運動を定期的に実施することも重要なことです。そのためには、運動とその実施方法について科学的な知識を十分理解し、至適な運動処方を試みることが第一義的に考えられます。本講座では、受講生のQOL向上に資するべき、各専門分野から運動のわかりやすい解説を試みます。
 大学におけるインターネットを使った遠隔講義を推進する上で、今回の試みは実験的な要素が多分にあります。インターネットで講座を開き受講者は一般参加であるので予想もつかない事が起こるかも知れないと思われる、新しい試みです。

 

最終レポート提出(2007年2月10日)
 第3回目のレポート(1月講座:運動する人のコンディショニング(2))を提出しました。 2月15日までに10回の講座より3回レポートを提出することになっています。11月と12月講座のレポートを提出し、1月講座が最終のレポート提出となりました。
 4月末に講座がスタートしましたが、5月以降の講座がなかなか掲載されませんでした。8月末になってようやく7月~9月の講座が一挙に掲載されました。10月~12月講座は順調に掲載されましたが、1月講座は1ヶ月遅れました。結局、5月と6月の講座はありませんでした。8回の講座を受講し終わりましたが、満足感はありません。何となく釈然としません。他の受講生はどう思っているのでしょうか?

 

1月講座(2007年2月7日)
 「インターネット講座2006」のホームページを閲覧したところ、1月の講座内容が掲載されていました。テーマは「運動する人のコンディショニング(2)」です。

 2007年 2月 1日 第2回レポート提出(12月講座:運動する人のコンディショニング(1)
 2007年 1月15日 第1回レポート提出(11月講座:ダイエットとスポーツ)

12月講座(2006年12月7日)
 「インターネット講座2006」のホームページを閲覧したところ、12月の講座内容が掲載されていました。テーマは「運動する人のコンディショニング(1)」です。

 

11月講座(2006年10月26日)
 「インターネット講座2006」のホームページを閲覧したところ、11月の講座内容が掲載されていました。テーマは「ダイエットとスポーツ」です。

 

10月講座(2006年10月10日)
 「インターネット講座2006」のホームページを閲覧したところ、10月の講座内容が掲載されていました。テーマは「構え姿勢と眼球運動反応時間」です。ようやく順調に講座内容が掲載されるようになりました。

 

講座再スタート(2006年9月4日)
 4月に講座内容が掲載されて以来、時々「インターネット講座2006」を閲覧していましたが、5月以降全く講座内容が掲載されませんでした。受講生からの問い合わせメールに対しても、きちんとした回答がありません。私も腹に据えかねて抗議のメールを送りました。そんなことがあったので、「インターネット講座」のことをすっかり忘れていましたが、8月31日に受講生の一人から講座内容が掲載されているとのメールがありました。そこで、本日ホームページを閲覧しました。7月テーマ「運動・スポーツとからだの安全管理」、8月テーマ「暑熱環境での運動時の水分摂取と体温調節」、9月テーマ「骨格筋の疲労原因は乳酸?-高強度運動の場合-」の講座内容が掲載されていました。結局、5月と6月の講座内容は掲載されませんでした。それにしても、なぜ通知もなしに講座内容の掲載がなかったり遅れたのでしょうか? やっと、講座が再スタートしました。

 

講座スタート(2006年4月29日)
 「インターネット講座2006」のホームページを閲覧したところ、4月の講座内容が掲載されていました。テーマは「安全なジャンプ方法」です。いよいよ1年間の講座がスタートしました。

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立命館大阪

立命館大阪プロムナードセミナー ⇒ 立命館アカデミックセンター「おとなの学び舎」
 2008年度から、立命館大阪オフィスで「立命館大阪プロムナードセミナー」の受講を始めました。一つのテーマを、散策するようにじっくりと時間をかけて掘り下げる連続講座です。
 2018年度から、立命館アカデミックセンター「おとなの学び舎」の受講を始めました。「大人の学び舎」は、さまざまな学びを深く体験したい人のために開かれた学舎です。 

2008年度2009年度2010年度2011年度2012年度2013年度2014年度2015年度2016年度2018年度

2018年度

木津川計講座 都市の在り方ー大阪の曲がり角

木津川計講座 都市の在り方ー大阪の曲がり角

木津川計講座 都市の在り方ー大阪の曲がり角:受付確認(2018年4月5日(木))
 立命館アカデミックセンター 大人の学び舎2018 都市の在り方ー大阪の曲がり角」の受付確認のメールが届きました。毎回、14時から15時30分まで下記日程で開催されます。9月27日に、第4回以降の受付確認書が届きました。
 第1回 2018年 4月27日(金) 大阪遷都論と言葉のヒエラルキー
 第2回 2018年 6月22日(金) 小林一三と宝塚型文化
 第3回 2018年 8月24日(金) 谷崎潤一郎と大阪のイメージ
 第4回 2018年10月26日(金) ゴーストップ事件と破滅への道
 第5回 2018年12月21日(金) 「ど根性」と「がめつい」の誕生
 第6回 2019年 2月22日(金) 70年日本万国博と深層海流 

大阪遷都論と言葉のヒエラルキー小林一三と宝塚型文化谷崎潤一郎と大阪のイメージ

谷崎潤一郎と大阪のイメージ(2018年8月24日(金)
 立命館アカデミックセンター おとなの学び舎2018「都市の在り方ー大阪の曲がり角」(講師:木津川計さん)第3回「谷崎潤一郎と大阪のイメージ」を受講しました。講義の内容は以下の通りです。 

 大正12年(1923)9月1日、谷崎潤一郎は箱根で関東大震災に遭った。谷崎は東京を離れ、関西へ家族と共に移住した。当時の谷崎にとって関西の人情風景は「一種の異国趣味の対象であった(中村光夫『卍』の解説より)。谷崎の感性に大阪の風土はなじめなかった。『蓼食う虫』の主人公要の抱いた義太夫観はそっくり谷崎の印象でもあったのだろう。何を描いてもその語り口の下品なのが嫌なのであった。
 『私の見た大阪及び大阪人』で東京と大阪の違いを述べている。東京の新内流しは「テンプラ食いたい、テンプラ食いたい」と澄んでいる。義太夫節の本場大阪は「ドンブリ食いたい、ドンブリ食いたい」の音色で文化圏はまるで違っていた。大阪を見下していた。

 『蓼食う虫』から三年後の昭和6年(1931)、谷崎は『吉野葛』を脱稿。主人公の津村は「大阪には浄瑠璃と、生田流の筝曲と地唄と、三つの固有の音楽がある」と教える。大阪への谷崎の理解はここから深められていった。翌7年『盲目物語』、8年『春琴抄』を発表する。それらは、東京が失った日本の伝統への目覚めであり、関西風土の血肉化を物語る記念碑的、文学的転換を告げる作品といえた。

 昭和2年(1927)、来阪した芥川龍之介と一緒に行ったお茶屋で大阪船場の豪商根津松太郎の夫人松子と運命的な出会いをした。松子は、24歳、一児の母であった。初対面のときから強く惹かれた谷崎は、以来、ひそかな思慕を抱き続ける。昭和5年、谷崎は妻千代と離婚。千代は佐藤春夫と結婚した。翌年、古川丁未子と結婚するが、谷崎の心を占めていたのは、松子であった。昭和7年、根津家は没落し、松子と夫が谷崎の住む魚崎の家の隣に移ってきた。垣根から行き来し、ついに谷崎は松子に「お慕い申しております」と愛を告白する。昭和9年、谷崎は丁未子夫人と離婚。10年、松子と結婚した。谷崎の名作『細雪』を生み出すきっかけになった転機であった。

 もし、関東大震災が起こっていなければ、谷崎は関西に移住したのかどうか。あるいは松子夫人と出会わずして『細雪』は誕生し得たであろうか。大阪近現代の文学が郷土賛美の文学を生まなかったのは何故か。大阪人でない東京人の谷崎が『がめつい奴』の対極作品を残して、大阪の失われたたたずまいや余情を今日に伝えてくれた貴重さである。かって大阪は含羞都市であった(木津川さんの大阪史観)。しだいに伝説にかすむこの都市は、『細雪』で一点またたき、優美に染められた。

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小林一三と宝塚型文化(2018年6月22日(金))
 立命館アカデミックセンター おとなの学び舎2018「都市の在り方ー大阪の曲がり角」(講師:木津川計さん)第2回「小林一三と宝塚型文化」を受講しました。講義の内容は以下の通りです。

 今年発売の広辞苑第七版に、初めて「趣味人」(意味:良い趣味を持っている人)が記載された。明治以降「趣味人」を排除してきた。「仰げば尊し」歌詞の2番に「身をたて名をあげ やよはげめよ」で立身出世、脱亜入欧、上昇志向。「ふるさと」の歌詞3番に「こころざしをはたして いつの日にか帰らん」、「村の鍛冶屋」1番で「しばしも休まず つち打つひびき」と日本人の勤労精神を歌っている。

 1984年、山一抗争が発生した。山口組側の死者10人、一和会側に死者1人、逮捕者500人に及んだ。1987年1月、神戸でエイズで女性が亡くなった(第一号)。それまでの神戸の良いイメージが崩れた。そこで、兵庫県が「宝塚市には宝塚があります(清く 正しく 美しく)。甲子園(男の宝塚)があります(質実剛健)」とPRした。宝塚を生み出したのが「小林一三」である。
 大阪文化には四つの類型から成り立っている。①宝塚型文化(都市的華麗) ②河内型文化(土着的庶民性) ③船場型文化(伝統的大阪らしさ) ④千里型文化(学術研究機能性)。これらの文化の混在が大阪文化の多様性をもたらした。この内、河内型と船場型は土着的大坂的特質が持たされた既存文化である。宝塚型と千里型は傑出したリーダーによって創出された類型である。前者は阪急グループ生みの親小林一三で、後者が国立民族博物館初代館長の梅棹忠夫であった。
 小林一三は1873年(明治八)山梨県に生まれた。慶応義塾大学を卒業後、三井銀行に入った。阪鶴電車の監査役に就任した。その後、箕面有馬電軌(のちの阪急電車)を創設した。小林は様々なアイデア商法の天才であった。①電車中吊り広告を生み出す ②宅地開発と分譲の創設者 ③宝塚少女歌劇の生みの親 ④住宅月賦販売の開拓者 ⑤ビジネスホテルの創業者 ⑥チェーン方式の先駆けー東宝百館構想 その他。
 松竹と並ぶ東宝の基礎は小林一三によって確立された。宝塚歌劇の創立は華麗な関西文化の輝く力量を戦前に知らしめた。歌劇団員のモットーを定めた。「朗らかに、清く、正しく、美しく、これをモットーとする我党の芸術は即ち、高尚なる娯楽本位に基づくところの国民劇である」と。

 大阪文化の4類型にはそれぞれに対応する芸能がある。宝塚型文化ーミュージカル、レビュー、現代演劇など。河内型文化ー大衆芸能全般。船場型文化ー文楽、上方歌舞伎、上方舞、地歌など。千里型文化ー能、狂言、四天王寺舞楽など。これら芸能の中で先行き困難が予測されるのは、船場型文化に対応する文楽、上方歌舞伎、地歌である。大阪の都市格を高めるためには、船場型文化を衰弱させてはならない。

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大阪遷都論と言葉のヒエラルキー(2018年4月27日(金))
 立命館アカデミックセンター おとなの学び舎2018 「都市の在り方ー大阪の曲がり角」(講師:木津川計さん)第1回「大阪遷都論と大阪弁の運命」を受講しました。講義の冒頭に、「今年度末で木津川計講座を修了する」との話しがありました。講義の内容は以下の通りです。
 
 司馬遼太郎の作品を読んで知識を得た。『竜馬がゆく』『翔ぶが如く』『坂の上の雲』を読んで、幕末から明治を良く知った。司馬は明治の基礎は明治10年までに出来上がってしまったとしている。西南戦争が明治10年、翌11年に官の代表の大久保利通が暗殺された。

 慶応4年(1868)1月2日の鳥羽伏見の戦いに始まり、4月11日の江戸城無血開城に至る政治的混乱のなか、維新の立役者・大久保利通は「大阪遷都論」(詳細省略)を主張した。しかし、公卿勢力の反対に加え、前島密の反対論(大阪の江戸に及ばない理由六カ条(詳細省略))により大久保の願うようには進展しなかった。慶応4年9月8日に元号が明治に変り、翌2年3月28日に明治天皇が東京に着いた。また、諸官庁も京都から東京に移り、事実上の遷都がなされた。

 急速に近代国家づくりを進めるためには、言語の統一を図らなければならなかった。日本では多様な方言が使われていた。百姓や町人の自由往来は通行手形がなければ許されなかった。そのため藩と藩との境が言葉の壁になり、互いに交わることができないまま多様な方言として定着した。近代国家は通行の自由が必要で、東京弁(東京の山の手の言葉)が標準語となった。東京弁が標準語にされていく過程で、言葉のヒエラルキーが形成され、方言を見下す風潮が強まった。東京は、東北地方を日本の奴隷地帯、あるいは労働力の供給地とみなしていた。中央政府の都市から眺めて、東北の文化は果つるところされた。

 東京から関西を見ると、関西は明治になっても依然「上方」であった。互いに相手の言葉を奇異としつつも、東からみて西は高い文化の先進エリアであったし、西もまた東を将軍家のおひざ元あることを、認めない訳にはいかなかった。もし、大久保利通の大阪遷都論が実現していたら、大阪弁が標準語になっていた。
 東京弁に対峙する大阪弁であるが、大阪弁に対する評価は近年低下してきた。大阪は「がめつい」「どケチ」「ケバイ」「おもろい」という把えられ方が広がり、「ヨシモト、タコ焼き、タイガース」の大阪観となり大阪弁の値打ちが下がってきた。根底には大阪の都市格が低下し続けた60年代高度成長以降、大阪が発信してきた情報に大きく影響されている。

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2016年度

木津川計の一人語り劇場

木津川計の一人語り劇儒

木津川計の一人語り劇場:受付確認(2016年4月3日(日))
 立命館大阪プロムナードセミナー「木津川 計の一人語り劇場」の受付確認書が郵送されてきました。
 木津川計さんが芝居や映画の名作を語って10年。ただ語るだけならその作品を観た方が良いに決まっている。なぜ語るのかは新たな視点で眺めればこそ浮かびあがる作品像だからだ。名作を今日的に評価するため「木津川 計の一人語り劇場」は誕生した。教室のステージで実際に語ります。毎回、14時から15時40分まで下記の日程で開催されます。
 第1回 2016年 4月22日(金) 「番長皿屋敷」異聞
 第2回 2016年 6月24日(金) 私は貝になりたい
 第3回 2016年 8月26日(金) 「曾根崎心中」以後
 第4回 2016年10月28日(金) 菊池寛と語りの文化の可能性
 第5回 2016年12月 9日(金) 屋上の狂人
 第6回 2016年 2月24日(金) 「生きる」これから
木津川計の一人語り劇場

「番町皿屋敷」異聞私は貝になりたい「曾根崎心中」以後「生きる」これから

「生きる」これから(2017年2月24日(金))
 立命館大阪プロムナードセミナー 木津川計の一人語り劇場「『生きる』これから」を受講しました。いつもの通り会場は満席した。講義の内容は以下の通りです。

 14時に木津川計さんが入場されました。会場は補助椅子も含めて満席でした。14時、会場が真っ暗になり、やがて明るくなり、木津川さんが登場しました。「大往生かポックリ死か」について講義を始めました。
 若者は人生いかに生くべきかを真剣に考え模索する。一方、高齢者はいかに死ぬべきかを考えめぐらす。人生の終盤を迎えると、人間はその幕のひき方を考える。長生きして平穏に退場したい人は<大往生>したいと願う。だから、永六輔さんの『大往生』(岩波新書、1994~95)が大ベストセラーになった。
 NHKで週一回レギュラー担当している「ラジオエッセイ」(関西エリア)で、永さんの『大往生』を参考に、大往生の条件を五つにまとめた。大往生の条件は、①苦しむことのない安らかな死 ②男は85歳以上、女性は90歳以上 ③悼まれる死 ④寝たっきりで一年まで ⑤身近な人に看取られる
ところが、④「寝たっきり一年まで」が長すぎる。私はコロッと逝きたいという人が少なからずいる。いわゆる「ポックリ死」を願う人たちがいる。ポックリ死の条件は、張りのある日常を送ること。 (1)趣味 (2)学習 (3)スポーツ (4)献身
 『婦人公論』(2010年9月号)に、埼玉県帯津三敬病院名誉院長・帯津良一氏が「ポックリ逝くための7つの習慣」を載せている(詳細省略)。病院では年間100人以上の患者が亡くなるが、たとえ病気になっても、自分の生命エネルギー高めることを最後まで意識してきた人は、みな間違いなく「ポックリ」と逝き、いい死に顔である。

 木津川さんが「1952年、黒澤明監督の『生きる』を語り始めました。
主人公は市役所で市民課長を務める渡辺勘治。毎日変わりのない日常を過ごし、黙々と仕事をするばかり。そんな時、身体の不調を感じ病院に行き、自分が胃がんであることを知る。あまり時間が残されていないことを知った渡辺は、これまでの人生を考えて苦悩する。
 初めて欠勤をし、貯金から5万円をおろし夜の街を歩く。知り合った小説家と遊び回るも空しい気持ちが残る。偶然、街で出会った同僚の女性 小田切とよと何度か食事を一緒にする中で、その若さ・生命力に魅かれていく。渡辺は、とよに胃がんであること・生き方への悩みを告げる。そこで、とよから「何か作ってみたら?」と提案され、渡辺の新たな人生が始まる。
 数日ぶりに出勤し、渡辺は人が変わったように仕事に打ちこみだす。以前から、たらいまわしにされていた公園建設に精力的に取りくみ、各方面に粘り強く交渉し、公園の完成を目指す。やがて命をかけた努力が実り公園が完成する。ある雪のふる晩、その公園のブランコに座り揺られながら、渡辺は息を引き取る。
 公園を作ることを目標に、命をささげた。渡辺は大往生ではないが、ポックリ死に近い満足な死であった。

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文学における虚構の役割ー「春琴抄」と「曾根崎心中」-(2016年8月26日(金))
  立命館大阪プロムナードセミナー 木津川計の一人語り劇場「『曾根崎心中』以後」を受講しました。いつもの通り会場は満席した。講義の内容は以下の通りです。
 14時に木津川計さんが入場して来ました。
 近松門左衛門は初の世話物として評価の高い「曾根崎心中」を書いたが、遊女お初と手代徳兵衛が実際に心中した以外はすべて虚構であった。二人は、元禄16年4月7日に曾根崎天神の森で実際に心中した。翌月5月7日に大坂の竹本座で初演された。
 <木津川さんが、歌舞伎「曾根崎心中」を語る>
 「曾根崎心中」の影響は大きく、近松が二人の心中を美化したため心中する者が続発した、こういう流行を徳川幕府は嫌った。幕府は心中を「相対死」(あいたいじに)と言い換え、享保七年に犯罪として禁圧した。二人とも死んだ場合は「遺骸取捨」として葬儀、埋葬を禁止し、一方が死に、一方が死ななかった場合は生き残ったほうを死罪とし、また両者とも死ねなかった場合は非人身分に落とした。しかし、相対死はなくならずに続いた。大坂の千日前に死体の灰捨て場があった。
 <木津川さんが、明和6年4月18日に大坂の枚方でなされた一組の相対死を語る>
 ご法度に背いた者の処罰のされようを見極める。この相対死も虚構であった。
 谷崎潤一郎の名作「春琴抄」は「鵙屋春琴伝」という小冊子を手掛かりに「春琴抄」を中央公論に発表、創元社から昭和8年に出版した。「春琴抄」はことごとくが虚構の傑作であったが、下寺町の墓地を訪ね、墓を探し回る人たちが現れ始めた。
 虚構で何を伝えたかったのか。人のためになる嘘、虚構の中に男女の愛の真実がある。

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名作「私は貝になりたい」は何が不足しているのか(2016年6月24日(金))
 立命館大阪プロムナードセミナー 木津川計の一人語り劇場「私は貝になりたい」を受講しました。雨にもかかわらず、補助椅子を追加した会場は満席でした。講義の内容は以下の通りです。

 14時、会場が真っ暗になり、やがて明るくなり、木津川さんが登場しました。「私は貝になりたい」を語り始めました。
 主人公の清水豊松は土佐の漁村で散髪屋を営んでいたが、召集されて二等兵になった。米軍機による空襲が激化するある日、B29一機が日本の対空砲撃で墜落、パラシュートで脱出した搭乗員三人が捕虜となった。
 日本軍はその三人を立木に縛りつけるが一人は既に死亡、あとの瀕死の二人を初年兵の突撃訓練の標的にした。上官の命令で清水豊松は標的の米兵を刺殺、その責任を問われ、戦後、戦犯として絞首刑の判決を受けた。直接命令した軍曹は重労働三十年、上等兵は二十五年なのに、命令された豊松は死刑であった。処刑の前夜、豊松は妻と男の子に宛てた遺言を書いた。「生れ変われるなら、私は貝になりたい」と。
 「私は貝になりたい」は昭和33年(1958年)東京放送(現TBS)がシナリオライター橋本忍の脚本で岡本愛彦が演出、テレビドラマとして放送された。その芸術祭賞文部大臣賞」を受賞した。翌年、テレビの脚本通りで東宝が映画化、橋本忍自ら監督として制作した。

 黒澤明監督は「根幹となるものがない。これでは貝にならない」と批判した。橋本忍自身も「何かが足りない」と言っている。
 
 続いて、1959年にイタリアで制作・公開された映画「ロベレ将軍」(同年9月ヴェネツィア国際映画祭において上映され、金獅子賞を受賞した)を語り始めました。
 第二次大戦末期の1944年、連合軍は南伊を解放し、ナチの支配する北伊に迫っていた。連合軍は北伊のパルチザンと連絡をとるため、イタリア人の将軍ロベレを秘かに南伊に潜入させた。ところが、将軍はナチの一分隊により発見され射殺されてしまった。ナチ司令官ミューラー大佐はニセのロベレ将軍をしたてて、彼をオトリにパルチザン組織を探ることを思いついた。捕まっていた詐欺師のバルトーネを、無罪放免と引き換えに替え玉に選んだ。
 ある日、九人の捕虜が刑務所に送られてきた。その中には、ファブリッツォという名の、パルチザン指導者がいるのだが、それが誰かはよくわかっていなかった。ファブリッツォが獄中でロベレと連絡をとるだろうと考えた大佐は、バルトーネに警戒を命じた。獄内で接触をとって来た受刑者がバルトーネのミスから拷問を受けるが、それでも口を割らずに死んで行く。またロベレ将軍の夫人からは愛情と敬意に満ちた手紙を受取る。こうして将軍をめぐる人たちの勇気と忠誠心を目撃するうちに、バルトーネは心中に愛国心がわき起こってくるのを感じ始める。そして彼はロベレ将軍として処刑された。

 「何が足りない」のか。同じ年に作られた二つの映画であるが、「戦争にどう向き合うのか」二人の死に方が異なる。「命ぜられて死ぬ」と「自ら死ぬ」。
 野坂昭如が「気が付いた時には戦争が始まっていた」。1960年、丸山眞男は「不作為の行為」について語っている。「しないことがやはり現実を一定の方向に動かす意味を持つ」と。

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なんのために幽霊はあるのかーあらねばならない幽霊としてー(2016年4月22日(金))
 立命館大阪プロムナードセミナー 木津川計の一人語り劇場「『番町皿屋敷』異聞」を受講しました。補助椅子を追加した会場は満席でした。講義の内容は以下の通りです。
 14時、会場が真っ暗になり、やがて前面だけが明るくなり、木津川さんが登場しました。初めに落語の「皿屋敷」を語りました。続いて、お菊という女の幽霊が井戸から現れ、皿を数えて怨念を訴える怪談「番町皿屋敷」を語りました。48地域に皿屋敷伝説があるそうです。
 恨みなしでお菊が死んだ物語を語りました。青山播磨と腰元のお菊は相思相愛の仲であった。やがて播磨に縁談が持ち込まれる。彼の愛情を試そうとしたお菊は青山家の家宝の皿を一枚割った。しかし、播磨は「たかが皿一枚のこと」とお菊を不問に付す。ところが周りの者が、お菊がわざと皿を割った瞬間を目撃していた。お菊は、播磨の真意を探るために、「皿が大事か私が大事か」と皿を割ったと言う。男の誠を疑られた播磨は激怒してお菊を斬ってしまった。
 なぜ幽霊は女ばかりなのか。男女差別のある限り女は辛抱を強いられ、死んで幽霊となり恨みを晴らす。性差別がある限り女の幽霊はこれからも出る。

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2015年度

木津川 計「ゆきしものへのバラード」

木津川 計「ゆきしものへのバラード」

木津川 計「ゆきしものへのバラード」:受付確認書(2015年3月16日(月))
 立命館大阪プロムナードセミナー 木津川 計「ゆきしものへのバラード」の受付確認書が郵送されてきました。
 遠ざかるにつれて私たちの思い出はかすんでいく。その中に、忘れてはならない記憶がある。忌避してはならぬ事象、かって慣れ親しんだ言葉や風景・・・。そんな遠い日の点景を振り返りながら、称揚すべく捧げるバラード。毎回、14時から15時40分まで下記の日程で開催されます。
 第1回 2015年 4月17日(金) 幽霊-恨みつらみを晴らさでは-
 第2回 2015年 6月26日(金) 鬼-忘れまじ 守護と予祝の神を-
 第3回 2015年 8月28日(金) 地獄-獄卒の鬼が現われてから-
 第4回 2015年10月23日(金) 地域語(方言)-滅びへの弔鐘が-
 第5回 2015年12月11日(金) 藤山寛美-帰らぬ喜劇の時代に-
 第6回 2016年 2月26日(金) わが街-わが大阪に与ふる哀歌-
ゆきしものへのバラードのチラシ

幽霊-恨みつらみを晴らさでは-鬼-忘れまじ 守護と予祝の神を-地域語(方言)-滅びへの弔鐘-わが街-わが大阪に与ふる哀歌-

わが街-わが大阪に与ふる哀歌-(2016年2月26日(金))
 立命館大阪プロムナードセミナー「木津川計ゆきしものへのバラード」の第6回 「わが街 ーわが大阪に与ふる哀歌-」を受講しました。会場は満席でした。講義の内容は以下の通りです。
 船場型文化の衰退と帝塚山文学への希望
 大阪の人口は1955年(昭和30年)に462万人の人口が1970年には762万人へ、15年で300万人増加した。1975年以降、漸増しつつこの30年間は強含みの横這い、2010年(平成22年)の886万人をピークに2015年は883万人と減少に転じた。2040年には750万人になろうと推計されている。
 都市の盛衰、その指標の第一は人口の増減である。大阪は最盛期を過ぎ、長期的に見ると衰退期に入った。ことに高齢人口の増加と生産年齢人口の急減が大阪の衰退に拍車をかけている。1960年代以降の社会的人口増が”異邦人”的大阪人を大量に生み出していくにつれ、大阪の風俗・習慣がしだいに見失われていった。ことに伝統的大阪らしさを伝えた職住一体の船場が業務ビジネスゾーンのビル街(町屋からビルへ:人が住まなくなった)になるにつれて、大阪の変わり方は顕著になっていった。
 1950年代半ばから60年代の高度成長期、大阪の伝統芸能は苦境に陥っていた。不振の文楽は経営主の松竹が手放し、上方歌舞伎は観客を失い続けていた。上方落語は総勢20人台から30人台で、まだ上昇気流に乗っていなかった。元気なのは漫才ばかりで、どついたり転んだりの”ゲバルト・アクション漫才”が大受けだった時代である。
 都市のグレード(都市格)は、その都市の現代に伝統が共存しているかいないかで決まる。大阪の伝統芸能を衰弱させたら大阪の都市格は低下する。何としてもこの都市の伝統芸能を復権させたい。まず上方落語を盛り上げるために、「上方落語をきく会」を68年1月にスタートさせた。その会の会報として「きく会」2回目の68年4月に『上方芸能』を創刊した。創刊30周年(99年1月29日)記念パーティは上方芸能の全人間国宝15人全員(全10ジャンル)が呼びかけ人となって開催された。今年の5月『上方芸能』は200号を数えるとともに終刊する。
 大阪の文化全体を見渡すと、次の文化類型がある。
  1)宝塚型文化(都市的華麗)ー宝塚歌劇、OSK,ミュージカル、現代演劇など。
  2)河内型文化(土着的庶民性)ー漫才、上方落語、浪曲、講談、マジックなど。
  3)船場型文化(伝統的大阪らしさ)ー文楽、上方歌舞伎、上方舞、地歌など。
  4)千里型文化(学術研究機能性)ー能、狂言、四天王舞楽など。
これらの4類型の将来を予測すると、大阪の都市格に最も影響を及ぼす 3)船場型文化に対応する伝統芸能の存続が一番憂慮され、ついで 4)千里型文化の、ことに能が危ぶまれる。
 大阪の都市格は京阪神の中で一番低い。その都市格を定めるのは次の3条件を満たしているかどうかに因ることが大きい。すなわち、1)文化のストック、2)景観の文化性、3)発信する情報である。
大阪はこれらの3条件で京都、神戸に後れをとっているが故に都市格を低めている。どうしていけばいいのか、一つは船場型文化の芸能を守り、千里型文化の学術研究機能性を強めることだ。
 2016年11月1日、帝塚山学院にゆかりのある文学者らの作品の研究や再評価を求める「帝塚山派文学学会」が設立された。「がめつい、ど根性など、騒々しく猥雑なイメージで見られがちな大阪の中で、もの静かで声高を避け、含羞の美学を身に着けた文学者たちを、堀辰雄らの『四季派』になぞらえ、『帝塚山派』と呼び、再評価をしようではないか」と学会設立を呼びかけた。大阪は帝塚山派の文学者をさほど顕彰したり、語ったりしてこなかった。大阪の都市の都市格を高めるためにも、帝塚山派を見直すことが大切だ。
 大阪の困難は、大阪のイメージが”タコ焼き吉本タイガース”に集約されたことにも負うている。あまりに吉本情報に特化し、猥雑な事態の発信が多すぎたのである。1960年代以降に社会化された”ど根性”や”がめつい”や”ど派手”という大阪観を払拭するために、この都市の良さを発信していく必要がある。そのとき鮮明になってきたのが<帝塚山派文学>の見忘れられていた存在である。大阪が目指すべきは、”がめつい都市”から”含羞の都市”への動きである。
 ”帝塚山派”の文学については、[”帝塚山派”の文学①][”帝塚山派”の文学②]をご覧ください。

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地域語(方言)-滅びへの弔鐘が-(2015年10月23日(金))
 立命館大阪プロムナードセミナー「木津川計ゆきしものへのバラード」の第4回 「地域語(方言)ー滅びへの弔鐘が-」を受講しました。会場は満席でした。講義の内容は以下の通りです。
 私(木津川さん)は「方言」という言葉を使わない。なぜなら標準語以外は地方の言葉だとする昔の帝都意識がもたらせた用語故に「地域語」と呼んでいる。なぜその標準語がつくり出されたのかは明瞭で、近代国家に発展させるには言語の統一が肝要だった。東京の山手辺りの言葉を標準語と定め、普及させていった。従って、標準語もまた地域語に過ぎない。
 標準語は別だが、地域語はどんどん衰弱する。ユネスコは2009年、世界で約2500の言語が消滅の危機にあると指摘した。その中にはアイヌ語や沖縄地方の「方言」、東京八丈島の「方言」など国内八つの言語や「方言」が含まれる。八丈島の島ことばには縄文時代の言葉が残っている。
 標準語・共通語では語れない言葉の機能が地域語にある。地域語はその他の生活や文化と一体である。織田作之助の小説は登場人物に大阪弁を喋らせたから大阪の小説になった。「なかにし礼の『長崎ぶらぶら節』も完璧の長崎弁で書かれ、宮尾登美子の『鬼龍院花子の生涯』は土佐弁、谷崎潤一郎の『細雪』は船場ことばを話したからその地域の文学足り得た。
 「大阪さかいに京どすえ、長崎ばってん、江戸べらぼう、兵庫神戸のなんぞいや」と各地に特徴的な基幹語があったが、「べらぼう」は失われた日本語の部類に入っている。大阪弁の「さかい」や「おます」「なはれ」を使用しない20代は80%から90%に達しようとしていた。1990年の調査である。(『方言は絶滅するのか』真田信治、PHP新書)
 朗読は日本語の美しさを標準語で読む。そこに朗読の神髄があり、所以がある。しかし、全国に広がる朗読家は地域語を衰弱させる役にも努めてきた。朗読家が標準語の読みをマスターするのは、当たり前のことだ。その努力と同じように、住む地や故郷の地域語を語り、詠み続けることが豊かだった地方文化を存続させることにもなる。
 八丈島の島ことばをCDで聴き、ゲストの木崎幸子さんが秋田弁で「花さき山」と「八郎」を朗読しました。また、言葉の魔術師と言われたミス・ワカナの「全国婦人大会」CDのを聴きました。「花さき山」と「八郎」を秋田弁で聴いて、その土地にしかない表現があり、共通語では細かな気持ちを表せないことが良く分りました。

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鬼-忘れまじ 守護と予祝の神を-(2015年6月26日(金))
 立命館大阪プロムナードセミナー 木津川 計「ゆきしものへのバラード」の第2回「鬼-忘れまじ 守護と予祝の神を-」を受講しました。会場は満席でした。講義の内容は以下の通りです。
 もともと日本の鬼は決して恐ろしいものではなかった。おどおどろしいものではあったが、人間に危害を加えたりするものではなかった。6世紀前半日本に仏教思想が伝来し、やがて平安中期に僧源信によって『往生要集』が著わされて日本の地獄思想が定まった。
 昔から日本には伝来の鬼がいた。それは地獄の鬼などではなく、生命や暮らしをおびやかす悪疫や厄難から人々を守る強い性格を持っていた。山内登喜夫『民族の仮面』、山田宗睦「節分の鬼とは」、柳田国男『山の人生』『山人考』、折口信夫『鬼の話』、狂言『節分』の鬼、芥川龍之介「桃太郎」の鬼、民族芸能や祭りの鬼、絵本『花さき山』などに述べられている。
・山内登喜夫『民族の仮面』⇒ もとはといえば、家の屋根に取り付ける鬼瓦が示すように、無限の宙空から、いつやってくるかも知れない悪魔や厄いに対して威嚇する神の象徴なのである。
・山田宗睦『節分の鬼とは』⇒ 鬼が、地獄の番人であったり、桃太郎に退治されるようになったのは、比較的のちのことである。
・柳田国男『山の人生』列島の先住民が山に入って山男や大人(おおひと)と同じ性格を持つオニになった。
・折口信夫『鬼の話』⇒ オニがムラからムラへ来訪する話を書いている。たとえば、京都の八瀬村などに、オニの子孫だという家があるのは、その痕跡である。
・芥川龍之介『桃太郎』⇒ 鬼が島は楽園で、鬼たちは牧歌的に暮らしていた。そこへ桃太郎達が乗り込んで悪逆非道の限りを尽くし、財宝を奪った。
・民族芸能や祭りの鬼 ⇒ 鬼は怖いものではなかった。民族芸能や祭りにその手掛かりが残っている。今も奥三河の花祭りにはいろんな種類の鬼が山からおりてき、豊年を予祝し、土地に寝る荒ぶる精霊を威嚇、踏みしずめる舞を踊る。秋田県のなまはげの鬼は、遠いところから正月に訪れる神とみられていた。
・絵本『花さき山』をOHPでスクリーンにして読み上げた。

 誤解と汚辱にまみれた実像の鬼の名誉回復を図らなければならない。まれびととしての鬼を守ってきた民衆的願望を受け継ぎながら、民衆のしあわせを願った実像の鬼をこそ復権させたい。日本の鬼観、その変転を明らかにすることは、日本の民族史や仏教の歴史と軸にしている。過去をふり返りながら、未来への展望を導きだしたい。

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幽霊-恨みつらみをはらさでは-(2015年4月17日(金))
 立命館大阪プロムナードセミナー 木津川 計「ゆきしものへのバラード」の第1回「幽霊-恨みつらみを晴らさでは-」を受講しました。会場は満席でした。講義の内容は以下の通りです。
 幽霊には二種類ある。①非業、不慮の死 ②恨みつらみの死(嫉妬の恨み、虐待の恨み)。
 東北大地震の被災地では幽霊の話が多い。突然の災難さえなければ死ぬことはなかった。死者に霊魂があるとするなら無念の思いは大きい。無念を察する人の目には、「その口惜しさが現世への執着となり、幽霊の形をとって出現している」と映る。
 幽霊は非業の死だけで生み出されるのではない。恨みつらみを抱けばこそ出てくる幽霊がいる。怪談劇に現れる幽霊はみなこの恨みつらみを根底に、「この恨み晴らさでおこうか」の執念で幽霊になるのだ。幽霊-ことに恨みつらみの幽霊は女がほとんどである。その恨みを辿ると、一つは嫉妬の恨みであり、もう一つは虐待への恨みである。
 恨みを抱かせた加害者が人間らしさを持っているなら、必ず自省し、悔いる。即ち、良心の呵責に悩む。自省し後ろめたい人間の前に幽霊は現れる。逆に、加害の覚えのない人間に祟りの幽霊は現れない。つまり幽霊は属人的に出現する。
 一方、属地的に出現する幽霊もいる。「皿屋敷もの」のお菊は青山鉄山になぶり殺され、井戸へ捨てられた。だから、井戸から幽霊になって現れ、鉄山を呪い殺す。幽霊が属人的なら鉄山への報復で恨みは果たされはず。しかし、「一枚、二枚、三枚・・・」と数える腰元お菊の幽霊は全国各地で人々を怖がらせてきた。つまり属地的な幽霊として出現している。
 裏切られた女の怒りは、能(①道成寺 ②安達原 ③葵上)に見られる。これらの内、「安達原」のビデオが放映された。
 家や立身出世の犠牲になる女たちは、新派(①不如帰 ②滝の白糸 ③婦系図)で見られる。この内、「滝の白糸」と「婦系図」が放映された。
 なぜ、恨みつらみの幽霊は女ばかりなのか。女は男に比べて体力的、権力的に男に及ばなかった。加えて経済力で劣位に立たされ、男に従属して生きなければならなかった女のありさまが女の幽霊を生み出した主因だった。
 現代も女の幽霊が絶えない。性差別、暴力により今も女の幽霊がで出る。

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2014年度

木津川 計「名作映画のロマンティシズム-純愛と母性-」

木津川 計「名作映画のロマンティシズム-純愛と母性-」

「君の名は」と菊田一夫の慕情一筋「沓掛時次郎」と長谷川伸の女人讃歌「離れ瞽女おりん」と水上勉の永遠の女性「幸福の黄色いハンカチ」と山田洋次の切愛|「男はつらいよ」と寅さんの純情と献身

木津川 計「名作映画のロマンティシズム-純愛と母性-」:受付確認書(2014年3月20日(木))
 立命館大阪プロムナードセミナー 木津川 計「名作映画のロマンティシズム-純愛と母性-」の受付確認書が郵送されてきました。
 女性に捧げる純愛や献身、憧憬や聖化のこころー美しいドラマを生んだ作家の多くは幼少時、母と別れた痛みの持ち主でした。名作映画を実際見ながら「純愛と母性」の係わりを”木津川 計の美学”が明らかにします。毎回、14時から15時40分まで下記の日程で開催されます。
 第1回 2014年 4月25日(金) 「愛染かつら」と川口松太郎の男の純愛
 第2回 2014年 6月27日(金) 「君の名は」と 菊田一夫の慕情一筋
 第3回 2014年 8月 1日(金) 「沓掛時次郎」と長谷川伸の女人讃歌
 第4回 2014年10月24日(金) 「離れ瞽女おりん」と水上勉の”永遠の女性”
 第5回 2014年12月12日(金) 「幸福の黄色いハンカチ」と山田洋次の切愛
 第6回 2015年 2月27日(金) 「男はつらいよ」と寅さんの純愛と献身

 

「男はつらいよ」と寅さんの純情と献身(2015年2月27日(金))
 立命館大阪プロムナードセミナー 木津川 計「名作映画のロマンティシズムー純愛と母性ー」の第6回「男はつらいよ」と寅さんの純情と献身、を受講しました。会場は満席でした。講義の内容は以下の通りです。
 幼い時に、母と別れた男の子が成長して作家になると少なくない割合で母を恋い、思慕の情を強める。長谷川伸は3歳で母と生き別れた。谷崎潤一郎は31歳の時に母親が亡くなった。母への思慕を主題とした作品(春琴抄や吉野葛)に描かれているのは実在の母でなく、虚構の母である。山田洋次監督の母は大人になってから亡くなった。寅さんは優しく、虚構の母が描かれている。
 「続・男はつらいよ(2作・昭和44)」で、寅さんが生みの母・お菊(ミヤコ蝶々)に会いに行くシーンからビデオ放映した。「男はつらいよ(48作・平成7)」で、寅さんが奄美大島の加計呂麻島からリリー(浅丘ルリ子・4回目の登場)を連れて柴又へ帰る。しかし、ふとしたことで喧嘩してリリーが島へ帰ろうとするシーンからビデオ放映した。48作目の渥美清はすでに肝臓ガン、しかも肺に転移していた。医者は「出演はもう不可能」と診断したのを押しての出演だった。そのために48作の寅さんは座っているシーンが多かった。渥美清は平成8年(1996)8月4日死去、68歳だった。
 「男はつらいよ」がなぜ国民的人気映画になっていったのか。シリーズ全体を通じて「優しさ」で貫かれていることだった。少々柄は悪いが寅さんは周りの人々に対して優しさと気配りを見せる。殺人や傷害を描かなかった。欲情やセックスとも無縁で、寅さんのマドンナに寄せる純愛と献身の慕情は全48作の26年間、変わることがなかった。
 渥美清の死去の5年前に藤山寛美が肝硬変で亡くなっている。そして、笑いたいが笑わせる喜劇人がいなくなった。藤山寛美の死後、中座が売却され道頓堀も衰退した。宗右衛門町は風俗の街になってしまった。人間が住まいしていない地域は衰退する。天神橋筋は天満天神繁昌亭ができたこともあるが、職住一体の街で、繁栄している。 

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「幸福の黄色いハンカチ」と山田洋次の切愛(2014年12月12日(金))
 立命館大阪プロムナードセミナー 木津川 計「名作映画のロマンティシズムー純愛と母性ー」の第5回「幸福の黄色いハンカチ」と山田洋次の切愛、を受講しました。会場は満席でした。講義の内容は以下の通りです。
 映画上映の前に、11月10日に亡くなった高倉健さんと山田洋次監督について語った。高倉健さんは寡黙で控えめな人で、山田洋次監督も寡黙な人。太宰治の言葉に「優しさとは人を憂える」があるが、健さんは優しさの本質を理解していた人だった。「幸福の黄色いハンカチ」は、山田洋次監督、高倉健、武田鉄矢にとって転機となった作品である。
 続いて、アメリカ映画「シェーン」、「遥かなる山の呼び声」、「幸福の黄色いハンカチ」の順に、それぞれの内容を説明後に映画の最後の部分を上映した。制作年が逆になっているが、ストーリーは「遥かなる山の呼び声」から「幸福の黄色いハンカチ」へとつながっている。そして、どちらもストーリーは「シェーン」から得ている。なお、「遥かなる山の呼び声」は「シェーン」の原題である。 

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「離れ瞽女おりん」と水上勉の永遠の女性(2014年10月24日(金))
 立命館大阪プロムナードセミナー 木津川 計「名作映画のロマンティシズムー純愛と母性ー」の第4回「離れ瞽女おりん」と水上勉の永遠の女性、を受講しました。会場は満席でした。講義の内容は以下の通りです。
 幼い時に、母と別れた男の子が成長して作家になると少なくない割合で母を恋い、思慕の情を強める。童謡詩人のまど・みちおは5歳で母と生別し、祖父と二人で4年間暮らした。母性を美化する。赤とんぼの三木露風は5歳で母と生別し、赤い鳥発刊の鈴木三重吉は9歳で母と死別した。「氏より育ち」と言うように子供の成長環境は大事。非行に走るケースが多い。長谷川伸の番場の忠太郎はやくざになった。
 谷崎潤一郎は裕福な家に育ち、16歳まで母と一緒に育った。16歳で住み込みの家庭教師になった。谷崎は31歳の時に母と死別した。谷崎潤一郎の描く女性像には母への思慕が大きな要素としてある。母への思慕を主題とした作品は、「吉野葛」、「母を恋うる記」、「少将滋幹の母」、その他がある。谷崎は、大正11年の関東大震災後に関西へ移住した。松子夫人と出会い、「春琴抄」や「細雪」が生まれた。谷崎の関西移住は大阪のためにも良かった。文芸評論家の山本健吉は大阪の作家を「郷土をののしり、さげすみ、それでいて郷土に執着する」と評した。異邦人の谷崎は、大阪をののしらず、失われたこの国の伝統を発見して、自分の感性や好みとの一致に無上の喜びを得た。
 水上勉は、福井県の貧しい宮大工の家に四男一女の次男として生まれた。貧困から10歳の時に相国寺へもらわれ12歳の時に飛び出した。それから放浪生活が始まった。京都の町を乞食の子のようなことをして歩いていた。等持院の和尚に拾われて18歳まで小僧生活を送り、この寺を飛び出した。等持院を出て、30を余る職業を転々としながら小説を書いた。「五番町の夕霧楼」と「離れ瞽女おりん」を上映(一部)した。浮かばれない、貧しい、しいたげられた男女の助け合いが描かれていた。 

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「沓掛時次郎」と長谷川伸の女人讃歌(2014年8月1日(金))
 立命館大阪プロムナードセミナー 木津川 計「名作映画のロマンティシズムー純愛と母性ー」の第3回「沓掛時次郎」長谷川伸の女人讃歌、を受講しました。会場は満席でした。講義の内容は以下の通りでした。
 幼少時、母と別れた男の子が成長して作家になると少なくない割合で母を恋い、思慕の情を強める。三木露風は5歳で、清水かつらは4歳で母と生別している。やなせたかしは7歳で母親と生別したが、無力の者への共感がある。「手のひらを太陽に」を作詞した。まど・みちおは5歳で母と生別し、祖父と二人で4年間暮らした。「ぞうさん」は動物が動物として生かされていることに誇りを持っている。
 映画「瞼の母」と「関の弥太っぺ」を上映(一部分)した。「関の弥太っぺ」では、見返りを求めない。「瞼の母」では、裏切られてもなお母への思慕を失わない忠太郎像を描いた。グレタ故の股旅にあっても、愛し思慕する女性への純愛や献身に命を尽くす、それを股旅たちの失われない心情としたのである。 

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「君の名は」と菊田一夫の慕情一筋(2014年6月27日(金))
 立命館大阪プロムナードセミナー 木津川 計「名作映画のロマンティシズムー純愛と母性ーの第2回「君の名は」と菊田一夫の慕情一筋、を受講しました。会場は満席でした。講義の内容は以下の通りでした。
 幼少期に母親と生別した作家(長谷川伸、水上勉など)は心優しく育ち、女性に捧げる純愛や献身、憧憬や聖化のこころ美しいドラマを生んでる。アンパンマンのやなせたかしは7歳で母親と生別した。童謡「手のひらを太陽に」を作詞をした。童謡詩人のまど・みちおは5歳で母と生別している。「ぞうさん」は象が象として生かされていることが素晴らしい。
 「君の名は」は昭和26年4月からNHKラジオで始まり、1年の予定が2年間続いた。映画は昭和28年、松竹が岸恵子、佐田啓二主演で映画化、大ヒットをおさめた。映画的には価値はないが、興行的には大成功だった。映画「君の名は」の全編を貫くのは純愛ではなく互いの慕情であった。慕情はうるわしい情感であり、美しい日本語であるが、昭和9年、高見順が造語するまでこの言葉は日本語になかった。慕情は「恋い慕う気持ち」の表明、表現であった。慕情の社会化は昭和30年アメリカ映画「慕情」が封切られて日本語として定着した。講義の途中で、映画(「君の名は」プロローグ、「君の名は」エピローグ、「慕情」)の一部を上映した。菊田一夫が丁稚時代に知り合った女性に対する想い(慕情)を「がしんたれ」で描いた。
 本講義を受けていて、少年時代にラジオで「君の名は」を聞いていたことを思い出しました。番組の冒頭で「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」とナレーションが流れました。主人公の二人が再会しそうになると、不都合が起きて会えない。「会えそうで会えない」という事態が何度も繰り返されました。いつ二人は会えるのか、子供心にも悲しく感じられました。昭和26年、私は若干8歳でした。 

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2013年度

木津川 計「一人語り劇場」の思想

木津川 計「一人語り劇場」の思想

「王将」-阪田三吉が利用された時代-|「父帰る」-なぜ父は帰ってこられたのか-「一本刀土俵入り」-長谷川伸と股旅の女性崇拝-「語る落語」-女のアホが落語にいない訳ー

木津川 計「一人語り劇場」の思想:受付確認書(2013年3月26日(火))
 立命館大阪プロムナードセミナー「木津川 計『一人語り劇場』の思想」の受付確認書が郵送されてきました。
 「一人語り劇場」は木津川 計さんの創出による新しい舞台芸術であり表現文化です。紡ぎ出される語りのひと言ひと言に、観客は何もない舞台に場面の幻影を見、作品の中に取り込まれていく・・・。本年度は、これまでに演じられた「一人語り劇場」の6つの作品を実際に口演しながら、その作品の解釈と時代の精神を新たに論じます。毎回、14時から15時40分まで下記の日程で開催されます。
 第1回 2013年 4月26日(金) 「王将」-阪田三吉が利用された時代-
 第2回 2013年 6月28日(金) 「父帰る」-なぜ父は帰ってこられたのか-
 第3回 2013年 8月 2日(金) 「一本刀土俵入り」-長谷川伸と股旅の女性崇拝-
 第4回 2013年10月25日(金) 「婦系図-立身出世主義が埒外にしたもの-
 第5回 2013年12月13日(金) 「無法松の一生」-検閲が芸術を圧殺する-
 第6回 2014年 2月28日(金) 「語る落語」-女のアホが落語にいない訳-

 

「語る落語」-女のアホが落語にいない訳-(2014年2月28日(金))
 「木津川計『一人語り劇場』の思想」の第6回「『語る落語』-女のアホが落語にいない訳-」を受講しました。会場は満席でした。
 14時に会場は真っ暗になり、正面のみ明るくなりました。 司会者の挨拶に続いて、出囃子にのって木津川さんが登場しました。講義の内容は以下の通りです。
 文化は、生み出した性や階級、時代の考え方や思想を必ず反映する。漢字は支配階級のエリートの男性がこしらえた文化である。すると男性や支配階級の願いや思想が反映して当然のこと。ことに差別的な女編の漢字を眺めると、期待され、かくあるべきとされた女性像が明らかになる(娘、甥、姪、婚、嫁、家内、主人、下女、女中、姑、未亡人、後家、婆)。
 落語も男性がこしらえた文化だが、女性を差別的に描いていない。落語は女性を尊重している。嫁さんが上が良い。女のアホがいない。女のアホは賢くなる。(「質屋蔵」「鹿政談」を咄す)
 落語はまた、貧乏人の、あるいは貧乏のわかる無名の男たちがこしらえた芸能である。貧乏を描いて克明、貧しい暮らしのリアルな描写が真に迫る。ご政道批判は少ない。間口も広く、奥行きも深い。奇想天外な噺もある。(「千両みかん」「天狗裁き」を咄す)
 今回で、「木津川 計『「一人語り劇場』の思想」は終了です。平成26年度も新たな講義が始まります。

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「一本刀土俵入り」-長谷川伸と股旅の女性崇拝-(2013年8月2日(金))
 「木津川計『一人語り劇場』の思想」の第3回「『一本刀土俵入り』-長谷川伸と股旅の女性崇拝-」を受講しました。会場は補助席を含めて満席でした。
 14時に会場は真っ暗になり、やがて木津川さんの場所だけが明るくなりました。木津川さんが、長谷川伸の『瞼の母』の一人語りを始めました。長谷川伸のプロフィールを紹介した後に、『沓掛時次郎』そして『一本刀土俵入り』の一人語りをしました。長谷川伸がどのような作家だったのかを知らせる(ヒューマン、やくざを恥じる)ためにこれら3本を選んだとのことでした。
 長谷川伸は明治17年、横浜に生まれ、昭和38年、79歳で亡くなった作家であり劇作家。父の暴力や放蕩が原因で母は伸が3歳の時に家を出た。小学校は3年までしか通っていない。職業を転々としながら成長した。漢字は新聞のルビを読んで覚えた。軍隊に入営、兵役除隊後、新聞社に入社、新聞記者をつとめ、41歳で一人立ち、作家活動に専念。昭和3年、44歳で『沓掛時次郎』、翌4年『関の弥太っぺ』、5年『瞼の母』、6年『一本刀土俵入り』と次々力作、話題作を発表して一躍人気作家になった。
 長谷川伸は「股旅」という言葉を生み出し、12年間に「股旅物」76本を発表した。長谷川伸の作品は、『弱きを助け、強きを挫く』原則から外れることは決してない。もう一つ、やくざは常に自分を恥じている。 

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「父帰る」-なぜ父は帰ってこられたのか-(2013年6月28日(金))
 「木津川計『一人語り劇場』の思想」の第2回「『父帰る』-なぜ父は帰ってこられたのか-」を受講しました。会場は補助席を含めて満席でした。
 14時に会場は真っ暗になり、やがて木津川さんの場所だけが明るくなりました。木津川さんが、菊池寛の『父帰る』の一人語りを始めました。大正6年に発表された時には目立たぬ作品であったが、大正9年に二代目市川猿之助によって舞台化されるとこれが絶賛された。
 (あらすじ)時は明治40年頃の南海道の海岸にある小都会、登場人物は5人。
 かって家族を顧みずに家出した父が、20年ぶりに落ちぶり果てた姿で戻ってきた。母と次男、妹は父を温かく迎えたが、貧困と闘いつつ一家を支え、弟妹を中学まで出した長男・賢一郎は、決して父を許さなかった。父は家を去る。しかし、哀願する母の叫びに賢一郎は翻意、弟に父を呼び返してくるように言う。しかし、父は見付からず、賢一郎は弟を連れて狂ったように父を追った。
 『父帰る』の父が放蕩の果てに帰ってこられたのは教育勅語が生きていた時代だからだ。親子関係に当てはめると、「親、親たらずとも、子、子たるべし」を規範として父母への無条件の孝養を義務付けた。菊池寛はこの規範に反逆して異論を申し立てる、それが「父帰る」の主張でもあった。『父帰る』は教育勅語と大正デモクラシーの対立のドラマでもあった。
 続いて木津川さんは『送り人』の一人語りを始めました。
 (あらすじ)楽団の解散でチェロ奏者の夢をあきらめ、故郷の山形に帰ってきた大悟は好条件の求人広告を見つける。面接に向かうと社長の佐々木に即採用された。業務内容は遺体を棺に収める仕事、当初は戸惑っていた大悟だが、様々な境遇の別れと向き合ううちに、納棺師の仕事に誇りを見出していく。そんなある日、大悟の元に亡き母宛の電報が届く。それは大悟が子供の時に家庭を捨て出ていった父の死を伝えるものであった。当初は遺体の引き取りさえ拒否しようとした。しかし、同僚上村の説得と妻美香の勧めもあり遺体の安置所に向かった大悟は、30年ぶりに対面した父親の納棺を自らが行った。
 『父帰る』と異なり『おくりびと』では、家庭を捨てた父母は「父帰らず」「母帰らず」となる。肉親の絆が薄れ、「孤独死」「無縁死」の現代。

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「王将」-阪田三吉が利用された時代-(2013年4月26日(金))
 「木津川計『一人語り劇場』の思想-」の第1回「『王将』-阪田三吉が利用された時代-」を受講しました。会場は補助席を含めて満席でした。
 14時に会場は真っ暗になり、村田英雄の歌う「王将」とともに通天閣の映像が映されました。その後会場が明るくなり、木津川さんが一人語りを始めました。王将の第一部一幕と二幕、第二部一幕と二幕そして第三部三幕と順に語りました。
 北条秀司の「王将」で、阪田三吉は日の出の勢いを見せはしたが、次第に衰え、そして晩年は淋しく消えていった。一方、村田英雄の「王将」(1961年)では下り坂の三吉を歌わず、なにがなんでも勝たねばならぬ熱血根性型の人物に、そして上昇を約束させる発展途上人と歌い上げた。高度成長期(1960年~70年)に10年間で所得倍増計画を推進るために、期待される精神(ど根性)と期待される人間像(阪田三吉)が求められた。当時の生産性は低くく、それを長時間労働と低賃金で戦い抜く精神(ど根性)が必要で、ど根性を体験する人物として阪田三吉が引っ張り出された。
 高度成長期に阪田三吉が手本(三吉は小学校を半年しか行ってないので文字が読めない。しかし、根性を持っているので日本一の将棋指しになった。皆も三吉を見習い、負けんようにしろ)にされた。しかし、低学歴の人々はどんなに頑張っても出世できない。そして、70年代は子どもを塾へ通わせて学歴偏重時代となった。

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2012年度

木津川計/優しさとしての大阪文化哲学・思想の宇宙をめぐる-大阪・京都の思索の系譜-

大阪・京都文化講座 前期

大阪の知的風土-「懐徳堂」-大坂学校の挑戦-半官半民の学問所-

哲学・思想の宇宙をめぐる-大阪・京都の思索の系譜-:受付確認書(2012年3月23日(金)
 立命館大阪プロムナードセミナー「大阪・京都文化講座 前期『哲学・思想の宇宙をめぐる-大阪・京都の思索の系譜』」の受付確認書が郵送されてきました。
 大阪と京都では、中国思想や西欧哲学を独自のまなざしで取り入れ、日本独自の知的風土や学びの様式に育て上げました。独特の哲学を生み続ける哲学都市、大阪と京都の思索の来し方を改めて考え直します。全7回の内、大阪に関する講座2回を受講します。毎回、14時から15時40分まで下記の日程で開催されます。
 第1回 2012年 5月 8日(火) 大阪の知的風土-「懐徳堂」- 大阪大学大学院文学研究科教授 湯浅 邦弘さん
 第7回 2012年 6月26日(火) 大坂学校の挑戦-半官半民の学問所- (財)懐徳堂記念会研究員 池田 光子さん  

 

大坂学校の挑戦-半官半民の学問所ー(2012年6月26日(火))
 「哲学・思想の宇宙をめぐる-大阪・京都の思索の系譜-」第7回「大坂学校の挑戦-半官半民の学問所ー」を受講しました。講師は㈶懐徳堂記念会 研究員の池田 光子さんです。内容は以下の通りです。

□タイトル概説
 ●大坂学校・・・懐徳堂のこと。大坂には懐徳堂に匹敵する有力な学校がなかった。大坂の人々は、懐徳堂に親しみを込めて「大坂学校」または「学校」と呼んだ。
 ●半官半民・・・政府(幕府)と民間が共同出資し、事業を経営すること。
 ●朱子学・・・中国南宋の朱子(朱熹)が大成した学問。四書(論語、大学、中庸、孟子)を学問の中心に据え、「理」や「気」などの概念を用いて倫理や宇宙観を説いた。

□大坂学校、二度の挑戦
1、懐徳堂設立(享保9年(1724))
 1)享保9年5月・・・大坂の有力町人「五同志=三宅石庵の門人=大坂の有力町人」が尼崎一丁目(現中央区今橋三丁目)に講舎(懐徳堂)を建てる
  ●五同志・・・三星屋武右衛門、道明寺屋吉左衛門、船橋屋四郎左衛門、備前屋吉兵衛、鴻池又四郎
  ●享保11年7月6日・・・官許
  ●同年8月・・・講堂の他左右に寮も整える
  ●同年10月5日・・・官許後の記念講演(石庵)が行われる(聴講者数78人)
 2)初期懐徳堂の体制
  ●学主(教授)・・・懐徳堂の学長兼教授。学務の最高責任者。講義も担当。
  ●助教・・・学主の補佐。講義も担当。
  ●預かり人・・・懐徳堂の事務長。校務の責任者。授業を担当することもあった。もとは、幕府から拝領した学問所用地を預かる、の意。
  ●支配人・・・懐徳堂の雑務を取り仕切る。
  ●「壁書全三条」享保11年(1726)10月
   ・学問とは忠孝を尽し職業を勤むる等の上に之有るの事にて候。講釈も唯右の趣を説きすすむる義第一に候へば、書物持たざる人も聴聞くるしかるまじく候事。
     但し、叶はざる用事出来候はば、講釈の半ばにも退出之有るべく候。
   ・武家方は上座と為すべく候事。
     但し、講釈始りし候後出席候はば、その差別之有るまじく候。
   ・始めて出席の方は、中井忠蔵迄其の断り之有るべく候事。
     但し、忠蔵他行の節は、支配人新助迄案内之有るべく候。
 3)石庵が説いたこと=懐徳堂の学風
  ●三宅石庵講述「論孟首章(ろんもうしゅしょう)講義」
   「さて学と云えるは、何を学ぶものぞ。道を学ぶことなり。何をか道と云う。人の道なり。人にあらざれば各別人と生まれたるものは、人の道を学ばねばならぬなり。」
  ●(ぬえ)学問・・・石庵の学風を批判的に呼んだもの。一つの学派に固執することなく、諸学の良い点を積極的に取り入れた折衷的な学風を、「鵺学」と批判した。(例・・首は朱子、尾は陽明、声は仁斎)
  ●外朱内王・・・初期懐徳堂の学風を評した語。表面的には朱子学を尊崇しつつも、それを墨守するのではなく、陸王学を重んずる折衷的な面があること。むしろどちらかと言えば、陸王学的な側面が強かったことを指す。
 4)歴代学主
  ①三宅石庵(せきあん) ②中井甃菴(しゅうあん) ③三宅春楼(しゅんろう) ④中井竹山(ちくざん) ⑤中井碩果(せきか) ⑥並河寒泉(なみかわかんせん)
 5)懐徳堂の終焉
  財政難で明治二年 「百余り四十路四とせのふミの宿けふ限りと見かへりていづ 華翁」

□大坂学校、二度の挑戦
2、重建懐徳堂設立(大正5年(1916))
 1)懐徳堂記念会の成立(明治43年10月5日)
  ●発起人会(明治43年9月27日)・・会頭 住友吉左衛門、副会頭 小山健三
  ●総収入・・・14861円21銭(約1600万円) ※発起人会の醵金は36.3%
  ●事業内容 展覧会(大阪府立博物場美術館)、記念祭(中之島公会堂)、記念出版(10種15冊)、講演会(中之島公会堂)
 2)懐徳堂の復活-重建懐徳堂(ちょうけんかいとくどう)
  ●事業終了後の余剰金 6000円(約730万円)
  ●法人組織の懐徳堂記念会を創立 大正2年(1913)8月20日付で許可証公布→9月1日、法人登記
   設立者・・・永田仁助(浪速銀行頭取)、西村天囚、今井寛一、水落庄兵衛、広岡恵三(加島銀行頭取)
  ●講堂建築 大正5年9月完成、10月15日に開堂式

□現在の懐徳堂と懐徳堂記念会
  ●昭和20年(1945)・・・大阪大空襲にて書庫(コンクリート造り)を除くすべてが焼失。
  ●昭和24年(1949)・・・大阪大学に文学部設置←懐徳堂蔵書(35,000点)を寄贈
  ●平成22年(2010)・・・懐徳堂記念会創立100周年 

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大阪の知的風土-「懐徳堂」-(2012年5月8日(火))
 「哲学・思想の宇宙をめぐる-大阪・京都の思索の系譜-」の第1回「大阪の知的風土-懐徳堂-」を受講しました。講師は、大阪大学大学院文学研究科 教授の湯浅 邦弘さんです。内容は以下の通りです。

 はじめに、「京都には哲学があり、大阪は粉もん・吉本・タイガースと言われているが、大阪も文化都市であった」と話し始めました。
1、懐徳堂(かいとくどう)の歴史
 懐徳堂の歴史を3期に分けて説明する。
1)江戸時代の懐徳堂
 1724(享保9)大坂の有力町人「五同志」、懐徳堂を創立。初代学主に三宅石庵(懐徳堂の命名者)就任。町人と武士が一緒に学ぶ。
 1726(享保11)懐徳堂に官許の認可がおりる。半官半民。
 1758(宝暦8)「宝暦八年定書」全三条制定。(後述)
 1788年(天明8)老中首座の松平定信来坂、中井竹山(四代目学主)がその諮問に答える。
 1838(天保9)懐徳堂から300mほど離れた場所に、緒方洪庵が適塾を開学。
 1869(明治2)財政逼迫し、学舎を閉鎖。
2)再建された懐徳堂(重建懐徳堂)
 1910(明治43)懐徳堂記念会設立。
 1913(大正2)懐徳堂記念会、財団法人として認可される。
 1916(大正5)重建懐徳堂竣工。
 1926(大正15)懐徳堂創学二百年、重建懐徳堂十周年記念として、懐徳堂書庫ならびに研究室竣工。
 1945(昭和20)大阪大空襲により、書庫部分を除き重建懐徳堂焼失。
3)今に生きる懐徳堂
 1949(昭和24)懐徳堂記念会、懐徳堂蔵書を大阪大学に寄贈。「懐徳堂文庫」と命名。
 2001(平成13)大阪大学創立七十周年記念事業の一環として、マルチメディア技術による懐徳堂の顕彰が行われる。
 2004(平成16)懐徳堂研究の総合サイト「WEB懐徳堂 http://kaitokudo.jp 」公開。
 2010(平成22)懐徳堂記念会創立百周年。

2、懐徳堂記念会創立百周年記念映像「知徳の遺産、世紀を超えて」のDVDを映写。

3、懐徳堂の精神
 ①懐徳堂幅 初代学主三宅石庵の手になる書幅。「懐徳」の由来については、論語の「君子懐徳(君子は徳を(おも)う」が有力。
 ②「論孟首章講義」初代学主三宅石庵の議事録。「仁義をする者は、利はせねども、自ら利がついてまはるなり」と説く。受講生の大半は町人。
 ③入徳門聯 中井竹山が記した竹製の(れん)。「力學以修己」「立言以治人」と白書(學に(つと)めて以て己を修む。言を立てて以て人を治む)。自己の修養努力と、それを基にした社会活動(経世)の重要性を説く。
 ④「宝暦八年定書(さだめがき)」全三条 懐徳堂の書生間の交わりについて、貴賤貧富を問わず同輩であるとする。
 ⑤天図 中井履軒が作成した木製回転式の天体図。
 ⑥「越俎弄筆(えっそろうひつ)」中井履軒の人体解剖図説。前野良沢・杉田玄白らによる「解体新書」完成の前年に成書。

 最後に、「本日の講義で大阪のイメージが変わっていければと思う」と結びました。 

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木津川計/優しさとしての大阪文化

”帝塚山派”の文学①”帝塚山派”の文学②笑いの平和主義理想主義と人間愛たおやかで一筋な道弱者の眼の批評精神

「木津川計/優しさとしての大阪文化」受付確認書(2012年3月21日)
 立命館大阪プロムナードセミナー「木津川計/優しさとしての大阪文化」の受付確認書が郵送されてきました。
 「上方芸能」発行人の木津川計さん(元立命館大学教授、和歌山大学客員教授)が「優しさとしての大阪文化」をテーマに講座を展開します。毎回14:00から15:40分まで下記の日程で開講されます。
 第1回 2012年 4月27日(金) ”帝塚山派”の文学①-庄野英二・潤三、阪田寛夫、長沖一の文学-
 第2回 2012年 6月22日(金) ”帝塚山派”の文学②-藤沢恒夫、杉山平一、以倉紘平の文学-
 第3回 2012年 8月 3日(金) 笑いの平和主義-秋田実と藤山寛美の世界-
 第4回 2012年10月26日(金) 理想主義と人間愛-手塚治虫と山田洋次の世界-
 第5回 2012年12月14日(金) たおやかで一筋な道-森南海子と岡部伊都子のこころ-
 第6回 2013年 2月22日(金) 弱者の眼の批評精神-マルセ太郎の光芒-

 

弱者の眼の批評精神(2013年2月22日(金))
 「木津川 計/優しさとしての大阪文化」第6回「弱者の眼の批評精神-マルセ太郎の光芒-」を受講しました。講義の内容は以下の通りです。

1、マルセ太郎の略歴
  1933年(昭8)大阪・生野区猪狩野に生まれた在日二世。
  高津高校卒後、新劇俳優を志して上京。芸名の由来であるマルセル・マルソーの舞台を見て、パントマイムに興味を持つ。浅草松竹演芸場や全国各地のキャバレー、ストリップ劇場などで動物形態模写やコントを中心に活動を展開。
  1984年、映画を一人で語って演じる<スクリーンのない映画館>で映画再現芸という新しいジャンルを開拓。以降、永六輔が後押しして全国区に。
  1993年、第1作目の喜劇「黄昏に踊る」をジャンジャンで公演、以降、生や死、老いなどを題材とした喜劇の脚本、演出などを手掛ける。
  1995年、肝臓がんの手術を受けるが、その後もヴォードヴィリアンとして、また劇団マルセカンパニーの座長としても精力的に全国各地を回る。(肝臓がんを告白して笑いにした。6回の手術)
  2001年1月22日、肝臓がんで永眠、享年67歳。(死の1ヶ月前まで舞台に立った。メジャーになって16年で亡くなる)
  著書に『芸人魂』(講談社)、『奇病の人』(講談社)、『まるまる一冊マルセ太郎』(早川書房)、『マルセ太郎読本』(クリエイツかもがわ)他
2、マルセ太郎の演技-台詞としぐさの一致
  マルセ太郎は台詞としぐさに秀でた人であった。
  マルセ太郎実演のDVDを映写。
   ・鶏、猿、人間などの生態模写 ・がん告知し手術の体験を語る(自らの不幸を笑いに変えた) ・映画「生きる」の人物模写(これは映写に失敗して観れなかった)
3、マルセ太郎の目-記憶は弱者にあり
  DVD映写
   ・映画「泥の河」(少年たちの束の間の友情を描いた物語)を見る眼
4、マルセ太郎の再現芸を受け継いで-「木津川計の一人語り劇場」
  マルセ太郎の死とともに映画再現芸「スクリーンのない映画館」は幕をおろした。しかし、惜しい。語り文化の一形式を生み出したまま、その方法が失われたことは無念である。なんとか受け継ぎたい、その試みを「木津川計の一人語り劇場」で行っている。
  2013年度の立命館大阪プロムナードセミナーは、「木津川計『一人語り劇場』の思想」で、これまでに演じられた「一人語り劇場」の6つの作品を実際に口演しながら、その作品の解釈と時代の精神を新たに論じます。是非、受講したいと思っています。 

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たおやかで一筋な道(2012年12月14日(金))
 「木津川 計/優しさとしての大阪文化」第5回「たおやかで一筋な道-森南海子と岡部伊都子のこころ-」を受講しました。講義の内容は以下の通りです。

1、社会化された大阪の女像-”大阪のおばちゃん”の原型
  文芸の中やテレビの中の大阪の女性のイメージが良くなく、それが大阪の女のイメージとなっている。
 1)文芸の中の女
  ①小田作之助『夫婦善哉』の蝶子は知恵も才覚もあるが、インテリジェンスがない。
  ②山崎豊子『花のれん』は吉本興業創始者の吉本せいがモデル。直木賞受賞の時に「船場商人のど根性を描きたかった」と述べた。これが大阪の”ど根性”の始まり。
  ③菊田一夫『がめつい奴』のお鹿ばあさんはがめついことで評判。舞台や映画、テレビによって「がめつい」が全国に知られた。
 2)テレビの中の女
  ①役者・タレント-浪花千栄子は賢い女性、大屋政子はド派手で有名、和田アキ子は芸能界の女帝で歯に衣着せぬ物言い、上沼恵美子は西の女帝と呼ばれほら話を吹き奔放な物言い。
  ②歌手-天童よしみ「道頓堀人情」、中村美津子「河内おとこ節」には「ど根性」の坂田三吉が出てくる。
2、岡部伊都子-日常の機微から大きなものへ
  「おむすびの味」で認められ、日常生活のなかの伝統美をこまやかな感性でとらえた作品で人気を得た。戦争や差別にするどい視線を向けた著作もある。
 1)『おむすびの味』と女人歳時記『暮しのこころ』
  ・おむすびの味:おむすびが、どうしておいしいのか、知っていますか。あれはね、人間の指で握りしめて作るからですよ。(『おむすびの味』岡部伊都子集②岩波書店)
  ・心のドア:仲がいいということは、べたべた馴れることではないし、秘密をわけ合うことでもない。共同の場をたのしくするためにも、個を深めなければならない。(『女人歳時記』②)
 2)女独りだけの暮しと情念への湿性
  ・ひとりを生きる:孤独は個人の人権でもある。個の尊厳でもある。だから、孤独感を拒否して生きることはできない。むしろ、そのきびしさを抱きしめて、さびしさからのエネルギーに灯をともして。(『ひとを生きる』③)
  ・孤独の底:こういう孤独の魂がひしめいている現代の深淵をのぞき見るとき、だれもがそこに、自分の姿を発見するのではないないでしょうか。あるいは他人の孤独に冷酷である自分、自分の孤独にとりみだす弱い自分を。(『鈴の音』②)
 3)美なるものへの憧れ-『観光バスのいかない・・・・』から出発
  ・観光バスが行かない埋もれた古寺を全国に紹介。お寺との出会いが美への目覚めとなった。
 4)『あこがれの原初』と差別への開眼
  ・差別と美感覚:被差別部落に対しても、大きく偏見と美感覚が働いている、意図的のつくられた身分制度に差別され、貧困におとされ、否応なしに従事する皮革や清掃、屠殺など、苦しい仕事に対する労働差別が加重される。しかし、危険な仕事や苦しい仕事ほど高く評価され、大きく報われなくてはならない。それが当然の労働観であり。「何を美とするか」の美意識である。
   むかし「河原者」といやしまれた人びとによって、数々の日本の美がうまれた。猿楽、能、人形浄瑠璃、その他。京には名園が多い、その庭園の多くが身分差別を強いられた人びとの手でつくられた。
   沖縄では、本土から冷酷に見棄てられていた二七年間に、尊い土地自身の美を取り戻す努力がつづいた。日本が敗れなかったら、さらに厳しい「大和化」が強いられていて、沖縄語はもとより、舞踏、芝居、神祭りなどの独特の文化はすっかりほろびてしまったに違いない。(『あこがれの原初』⑤1975年)
  ・底深い心の疼き 金時鐘:『あこがれの原初』で、それまで『人に言うにしのびなかったわが恥』を告白したときから、岡部伊都子の「人間的方向」へ行こうとする随筆家像は明確になってくる。病弱でひ弱かった自分にも「誇りの傷つく時あたりをなぎはらうムチのような尾がある」ことを実感するのもこのころだ。(『岡部伊都子集月報』⑤岩波書店)
 5)沖縄-鎮魂と反戦への祈り
  ・防人と女人:この戦争でわたしは、兄、義兄、婚約者を戦死させた。知人友人であった多くの若者をも失っている。もっともっと話し合いたい、一生つき合いつづけてゆきたいなつかしい若者の像が、いまもなお、ありありと面影に立つ。死ぬことはかえって心に生きることなのであろうか。なぜあの時、「行かないでほしい」とすがりついて泣きわめかなかったのだろう。重営倉覚悟で逃亡の手助けをしなかったのだろう。あの仲よしの男の子たちを、ほんとうに愛していたのだろうか。すでに明治時代に、与謝野晶子さんは弟さんの出征に対して「君死にたまふことなかれ」の詩を創った。(『難波の女人』岡部伊都子集③)
  ・花明りゆらめく 21世紀に生きるお人へ:日本は、自立していない。真に自立する力は、民衆の民主的個の充実を基本とする。はっきりと、沖縄の主権は沖縄の自立に活かされなくてはならない。(『岡部伊都子集』⑤)
3、森南海子-流行に背を向け、小さきものへ
  リフォームのデザイナーとなり手縫いやリフォームを推奨し、手縫いの伝統をたずねて全国各地を歩く。身障者のためのデザインや点字の洋裁手引き書なども手がける。『千人針』の著作がある。
 1)「リフォーム」の編み出しと「もたいない」の先駆け
  ・「リフォーム」という日本製英語は、私が昭和33年、小さな事務所を梅田に開いたとき、それまでの仕立て直しを更生服とよんでいたのを何か新しい呼び名にしたいとさんざん知恵をしぼって、フォームを形の訳語として、再びの意味で「RE」を冠し、「リ・フォーム」と書き記したのだった。(『からだをいたわる服づくり』エビデンス選書)
 2)女独りずつの家族と情念への乾性
  ・友愛パーティ (娘の結婚についての前文):私の19才の結婚のとき、母は何を思っていたのだろうか。母は仰々しいことやら形式、しきたりをやかましくいう人だったが、私の結婚に関しては、あっけらかんとしいて、「入籍婚」を主張した。相手は七つ年長で、その頃、証券業というのは華やかで、羽振りのいい青年であった。その結婚は一年もしないうちに、それらしい形を失った、相手は転勤となり、私はそれについて行かなかった。(『独りずつの家族』35館)
 3)猫を愛して-愛するものの形
  ・添い寝:娘がギリシャにむこ殿と発ったその翌日のこと、プスは私と並んで寝ている。それにしても寝所をともにするということは、きわめて重大なことなのだろう。人ばかりでなく、相手が動物であっても。(『独りずつの家族』)
 4)少数派への視座と千人針への痛恨
  ・障害を持つ人の専門店に行き詰まった私だったが、その苦い体験を通して二冊の本ができあがった。『からだの不自由な人のおしゃれ』と点字本『手縫いの服づくり』。どこの出版社からも障害者のものはとこばまれた。結局それは自費出版本となった。(『からだをいたわる服づくり』エビデンス選書)
  ・私は「国家」という言葉がおぞましいのです。国のつぎに家をくっつけて、まるで家族のような印象を与える言葉がいやなのです。およそ戦争という悲劇の中で意味のある死というものがああっとでもいうのでしょうか。戦争はいたずらに無意味な死者をつくり出したにすぎず、その無意味さに気づくことこそがせめて意味のあることではなかったかと思われます。(『千人針は語る』海竜社)
  ・千人針は、女たちの戦争拒否:1970代から100人以上の話を聞き、60点以上の千人針を託された。千人針の役割とは⇒男性は、千人針を肌身につけることで戦争で戦う意味を問い直したのではないか。女性は、口に出せない「無事に帰ってきて」との思いを込めた。
 5)沖縄-再生と平和への願い
  ・沖縄のように優れた文化財をたっぷりと持ち続けてきた地方はどこにもあるまい。目にあやなほど美しいものが数々ある。織も染も舞踏も・・・・。(『沖縄手づくり紀行』海竜社)
4、二人に通うもの・異なるもの
 1)岡部伊都子-相愛高女中退、離婚、女独りだけの暮し、随筆家、美なるものへの感性と知性、大きなものへ
 2)森南海子-北野高校卒、離婚、女独りずつの暮し、デザイナー、形あるものへの創造性と知性、小さきものへ

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理想主義と人間愛(2012年10月26日(金))
 「木津川 計/優しさとしての大阪文化」第4回「理想主義と人間愛-手塚治虫と山田洋次の世界-」を受講しました。講義の内容は以下の通りです。

1、文化の主人公―その国民的人気のベースは何か
 文化の各ジャンルで国民的な支持を得たのは、平和主義、優しさ、そして気配りである。
 1)漫才-秋田実の笑いの平和主義
  なぜ漫才が大衆芸能の中で首座の地位を占めるようになったのか。
  ①「低俗で卑猥」といわれた万才を否定、「無邪気」な内容に改革した。
  ②「生活の日常性」を素材に笑いの現代化を図った。
  ③エンタツ・アチャコという一世のヒーローが登場、和服の万才を洋服の漫才に一新、早いテンポのやり取りが世の中に適合した。
  ④「家中だれもが安心して笑える笑い」、即ち、笑いの平和主義を確立した。
 2)喜劇―慰めと励ましの喜劇王・藤山寛美
  松竹新喜劇は市井にあって平凡、喝采は浴びず、認められることもなく愚直に生きる、そんな人たちに支えられていた。
  松竹新喜劇は残酷な笑いを決して生み出さなかった。いつも弱者の立場に立った芝居づくりを藤山完美は貫いた。
 3)漫画―全世代に支持された「サザエさん」
  国民的人気漫画になぜ「サザエさん」がなったのか。
  ①荒唐無稽を描かず、平凡な市民の生活の日常を一貫して描いた。
  ②一家をまとめる家長はいず、それぞれが相手に気配りの気づかいを働かせつつ、大きな波風のない、平和な暮らしの中で幸せな家庭を営んでいる。
  ③活発で賢明な女性像を擁護した。
  ④暴力を排し、セックスを描かず、奇怪なものへの関心を示さなかった。読者は「家中だれもが安心して笑える笑い」を楽しんだ。

 4)歌―「20世紀の日本人を感動させた歌」(NHK調べ)
  NHK衛星放送局が「二十世紀の日本人を感動させた歌」を寄せて欲しいと、視聴者に呼びかけた(1997/4~12)。およそ2万曲の上位100曲をNHKは公表した。
  上位10曲はテーマが願望や恋愛、追悼や旅立ちで占められていて、歌詞はほとんどが平穏や希望や思慕、愛情や純真といった内容が歌われている。
  ①川の流れのように(美空ひばり)、②いい日旅たち(山口百恵)、③神田川(かぐや姫)、④高校三年生(舟木一夫)、
  ⑤アジアの純真(パフィー)、⑥いとしのエリー(サザンオールスターズ)、⑦荒城の月、⑧秋桜(山口百恵)、⑨赤とんぼ、
  ⑩LOVELOVE LOVE(ドリームズ・カム・トゥルー)
 5)アニメ―「こころ優しいラララ科学の子」の「鉄腕アトム」
 6)映画―大阪人の原型としての寅さんの人情

2、なぜ優しさとしての大阪文化なのか
 大阪の歪められたイメージを一日も早く払拭したい。大阪のイメージを良くするために心優しい文化を!
 1)歪められた大阪像
  「がめつい」、「ど根性」、「どケチ」、「ど派手」、「吉本・タコ焼き・タイガース」、「大阪のおばちゃん」
 2)社会化した大阪人観
  ①ど根性型-坂田三吉、東洋の魔女
  ②破廉恥型―大日本どケチ教教祖・吉本晴彦、猥褻知事・横山ノック
  ③権力型への脚光―島田紳助、橋下徹
 3)「ど根性文学」群の片隅にあった「帝塚山派文学」
 4)原型の大阪像―「人情」と「含羞」
  太宰治は文化とは「はにかみ」(=含羞)であると言った。
 5)生粋の大阪人・手塚治虫と大阪出身の山田洋次

3、『鉄腕アトム』と手塚治虫
 1)アトムの誕生-空をこえて星の彼方へ
 2)人間とロボットが共存する21世紀
 3)ロボットは人間のために尽くす
  21世紀をロボットと共存する世紀と予測した手塚治虫は、人間がロボットを支配しての共存であり、決してロボットに支配される世紀ではない、として人間の尊厳を守り抜こうとした。
  「ロボット法」(省略)を自ら定め、人間とロボットが平和的に共存する地球を構想した。手塚治虫はロボット法の枠内でアトムを活躍させた。
 4)手塚治虫作品-主人公の特徴
  『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『火の鳥』『ブラックジャック』など、手塚作品の主人公が持つ性格を石子順さんは『手塚治虫漫画館』で次のように述べている。
  ①どんな困難があっても生き抜いていく。生き抜く方法を考えだし、生きることに努力していく。
  ②どんなにだめになっていても、人間らしさをと取り戻していく。
  ③未来を信じる楽天性を持っている。アトムも何回も人間に裏切られたが、未来があり、科学が人間を助けることを考え、身をもって行動している。
  ④必要とあらば、身を投げ出しても他を助けるという自己犠牲の精神を持っている。
  ⑤悪はたとえどんなに強くても、必ず滅びていく。
  ⑥侵入者や圧政者への怒りがある。しかしムダに血を流さない。ムダな殺戮はしない。
  ⑦平和こそ最大に幸福、最高に得難いもの、尊いものと訴えかける。そのために人間と人間でないものとが手をつないでいく。
 5)人類愛-手塚治虫の世界観
  手塚治虫がその全作品を通じて主張したテーマは人間愛である。
 6)優しさ-国民的人気の条件

4、『男はつらいよ』と山田洋次
 1)山田洋次-2歳の記憶
  2歳までいた大阪の豊中の家は微かに記憶があります。(以下省略)(『家の履歴書』斉藤明美、キネマ旬報社)
 2)『男はつらいよ』はなぜ国民的映画になったか
  ①失われた家族の思い出と人情、②失われた自然の慰めと”殺風景”の否定、③自由人への憧れ―高度管理社会からの自由、
  ④失恋を約束された寅さんの慕情、⑤主題歌「奮闘努力の甲斐もなく」
 3)山田洋次ワールドのヒューマニティ
  ①「学校Ⅲ」と再出発への励まし
   DVD視聴後に原作者の鶴島緋沙子さんの挨拶がありました。『トミーの夕陽』で近所の自閉症の息子をモデルにした作品。    

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笑いの平和主義(2012年8月3日(金))
 「木津川 計/優しさとしての大阪文化」第3回「”帝塚山派”の文学②(前回の続き)-以倉紘平の文学」、と「笑いの平和主義-秋田実と藤山寛美の世界-」を受講しました。講義の内容は以下の通りです。

”帝塚山派”の文学②(前回の続き)
3)以倉 紘平(1940・昭和15-)
 帝塚山とは関係ないが、作風が”帝塚山派”と似ている。
 「最後の夜学生」「夜学生」「馬」「岩躑躅」「<近世都市大坂>をめぐる断章」

「笑いの平和主義-秋田実と藤山寛美の世界-」
1、秋田 実(1905・明38-1977・昭52)
1)漫才の開拓者-”低級で卑猥”からの脱皮
 「今の漫才の人達が余りに低級であること、その舞台が余りにも猥雑で卑猥であること、とても自分は皆と同じように芸人になり切れないし、世間に対して自分は漫才師であると胸を張っては言えない、言うのが恥ずかしい」(エンタツ)
 「誰でもが共感の持てる無邪気な話、それが一番でしょう」(秋田実)。秋田実の作笑術-①言葉と言い廻しによる面白さ、②二人の人間の立ち話、③平凡な庶民の生活の平凡な暮らしの打ち明け話

2)ラジオ時代の新興演芸-なぜしゃべくり漫才は生み出されたのか
 漫才がラジオ放送に頻繁に出るようになったのは、昭和9年から以後である。当時の漫才の放送には難しい条件がいくつかあった。そして、残ったのは「しゃべくり」漫才だけで放送に出られる条件に叶いそうであった。
 暮らしの打ち明け話、日常生活の雑談という考え方で、どんな話題でも漫才的に処理することができた。そして、「しゃべくり」漫才はそれ以後の漫才の主流になった。

3)戦後演芸の再編とテレビ時代の幕開け-いつも秋田実がいた
 戦後、周囲に若い漫才を集め、「若手漫才研進会」を作り、毎日のように皆と話し、一緒に歩いた。
 ラジオ「上方演芸会」は250回続き、途中でエンタツが映画界から戻ってきて「気まぐれショー・ボート」を始めた。その後、漫才番組「浪花演芸会」、名作バラエティ番組「青春サーカス」が始まった。
 ラジオ民間放送が発足し、沢山のラジオ番組を手伝った。「漫才学校」「夫婦善哉」「漫才教室」が民放コンクール第一位に入選した。

4)笑いの平和主義-昭和知識人の見識と功績
 ①「低俗で卑猥」と言われた万才を「無邪気」な内容に改革した、②「生活の日常性」を素材に笑いの現代化を図った、③エンタツ・アチャコという一世のヒーローが登場、和服の万才を洋服の漫才に一新、早いテンポのやり取りで急速に変わる世の中に適合させた、④「家中だれもが安心して笑える笑い」、即ち、笑いの平和主義を確立したが故に国民多数派の支持を確立することができた。

5)秋田実以後の笑い-粉砕された平和主義と黄昏のしゃべくり漫才
 秋田実死後3年で「一家に一種類明るい漫才」の時代は終わった。「細分化、多様化」が進行、家中だれもが楽しめなくてもよいとするお笑い観が、漫才作家たちを捉え始めた。老人・ブスを笑うツービート、強者が弱者を笑う紳助などの「差別による笑い」が復権した。今や、細切れのコントを嫌う人たちが落語へ向かった。

2、藤山 寛美(1929・昭4-1990・平2)
1)松竹新喜劇の開拓者-人情喜劇の確立
 昭和23年、渋谷天外は松竹新喜劇を創設した。天外は、館直志の筆名で多くの名作を次々発表した。文芸路線を開拓して人間の真実を描き、松竹新喜劇をまともな劇評に乗せた人だ。藤山寛美を売り出すために「親バカ小バカ」などの”阿保もの”をつくり、一領域を開いた。天外は寛美を傑出した喜劇役者に育て、松竹新喜劇を日本一の喜劇劇団に成長させる後継者として育てた。

2)破滅型教養人の浮き沈み-破産宣告と劇団からの解雇
 昭和24年12月、藤山寛美は誕生した松竹新喜劇に参加した。昭和41年に濫費により一億円の借金を背負い込み、退団処分を受けたが、松竹新喜劇の人気は急低落した。ファンは寛美不在の舞台を見に行こうとしなかった。松竹は半年で処分を撤回、人気は急上昇、7ヶ月ぶりの舞台は大入りとなった。

3)喜劇の平和主義-暴力やドタバタ、セックスとの絶縁
 244カ月連続無休公演の偉業を打ち立てた。松竹新喜劇は殺人や血まみれの傷害を描かなかった。極悪非道な人間も英雄豪傑も主人公になならなかった。女のアホは一人もいず、セックスのシーンは一度も演じたことはなかった。それが寛美の作劇術であった。
 松竹新喜劇は市井にあって平凡、喝采は浴びず、認められることもなく愚直に生きる、そんな人たちに支えられた。寛美は世の中を金持ちと貧乏人に分けたら貧乏人の方が多い。「だから松竹新喜劇は貧乏人の側に加担します」と自らの喜劇哲学を語った人でもあった。

4)戦後喜劇の立役者-スクリーンの渥美清と舞台の渥美清
 日本の戦後喜劇史上、特筆すべき喜劇人は二人しかいない。一人は映画「男はつらいよ」で”寅さん”を演じた渥美清であり、もう一人が藤山寛美に他ならない。

5)寛美以後の喜劇-国民的喜劇の退場と笑いの不作
 藤山寛美は平成2年5月21日(1990)に逝去した。寛美の没後、渋谷天外の子息・渋谷天笑が三代目渋谷天外を襲名、「新生松竹新喜劇」の看板を掲げて再出発した。しかし、お客の入りが急激に落ち込み、往年の人気は失われた。渥美清の逝去(平成8年4日、1996)とともに国民的人気を博した”寅さん”シリーズは終止符を打たれた。一方、寛美の没後9年を経た平成11年(1999)松竹新喜劇のホームグラウンドであった道頓堀・中座を松竹は手放し、売却した。寛美が存命であったら、こういう事態には決してならなかったであろう。

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”帝塚山派”の文学②(2012年6月22日(金))
 「木津川 計/優しさとしての大阪文化」第2回「”帝塚山派”文学②‐藤沢桓夫、杉山平一、以倉紘平の文学-」を受講しました。講義の内容は以下の通りです。

1、再びなぜ「帝塚山派」を措定するのか
1)都市格の高い大阪のために-宮本憲一氏の論考『世界』2012年7月号
 梅棹忠夫は1972年、大阪府文化政策懇談会で次のような発言をしている。「戦後はとっくに終わったのに、大阪では今も金儲け第1主義という発想が続いている。それが大阪人の常識になっているのを見たり聞いたりするにつけ大阪は『下司の街』と断定せざるを得ない。昔の大阪は経済活動も文化活動も大変活発な町であったが、どうやら戦災によって昔の大阪はほろんでしまったようだ」。
 私はこの「下司の街」からの脱皮を考え、都市政策の目標を、都市格のある街と言ってきた。(中略)1992年11月、大西正文大阪ガス社長は大阪商工会議所会頭就任に際して「都市格の向上」を会議所の基本方針とした。(中略)しかし、その後の財界はこの方針を具体化できず、雪崩を打って、東京に管理機能を移してしまった。
 大阪府は黒田了一知事の時代に全国で初めて文化政策を府政の主要施策の一つにした。しかし、バブル崩壊後の景気政策の失敗で自治体財政が窮乏してくるとこの動きが制約された。橋下府政は文化行政を事実上止め、文化事業をコスト・カットの対象にした。上方芸能の守護者である木津川さんは、これでは大阪がますます衰退すると考え、『都市格と文化』(自治体研究社、2008年)という書を著して、「大阪の発展のためには文化の振興以外にない」と警告した。しかし、橋下市長は府政と同様に学術・文化事業をコスト・カットの目玉にしている。このままでは「都市格」は死語にされてしまい、大阪は「下司の街」から脱却できないかもしれない。
2)人格と都市格-”がめつい都市”から”含羞都市”へ
 人格を形成するにゆたかな教養が用件であるのと同様に、都市格を高める要件はゆたかな文化の他ならない。
3)「都市格」を否定する流れ
 府市統合本部の特別顧問、上山信一慶応大学教授、「今時、計画経済みたいなビジョンを語っても仕方ない。『大大阪』や『都市格』も死語にすべきだ」。

2、帝塚山派の文学①-前回の続き
1)阪田寛夫
 「音楽入門」「土の器」「足踏みオルガン」「ロミオの父」「童謡出てこい」「わが小林一三-清く正しく美しく-」
2)長沖一
 「上方笑芸見聞録」-エンタツの思い出。「お父さんはお人よし」と浪花千恵子への哀悼。
 文学者としてはもう一つだったがが、インテリ中のインテリであった。学長にまでなった。

3、帝塚山派の文学②
1)藤沢桓夫(明治37(1904)年~平成元(1989)年、85歳没)
 「新雪」「大阪五人娘」「大阪自叙伝」
 藤沢桓夫の文学とは(杉山平一)、司馬遼太郎の弔辞
2)杉山平一(大正3(1914)年~平成24(2012)年、97歳没)
 「橋の上」「傾斜」「私の大阪地理」「マッチ」「夜学生」「窓」「ミラボー橋」

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”帝塚山派”の文学①(2012年4月27日(金))
 「優しさとしての大阪文化」の第1回「”帝塚山派”の文学①‐庄野英二・潤三、阪田寛夫、長沖一の文学ー」を受講しました。講義の内容は以下の通りです。

1、なぜ「優しさとしての大阪文化」なのか
 歪められる大阪像の時代、大阪本来の優しさが想起されなければならない。武士の都市・江戸の荒事に対して、町人の町・大坂の和事はこの都市をやわらかな色に染めていた。それが、”人情(ヒューマン)の街・大阪”の(いい)に他ならなかった。

2、大阪像、大阪人像
 1)社会化した大阪観
  全国の人の大阪に対するイメージは、「がめつい」「ど根性」「どケチ」「ど派手」「吉本・タコ焼き・タイガース」「大阪のおばちゃん」である。
 2)大阪の文化分類型
  ①宝塚型文化-都市的華麗
  ②河内型文化-土着的庶民性
  ③船場型文化-伝統的大阪らしさ
  ④千里型文化-学術研究機能性
 3)大阪人の全体像
  ①ど根性型-阪田三吉、”東洋の魔女”(1960年代)
  ②破廉恥型-大日本どケチ教教祖・吉本晴彦、猥褻知事・横山ノック、(1973年石油ショックで高度成長終焉)
  ③権力型への脚光-島田紳助、橋下徹(現在)
  ④恥じらい型-優しさとしての大阪文化の原型にあるもので、表に出てこない。今こそ脚光を当てなければならない。

3、「四季派」にならんで「帝塚山派」を
 1933(昭8)年5月、堀辰雄の編集により「四季」が創刊された。堀辰雄、三好達治、丸山薫らが、日本の伝統的な抒情ないし西洋文学と結び付け、主知的で典雅な抒情詩として再生させた。これらは「四季派」と呼ばれる。
 ヒューマンやピューリタンな作風で大阪を温かく清潔に描き、人生と誠実に向きあった。例えば、阪田寛夫、藤沢桓夫他、一群の作家たちを再評価しなければならない。その作家たちの多くが帝塚山学院の教壇に立った。庄野英二・潤三兄弟、杉山平一、小久保實、長沖一ら、これらの作家たちを「四季派」になぞらえて「帝塚山派」と呼びたい。

4、帝塚山派の文学
 1)庄野潤三 「舞踏」「プールサイドの小景」「相客」
 2)庄野英二 「アレン中佐のサイン」「ロッテルダムの灯」「松花紅」「星の牧馬」
阪田寛夫、長沖一の文学は次回。

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2011年度

 

木津川計/大阪学講座大阪・京都文化講座

大阪・京都文化講座

大阪の地域特性とその課題城下町大坂大阪のインナーシティと都市再生の課題大阪におけるごみ問題の近現代史

「大阪・京都文化講座」受講票(2011年7月13日(水))
 立命館大阪プロムナードセミナー「大阪・京都文化講座『大阪・京都の風土と景観』」の受講票が届きました。
 大阪・京都の自然・風土・地誌・都市空間などについて考え、さらに今後の課題・問題点を提起します。全8回の内、大阪に関する講座4回を受講します。毎回、14時から15時40分まで下記の日程で開催されます。
 第1回 2011年10月17日(月) 大阪の地域特性とその課題 大阪大学大学院文化研究科教授 堤 研二さん
 第3回 2011年10月31日(月) 城下町大坂~江戸時代の大阪を考える~ 大阪大学大学院文化研究科教授 小林 茂さん
 第5回 2011年11月14日(月) 大阪のインターシティと都市再生の課題 大阪大学大学院経済学研究科教授 高山 正樹さん
 第7回 2011年11月28日(月) 大阪におけるごみ問題の近現代 大阪大学大学院文学研究科教授 波江 彰彦さん  

  

大阪におけるごみ問題の近現代(2011年11月28日(月))
 立命館プロムナードセミナー「大阪・京都文化講座『大阪・京都の風土と景観』」の第7回を受講しました。「大阪におけるごみ問題の近現代」と題して、大阪大学文学研究科・助教の波江彰彦さんが講義しました。内容は以下の通りです。

1、 大阪市のごみ排出・リサイクルの現状
 ・1人当りごみ排出量 7大都市中最大
 ・サイクル率は 7大都市中最低レベル
 ・この理由は?
  現在の施策・取り組みにも原因があるが、大阪市のごみ管理がたどって来た経緯も考えられる。
  → 歴史をふまえて現在の問題を検証する。

2、 戦前におけるごみ管理
1)直営化、ごみ焼却の実験
 ・1900(明治33)年、「汚物掃除法」制定
 ・同年、大阪市はごみ処理事業を直営化
 ・同年、試験炉を建設してごみ焼却の実験を開始
2)ごみ焼却処理の推進
 ・1916(大正5)年以降、木津川焼却場と寝屋川焼却場を新設・増設
  1935(昭和10)年度には、ごみの直接償却処理率は76.3%
3)戦時体制
 ・塵芥報国運動(有価物の徹底回収、塵芥の養豚飼料としての供給、ごみ焼却残灰の堆肥利用)
 ・1944(昭和19)年、ごみ処理事業を全面中止
 ・木津川第一・第二工場は、軍の指示により造船会社に貸与

3、戦後のごみ管理
1)ごみ管理の戦後復興期(昭和20年代)
 ・ごみ排出・収集
  ・1946(昭和21)年6月にごみ収集作業を再開(混合収集)
  ・収集・運搬フローは戦前を継承(肩引車で各戸収集→空き地・河岸で中継作業→陸路・水路で焼却場や処分地へ)
 ・ごみ処理・処分
  ・1948(昭和23)年1月にごみ焼却処理を再開
  ・木津川・寝屋川焼却場を復旧
  ・メインは埋立処分→柴谷処分地、市内周縁部、戦災跡など
  ・堆肥としても売却、養豚でも利用も

2)経済成長にともなう苦境期(昭和30~40年代)
 ・ごみ排出・収集
  ・1960(昭和35)年頃からごみ排出量が急増
  ・ロードパッカー車を導入、水路から陸路へ
 ・ごみ処理・処分
  ・埋立処分地の逼迫→市外へ用地を求める
               →埋立処分地をめぐるトラブル頻発(環境汚染、住民からの苦情、自治体間の対立など)
  ・木津川・寝屋川焼却場の老朽化
  ・デ・ロール式焼却炉(スイスの最新式型焼却炉)の導入をめぐる苦労(導入に向けての研究開始から清掃工場完成まで10年弱を要した)
  ・1963(昭和38)年、日本初の全連続式焼却炉(国産炉)を備える清掃工場(住吉工場)が完成

3)ごみ焼却処理体制の確立期(昭和50年代~)
 ・ごみ焼却施設の建設
  ・1963(昭和38)年、住吉工場完成
       ~ この間、17年あまりで10の清掃工場を建設
  ・1980(昭和55)年、大正工場完成
  ・1980年、全量焼却体制を達成(と、大阪市が宣言)
  ・2001年(平成13)年、11番目の舞洲工場完成
 ・最終処分
  ・最終処分場は臨海部・海上埋立へ  南港、北港(舞洲・夢洲)
  ・1992(平成4年)、フェニックス計画による処分場への搬入開始

4)ごみ管理システムの転換期(平成~現在)
 ・ごみ減量・リサイクルの推進
  ・1980年代、大量消費・大量廃棄社会の限界
  ・1990年代以降、全国的にごみ減量・リサイクルが本格化
  ・1995(平成7)年以降、各種リサイクル法制定
 ・ごみ減少局面の到来
  ・2000年以降、ごみ排出量は全国的に減少傾向に
  ・要因はいろいろ(家電リサイクル法の効果、経済活動・消費の落ち込み、消費財の軽量化等)考えられる
  ・ごみ焼却能力に余裕(余剰)が生じ、清掃工場を閉鎖する動きも

4、ごみ減量・リサイクル
 ・大阪市のごみ分別収集
  ・普通ゴミ(可燃・不燃ごみの混合収集)
  ・粗大ごみ(2006年に有料化)
  ・空き缶(1994年)
  ・空きびん(1994年)
  ・金属製の生活用品(1994年)
  ・ペットボトル(1997年)
  ・容器包装プラスチック(2005年)
  ・小物金属類の申込制収集(2011年から施行実施)
 ・大阪市のリサイクル活動支援
  ・1999(平成11)年、集団回収団体支援制度を開始
  ・2006・2009年、支援内容(奨励金)を充実化

5、まとめ
 ・大阪市におけるごみ管理のこれまで
  ・早期のごみ焼却処理体制の確立により、大量廃棄社会に対処→しかし、近年はオーバースペックに
  ・ごみ処理システム転換(適正処理からごみ減量・リサイクルへ)の遅れ
   (高水準の処理能力が転換への努力を遅らせた? 行政や市民に甘えがあった?)
 ・大阪市におけるごみ管理のこれから
  ・行政・民間(住民)双方の取り組みに改善・向上の余地あり
  ・他都市を見習えば、行政がやれることはまだある
   (施設のダウンサイジングや転換、分別収集の見直し、事業系ごみへの厳しい対処など)
  ・集団回収活動の今後には期待がもてそう
   (「新しい集団回収のかたち」がみられるようになったいま、大都市の強みを生かしたい)

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大阪のインナーシティと都市再生の課題(2011年11月14日(月))
 立命館プロムナードセミナー「大阪・京都文化講座『大阪・京都の風土と景観』」の第5回を受講しました。「大阪のインナーシティと都市再生の課題」と題して、大阪大学経済学研究科・教授の高山正樹さんが講義しました。内容は以下の通りです。

1、インナーシティとは
1)インナーシティという用語について
 Inner city:大都市圏における人口の郊外化とともに、中心地の都心周辺地域が負の変化を起こした状態とかその問題自体を指す。
 日本では見られなかった(特に東京では)。しかし、大阪・神戸にはインナーシティ問題があるのではないか。
2)英国のインナーシティ白書(1977)
 ロンドン・ドッグランド:大英帝国繁栄の象徴的場所が輸送革新に伴い衰退。英国経済衰退の象徴的な場所として再生(ウオーターフロントの再生)の必要性。
 カナリー・ウオーフを中心に金融業務地化(バンク機能の移転)。ドック周辺の労働者住宅地の再生と優良市街地への再生。ロンドン・シティ・エアポート(1987)、O2などコンベンション、メッセなどの新機能の創出。
 再生事業は良かったが、住んでいた人が追い出された。

3、大阪とインナーシティの現状
1)インナーシティの形成
 戦前期(特に大正期)に大阪東部の区を中心に町工場の立地による住工混在地域の形成、臨海部の工場専用地。都心区(北区、中央区、西区)を除く区部。これらの地域が高度成長終焉後、衰退。優良企業の流出。人口の郊外化(私鉄沿線へ人口の流出)。釜ヶ崎(あいりん地区)の存在。
2)人口動態
 2005年~2010年の大阪府人口は45.730人増加しているが、大阪市の人口増加37,560人によるもので、大阪市を除く府下は微増。将来的には減少が予想される。大阪市の人口増加は主に都心区(中央区、西区、北区、浪速区、福島区)における増加。近年のいわゆるマンション建設に伴う社会増加(2000年以降)。他の大都市に比べ、年少人口に対して高齢者の割合(老年化指数)が高い。
 労働人口、雇用者数(常住地)の減少、昼間就業者の減少、サービス業就業者の増加。失業者数が多いのみでなく、失業率、特に若年者の失業率が高い。
 総人口に占める外国人数の割合は高いが、外国人数(約10万人)には大きな変化はない。
3)被保護所帯・人口
 全国的な保護世帯・人口の増加。政令都市など大都市部で増加。特に大阪市を中心に大阪府下では増加。地域的には釜ヶ崎を含むインナーシティ。このことが大阪市財政負担の一因。
4)経済、財政の現状
 卸小売産業とサービス業が中心。製造活動の衰退。
 市税収入の減少(平成23年度歳入、1兆7205億円)の一方で扶助費や公債費が上昇。経常収支比率が上昇(100以上となっている)し、財政構造が硬直化。この背景には税の配分構造、行政の仕組みという基本的問題と大都市圏経済という問題。
 経済のグローバル化や産業構造の高度化への立ち遅れ。

4、大阪再生へ
 外国人も含めて若者から高齢者まで多様な年齢の人々が住み、住民にとっては、美しいと感じることのできる街、憩える街、住んで楽しい街の創造が求められる。そして、来訪者にとっては、再訪したい、住みたいと思える街づくりを考える必要がある。
 生活を支える仕事(産業)の創出も必要である。現下の経済活動のグローバル化を考えれば自ずと経済成長戦略分野(集客・観光、環境・エネルギー、健康・医療、クリエーティブ・デザイン)が求められる。これらの産業を市外に追い出すのではなく、可能な限り都市内にとどめる政策と生活の場との整合的な土地利用を図りつつ、コンパクトシティ化の推進が必要であろう。

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城下町大坂(2011年10月31日(月))
 立命館プロムナードセミナー「大阪・京都文化講座『大阪・京都の風土と景観』」の第3回を受講しました。「城下町大坂~江戸時代の大阪を考える~」と題して大阪大学大学院文学研究科教授の小林茂さんが講義しました。内容は以下の通りです。

1、大阪城の不思議
1)大阪城は大阪のシンボル → 現在の大阪の町は、大坂城の城下町として発展
 しかし大坂は「天下の台所」、「町人の町」などと呼ばれ、武士の影がうすい
2)豊臣時代の大坂城は秀吉入城から大坂夏の陣までのわずか32年
 これに対し、徳川時代の大坂城は夏の陣から大坂城明け渡しまでの250年以上
 しかし、話題になるのは豊臣時代の大坂城

2、江戸時代、大坂城内には誰がいたか
 大坂城代:譜代大名が交代で就任
  ある時期をのぞいて任期は特になく、最長21年、延べ70名が就任
  大坂城代70名のうち高校の教科書に掲載されているのは水野忠邦のみ
 大坂在番
  大坂定番:大名(1~2万石)、定まった任期なし、2名
  大番:旗本、任期1年、2組
  加番:大名、任期1年、4名

3、大坂城代のもとにいる幕府諸役人
 大坂在番
  定番(2名)+与力(各30騎)・同心(各100名)(大阪在住)
   この同心の1人として天文・歴学者として有名な高橋至時
  大番頭(2名)+与力(各10騎)・同心(各20人)
  加番
 大坂町奉行(2名)+与力(各30騎)・同心(各50名)(大坂在住)
  この与力の1人として大塩平八郎

4、大坂奉行という役職
1)職務
 大坂三郷および町続きの民政、兵庫・西宮の民政、川方・寺社方、享保7(1722)年以降は摂津・河内・和泉・播磨の租税徴収および公事裁判を担当。家族をつれて赴任。
2)類似の役職
 (江戸)町奉行、京都奉行、駿府町奉行

5、各藩の大坂蔵屋敷
 主として米販売
  その他専売品の販売、江戸仕送り・借銀、京都・大阪での買い物
 約85の蔵屋敷

6、殿様のいない城下町、大坂
 大坂:多くの武士にとって一時的勤務
  大坂城代・大坂町奉行は譜代大名・旗本の出世の階段
  大坂勤務は稼げる仕事:役料+町人からの付け届け、年始・中元・歳暮
   大坂地つきの武士:与力・同心
  → 「名君」の出る可能性がない
  名城代、名奉行がいても長く記憶されない → 秀吉や秀頼、淀君のような話題性に欠ける
 大坂の武士の数は町人に比べて少ない
  家族も含めて約1万人
  → 武士の影がうすい
 武家屋敷:退去・入居を繰り返す仮住まいとしての性格強い
  大番・加番の場合は「小屋」と表記

7、さまざまな城下町
 大名の城下町
  外様大名の城下町:転封が少ない → 侍屋敷の私有化
  譜代大名の城下町:転封が多い → 公務員住宅としての侍屋敷
 大坂(京都・甲府・駿府):殿様がおらず、交代で管理:仮住まいとしての侍屋敷 → 「原状復帰」して引継ぎ?
 江戸:幕臣とともに各大名の屋敷、巨大城下町

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大阪の地域特性とその課題(2011年10月17日(月))
 立命館プロムナードセミナー「大阪・京都文化講座『大阪・京都の風土と景観』」の第1回を受講しました。「大阪の地域特性とその課題」と題して、大阪大学文学研究科・人文地理学教室教授の堤研二さんが講義しました。内容は以下の通りです。

1、大阪の地域特性の概要
 1)大阪人気質
  ・「お奉行様の 名さえ覚えず 年暮れぬ」(小西来山)
  ・大宅壮一:「阪喬」 → 合理主義、反政府・反官僚的、義理・人情、人生謳歌、料理好き。
  ・宮本又次:何事にもとらわれないおおらかな気質、個性強烈で少数精鋭主義でワンマン経営になりやすいため、中小企業向き。
  ・祖父江孝男:大阪人 → がめつい、しぶちん、功利的、ど根性、創意工夫、ユーモア.........。
    ⇔江戸っ子 → 敏捷、頭の回転が速い、気が短い、悠長なことを嫌う、非合理主義、宵越しの金は持たない、消費主義、金銭蔑視
 2)人口関係データ
  ・最近は人口も所帯数も微増。
  ・人口の増加率よりも世帯数の増加率がやや高い。 → 非大都市圏でも見られ始めている。 → 「分世帯化」か?
  ・2005年の国勢調査では大阪府は2位であったが、2010年には神奈川県に抜かれ、3位となった。
 3)統計データで見る大阪の地域特性
  ・製造業1事業所当たり出荷額 → 42位(2007年) 中小企業が多い?
  ・人口1人当り工業出荷額 → 31位(2007年)
  ・生産年齢人口当たり工業従事者数 → 31位(2006年) 15歳~64歳
  ・人口1人当り都道府県民所得 → 9位(2006年) 生活保護受給世帯が多いにも関わらず頑張っている。
  ・人口1人当り都道府県内総生産 → 5位(2006年) 同上
  ・資料:「都道府県別統計とランキングで見る県民性」 http://todo-ran.com/t/tdfk/osaka
   生活保護受給世帯、殺人事件被害者数、児童虐待相談対応件数1位については大阪全体で考えなければならない課題。

2、過疎地域と大阪の共通点
  ・過疎地域とは、「過疎法」(「過疎地域自立促進特別措置法」)により市町村単位で指定。
  ・人口減少・高齢化の要件と財政力要件により定義。
  ・日本の国土の半分以上が過疎地域。
  ・人口減少、高齢化、産業衰退、生活機能の弱体化が「悪循環を呼ぶ」(紙野伸二、1970年)
  ・過疎地域がない都道府県は2つだけ! → 神奈川と大阪
  ・市町村単位よりも小さなスケールでは、旧市町村時の指定地域以外は過疎地域に指定されない。
  ・局地的な過疎現象が大都市圏内でも見られるようになってきた。 → 千里や泉北のニュータウン

3、過疎地域の事例紹介(内容省略)
  ①槻之屋集落(島根県雲南市木次町)
  ②広島県西城紫水高校(広島県庄原市西城町)
  ③NPO法人「ふるさとの力」
  ④千里ニュータウン
*ソーシャル・キャピタル
  ・ソーシャルキャピタルとは、「社会関係資本」と訳される。
  ・民主主義・博愛主義の根本にあるべき、「信頼」、「絆」、「人間関係」を活用する考え。
  ・過疎地域でも村落共同体によって今でも強い「社会紐帯」が見られる。 → 相互扶助
  ・人口減少において、「ソーシャル・キャピタル」が注目され始めた。
  ・住民や組織によるソーシャル・キャピタルを活用した地域生活機能維持(地域生活機能のサステイナビリテイ)の重要性が注目され始めた(「ご近所の底力」)。

4、千里ニュータウンの地域問題
 1)一部の人による別名「千里オールドタウン」
 2)人口の減少と高齢化 → 局地的には過疎地域と同じような現象が見られる。
 3)ソーシャル・キャピタルを利用した生活の活性化方策 → ローカル・ナレッジ。
 4)住民組織による様々な取り組み。

5、過疎地域から学ぶこと
 1)就労、医療、教育、生きがい
 2)地域調べ、地域再認識、いまある財産は何か?
 3)ソーシャル・キャピタルとしての社会紐帯
 4)地域社会の役割、行政の役割

6、残された課題
 1)地域の実態を知るために:統計、実態調査、分析、検証
 2)現在~近未来の問題:高齢化、人口現象、経済不況のほか、社会の分断・縮小など

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木津川計/大阪学講座

<日本万国博>はなぜ大阪で開かれたのか<漫才>はなぜ大阪発の国民演芸に育ったのか<地盤沈下>はなぜ大阪で進行したのか<大阪城天守閣>はなぜ再建されたのか<戦後文学都市>をなぜ大阪は構築したのか<上方落語>の復権はなぜなされたのか

「木津川計/大阪学講座」受講案内(2011年3月28日)
 立命館大阪プロムナードセミナー「木津川計/大阪学講座」の受付確認書・払込取扱票が郵送されてきました。
 「上方芸能」発行人の木津川計さん(元立命館大学教授、和歌山大学客員教授)が「大阪学」をテーマに講座を展開します。毎回14:00から15:40分まで下記の日程で開催されます。
 第1回 2011年 4月15日(金) <日本万国博>はなぜ大阪で開かれたのか-かくて70年安保の政治危機は回避された
 第2回 2011年 6月24日(金) <漫才>はなぜ大阪発の国民演芸に育ったのか-帰郷したプロレタリア作家・秋田実の転換
 第3回 2011年 8月 5日(金) <地盤沈下>はなぜ大阪で進行したのか-”大大阪”と戦後経済がもたらせた”沈む大阪”
 第4回 2011年10月28日(金) <大阪城天守閣>はなぜ再建されたのか-陸軍の制圧から大阪城址を奪回した関一(せきはじめ)
 第5回 2011年12月16日(金) <戦後文学都市>をなぜ大阪は構築したのか-井上靖に始まり、司馬遼太郎で終焉するまで-
 第6回 2012年 2月24日(金) <上方落語>の復権はなぜなされたのか-四天王、わけても桂米朝がもし不在だったら 

 

<上方落語>の復権はなぜなされたのか-四天王、わけても桂米朝がもし不在だったらー(2012年2月24日(金))
 「大阪学講座」第6回(最終回)「<上方落語>の復権はなぜなされたのか-四天王、わけても桂米朝がもし不在だったら―」を受講しました。内容は以下の通りです。

1、上方落語の戦後
 1)落日をさしまねくもの-「漫才」の氾濫時代
  場末の席亭の色物の一つに過ぎなかった「万歳」が、横山エンタツ・花菱アチャココンビの出現によって「漫才」となり、大衆演芸の最高峰を独走することになった。これに反して落語はぱったりと鳴りをひそめてしまった。
 2)上方落語-惨憺たる窮地
  戦後真っ先に立ち上がった落語人は、五代目笑福亭松鶴であった。他に第一線に立ち得る者は数少なく、松鶴、立花家花橘、四代目桂米團治、二代目桂春團治が昭和20年代に相次いで亡くなった。松鶴ら亡きあと、上方落語は惨憺たる窮地に陥っていた。
 3)「上方はなし(落語)はすでに虫のイキ」
  上方はなしの遺産整理をしておきたかっただけだ。(「上方落語考」宇井無愁、青蛙房、昭和40年)

2、文楽の戦後-ヒンターランドの崩壊
 1)素人浄瑠璃の衰退-旦那衆の退場
  文楽の衰退は素人浄瑠璃に昔日の面影が全くないことを反映している。もとは大阪船場の旦那たるたしなみとして浄瑠璃の稽古が必須であった。かっては旦那芸の 素人義太夫を積み重ね、玄人はその上に範となるだけの実力を持ち、さらに玄人の頂点には文楽の巨匠が見下すという、ピラミッド型が構成されていた。
 2)志賀直哉、太宰治の青春―娘義太夫の全盛
  1900年(明治33)ごろ、東京の娘義太夫は1000人を突破した。大阪で生まれ育った義太夫が東京で大うけになって根づいた。若き志賀直哉や太宰治は夢中になった。
 3)一輪文化と草の根文化-素人浄瑠璃と落研
  「一輪文化」(専門のプロフェッショナル)と相並ぶ「草の根文化」(素人アマチュア衆)があって初めて盛んになる。1960年代、上方落語の素晴らしさを知り大学に落研が出来てきた。

3、中川清の誕生と桂米朝の人生
  三代目桂米朝(本名 中川清)は大正14年(1925)11月6日中国にて生まれた。
 1)正岡容と桂米團治
  米朝は東京での学生時代、作家、落語研究家として著名であった正岡容の門を叩いた。郷里の姫路で会社勤めをしていた戦後間もなく一通の手紙が届いた。「いまや伝統ある上方落語は消滅の危機にある。復興に貴公の命をかけろ」と師の天の声があった。そして、師事したのが四代目桂米團治であった。
 2)「上方芸能」の創刊と「桂米朝独演会」
  「上方芸能」創刊号が昭和43年(1938)4月に発行。昭和44年(1969)4月初めて「桂米朝独演会」が開かれた。
 3)上方落語の復権
  戦後、上方落語の復興に尽力した、六代目笑福亭松鶴、三代目桂米朝、三代目桂春團治、五代目桂文枝が上方落語四天王と呼ばれた。

4、”米朝以前・米朝以後”-この落語家を不在にしていたら
  谷沢永一関西大学教授は「米朝以前・米朝以後」、「落語を庶民の知恵から知識人の感覚に格上げした」と米朝を評価した。
 もし、桂米朝が不在であったら
 1)上方落語の話芸水準が今日ほど高まらなかった。
 2)情のある大阪弁への無理解がこの国で解消しなかった。
 3)芸術性と知性を結びづける落語家を不在にした。
 4)古典落語の掘り起こしに収穫をみなかった。
 5)活字落語が不作であった。
 6)レコード全集が貧弱であった。
 7)落語家の数を今日ほど増やさなかった。
 8)上方落語の栄誉を高めなかった。

 桂春團治は名人。
 桂米朝は、子どもを演じることができない、酔態は不得手、アホを演じることが出来ない。しかし、船場の旦那を演じると品がある。生活のリアリズムを演ずる話芸である。(注)現在:米朝一門60人

 講演会(最終回)の終了後に、懇親会が開催されました。

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<戦後文学都市>をなぜ大阪は構築したのか-井上靖に始まり、司馬遼太郎で終焉するまで-(2011年12月16日(金))
 「大阪学講座」第5回「<戦後文学都市>をなぜ大阪は構築したのか-井上靖に始まり、司馬遼太郎で終焉するまで-」を受講しました。講義の内容は以下の通りです。

 戦後大阪文学は、織田作之助、小野十三郎、井上靖に始まり司馬遼太郎で終焉した。
1、戦後大阪文学の火花-織田作之助と小野十三郎の役割
 織田作之助の「可能性の文学」は、大阪が投げつけた東京の権威的既成文壇への挑戦状であった。志賀直哉等の小説作家が「自分を描いても自分の可能性を描かず、身辺だけを描いているだけだ。他人を描いても、ありのまま自分が眺めた他人だけで、他人の可能性を描かない」と。
 また、詩人の小野十三郎も「短歌的抒情の否定」を大阪から歌壇に投げつけた。古ぼけた抒情にくもらされた眼では、事物の実体を見抜くことができない、と。

2、文学都市大阪
 夫婦善哉、アドバルーン、木の都(織田作之助)、闘牛、通夜の客(井上靖)、パニック、流亡記(開高健)、暖簾、花のれん(山崎豊子)、がめつい奴、君の名は(菊田一夫)、悪名(今東光)、王将(北条秀司)、都市病、蜘蛛の糸、復活の日(小松左京)、竜馬がゆく、翔ぶが如く、坂の上の雲(司馬遼太郎)

 戦後の文学都市大阪が何故に熱気をたたえたのか。一つは、商工業都市大阪のバイタルで猥雑な地熱は若くて有能な作家たちのエネルギーを爆発さすにふさわしい 都市だった。二つ目は、司馬遼太郎が人気作家になっても東大阪に居を構えたまま、東上しなかったことである。有能でありさえすれば大阪にあっても人気作家 たり得ることを証した。その上、人は人を呼ぶ。司馬は多くの作家を引き寄せた。戦後大阪の文化と経済が共に元気だった時代である。
 山崎豊子の「花のれん」、菊田一夫の「がめつい奴」が大阪を”ど根性”と”がめつい”都市とイメージさせた。今東光は河内のイメージをフリーセックス地帯のように描出した。

3、大阪の文学はなぜ衰退したのか
 なぜ、文学都市大阪がその面影をなくしたのだろうか。多くの猥雑とど根性が描かれた60年代の高度経済成長後の70年以降、大阪の猥雑とど根性を必要とした文学の時代が過ぎた。96年に終生大阪を離れず、日本文学の灯台的役割を果たした司馬遼太郎が72歳で死去した。大阪から照らした文学の灯が消えたのだった。

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<大阪城天守閣>はなぜ再建されたのか-陸軍の制圧から大阪城址を奪回した関一-(2011年10月28日(金))
 「大阪学講座」第4回「<大阪城天守閣>はなぜ再建されたのか-陸軍の制圧から大阪城址を奪回した関一-」を受講しました。講義の内容は以下の通りです。

1、大坂城-悲運の城
 1)大坂冬の陣・夏の陣
  大坂夏の陣(1615年)、5月7日に天守閣は炎につつまれた。
 2)鳥羽伏見の戦い
  徳川の治世になり、”天下普請”により1629年再建された。しかし、幕末、官軍と、幕府軍の最後の決戦-鳥羽伏見の戦い、で戦いの決着はつきつつあった。大坂城で総指揮をとる徳川慶喜以下幕府首脳は城を棄て、大坂を見捨てた。東町、西町の両奉行も江戸へ遁走した。与力・同心も姿を消した。官軍は京都攻略で手一杯、”無防備都市”大阪は無政府状態であった。9日、大坂城内の焔硝蔵が大爆発し、城内の御殿が巨大な火柱をあげて燃え始めた。誰が火を放ったのかは分からない。
 その跡地へ、明治新政府は大阪鎮台を置く(1871年)。1888年(明治22)、大阪鎮台は第四師団司令部になった。かっての城内へ市民は立入れなかった。

2、御大礼記念の大阪城再建
 1)不況の最中の再建計画
  1928年(昭和3)7月、市長関一は御大典記念事業として大阪城再建議案を市会に提案した。再建事業の内容は、工費約70万円で大阪城跡地に大阪城公園を設け、鉄骨 鉄筋コンクリート造の天守閣を築造し、公園道跡を設け、工費80万円で鉄筋コンクリート造の第四師団司令部庁舎を移転改築するものであった。
 議案は同年7月議会で可決された。事業費150万円、そのすべてを関は「広く一般市民の篤志に待つ」といった。一銭の負担も大阪市はしない。各区役所に設置 された推進委員会に前例のない規模の寄付申込者が相次ぎ、半年足らずの間に法人・個人を合わせて78250余件の寄附申込がなされ、目標の150万円に達 した。
 2)軍用地の真ん中にに再建
  天守閣復興で一番問題になったのは、大阪城内が明治以降軍用地として使用され、特に本丸はその中心部であったこと。しかし、御大典 記念事業という錦の御旗があり、軍部も応じざるを得なかった。陸軍と関との間のやり取り(なぜ陸軍から市民の手に取り戻したのか)を関は語っていない。

3、関一-大阪の近代都市を推進した名市長
 1)大大阪の実現
  大正14(1925)年4月1日に大阪市の第2次市拡張が行われ、人口で東京市を抑えて全国一となった。この拡張された大阪市を大大阪と呼んだ。
 2)関一の功績
  市長としての関は、市営公園や公営住宅の整備、御堂筋の拡福、地下鉄の建設(現大阪市営地下鉄御堂筋線)、大阪城天守閣の再建、大阪商科大学(現大阪市立大学)の開設など都市政策を実行した。関は大阪の近代化を推進した名市長で、大大阪を実現した。

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<地盤沈下>はなぜ大阪で進行したのか-”大大阪”と戦後経済がもたらせた”沈む大阪”-(2011年8月5日(金))
 「大阪学講座」第3回「<地盤沈下>はなぜ大阪で進行したのか-”大大阪”と戦後経済がもたらせた”沈む大阪”-」を受講しました。講義の内容は以下の通りです。

1、直撃された水の都-ジェーン台風(1950年)
 1)大阪の被害甚大-河川の氾濫
  1950年(昭和25年)、ジェーン台風が室戸に上陸した。満潮時高潮と重なり西大阪は大水害に見舞われた。
 2)「川を埋めよ」の高まり-埋め立てられる川
  ジェーン台風をきっかけに昭和30年代~40年代にかけて、モータリゼーションをにらんで川を埋めて道路を作った。
  汚い川ということで長掘川は住民が埋めて欲しいと要求があっと。しかし、後に埋めたことを悔やんだ。
 3)沈む大阪が増幅した河川の氾濫
  土地沈下が水害激化の原因となった。

2、沈む大阪-巨大重量都市の不安
  住民は自分たちの町が沈んでいるのではないかと不安になった。地盤沈下の原因については諸説が生まれた。
 1)柔らかい土質が原因(昭和5年時点)
  沖積層の土質で、土砂の逃出しや土中の水分の変化などで高層建築は基礎工事を相当入念にしていても、建築中より沈下した。北浜の住友ビルが沈下の均衡をとるために第2期工事に人工沈下法を採った。
 2)沈む大阪の地塊-今村明恒博士の「地塊運動説」(昭和9年)
  地塊運動とは、地塊が断層を境にして種々の異なる方向に動く運動のこと。北西大阪地塊が次第に沈んでゆく現象が見られた。
 3)「地盤沈下について」-岡部三郎博士説(昭和14年)
  地下水の減少と軟質粘土の自然圧縮並びに流動によって西大阪一帯が沈下すると予想。
 4)地盤沈下に新証明-和達清夫博士説(昭和15年)
 大阪付近の沈降を、工場の地下水吸い上げなどによる地下水の減少にあると推測。

3、「沈まぬ都会」
 1)「地下水使用過多説」と和達清夫
  観測結果によると、地盤沈下の速度は地下水を多く使う時期に大きく、地下水をあまり使わない時期に小さい。地盤沈下は、地下水の使用を制限すれば止まる。
 2)和達理論が無視されたのはなぜか
  今村博士は、関東大震災を1年前に予測した。その今村理論の前に和達博士の説は一蹴された。
 3)証明された和達理論-敗戦前後
  戦争の終わり頃から終戦後にかけて諸工場はほとんど休止となり、地下水の使用が減ったことで、地盤沈下が止まった。
 4)再び始まる地盤沈下と戦後経済
  戦後の生産増強にともない工場が地下水を多く使うようになり、再び地盤沈下が始まった。
 5)地下水使用規制条例以降と総決算
  地下水使用規則条例の施行とともに井戸の新設は禁止的となり、既設のものは一定の猶予期限を待って全ての井戸が廃止された。地下水位は暫時上昇し、停止同様の状態になった。

4、大阪-もう一つの地盤沈下
 1)東京―大阪 二眼レフ構造論のいま
  現状、大阪経済の低落傾向を止めることが出来ない。バブル崩壊後は企業再編もあり東京への本社機能の移転が加速している。大阪の地盤沈下が止まらない。
 2)進展する東京への一極集中
  東京一極集中が急速に進んでいる。関西の企業はすでに東京圏へのシフトを加速している。
 3)また大阪を浮上させるために
  大阪を浮上させるためには、下記の分野に集中すべきである。
 ①パナソニック、三洋電機、シャープなどによる「IT関連」
 ②武田薬品など製薬業界による「バイオ関連」
 ③東大阪、八尾の工業力を活かした「環境関連」
 

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<漫才>はなぜ大阪発の国民演芸に育ったのか-帰郷したプロレタリア作家・秋田実の転換-(2011年6月24日(金))
 「大阪学講座」第2回「<漫才>はなぜ大阪発の国民演芸に育ったのか-帰郷したプロレタリア作家・秋田実の転換-」を受講しました。講義の内容は以下の通りです。

1、しゃれとは何か-ことばの化粧
  日本語には同音意義語があり、謎かけをした。しゃれが漫才の笑いの基本。
  (さ・しゃ)れ → 洒落   しゃれ=言葉の化粧
    曝れ:しゃれこうべ、されこうべ  洒落=洗い清める(当て字)
 1)商いは笑なり-「儲」けるを分解すると
   商いの都市大阪では、「儲」を亻(ニンベン)でなく信ベンと呼んだ → 信用第一
   亻|言|者 → 人と者(売り手と買い手)のコミュニケーションが大事
 2)しゃれことばの効用
   「いかきに小便」:じゃじゃ漏れで貯まらん(いかき=ざる)、「赤子の行水」:足らいで泣いてる、「黒犬のおいど」:尾も白うない、
   「牛のおいど」:モーのしり(物知り)、「嫁のふんどし」:くい込む一方、「上町の井戸」:中は深い、「高野山へ行く」:厠へ行く、紙を落とす(=髪を落とす)
   「便所」は汚い言葉 → お手洗い、ご不浄、はばかり、化粧室、放送局では録音室へ行く(音入れ)
 3)インテリのしゃれ精神
   塚本邦夫家の電話番号 大阪「742-6232」:梨二つ浪人三人国を出る、奈良「782-6262」:菜っ葉煮ろ煮ろ肉腐れ(=肉去れ) 西宮「0798-53-1188」:○なくば降参ひぃひぃはぁはぁ
   大フィルの電話番号 「37-9987」:皆きゅうきゅうやな、「312-3408」:財布見ろゼロや

2、漫才-大阪ローカルから国民演芸へ
 1)エンタツ・アチャコの登場―漫才のホームランバッター
   昭和5年に洋服で登場し、それまでの漫才のスタイルを一変させた。
   漫才のホームランバッター⇒①エンタツ・アチャコ ②ワカサ・一郎 ③ダイマル・ラケット ④やすし・きよし
 2)ワカナ・一郎の活躍ーことばの魔術師・ミスワカナ
   ミスワカナは地方の言葉を2~3時間で覚えた。
   (録音されたミスワカナの地方の言葉を聞く)
3、秋田実の登場-漫才育ての親
 1)昭和とともに始まった文化的変動
   トーキー、電話、、蓄音機、カメラの出現
   ラジオが文化生活を大きく変えた
 2)ラジオ時代が漫才作家を求めた
   文化の水準が上がり、十銭漫才の様な卑猥な漫才をラジオに乗せられない(天子様が聴くかも知れない)。
   吉本興業文芸部はインテリの集まりであった。-秋田実、長沖一、吉田留三郎、藤沢桓夫 等々
 3)秋田実の作笑術-家中誰でもが笑える笑い=笑いの平和主義
   秋田実の「わたしの笑いの世界」:無邪気な笑い。皆を、どういう意味にせよ、不快な感を抱かせない笑い。たあいのない、底抜けに明るい笑い。
   秋田実はけっして毒を含んだ笑いを生み出すことはなかった。芸の伝統と断絶はしたが、大阪町人の平和主義を受けついだ。

4、秋田実-昭和知識人の苦渋
 1)転向の後ろめたさ
   秋田実は自分のことを語らなかった。
   新しい漫才の成立と発展に大きな力となったのが秋田実、長沖一などの作者である。彼らはかって学生運動の闘士であり、反体制運動に参加し、挫折を経験していた。
   市民の日常生活がだんだん権力によって圧迫され始めたころに、市民の日常生活を舞台に持ち出した。「日常性」が「非常時」に侵害されていた時代に、漫才が日常性にフットライトを浴びせ、それを再評価した意義は大きい。
   しかし、「日常性」をも「非常時」が覆い包む”挙国一致”段階に入ると、秋田実の「日常性」も、また「非常時」に吸収されざるを得なかった。しだいに”翼賛漫才”に筆を染めねばならなかった昭和の知識人の苦渋がそこにあった。
 2)漫才コンプレックス
   秋田実にとって、漫才蔑視の風潮、頭の悪さが漫才師とイコールである偏見を解消し、克服する困難な道であった。漫才の水準を高め、「家中、だれもが安心して笑える笑い」づくりに生涯を賭けた。やがて、事情が変わった。
   戦前の到達点を秋田実は次のように刻んだ。「漫才の笑いは、一家揃って祖父母、両親、大から小までの男女の子供が茶の間に座っている時に、持ち出して皆が一緒に笑える話題が、理想でもあり、その限度である。そこまで戦前の漫才は前進し辿り着いたのである」と。
 3)翼賛漫才の量産
   昭和17、18、19年と”翼賛漫才”に筆を染めた。

5、”笑いの平和主義”を育てた背景-秋田実の軌跡
 1)プロレタリア文学から作家的出発
 2)実践運動への参加
   (省略)
 3)富岡多恵子が明るみに出した特高月報と秋田実の役割
   (省略)「特高月報」の内容はでっち上げ。表に出れば第2の横浜事件(昭和18年)(冤罪)になっていた。 

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<日本万国博>はなぜ大阪で開かれたのか(2011年4月15日(金))
 「大阪学講座」第1回「<日本万国博>はなぜ大阪で開かれたのか-かくて70年安保の政治危機は回避された-」を受講しました。講義の内容は以下の通りです。

1、60年代と大阪・・・・二度の生け贄都市
 1)熱狂の時代-高度経済成長はなぜ始められたのか
  歴史において「熱狂の時代」が過去3回あった。
   ①日清・日露戦争(明治27、28年・明治37、38年)
   ②15年戦争(昭和6~昭和20年)
   ③高度経済成長<戦争>(昭和35年~昭和45年)
     -所得倍増計画(池田内閣)、低賃金・長時間労働
 2)高度経済成長の”期待される精神”-ど根性
  熱狂の時代には”期待される精神”と”期待される人間”が生み出された
   ①山崎豊子の”ど根性”発言(船場商人のど根性を描きたかった)と流行語化
   ②”ど根性”の一斉発信
     -「王将」の大ヒット、”東洋の魔女”・大松博文、花登筐・ど根性ドラマ、今東光・河内シリーズ等の大奮戦
 3)大阪・一度目の生け贄-高度成長の達成と大阪のイメージの悪化
   ”ど根性”がもてはやされた(学歴よりやる気)、高度成長(自然破壊、環境悪化)は達成されたが大阪のイメージは悪化した。

2、60年代と日本の黒い霧・・・・学生運動の分裂は何をもたらせたのか
   ”黒い霧”とは、日米間の太平洋戦争の敗戦(1945)後、アメリカ占領下で起こった一連の国際的謀略、疑獄などの怪事件の不可解さを、社会推理小説家の松本清張が形容した言葉。
  (60年安保闘争のニュース映像が映される)-新安保条約締結。大衆闘争から国民運動へ
 1)10年協定条約-日米安保条約と1970年
  条約が10年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対して条約を終了させる意志を通告できる。
 2)学生運動の分裂は何のため、誰が仕掛けたのか
  学生のエネルギーが、共産党の下へまとまることを避けるために内部対立を仕掛けた。反モスクワ、反代々木の勢力として結集できる者を結集し、何名かの指導者を教育するために、全学連主流派へ接触した(田中清玄氏談)。
 3)全学連主流派への共産党の批判
  全学連の指導部を占拠したトロツキストは運動の焦点を”反岸”にしぼり、アメリカ帝国主義との闘争にそっぽを向いたのは、米日反動の黒い手が背後にあったからだ。田中清玄はその窓口であった。トロツキストの役割は安保闘争を分裂させることにあった。
 4)学生運動-果てしなき分裂と大学紛争
 5)分裂がもたらせたもの-一般学生の離反による70年安保隠し
 6)学生運動が無視した地域住民運動、労働運動との断絶

3、日本万国博はなぜ「大阪博」にならなかったのか
 1)国家イベントとしての日本万国博-総資本・総体制の祭典
  「70年は安保の年ではありません。万国博の年です」(政府高官、財界首脳)
  60年は大揺れであった(アイゼンハワー大統領の訪日阻止、安保条約批准、岸内閣退陣、池田内閣による所得倍増政策、浅沼社会党委員長刺殺)。
  10年協定的性格の日米安保条約である。反安保勢力による又再びの政治的高揚、ホットな決戦が首都を中心に70年安保闘争となって再び再現してはならない事情が体制側にはあった。
  万国博は予想される政治闘争を未然に抑え大きく逸らせるために仕組まれた巨大国家的イベントであった。
  普通、万国博は開催都市名を頭にかぶせる。当然オーサカ博であるべきが「日本万国博覧会」と呼ばねばならなかったのは、それほど内在する政治危機が大きかったことの明かしである。
 2)二度目の生け贄-70年安保を壮大に流産させた都市・大阪
  1970年(昭和45)年の春から秋、”民族大移動”は東京首都に向かわず、大阪を目指した。知恵者たちの政治決戦回避プランは大成功であった。

4、日本万国博以後の大阪文化はどう変わったか
 1)黒田革新府政の誕生
  60年代、自然破壊と噴出する公害に反対する地域住民運動が広がっており、70年代革新自治体の大衆的基盤になっていた。
 2)船場型文化の衰退
  伝統的大阪らしさが失われた
 3)市民的・勤労者的草の根文化の衰弱 

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2010年度

木津川計/生活文化講座

木津川計/生活文化講座

<葬式と結婚式>の風景はなぜ変わるのか<道楽>はなぜ貶められたのか<趣味人>はなぜ国語辞典に収められないのか<自己責任>はなぜ生み出されたか<生涯学習力>はなぜ強められねばならないのか<都市格>を大阪はなぜ低下させたのか

「木津川計/生活文化講座」受講案内(2010年4月5日)
 立命館大阪プロムナードセミナー「木津川計/生活文化講座」の受付確認書・払込取扱票が郵送されてきました。
 「上方芸能」誌発行人の木津川計さん(元立命館大学教授、和歌山大学客員教授)が「生活文化」をテーマに講座を展開します。14:00から15:40分まで下記の日程で開講されます。
 第1回 2010年 5月14日(金) <葬式と結婚式>の風景はなぜ変わるのか-”団塊の世代”と”団塊ジュニア” の破壊力-
 第2回 2010年 7月 9日(金) <道楽>はなぜ(おとし)められたのか-「道楽」が人生に根付いてこそ-
 第3回 2010年 9月10日(金) <趣味人>はなぜ国語辞典に収められないのか-日本の近・現代は「趣味」をどう考えたか-
 第4回 2010年11月12日(金) <自己責任>はなぜ生み出されたのか-”期待される精神”の時代相-
 第5回 2011年 1月14日(金) <生涯学習力>はなぜ強められねばならないのか-「体力・気力・能力」三つの原動力として-
 第6回 2011年 3月11日(金) <都市格>を大阪はなぜ低下させたのか-また再び含羞都市へ- 

 

<都市格>を大阪はなぜ低下させたのか(2011年3月11日(金))
 第6回「<都市格>を大阪はなぜ低下させたのか-また再び含羞の都市へ-」を受講しました。講義の内容は以下の通りです。

1、関西三都のイメージ
  神戸が舞台の、宮田 輝の「花の降る午後」に例えると、
  ・京都-はひふへほ、「雪の降る午後」、見回す都市、守りながらの開発
       金閣/銀閣の一番綺麗な季節は雪、上から見ると散々、歴史と伝統・京料理、柔らかい・女性らしい
  ・神戸-パピプペポ、「花の降る午後」、見おろす都市、埋めながらの開発
       神戸株式会社と称される、異国情緒・フランス料理
  ・大阪-ばびぶべぼ、「銭の降る午後」、見あげる都市、壊しながらの開発
       「ば行」にはろくな言葉がない、欲望渦巻く

2、都市格とは何か-文化の視座で計り得る文化力
 都市格とは都市のグレード、地域のグレードを表す。人格になぞらえての都市格。
 ①文化のストック 100年後も含めて文化のストックのありなし
 ②景観の文化性
 ③発信する情報  発信情報の内容による
 ※文化力とは-人間が人間らしく快適に生きていくために必要な文化的環境を守り、作っていく力
  大阪の文化力が下がっているので都市格が下がっている。
 ※人格の定義-「人が、ひとりの人間としての価値を持ち、独立して存在するときに必要な(精神的)資格」(現代国語辞典)
  人格者-①教養のストックのありなし(学歴ではない)、②身だしなみの文化性(TPOを心得ている)、③言動の一致
 ※都市格の定義-「都市が、ひとつの価値を持ち、独立して存在するとき必要な(文化的)資格」
 

3、大阪、現下の困難-文化としての都市格の低下と経済としての都市力の低下
 ①橋下徹氏の知事選出馬の街頭での第一声
 「僕は大阪に育てられた。(中略)今、その大阪に元気がない。
全国から汚い、治安が悪いと言われている。大阪が馬鹿にされることは我慢できない」
  ②「大阪が馬鹿にされる」=低い都市格、「大阪に元気がない」=衰弱した都市力
 橋下知事は、文化としての都市格が低下し、経済としての都市力が衰弱していることを自覚していた。
 最初は拍手したが、裏切られた。


4、京阪神三都の都市格順位
 ①なぜ京都が1位なのか
  歴史と伝統の都市、かって都があった、神社仏閣、学問(48大学)の都市、文化のストックが豊富
 ②なぜ神戸が第2位なのか
  景観が文化性、六甲・港町、おしゃれな都市、発信する情報、ブランド(神戸コロッケ、神戸ワイン、神戸ラーメン、神戸ウオーター等)、地名の印象が大事
 ③なぜ大阪が第3位なのか
  文化のストックが少ない、東京に対抗、煙の都、景観に見るべきものがない、かって八百八橋と言われていたが川は埋められた、大阪らしさが失われた、発信する情報がロクでもない

5、大阪が発信した情報の時代別推移-大阪のイメージ悪化の原因
 
①1960年代-ど根性都市(高度成長と「王将」)
 
②1970年代-どケチ都市(低成長と大日本どケチ教教祖)
  ③1980年代-犯罪都市(狂奔のバブル、グリコ・森永事件と豊田悪徳商法)
 
④1990年代-破廉恥都市(ワースト記録と横山ノック知事のハレンチ)
 
⑤2000年代-憂愁都市(大企業の脱出)
  東京に本社機能をシフトした企業が多い、外国領事館も東京や京都へ移った

6、都市力とは何か-経済の視座で計り得る経済力
 大阪の経済力(下記数値)が大きく低下している。
  ①人口、②工業製品出荷額、有効求人倍率、④一人当たり所得

7、都市力の回復に向けて
 ①薬品業界による「バイオ関連産業」
 ②パナソニック、三洋電機、シャープなどによる「IT関連産業」
 ③東大阪、八尾の中小企業の工業力を活かした「環境関連産業」

  橋下知事には経済の再生計画を出して欲しい。

8、また再び含羞都市へ-文化のための大阪構想

 生活文化講座の最終回終了後、場所を移して懇親会が開催されました。会場のテレビには、東日本大震災の惨状が放送されていました。 

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<生涯学習力>はなぜ強められねばならないのか(2011年1月14日(金))
 第5回「<生涯学習力>はなぜ強められねばならないのかー『体力・気力・能力』3つの原動力として-」を受講しました。講義の内容は以下の通りです。

1、大往生とはどういう終末か-5つの条件
  永六輔さんの「大往生」の発行部数は400万部を超えたが、大往生の条件は記述していない。そこで、5つの条件を考えた。
  ①安らかな死 ②女90歳以上、男85歳以上 ③悼まれる死 ④寝たきり1年 ⑤身近な人にみとられる(場所を問わず)
2、どうすれば大往生できるか
  心掛けが良い人、心掛けを良くする
3、ポックリ死とはどういう終末か
  コロッと逝く
4、どうすればポックリ死できるか
5、生き甲斐とは何か
  「その人の生を根拠づける」生き甲斐は「諸個人の日常生活に具体化されてより個別的な姿を取る」ので、生き甲斐を持つには次の6条件が満たされたときといえる。
  ①健康 ②経済的ゆとり ③時間的ゆとり ④人間的社会的つながり ⑤家族の支え ⑥張りのある日常-生涯学習としての張り
6、張りとは何か
  ①趣味 ②学習 ③ボランティア ④スポーツ
7、趣味力とは何か
  <趣味力>が原動力になって人間に張りがもたらされる。張りは、生き甲斐の条件①③④⑤を満たす。「好きこそものの上手なれ」である。
  ①向上心を与える ②夢をふくらませる ③達成感のよろこびを知る ④遊びのよろこびを知る ⑤人生を楽しみながら生きる
8、生涯学習力とは何か
  ①人間を平等にする ②友人をつくり、人間的なつながりを強める ③女性をおしゃれに、男性を世話焼きにする ④若さを組織する ⑤講師の資質を高める ⑥知的、趣味的欲求や関心を満たす
9、生涯学習力は強められねばならない
 1)生涯学習とは何であったか
  生涯学習とは、人々が自発的意思に基づいて、「自己の実現」、「生活の向上」、「職業能力の向上」のために、自ら学ぶ内容を選び取り、充実した人生を送ることを目指して生涯にわたって行う学習である。
 2)再編成、縮小に向かう行政施策
  生涯学習関連の行政施策の動向を見ていると、1990年代半ばから大きく後退してきた。1980年代半ばから90年代前半までのような熱気は薄れている。
  今期待されているのは学習者がその成果を生かし、自らも生涯学習のために地域で活動することである。行政が提供する学びの機会を享受すること(行政依存)を超えて、個人が主体となって社会に働きかけ、生涯学習の「送り手」ともなることである。これは単に経費削減の論でなく、これからの生涯学習の理念ともいえる。
 3)人間に備わる3つの力(体力・気力・能力)を強め、維持するために
  天野 忠(一本)、杉山平一(マッチ)、小野 十三郎(カヌーの速度で)、丸山 豊(私のための道しるべ)の詩を紹介。

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<自己責任>はなぜ生み出されたのか(2010年11月12日(金))
 第4回「<自己責任>はなぜ生み出されたのか-”期待される精神”の時代相-」を受講しました。講義の内容は以下の通りです。

1、歴史における熱狂の時代
  歴史において「熱狂の時代」が過去3回あった。
 1)日清・日露戦争(明治27、28年・明治37、38年)
 2)15年戦争(昭和6~昭和20年)
   満州事変、上海事変、日中戦争、太平洋戦争
 3)高度経済成長<戦争>(昭和35年~昭和45年)
   所得倍増計画(池田内閣)、低賃金・長時間労働

2、熱狂の時代と”期待される精神”と”期待される人間”
  熱狂の時代には、”期待される精神”と”期待される人間”が生み出され、あてがわれた。
 1)日清・日露戦争-(大)和魂洋才-木口小平
   大和魂=武士道
   軍国美談:日清戦争時に死んでも口からラッパを離さなかった一等兵の木口小平→死後硬直。
 2)15年戦争-滅私奉公-爆弾三勇士
   軍国美談:上海事変下、3名の一等兵が爆薬を詰めた長さ3mの竹製の破壊筒をかかえて敵の鉄条網に突っ込んで爆死した。
   →命令した上官が爆薬の導火線の火縄を1mにしておけば鉄条網を爆破して安全に変えることができた。しかし、誤って50cmにしてしまったので無残な戦死を遂げてしまった。
   軍国美談:「欲しがりません勝つまでは」の標語を小学6年の女生徒が作成した→実は父親が作った。
 3)高度経済成長<戦争>-ど根性-阪田三吉
   「根性」は汚い言葉で、大阪では「性根」を使っていた。性根の汚い言葉に”ど”がついた。
   →山崎豊子が「花のれん」で直木賞を受賞し、「船場商人の”ど根性”を描きたかった」と述べて広がった。
   菊田一夫の「がめつい奴」、吉本春彦の「どケチ人生の勧め」も
3、熱狂の時代と犠牲
  熱狂の時代には犠牲者が生み出された。
 1)日清・日露戦争-女性(「女工哀史」と新派悲劇)
   「女工哀史」:若年労働と低賃金、そして深夜業の実態を証言し、資本主義の過酷さを証言した。
   新派悲劇:男の立身出世の陰に女性あり、女性が男の出世の犠牲になった。
 2)15年戦争-若者(「大正はあわれ愛して頂戴ね」と学徒出陣)
   大正時代の世代が戦力になった。
   昭和18年秋、学生への徴兵猶予が停止され、全国で臨時徴兵検査を実施。
   11月21日、冷雨のふりしきる明治神宮外苑で出陣学徒の壮行会が実施された。
 3)高度経済成長<戦争>-家族(核家族と長時間労働)
   夫は仕事、妻は家事という社会的役割を強めた。
   大都市圏におけるサラリーマンの家庭は通勤距離が長く、父親不在の様相が日常化した。父と子どもの断絶。

4、[熱狂通過後]父権の失墜と女性の時代
 1)大正時代-女房孝行と「枯れすすき」-「青鞜」と女性の社会進出
   「平塚らいてう」等
 2)戦 後-敗軍の兵と男女同権-婦人参政権と「サザエさん」
   「サザエさん」が国民的人気漫画になった理由:「家中だれもが安心して笑える笑い」
   ①荒唐無稽を描かず、平凡な市民の日常生活を一貫して描いた。
   ②一家をまとめる家長はいず、それぞれが相手に気づかい、大きな波風のない、平和な暮らしの中で幸せな家庭を営む。
   ③活発で賢明な女性像を擁護
   ④暴力を廃止、セックスを描かず、奇怪なものへの関心を示さなかった。 
 3)低成長-”ぬれ落葉”と「関白失脚」-オバタリアンと男女雇用機会均等法

5、女性の時代と世直し
 1)大正時代-「人形の家」と米騒動
 2)戦 後-「女と靴下」と母親運動
   第1回日本母親大会(昭和30年)、以来母親運動は政治、教育、暮らし、平和と地球を守る運動に発展した。
 3)低成長-「いのちと暮らしをまもれ」と生協運動
   1900年(明治33年)に制定された産業組合法に依拠して、生協の全身である購買組合がスタートした。本格的な発展は戦後昭和期にはいってから。
   生活財の供給は店舗経営によるものと、無店舗共同集配によるものがある。

6、第4の熱狂なき熱狂の時代と”期待される精神”
  すでに第4の熱狂の時代は始まっている。
  すでに期待され、強要される「自己責任」は第4の熱狂なき熱狂時代、すなち少子高齢化社会。
 4)世代間対立―自己責任
   人間が一生の間に政府に払う税金などと、年金などで受け取る受益はどのくらいか?
    [20歳未満]-8000万円、[60歳以上]+4000万円

7、熱狂なき熱狂の時代と犠牲
 4)世代間対立―老人
   80歳以上は800万人超(推計人口)、3年後には団塊の世代が前期高齢者になる。
   老人が犠牲になる。老人を支える若者たちのささえる力が衰えてきている。
   高齢者家計:月4.4万円の赤字(09年調査、世帯主が高齢者で無職の2人以上の世帯)
   これからは、教育の役割や政治の役割が重要になってくる。

8、熱狂なき熱狂の時代をどう生きるか
  老人と子供が大事に扱われなければならない。そして、老人が若者たちのために何ができるかを考えること。

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<趣味人>はなぜ国語辞典に収められないのか(2010年9月10日(金))
 第3回「<趣味人>はなぜ国語辞典に収められないのか-日本の近・現代は『趣味』をどう考えたのか」を受講しました。講義の内容は以下の通りです。

1、新聞や本、インターネットで目にする<趣味人>
  新聞や本、インターネットでは、よく<趣味人>という言葉を目にする。

2、国語辞典のすべてに欠落する<趣味人>
  すべての国語辞典(広辞苑、大辞林、日本国語大辞典)には<趣味人>を載せていない。

3、<趣味人>とは誰を言うのか
  趣味人の資質を著書で次のように定義した。
  ①風雅を愛する人 ②清貧を好む人 ③悠揚迫らざる人 ④人生を楽しみながら生きている人

4、<趣味人>はなぜ国語辞典に収められなかったのか
   趣味人を排除してきたの以下の理由(趣味人の定義を否定)。
 1)粉砕された「わび・さび」の美意識
   明治以降の、脱亜入欧、文明開化、洋風が風雅を粉砕した。
 2)敵視される”清貧”の士
   殖産興業、資本主義(=欲望を肥大化)が清貧の人を敵視した。
 3)文明の前進と多忙化
   文明の前進が限りなく生産性を上げ、前進するほど忙しくなった。
 4)勤労の美徳とマーチの人生
   努力と勤勉とは近代日本の民衆の生活倫理(立志・苦学・出世)。
 5)日本人の趣味観-hobby と taste の違い
   ・hobby 実技的趣味
   ・taste 趣味的感性

5、「趣味」の誕生と時代
 1)風流の変遷と趣味の誕生-風流の三要素「離俗」「耽美」「自然」
   ・風流の意味は ①伝統。流派独特のやり方 ②みやびやかなこと、優雅なこと ③美しく飾ること、衣装をこらすこと ④みやびやかなことをして遊ぶこと。
   ・風流の三要素 ①離俗 ②耽美 ③自然
   ・趣味の誕生
    趣味という言葉は明治になって生まれた。
    美醜をわきまえる美意識であり、人の心や行為にわたって善悪を見きわめる論理的、精神的態度。
    しかし、趣味の用語の広がりにつれ、楽しみとして愛好するものの意味で用いられるようになってきた。
 2)異国趣味と脱亜入欧-「邪宗門秘曲」と「旅上」
   ・異国趣味 北原白秋の詩「邪宗門秘曲」、木下杢太郎の「金粉酒」
   ・西洋への陶酔
   ・赤げっと五段返し(洋行帰りを冷やかした歌)
 3)少女趣味と大正ロマン-父権の転落と夢二の時代
   ・大正時代 心優しい男、女権、民本主義
   ・童心至上主義的な芸術運動が童話文学、児童自由詩と自由画の領域で花を開かせた。
   ・今も歌われる懐かしい童謡 赤い靴、青い目の人形、七つの子
   ・大正時代の代表的な画家で詩人 竹久夢二
 4)成金趣味と”一等国”-成金・成金都市・成金国家
   ・成金 侮蔑した言い方
 5)低徊趣味と近代化―思想としての漱石の重み
   漱石は余裕の大切さを説き、その延長に「高等遊民」があった。
   ・低徊趣味とは余裕がある人でなければできない趣味
   ・余裕のある小説 逼らない小説
   ・余裕のない小説 セッパ詰まった小説、息の詰まるような小説

6、国語のこれから-<趣味人>の運命
 1)広辞苑第5版から第6版へ-岩波書店からの返事
   ・2004年8月25日 岩波書店から木津さんへ返事(第6版に向けての改定作業で新たな収録を検討)
   ・2008年1月8日 第6版発売(1万語追加したのに<趣味人>は未掲載)
 2)「無趣味のすすめ」に乗っていいのか
   ・作家・村上龍さんが「無趣味のすすめ」で、趣味のいかに無価値か舌鋒鋭くを論難している。
    村上さんは、仕事の尺度で趣味を捉えている。仕事と趣味は全く別の概念。職業としての仕事が、楽しみとしての趣味とは別次元であるのに同次元と思い込んで攻撃している。
 3)新<趣味人>の資質
   ①自然を愛する人 ②清福を好む人 ③ユックリズムを実践する人 ④人生を楽しみながら生きていく人
 4)張りのある日常をこそ
   張りのある日常を送りたいものである。

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<道楽>はなぜ貶められたのか(2010年7月9日金)
 第2回「<道楽>はなぜ貶められたのか-<道楽>が人生に根付いてこそ-」を受講しました。講義の内容は以下の通りです。

1、仏教語の日常化と意味の反転
 「しゃかりき働く」「足を洗う」「出世」「冗談」「奉加帳」「無尽蔵」「うやむら」「ひどい」「げんがええ」などは、仏教語から日常化した言葉。
 「増長」「伝法」「夜叉」「人非人」「迷惑」「大袈裟」「無分別」「往生」「他力本願」「道化師」「道楽」などは、仏教語が逆の意味に使われるようになった。

2、<道楽>の意味合い
 <道楽>は仏教語で、意味は「仏道修行によって得たさとりのたのしみ。法悦の境界。(日本国語大辞典)」である。しかし、現在では「酒色・博打などの遊興にふけること。放蕩。遊蕩。(広辞林)」の意味で使われることが多い。

3、なぜ意味の反転が起こったのか
 ①政治の指導原理、その転換
  ・政治の指導原理が仏教から儒教(学)へ転換した。仏教は慈悲の心であるが、儒教的理念は身分制度をつくりあげた。
   士農工商、上士下士、身分制秩序、主従の道、女性差別など。
  ・国学者や儒学者の中から「廃仏論」が生まれた。
   仏教教理の現実否定的な面が俎上にあげられ、同時に幕藩体制下の教団の在り方が問題となった。
 ②徳川幕府の仏教支配
  ・統制と懐柔(アメとムチ)。仏教各宗ごとに本山・末寺の制度を厳しくたてて、ピラミッド型の階級制度を整備させた。
   おもな寺社に朱印地(将軍家よりの寄進地)、黒印地(大名・旗本よりの寄進地)、除地(免税地)が与えられた。
   キリスト教禁圧とともに寺院の檀家制度(寺請制度)が定められた。
  ・僧侶の堕落。寺院はその経済的・社会的地位を保証された反面に、真の宗教あるいは個人の信仰として発展するための努力を放棄するようになり、ただ家々の葬儀や供養を主とするようになった。
   仏教の堕落により仏教語の反転が起こった。

4、<道楽>の悪徳視-日本の近代化は何を奨励し、抑圧したか
 ①立身出世主義の鼓吹-「少年よ大志を抱け」
  ・明治時代に「脱亜入欧」を目指し、立身出世主義を鼓吹し、<道楽>を悪徳視した。
  ・身分制度を否定し、能力を秩序原理とすることが、支配の正当化のために必要だった(竹内洋:日本人の出世観)。
  ・近世に至りては所謂腕前の世と為り、才力さえあれば、立志出世勝手次第(福沢諭吉:徳育如何)
  ・「あおげば尊し」の2番の一部:身をたて 名をあげ、やよ はげめよ。
 ②プレッシャーとしての故郷-「故郷へ錦を飾る」
  ・「故郷」の3番:こころざしをはたして、いつの日にか帰らん。山は青き故郷。水は清き故郷。
 ③賞賛された勤労の美徳-「村の鍛冶屋」
  ・暫時もやまずに 槌うつ響き。飛び散る火の花 はしる湯玉。鞴の風さえ 息もつがず、仕事に精出す 村の鍛冶屋。

5、<道楽>の復権をこそ
 ①interior(private)としての名誉回復を-「道を楽しむ」
  ・暮らしに根づいた文化をインテリア型の<私>文化
 ②exterior(public)としての役割を-「道を楽にする」
  ・都市や地域の空間構成を美しくしようとする文化をエクステリア型の<市民>文化
 ③人間らしく生きるために
  ・<道楽>の本来の意味をもっと意識して欲しい。<道楽>と、放蕩・遊蕩とを区別して使うようにしなければならない。
   人間らしく生きるためにも、<道楽>をゆがめられた意味から解放し、復権させることが必要だ。

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<葬式と結婚式>の風景はなぜ変わるのか(2010年5月14日)
 第1回「<葬式と結婚式>の風景はなぜ変わるのか-”団塊の世代”と”団塊ジュニア”の破壊力-」を受講しました。講義の内容は以下の通りです。
 ここ10年の間に葬式と結婚式が様変わりした。

1、香典を受け取らない葬式が増えた
 ・昔、香典は貧乏人の相互扶助だった。
 ・香典の半返しに手間がかかるために、金持ちから始まった。
  10年前から増えた。都市部では8割に達する。頂く場合は”ご厚志につきましては、謹んで拝受させて頂きます”。

2、葬式の形式の変化
 お寺を呼ばない葬式が増え、お寺を呼んでも戒名を付けない、お墓を作らない、仏壇を家の中に置かない。8割が病院で亡くなる。
 ・家族葬 5割、直葬 3割、伝統的葬儀 2割
  直葬:通夜や葬式を行わず、少人数が火葬場で故人に別れを告げる弔いのこと。
 ・増える、散骨、樹木葬、手元供養
  手元供養:身近に遺骨を保管すること。ペンダントやオブジェに分割収納するタイプと遺骨をプレートに加工するものがある。
 ・永代家族が崩壊し永代供養が増えた。
  核家族のため墓を持つことをためらう親が増えた。家系はいつか絶えるので永代供養を選択する。

3、結婚式の形式の変化
 10年前から結婚式の風景が変わった。カップルの75%が結婚後も親から金銭援助を受けている。
 ・仲人(媒酌人)不在が主流になった。
  仲人を立てない、友達結婚、人前結婚、結納も持参金もない、会費制。
 ・両親も半主役になった。
 ・街なかから結納品店が消えた。
  結納品店は結婚の仲立ちをしていた。
 ・アラサー、アラフォーが登場し、婚活ビジネスが盛況になった。
   初婚年齢 女性 27.3歳、男性 29~30歳。結納品店に代わる婚活ビジネス。

4、誰が葬式と結婚式を変えたのか
 ・団塊の世代が葬式を変えた
  1993年:1948年生まれの団塊の世代が45歳、父親は75歳前後。バブル経済が崩壊し失業者が増え消費が冷えた。
  不況が葬式の形式を変えた。
 ・団塊ジュニアが結婚式を変えた
  2003年:1973年生まれの団塊ジュニアが30歳。小泉構造改革とリストラ旋風、ワーキング・プアが社会問題化。
  相対的貧困がもたらせたハデ婚からジミ婚への流れ。
  相対的貧困率(OECD):日本は米国に次いでワースト2位(先進国17ヶ国中)、2006年 13.5%、2009年15.7%

5、戦争の落とし子-団塊のひしめきと激発
 ・犇くの動物的状態と過密がもたらすもの
  人間的な状態でない。人間が動物的な状態に置かれたら。人間には空間的ゆとりが必要。
 ・団塊の世代と大学紛争
 ・団塊ジュニアと校内暴力・いじめ
  80~83年の漫才ブームを10代が支えた。強いものが弱いものを笑っても良い風潮。84~86年社会問題化。

6、団塊の文化変容力
  団塊の世代が文化を変容させた。
 ・団塊の世代が演劇状況を変えた-新劇から小劇場へ
 ・団塊の世代が音楽状況を変えた-流行歌からJポップスへ
 ・団塊ジュニアがお笑い文化を変えた-しゃべくり漫才からコントへ

7、団塊の構造的破壊力
 ・葬式の変化とお寺のこれから
  22世紀には、観光寺院を除いて葬式仏教がすたれるだろう。
 ・結婚式の変化と人口減
  都市の格は、人口、工業生産力、所得できまる。
 ・仏教の明日-始まった緩慢たる死
  寺だけでなく仏教そのものが揺らぎだした。

8、葬式は不要か
 ・ペットの死が教える人間の死
  ペットでも死ぬとさびしい、人間の場合はもっとさびしい。
 ・葬式の必要とその形式
  どういう形であろう弔うべき。
 ・葬式仏教から生きた仏教に-公民館、ボランティア、社会的文化的貢献こそ
  日本のお寺は、地域住民に愛される公民館にならなければならない。
 講義後の質疑応答で、木津川さんが”葬式は必要だが二世代続かない。自分は永代供養に傾きつつある”と回答したのがとても印象に残りました。

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2009年度

木津川計/芸能文化講座

木津川計/芸能文化講座

近代が刻む人間像純愛と慕情の力世代間ギャップ芸能における個人の役割夫婦同伴文化高齢社会と芸能文化

「木津川計/芸能文化講座」受講案内(2009年4月12日)
 立命館大阪プロムナードセミナー「木津川計/芸能文化講座」の受付確認書・受講票が郵送されてきました。
 「上方芸能」誌発行人の木津川計さん(元立命館大学教授、和歌山大学客員教授)が「芸能文化講座」を開講されます。14:00から15:40分まで下記の日程で開催されます。
 第1回 2009年 5月15日(金) 近代が刻む人間像-新派の明治と現代-
 第2回 2009年 7月17日(金) 純愛と慕情の力-新国劇と長谷川伸-
 第3回 2009年 9月18日(金) 世代間ギャップはなぜかくも開いたのか-演劇・歌・笑いを変容させてもの-
 第4回 2009年11月20日(金) 芸能における個人の役割-藤山寛美と松竹新喜劇-
 第5回 2010年 1月15日(金) 夫婦同伴文化はなぜ育たなかったのか-観客倍増のために-
 第6回 2010年 3月19日(金) 高齢社会と文化芸能-シニア文化の高まる時代- 

 

高齢社会と芸能文化(2010年3月19日)
 第6回「高齢社会と芸能文化-シニア文化の高まる時代-」を受講しました。講義の概要は以下の通りです。
 65歳以上の人が総人口に占める割合は、2030年には3人に1人に達すると推計されています。シニア世代(定年後世代)が政治的役割を担うだけでなく、 シニア文化を創造しなければなりません。従来、大衆文化のほとんどが若者向けであったが、21世紀に入って音楽CD業界が急激に縮小しています。少子化の進行ももちろんだが、若者層のライフスタイルの変化(若者層の携帯電話への極端な依存、音楽配信システムへの移行)により音楽CD業界が縮小に追いやられました。10代を主力にした若者以外の年代層を想定したコンテンツ(歌手、楽曲)を用意していなかったからです。
 朗読・語りはいま静かなるブームを迎えています。シニア主体の合唱団が活発で、うたごえ喫茶も復活しています。各地にユーモアスピーチの会やシニア演劇集団が広がり始めています。朗読・語り文化と長年の伝統を持つ演劇文化が協力協同するとき、演劇の新たな可能性が拓かれるでしょう。
 定年後の愉しみのキーワードは、「遊ぶ」(時間的余裕を生きて在る楽しみに使う)、「楽しむ」(心置きなく趣味を楽しむ)、「交わる」(気心の知れた友人や人びとと心置きなく交わる)、「尽く す」(ボランティア)、「学ぶ」(勉強をし直す)の5つです。そして、「定年後は遊ばねば人生の収支は合わない」のです。遊びを犠牲にして働いてきた定年後世代であればこそ、長かった勤労の務めから解放されました。「遊ぶ」でバランスをとらなければ人生の収支は合いません。遊びは発散の満足をもたらし、趣味(習い事・稽古事)は蓄積の喜びを与えてくれます。

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夫婦同伴文化はなぜ育たなかったのか(2010年1月15日)
 第5回「夫婦同伴文化はなぜ育たなかったのか-観客倍増のために-」を受講しました。講義の概要は以下の通りです。
 脱亜入欧、立身出世主義の明治時代に日本は西欧文明を貪欲に吸収しました。生活様式は和風から洋風にすっかり変わりました。1960年代は高度経済成長、所得倍増政策によりモーレツ人間が期待される忙しく慌ただしい時代でした。忙しかった高度成長のツケが1970年代以降の文化的様相を大きく変えました。男たちの文化離れが顕在化しました。そして、女性たちが文化の享受者になりました。「日本の文化は女性によって支えられる」といわれるようになりました。
 西欧文明と一体であろうとした日本であったのに、どうしても学ぼうとしない欧米の日常的習慣が一つありました。日本人が夫婦で外へ出る習慣「夫婦同伴文化」が身につきませんでした。その理由は以下の通りです。
1、江戸時代に政治の指導原理を仏教から儒教に転換
 ①封建的身分制度秩序(士農工商)の確立、②主従の道、③女性差別
2、家族の核の違い
 欧米における家族の核は夫婦であり、夫婦の周りに密着して子どもがいる。
 日本の家族の核は夫婦でなく、子ども。子どもを支えて夫婦がいる。
3、仏教の非教会性
 キリスト教徒は毎日曜日に夫婦同伴で教会へ礼拝に行く。
4、サロンの不在
 ヨーロッパ的なサロン文化と無縁だった。
5、イブニング文化の不成立
 働くばかりの日常だったから、夫婦や家族で文化や芸術を享受するイブニングの習慣が育たなかった。
6、明治以降の日本人のエートス(精神的雰囲気)
 「ときめき」と「たかぶり」という情感がもたらす民族の精神的雰囲気。男に課せられた期待が「立身出世主義」だった。 
 女ばかりの団体で夫婦同伴文化が定着しない理由(①拒絶反応型、②鑑賞不能視型、③比較忌避型、④シングル配慮型、⑤事前諦め型)と男ばかりの団体で夫婦同伴の集まりが開ける理由(①比較鑑賞型、②女房自慢型、③老後憂慮型)についても説明しました。
 夫婦同伴文化は日本に定着させなければならない夫婦の文化的なかかわりです。そのためには儒教的影響の残滓を一掃するとともに、子ども中心の家族形態から解放されて、あたたかい触れ合いを基調としながら、親の子離れが広がっていかなければなりません。夫婦同伴文化を成立させるためには「ときめき」と「たかぶり」以外に「やすらぎ」の精神が必要です。  

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芸能における個人の役割(2009年11月20日)
 第4 回「芸能における個人の役割-藤山寛美と松竹新喜劇-」を受講しました。講義の概要は以下の通りです。
 10 年間で、葬式の風景と結婚式の風景が変わりました。団塊の世代(1947-49生)が葬式の風景を変えました。僧侶を呼ばない、墓を持たない、散骨をしま す。都市部で香典を受け取らない葬式が7割となりました。従来、香典は相互扶助でしたが、最近は金持ちが香典を受け取らなくなりました。お寺さんいらない、お墓いらない状況に、日本の仏教の将来を危惧しています。
 団塊ジュニア(1971-74生)が結婚式の風景を変えました。仲人なしが9割を占め、上司を呼ばずに仲間だけの結婚式が多くなりました。古い文化は駆逐されましたが、「婚姻は両性の合意のみに基いて成立する」という法律面で良いいことと思います。
 松竹新喜劇は殺人や血まみれの障害を描きませんでした。極悪非道な人間も英雄豪傑も主人公にはなりませんでした。女のアホは一人もいず、セックスのシーンは一度も演じたことはありませんでした。それが藤山寛美さんの作劇術でした。
 松竹新喜劇は日本一の喜劇劇団でしたが、市井にあって平凡、喝采を浴びず、認められることもなく愚直に生きる、そんな人たちに支えられてきました。劇評家や演劇記者は松竹新喜劇を正当に評価しようとせず、演劇評の圏外に置き続けました。喜劇は「お笑い」程度の認識でしかありませんでした。
 大阪中座で公演した、「下積みの石」の一部をスクリーンに映しました。損な役割押しつけられた愚直な主人公が花道を一人立ち去っていく姿に観客は万雷の拍手を送っていました。
 藤山寛美さんは1990年5月21日、肝硬変で亡くなりました。60歳でした。一国の歴史のおける個人(豊臣秀吉、徳川家康、西郷隆盛、大久保利通など)の 役割は大きいけれど、もし彼らがいなくても遅かれ早かれよく似た別人に取って代わられたでしょう。そういう意味では個人の役割は小さいといえます。しか し、芸能における個人の役割は一国の歴史をつくるには小さいけれど、一代限りという意味では大きいといえるのです。

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世代間ギャップはなぜもかく開いたか(2009年9月18日)
 「第3回 世代間ギャップはなぜもかく開いたのか-演劇・歌・笑いを変容させたもの-」を受講しました。講義の概要は以下の通りです。
 日本ほど、年寄り(シニア)と若者の世代間のギャップの激しい国は他にないそうです。60代末から70年代にかけて「日本型文化大革命」が起き、文化的な感性や考え方が変わりました。60年代の大量生産/大量消費から、70年代以降の多品種/少量生産、軽薄短小、知識集約により「演劇・歌・笑い」が大きく 影響を受けました。
 演劇については、新劇と小劇場の比較を講義しました。新劇側から小劇場に対する批判を、その批判に対する小劇場側の反論を羅列して説明しました。しかし、最近では両者が融合し出しているそうです。
 笑いについては、2005年6月「上方芸能」の調査結果を説明しました。「今の漫才を面白いと思いますか」との問いに以下の回答がありました。
・全体:面白い 371人 59%、面白くない 243人 38%、無回答 21人 3%
・10歳~20代:面白い 231人 83%、面白くない 49人 17%
・50歳以上:面白い 92人 39%、面白くない 130人 55%、無回答 13人 6%
・60歳以上、高学歴層の多い阪神間の文教都市・兵庫県川西市:面白い 20人 24%、面白くない 63人76%
 歌については、ラジオディレクターの小林 恭子さんが担当しました。時代の変化と歌謡曲の変化について、録音した歌を聴かせながら講義しました。実際に歌を聴くことで、音楽の変化が良く理解できました。流行音楽の中心が、明治から高度成長期まで「大人たち」だっ たが、高度成長期以降に低年齢化しました。大人たちは生きる苦しみ、愛憎、郷愁を歌に添わせました。一方、豊かな家庭の子供のお小遣いは潤い、かっこいい、かわいい、楽しい歌を求めます。音楽に求めるものが変化(=時代感覚の共有、情報量の変化)したことが「断絶」の元になったのでは・・。しかし、人の心に残る音楽は残ります。リバイバルは無くならないし、年齢を超えて感動を与え続ける良い歌は残ります。 

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純愛と慕情の力(2009年7月17日)
 「第2回 純情と慕情の力 -新国劇と長谷川伸-」を受講しました。講義の概要は以下の通りです。
 慕情とは「男が女に抱く切ない気持」のことで、木津川さんが一番綺麗な言葉と思っているそうです。恋ごころで、恋情は叶えたい叶えたいと相手に向かいますが、慕情は抑えねば抑えねばと自分に向かいます。
 昭和9年、高見順は同人誌「日暦」に「故舊忘れ得べき」を連載し始めました。その中で「慕情」という言葉が使われました。美しい日本語の誕生でしたが、言葉として社会化しませんでした。昭和30年、アメリカ映画「慕情」が封切られ、この映画によって「慕情」という言葉が認知されました。映画はつまらなかったが、アルフレッド・ニューマンの主題歌「慕情」は素晴しいです。
 慕情は舞台劇も文芸も、映画も全部が近代、明治以降の産物です。日本文学の研究者として評価の高いドナルド・キーン氏が指摘する様に「プラトニックな男女関係は明治の文学から繰り返し扱われる」ようになりました。日本最初の近代小説である二葉亭四迷の「浮雲」は慕情のままで小説は未完となりました。私小説の口火を切った田山花袋の「蒲団」は肉欲を秘めてはいたが慕情のまま小説は終わりました。慕情の傑作は昭和18年封切の映画「無法松の一生」です。新国劇を活性化させた長谷川伸は慕情の劇作家といえました。「一本刀土俵入り」「関の弥太っぺ」、いずれも女人に抱く優しい渡世人の美しい献身、清潔な慕情です。
 48作品に及んだ映画「寅さんシリーズ」の寅さんも慕情に生きた男です。自分の切愛を伝えられず、伝えても叶わぬ恋になく悲しい男が地上にはいっぱいいるので、延々48作に及んでもなお人気を失っていません。「冬のソナタ」も「世界の中心で愛を叫ぶ」も同様です。

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近代が刻む人間像(2009年5月15日)
 「第1回 近代が刻む人間像 ―新派の明治と現代―」を受講しました。講師は「上方芸能」発行人、元立命館大学教授、和歌山大学客員教授の木津川計さんです。講義の概要は以下の通りです。
 国民的熱狂の時代が過去3回あり、それぞれ期待される精神、期待される人間像(国民的英雄)がありました。
  ①日清・日露戦争:和魂洋才、木口小平
  ②15年戦争:滅私奉公、爆弾三勇士
  ③高度経済成長期:ど根性、阪田三吉(1961年村田英雄の「王将」が大ヒット)
①の時代に犠牲になったのが女性です。大阪にいた川柳家の岸本水府が「お宮お蔦浪子明治は泣く女」と詠みました。脱亜入欧、立身出世主義の明治時代の、悲しい運命を背負わされた女たちを詠んでいます。
 明治政府の掲げた3大テーゼは「富国強兵」「殖産興業」「文明開化」でした。アジアを脱出して欧米に追いつけの「脱亜入欧」を国家的目標に、立身出世主義の旗を振りかざしました。悲しい運命を背負わされたヒロインたちの芝居のあらすじをビデオを映しながら講義しました。「金色夜叉」のお宮、「不如帰」の浪子、「婦系図」お蔦、そして「滝の白糸」です。明治の発展は多くのむせび泣く女を下敷きにしてきました。

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2008年度

上方芸能文化講座

上方芸能文化講座

(いき)(すい)の美意識「語り」と「語りもの」上方芸能と現代

「上方芸能文化講座」受講案内(2008年8月25日)
 立命館大阪プロムナードセミナー 雑誌『上方芸能』創刊40周年記念連続講座「上方芸能文化講座」の受付確認書・受講票が郵送されてきました。
 「上方芸能」誌代表の木津川計さん(元立命館大学教授、和歌山大学客員教授)をお招きし、同誌の創刊40周年記念とあわせて「上方芸能文化講座」が開催されます。14:00から15:40分まで下記の日程で開催されます。
 第3回 2008年 9月19日(金) (いき)(すい)の美意識
 第4回 2008年11月28日(金) 「語り」と「語りもの」
 第5回 2009年 1月16日(金) 上方落語と現代
 第6回 2009年 3月13日(金) 芸能文化(大阪)の4類型

 

上方落語と現代(2009年1月16日)
 『第5回上方落語と現代ーゆとり社会と芸能文化』を受講しました。受講者が多く、私は別会場にてテレビで受講しました。講師は「上方芸能」誌代表、元立命館大学教授、和歌山大学客員教授の木津川計さんです。
 講義の内容は以下の通りです。
1、国民的笑いの起こる時期の条件
 戦後63年、国民的な笑いが10年ごとに起きている。
 *1950年(昭和25年):NHK大阪放送で「上方演芸会」が放送され、ラジオ演芸が笑いを起こした。
 *1960年(昭和35年):1959年に読売テレビで「親ばか子ばか」が放送され藤山實美が登場、1960年に「番頭はんと丁稚どん」、1962年に「てなもんや三度笠」などのテレビコメディが人気になった。
 *1970年(昭和45年):大阪でやすし・きよし(漫才大賞を受賞)、かしまし娘が、東京でてんぷくトリオ、コント55号が人気となり一般的なお笑いブームとなった。桂三枝と笑福亭仁鶴がラジオの深夜放送で活躍し1970年代半ばの落語ブームとなった。
 *1980年(昭和55年):東西で漫才ブームとなった。東京でツービート、セント・ルイスが、大阪で紳介・竜助、B&Bなどが人気になった。
 *1990年(昭和65年):何も起こらなかった。

 1990年は10年周期が崩れた年であるが、時代背景を見ると理由が分かる。
 *1950年:朝鮮戦争による特需景気、戦後資本主義の復活、将来の生活が良くなるとの思い。
 *1960年:安保闘争、池田内閣の所得倍増計画(10年計画でヨーロッパ並みに)、実質所得がじわじわ増加、三種の神器(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)、長時間労働・低賃金だが生活水準が上がった。10年後にヨーロッパ並みの所得になるとの暮らしの光明を見た。
 国民的熱狂の時代が過去3回あり、それぞれ期待される精神、期待される人間像(国民的英雄)があった。
  ・日清・日露戦争:和魂洋才、木口小平
  ・15年戦争:滅私奉公、爆弾三勇士
  ・高度経済成長期:ど根性、阪田三吉(1961年村田英雄の「王将」が大ヒット)
 *1970年:大阪万博(テーマ:人類の進歩と調和)が開催され、半年で6400万人が訪れた。公害の発生、東京と大阪で革新首長、調和を図りながら進歩することで将来への確信を持った。
 *1980年:鉄鋼の生産量が世界一、自動車生産でアメリカを抜く、経済大国の自覚が全国民に共有された。
 以上のいずれの背景も、「これから我々の暮らしは良くなるぞ」と思っていた。
 *1990年:1980年代はバブル、1987年に昭和天皇のご容態が悪くなり1989年にお亡くなりになった。皇族は3年間の服喪、お笑いは自己規制した。1990年に何も起こらず、1991年にバブルが崩壊した。以後、失われた10年となった。経済は冷えきって、笑いは起こらなかった。
 *2000年:失われた10年の間、何も起こらなかった。
 *2010年:2004年~2007年に漫才ブーム、空前の好景気と言われた、リストラや非正規労働者の増加などにより労働分配率が9年間下がった、企業の内部留保は増加した。不安では消費景気は起きない。落語は起こるが漫才は起こらないだろう。

2、落語の時代と漫才の時代
 世の中が多忙、慌ただしい時代には慌ただしい漫才が流行る。昭和初期は国民の文化生活が多様化した。昭和元年にはラジオ、蓄音機、無声映画が出現、昭和2年は世界恐慌で失業者が増え、政治的意識が先鋭化した。大正に比べて昭和はテンポが速くなった。このような時代には落語は流行らない。
 漫才は途中で切れるが、落語は15分から20分かかる。国民がほっとする時代には落語が流行る。1973年の石油ショックで経済が沈静化して低成長の時代になると落語ブームが起こる。これからは漫才のうねりが起きないだろう。理由は、①暮らしの中身がハイになっていない時代に漫才は流行らない。②シニアと若い人で漫才の笑いが2分された。漫才は若者世代以外にはふるわなくなり、落語の出番が回ってくるだろう。

3、落語にこめられた庶民の思い
 落語が受ける理由は以下の通り。
 ①金持ちへの憧れ
 ②女性のアホの不在:生産点と生活点の違いで、生活点の中でアホな女がだんだん賢い女になる。女性が上の方が夫婦仲がうまくいく。
 ③描かれる生活のリアリズム:貧しい暮らしの民衆の様子が詳しく描かれている。
 ④期待される権力者像

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「語り」と「語りもの」(2008年11月28日)
 『第4回「語り」と「語りもの」-朗読文化の復権と義太夫文化の困難ー』を受講しました。受講者が多く、私は別会場にてテレビで受講しました。講師は「上方芸能」誌代表、元立命館大学教授、和歌山大学客員教授の木津川計さんで、講義の後にお師匠さんの三味線で常盤津の語りを実演しました。
 講義の概要は以下の通りです。
1、美しい語り
 70年代は小劇場、80年代は一人芝居、21世紀になって語りや朗読がブームとなっている。それはアングラから小劇場への流れが、リアルなセリフを重視するよりも感性に訴えることば、あるいは早口やフォルテな語り、そしてボディー・ランゲージなどを広げた。そんな流れへのアンチテーゼとして美しい語りや朗読の需要が生み出された。
 かって主流であった音読が黙読に変わった。もう一度元へ戻すことはもはやできない。しかし、美しい日本語の魅力、耳に心地よいことばの響きを学校や家庭で子どもたちに教えなければならない。合理的な理性を美しい言葉で静かに語ろう。騒々しいことの一切を追い払い、美しい日本語を広げるだけでなく、世の中をおだやかにすると信じている。
2、素人義太夫の全盛期
 明治から大正にかけて、素人浄瑠璃の会が全国的に年中盛んに開催された。昭和の初め、大阪だけでも約十万人の素人義太夫がいたといわれている。
3、「うどんすき」としての義太夫
 広辞林で「語りもの」と「歌いもの」の区別を説明している。「語りもの」は、旋律など音楽としての面白味よりも歌詞の意味内容の伝達を第一義的に重視する傾向が強い。歌詞は長編で叙事的・散文的傾向が強い。「歌いもの」は歌詞の意味内容よりも旋律などの音楽としての面白みを重視する傾向が強い。歌詞は短編で抒情的・韻文的傾向が強い。語りものでは、義太夫(浄瑠璃)、常磐津、清元、新内がある。歌いものでは、地歌、筝曲、長唄、端唄、小唄などがよく演奏されている。
 音楽にはそれぞれ特徴がある。音楽の違いを食べ物になぞらえたら次のようになる。語りものの義太夫は「うどんすき」、常磐津は「天ぷらうどん」、清元は「天ぷらそば」の趣である。歌いものの地歌は「京料理」、筝曲は「日本料理」、長唄は「懐石料理」、端唄は「小料理」、小唄は「一品料理」という感じである。歌いものの民謡は「郷土料理」である。他の語りものの薩摩琵琶は「たぬきそば」、筑前琵琶は「きつねそば」、浪曲は「ラーメン」である。
4、語りものの文化(音楽)の衰退
 かって盛んであった朗読や朗誦などの語りの文化が衰退した。語りの文化の危機と同様に、伝統音楽における語りものの文化(音楽)も重大な危機にさらされている。原因は次の四点を指摘できる。①伝統音楽から洋楽への転換、②素人義太夫の限界、③多様化した娯楽、④勤労の美徳感と遊びの抑圧。
5、文楽復権の可能性
 明治から大正期、共に盛んであった語りの文化と語りものの文化(音楽)、そのどちらもが衰退したのに、語りの文化はいま復権気運である(1、で説明)。しかし、文楽を中心にした語りものの文化が上昇に向かう理由は見いだし難い。
 かって、文楽は「聴くもの」をもっぱらとしたのに音楽感性の変化は「見るもの」にウエイトを移させた。観客の多くは人形の動きに感嘆し、拍手を送っている。それは人形浄瑠璃が難解ゆえに脇へやる結果だったが、もし観客が人形に興味を移さなかったら文楽は滅んでいたかも知れない。人形を見るという鑑賞方法を得て文楽が生き延びたのなら、むしろ喜ばしい事態だったといえる。世界遺産宣言を受けた文楽である。人類共通の文化財として私たちは後世に伝え、残す責務がある。
 若い感性の新鮮な観客が、太夫の語りを新しい音楽として発見してくれれば、語りものの音楽としての義太夫はまたフアンたちの中に息を吹き返して根づいていくだろう。趣味として習い、楽しみとして聴く人たちが少しづつ増えてくれたら、いま11万人前後の年間観客数を15万人から20万人にすることは不可能ではない。

 講義の後に木津川さんがお師匠さんの三味線で常盤津の語り(藤川忠兵衛 道行三度笠)を実演しました。

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(いき)(すい)の美意識ー「すい」の衰退と「いき」の本質(2008年9月19日)
 『第3回 粋と粋の美意識ー「すい」の衰退と「いき」の本質』」を受講しました。会場には100名を超える受講者がいました。講師は「上方芸能」誌代表、元立命館大学教授、和歌山大学客員教授の木津川計さんで、歌舞伎のせりふや歌を歌いながら講義しました。
 哲学者の九鬼周造の著書「『いき』の構造」について解説しました。
1、「いき」の構造
 「いき」の本質は「媚態」と「意気地」「諦め」である。
 「媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である」と定義し、「異性が完全なる合同を遂げて緊張感を失う場合に媚態はおのずから消滅す」と記している。媚態とは男女が思い思われる関係になった時の態度で、男女が完全に結ばれた瞬間から二人の関係は緊張感を失いおのずから消滅すると主張している。
 「媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである」とも記している。つまり、映画の「寅さん」や「無法松の一生」のようにプラトニック・ラブとしての恋こそ「いき」であると言ってる。
 粋は「意気地」で、どちらかの熱が冷めたらすぱっと「諦め」て執着しないことです。
2、「いき」の自然的表現
 九鬼は、「いき」のポーズとして以下のように述べている。
 一番目は言葉遣い。 「一語を普通よりやや長く引いて発言し、しかる後に、急に抑揚をつけて言い切る」言い方で、現代では歌舞伎の中に残っている。
 二番目は、姿勢を軽く崩す。三番目は、薄物を身にまとう。四番目は、湯上り姿。五番目は、洗い髪。六番目は、姿は細っそり柳腰。七番目は、細おもて。八番目は、流し目。九番目は、薄化粧。十番目は、抜き衣紋。十一番目は、髪は略式。十二番目は、素足。十三番目は、左褄。
3、「いき」の美意識
 模様は平行線がいき。阪神タイガースのユニフォームは縦縞なので、「いき」と言える。
 色彩は三種の色で、灰色、褐色、青色の三系統に属する色がいき。
 建築は茶屋建築がいき。
4、粋の美意識はなぜ衰退したのか
 一昔前までは東京では「(いき)」が大阪では「(すい)」と「いう表現がいきていた。東京の粋は渋味に苦味が加味され、大阪の粋は渋味に甘味があるという違いがある。明治以降、(すい)(いき)にとって代わらた。
 「いき」の美意識は着物で人々が暮らしていた時代に生まれ、江戸時代の制度的枠組や支配的思想の中で育った。着物文化の衰退が「いき」や「すい」の美意識を衰弱させた。

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関西社会人大学院連合

特定非営利活動法人 関西社会人大学院連合
 関西社会人大学院連合は、主に京阪神在籍の大学・大学院で構成され、関西経済連合会、関西生産性本部、大阪市等の経済団体・自治体と連携し、社会人教育を推進していくことを目的に、2007年11月に設立された全国初の機関です。社会人の学びのニーズに応えて、専門セミナーという形態で、大学院レベルの講座を提供しています。

2010年度

2010年度

大阪人と大阪の文化

大阪人と大阪の文化

なぜ大阪は”ど根性”の都市といわれたのかなぜ大阪は漫才の都市になったのかなぜ大阪の都市格は下がったのか

「大阪人と大阪の文化」受講案内(2010年8月15日(日))
 「大阪人と大阪の文化」の受講証が郵送されてきました。
 講師は、「上方芸能」発行人、和歌山大学観光学部客員教授、兵庫県川西市生涯学習短期大学学長などを務めている木津川 計さんです。木津川さんが「大阪人と大阪の文化」について、”ど根性”、”笑い”、”都市格”をテーマにユーモアを交えて語っていただけます。19:00から21:00まで下記の日程で開催されました。
 10月20日(水) なぜ大阪は”ど根性”の都市といわれたのか ~阪田三吉と1960年代~
 11月17日(水) なぜ大阪は漫才の都になったのか ~秋田実の作笑術と平和主義~
 12月15日(水) なぜ大阪の都市格は下がったのか ~また再び”含羞(がんしゅう)都市”へ~ 

  

なぜ大阪の都市格は下がったのか-また再び含羞の都市へ-(2010年12月15日(水))
 第3回「なぜ大阪の都市格は下がったのか-また再び含羞の都市へ」を受講しました。講義の内容は以下の通りです。

1、大阪、現下の困難-文化としての都市格の低下と経済としての都市力の低下
 ①橋下徹氏の知事選出馬の街頭での第一声
 「僕は大阪に育てられた。(中略)今、その大阪に元気がない。
全国から汚い、治安が悪いと言われている。大阪が馬鹿にされることは我慢できない」
  ②「大阪が馬鹿にされる」=低い都市格、「大阪に元気がない」=衰弱した都市力
 橋下知事は、文化としての都市格が低下し、経済としての都市力が衰弱していることを自覚していた。


2、関西三都のイメージ
 関東に比べて関西は都市の性格がはっきりしている。神戸が舞台の、宮田 輝の「花の降る午後」に例えると、
  京都-はひふへほ-「雪の降る午後」-歴史と伝統、雪が似つかわしい
  神戸-パピプペポ-「花の降る午後」-心地良く聞こえる
  大阪-ばびぶべぼ-「銭の降る午後」-「ば行」にはろくな言葉がない。
 開発のありよう
  神戸ー埋めながら開発-見下ろす都市(昼間見ても絶え得る)-昼夜ともにロマンチック
  大阪-壊しながら開発-見上げる都市               -突然日が暮れる
  京都-守りながら開発-見回す都市(上から見ると散々)   -長い時間をかけて日が沈む

3、都市格とは何か-文化の視座で計り得る文化力
 ①文化のストック、②景観の文化性、③発信する情報
 ※文化力とは-人間が人間らしく快適に生きていくために必要な文化的環境を守り、作っていく力
  大阪の文化力が下がっているので都市格が下がっている。
 ※人格の定義-「人が、ひとりの人間としての価値を持ち、独立して存在するときに必要な(精神的)資格」(現代国語辞典)
 ※都市格の定義-「都市が、ひとつの価値を持ち、独立して存在するとき必要な(文化的)資格」

4、京阪神三都の都市格順位
 1位-京都
  ①文化のストックが豊富(神社、仏閣、文化財、華道、茶道)、②景観の文化性(春秋は観光客が多数)、③発信する情報(4~10月、祭りや行事その他多数)
 2位-神戸
  ①文化のストック(明治以降、3位)、②景観の文化性(青い山脈、六甲の山)、③発信する情報(お洒落、異人館、神戸ブランド)
 3位-大阪
  ①文化のストックが貧弱、②景観の文化性を持っていない、③発信した情報(5章記載)は大阪のイメージを悪化させた。
  山崎中央教育審議会会長が大阪の文化行政について、橋下知事を「文化を民間に丸投げしている」と批判した。

5、大阪が発信した情報の時代別推移-大阪のイメージ悪化の原因
 
①1960年代-ど根性都市(高度成長と「王将」、東洋の魔女)
 
②1970年代-どケチ都市(低成長と大日本どケチ教教祖)
  ③1980年代-犯罪都市(狂奔のバブル、グリコ・森永事件と豊田悪徳商法)
 
④1990年代-破廉恥都市(ワースト記録と横山ノック知事のハレンチ)
 
⑤2000年代-憂愁都市(大企業の脱出)

6、都市力とは何か-経済の視座で計り得る経済力
 大阪の経済力(下記数値)が大きく低下している。
  ①人口、②工業製品出荷額、有効求人倍率、④一人当たり所得
 大阪は都市力を高めなければならないのに、橋下知事は明確にしていない。大阪都構想やカジノ合法化によって大阪の都市力が高まることはない。

7、二人の知事経済無策
 横山ノック府政、太田房江府政が大阪の都市力を低下させた。
 大阪が元気を失ったのは、大阪の企業が次々に本社機能を東京へ移したり、工場がアジアへ出て行ったりして、経済が空洞化したから。
 外国領事館も大阪から東京や京都に移った。
 京都の大企業は東京へ本社機能を移していない。
 大阪市の文化予算は他の政令指定都市に比べて低い。

8、また再び含羞都市へ-文化のための大阪構想
 文化の都市=はにかみ=含羞の都市へ
 ①パナソニック、三洋電機、シャープなどによる「IT関連」
 ②武田薬品など製薬業界による「バイオ関連」
 ③東大阪、八尾の工業力を活かした「環境関連」

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なぜ大阪は漫才の都になったのか~秋田実の作笑術と平和主義~(2010年11月17日(水))
 第2回「なぜ大阪は漫才の都になったのか~秋田実の作笑術と平和主義~」を受講しました。講義の内容は以下の通りです。

1、ことば遊びの楽しさ
 1)「夜(よる) ゆもじ(つつ)湯上(ゆあが)り (しお)() たゆとう ゆうゆう と(ゆた)かのお(しり)(あゆ)む つつじ(もゆ)るよ」 → 回文
  「(かる)機敏(きびん)子猫(こねこ)何匹(なんびき)いるか」
 2)「女乳(メニュー)」「男差気(おさけ)」「微入(ビール)」「英妃婦裸慰(エビフライ)」「男握(おにぎり)
 3)愛と恋の違い  逢いたくなるのがアイ 呼びたくなるのがコイ

2、しゃれとは何か-ことばの化粧
  日本語には同音意義語があり、謎かけをした。大阪には洒落リストが多くいた。
  ()れ → 洒落 → 言葉の化粧=お洒落
    曝れ:しゃれこうべ、されこうべ
    酒々落々(しゃしゃらくらく):あっさりした、気の利いた
 1)商いは笑なり-「儲」けるを分解すると
   商いの都市大阪では、「儲」を亻(ニンベン)でなく信ベンと呼んだ → 信用第一
   亻|言|者 → 売り手と買い手のコミュニケーションが大事
 2)しゃれことばの効用
   「いかきに小便」:じゃじゃ漏れで貯まらん(いかき=ざる)、「赤子の行水」:足らいで泣いてる、「黒犬のおいど」:尾も白うない、
   「牛のおいど」:モーのしり(物知り)、「嬶のふんどし」:くい込む一方、「上町の井戸」:中は深い、「高野山へ行く」:厠へ行く、紙を落とす(=髪を落とす)
   「便所」は汚い言葉 → お手洗い、ご不浄、はばかり、化粧室、放送局では録音室へ行く(音入れ)
 3)インテリのしゃれ精神
   塚本邦夫家の電話番号「742-6232」:梨二つ浪人三人国を出る、「782-6262」:菜っ葉煮ろ煮ろ肉腐れ
   忌み言葉:おから→きらず、梨→アリの実、ひげを剃る→ひげを当たる

3、漫才-大阪ローカルから国民演芸へ
 1)エンタツ・アチャコの登場―漫才のホームランバッター
   昭和5年に洋服で登場し、それまでの漫才のスタイルを一変させた。
 2)ワカナ・一郎の活躍ーことばの魔術師・ミスワカナ
   ミスワカナは地方の言葉を2~3時間で覚えた。

4、秋田実の登場-漫才育ての親
 1)昭和とともに始まった文化的変動
   文化の水準が上がり、十銭漫才の様な卑猥な漫才は受け入れられなかった。
 2)ラジオ時代が漫才作家を求めた
   吉本興業文芸部はインテリの集まりであった。-秋田実、長沖一、吉田留三郎、藤沢桓夫 等々
 3)秋田実の作笑術-家中誰でもが笑える笑い=笑いの平和主義
   秋田実の「わたしの笑いの世界」:無邪気な笑い。皆を、どういう意味にせよ、不快な感を抱かせない笑い。たあいのない、底抜けに明るい笑い。
   秋田実はけっして毒を含んだ笑いを生み出すことはなかった。芸の伝統と断絶はしたが、大阪町人の平和主義を受けついだ。

5、秋田実-昭和知識人の苦渋
 1)転向の後ろめたさ
   秋田実は自分のことを語らなかった。
   新しい漫才の成立と発展に大きな力となったのが秋田実、長沖一などの作者である。彼らはかって学生運動の闘士であり、反体制運動に参加し、挫折を経験していた。
   市民の日常生活がだんだん権力によって圧迫され始めたころに、市民の日常生活を舞台に持ち出した。「日常性」が「非常時」に侵害されていた時代に、漫才が日常性にフットライトを浴びせ、それを再評価した意義は大きい。
   しかし、「日常性」をも「非常時」が覆い包む”挙国一致”段階に入ると、秋田実の「日常性」も、また「非常時」に吸収されざるを得なかった。しだいに”翼賛漫才”に筆を染めねばならなかった昭和の知識人の苦渋がそこにあった。
 2)漫才コンプレックス
   秋田実にとって、漫才蔑視の風潮、頭の悪さが漫才師とイコールである偏見を解消し、克服する困難な道であった。漫才の水準を高め、「家中、だれもが安心して笑える笑い」づくりに生涯を賭けた。やがて、事情が変わった。
   戦前の到達点を秋田実は次のように刻んだ。「漫才の笑いは、一家揃って祖父母、両親、大から小までの男女の子供が茶の間に座っている時に、持ち出して皆が一緒に笑える話題が、理想でもあり、その限度である。そこまで戦前の漫才は前進し辿り着いたのである」と。
 3)翼賛漫才の量産
   昭和17、18、19年と”翼賛漫才”に筆を染めた。

6、”笑いの平和主義”を育てた背景-秋田実の軌跡
 1)プロレタリア文学から作家的出発
 2)実践運動への参加
   (省略)
 3)富岡多恵子が明るみに出した特高月報と秋田実の役割
   (省略)「特高月報」の内容はでっち上げ。表に出れば第2の横浜事件(昭和18年)(冤罪)になっていた。

7、秋田実以後-粉砕された”笑いの平和主義”
  秋田実の死後、”笑いの平和主義”はまだ再建されずにいる。
  1977年(昭和52)、秋田実死去。1980年から3年間空前の漫才ブーム到来。
 1)ビートたけしによるブス、老人への揶揄(やゆ)
   ブスを笑ったり、老人へのいたぶりがテレビが茶の間に流れた。
 2)島田紳助のオバン攻撃
   強い者が弱い者を笑ったり、いたぶること(特にオバンを攻撃)で人気を取った。
 3)団塊ジュニアに与えた影響
   漫才ブーム終息の後、1983、84年に校内暴力やいじめが社会問題となった。

8、笑いの復権と笑える条件
 1)しゃべくり漫才よ 再び
   高齢者が増えたから、しゃべくり漫才が復活する可能性がある。
 2)風刺的、批判的な笑いよ起れ
 3)笑える条件とは何か
   ①時間的な余裕 ②経済的余裕 ③精神的余裕 ④肉体的苦痛からの解放
  「笑える門に福来たる」(「笑う門には福来たる」でなく)

9、秋田実の功績と弱点
 1)功績
   ①形式としての漫才の創出 ②内容としての平和主義 ③笑いの地位の向上に寄与した ④インテリネットワークの形成
 2)弱点
   ①風刺的批判的笑いに無関心 ②後継者の不在    

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なぜ大阪は”ど根性”の都市といわれたのか~阪田三吉と1960年代~(2010年10月20日)(水))
 第1回 「なぜ大阪は”ど根性”の都市といわれたのか~阪田三吉と1960年代~」を受講しました。講義の内容は以下の通りです。

1、新国劇「王将」を北条修司はどう描いたか?
 北条修司の「王将」は阪田三吉が日の出の勢いを見せはしたが、しだいに孤独、零落していく生涯を忠実に描いている。
 ①貧困の暮らしから「関西名人」を名乗る立志サクセス伝(1947年6月上演)
 ②東京の近代将棋に大阪の力の将棋が敗北する物語(1950年1月上演)
 ③三吉の小春に対する愛妻物語(1950年11月上演)

2、村田英雄の「王将」(1961年)は何を歌い、何を歌わなかったのか
 村田英雄の「王将」は下り坂の三吉を歌わず、なにがなんでも勝たねばならぬ熱血根性型の人物に、そして、上昇を約束させる発展途上人として歌い上げた。
 ①貧窮―「やぶれ長屋で今年も暮れた」
 ②闘志―「なにがなんでも勝たねばならぬ」
 ③敗北―一切歌わなかった
 高度経済成長期に阪田三吉が手本(三吉は小学校を半年しか行ってないので文字が読めない。しかし、根性を持っているので、日本一の将棋指しになった。皆も三吉を見習い、負けんようにしろ)にされた。

3、熱狂の時代と”期待される精神””期待される人物”
 国民的熱狂の時代が過去3回あり、それぞれ期待される精神、期待される人間像(国民的英雄)があった。それぞれ体験した人物がもてはやされた。
 ①日清・日露戦争―和魂洋才―木口小平
   大和魂、武士道、立身出世主義の教育
 ②15年戦争―滅私奉公―爆弾三勇士
   昭和6年12月~20年8月、標語「欲しがりません勝つまでは」
 ③高度経済成長―ど根性―阪田三吉
   1960年~70年、所得倍増計画、企業戦士、中卒者・集団就職・金の卵、低賃金・長時間労働、自然破壊・公害

4、”ど根性”の都市・大阪の情報発信
 ①”ど根性”を社会化させた山崎豊子と「花のれん」(1978年)
   山崎豊子が「船場商人の”ど根性”を描きたかった」とたびたび語っていたために社会化された。
   大阪では”性根”を使っていた。根性は汚い言葉なのに更に”ど”が付いた。
 ②今東光と「悪名」(1960年~1961年)
   性質の悪い所を描いた。
 ③大松博文「おれについてこい」と”東洋の魔女”
   鬼の大松、選手は特訓に耐え抜いた、東京オリンピックで女子バレーボールで金(1964年)

5、「王将」の作詞家・西条八十が煽ったもの
  どいう人物が期待されたかを見れば、その時代がわかる。時代に迎合し、煽る人間が出た。
 ①「同期の桜」(1952年)と「若鷲の歌」(1952年)
 ②「トンコ節」(1951年)と「ゲイシャワルツ」(1952年)
 ③煽リストは熱狂の時代を増幅する

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相愛大学 公開講座・レッスン

相愛大学 公開講座・レッスン
 相愛大学では、一般の人々が参加できる公開講座・公開レッスンを開催しています。興味を持った講座があれば気軽に参加できます。

2011年

2011年 

落語文化への誘い

落語文化への誘い

第1回第2回第3回第4回第5回第6回第8回第9回第10回第12回第14回第15回

「落語文化への誘い」受講案内(2011年8月31日)
 相愛大学公開授業「落語文化への誘い~大阪・芸能・生活とともに~」の受講案内が郵送されてきました。
 日本仏教は日本文化の母体であるとともに、日本の芸能の源泉です。そもそも芸能の発生は、宗教儀礼と密接な関係にあります。この講義はそのような視点に基づき、日本仏教の説教と落語に通底している領域を探ろうとするものです。特に大阪という地域性を手がかりにするため、「大阪落語」の第一線で活躍する桂春團治一門を講師に迎え、対話形式の講義を行います。コーディネーターは人文学部教授の釈徹宗さんです。
 9月15日から来年1月19日(11月17日を除く)まで、毎週木曜日16時40分から18時10分まで南港学舎で授業が行われます。なお、学生と一般応募の受講生が一緒に授業を受けます。
落語文化への誘い

 

落語文化への誘い 第15回(2012年1月19日(木))
 相愛大学南港学舎で相愛大学公開授業「落語文化への誘い~大阪・芸能・生活とともに~」の第15回を受講しました。
 釈徹宗教授が講義しました。前回まで中世・近世の社会のあり方/人のあり方、語り部の流れ、説教の流れを講義してきました。今回は落語が他へ影響を与えたこと(落語の速記本など)を講義しました。
①文学への影響:言文一致運動への影響(落語の速記本が影響を与えた、特に円朝の速記本)、夏目漱石「吾輩はネコである」など、藤本義一「鬼の詩」。
②映画:「幕末太陽伝」川島雄三監督、「の・ようなもの」森田芳光監督、「寝ずの番」マキノ雅彦監督、「しゃべれどもしゃべれども」平山秀幸監督、「落語娘」中原俊監督。
③その他:「寄席芸人伝」(古谷三敏)、「どうらく息子」(尾瀬あきら)、「タイガー&ドラゴン」、「ちりとてちん」など。
落語は日本文化の肝である。古典にならず、今も生き続けている。宗教的センスも感性もある→宗教を笑える。
 桂春之輔さんが講義しました。「鬼の詩」、「寝ずの番」、「寄席芸人伝」について説明してから、コミュニケーションカードを紹介しました。私のコミュニケーションカードも読まれました、3回目です。拠点を東京に移す噺家がいるが、とんでもない。オーム真理教が出てくるのは既存の宗教が怠慢だから。文楽は大阪のものなのに、大阪人が行かない。橋下市長は交響楽団、文楽いらないと言っている。粋(いき)と粋(すい)の違い。ほんまもんの大阪弁は近くにはなくなった。「おかん」より「おかあちゃん」の方が良い。芸の品は保つべき。一流と高級(値段が高い)の違い。本当は寄席にマイクを入れない方が良い。ジャンジャン町は横丁ではない。法善寺横丁でなく法善寺だ。新世界は今やブランド化した。昔の串カツは衣が厚かった。昭和43年頃、たたき売りは面白かった。びっくりぜんざいも懐かしい。
 18時から修了証の授与がありました。10回(全15回)以上受講で修了証が授与されます。私は12回受講したので、春之輔さんから修了証を授与されました。

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落語文化への誘い 第14回(2012年1月12日(木))
 相愛大学南港学舎で相愛大学公開授業「落語文化への誘い~大阪・芸能・生活とともに~」の第14回を受講しました。
 桂春之輔さんが噺家の着物について話しました。東京は黒紋付きで、客より質素にする。大阪は客の前へ出るのだから良い着物を着る。
 桂春雨さんが講義しました。春雨さんの着ている着物は二度染めで、薄い紫で染めて次に濃い紫で線を染めている。文化=カルチャは心が豊かになり、文明は生活が豊かになる。呼吸(いき)とは噺家と客のやり取り。() は喋らない時間で大仰でなくなる。間は魔に通ず。SPACE→GAP(例:歯の抜けたこと)。間のない喋り方、間を持たせる(ゆっくり)。春雨さんが「京の茶漬け」の実演をしました。高松の熱燗も同様。釈徹宗教授が客の習練、笑いの質、間の取り方、客と演者の間などについて質問をしました。
 釈教授が講義しました。節談説教は講談に近く、高座説教は落語に近い。ここで、節談説教の録音を聞きました。節談説教は受け念仏ができなくなって衰えた。配布資料によって、「白骨の御文(白骨の御文章)」(蓮如の手紙、全五巻)の一部内容が紹介されました。宗教とは思えないところで仏教がある。仏教用語なしで日本語はない。
 春之輔さんがコミュニケーションカードを読みながら講義しました。日本人の正装は決まっていないが、天皇陛下に着物を着て頂きたい。大阪弁には河内、船場、天満など様々な言葉が存在した。今の芸人は芸NO人。安物でも芸人とタレントは違う。「これはという若手の落語家は誰?(私の質問)」に対しては難しい。大学出や中退が多く、そこそこ出来るが個性がない。中卒はいない、高卒は2人(親が落語家)。師匠に似ている噺家は出世しないが、最初は教えて貰った通りにすべき。寄席で客先が見える、雰囲気が悪い時はただ一人を相手に喋る。文楽・歌舞伎は鑑賞でなく楽しむ。橋下市長は文化に対する理解がない。 

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落語文化への誘い 第12回(2011年12月15日(木))
 相愛大学南港学舎で相愛大学公開授業「落語文化への誘い~大阪・芸能・生活とともに~」の第12回を受講しました。
 桂春雨さんが講義しました。仏教に関する噺として「八五郎坊主」を解説しました。アホらしい噺をしながら、実は造詣のある噺になっている。上方落語に出てくる喜六は職業を持っており社会生活が成り立っている可愛げのあるアホである。しかし、八五郎の社会生活は成り立っていない。宗派は明らかにせず、下寺町のずく念寺(架空の寺)が舞台。解説の後、春雨さんが、八五郎が甚兵衛さんに「つまらん奴は坊主になれ」を尋ねるところから始まる「八五郎坊主」を実演しました。釈徹宗教授が参加し、上記の噺をもとに話し合いました。
 釈教授が、日本仏教の説教について講義しました。近世になると、唱導説教は浄土宗・浄土真宗などで盛んになった。浄土宗の良定袋中、浄土真宗の浅井了意など。芸能との融合「説教浄瑠璃」や「説教座」。芸能と仏教がお互いに影響し合った。浄土真宗の説教について説明がありました。
 桂春之輔さんが講義しました。日本の音楽芸能は仏教から始まった。登場人物、大阪落語は喜六・清八・甚兵衛で東京落語は与太郎・熊五郎・横丁のご隠居。喜六は我々と共通店があるが、与太郎は精薄児的。現在、内弟子は皆無に近い。 

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落語文化への誘い 第10回(2011年12月1日(木))
 相愛大学南港学舎で相愛大学公開授業「落語文化への誘い~大阪・芸能・生活とともに~」の第10回を受講しました。
 釈徹宗教授が、「醒酔笑(せいすいしょう)」(安楽庵策伝)について講義しました。「醒酔笑」は落語に影響を与えました。配布資料により、「鈍副子(どんふうす)」(「巻之一」)と「そでない合点」(「巻之四」)の内容を説明しました。「鈍副子」は血の巡りの悪い禅寺の会計係の、「そでない合点」は見当はずれ・早合点の話です。
 桂春之輔さんが講義を行いました。落語の修業は学校と違い、師匠は頭ごなしに教え、弟子はひたすら教えを乞う。羽織を脱ぐのは場面展開で、昔は時計代わりだった。落語に著作権はないが、生存している落語家の工夫したものを黙って演じてはならない。CDとDVDではCDの方が想像できて良い。歌舞伎で西と東の芸が変化したのは関ヶ原の戦以後。勝者は荒事(強い者はあくまで強い:勧善懲悪)で敗者は和事(→情→愛や恋、金:近松門左衛門や井原西鶴)である(市川団十郎談)。落語の世界では、東京が権力者に対する笑いで、大阪が身近な笑い。落語家を一人前と決めるのは客、特に大阪では。師匠に似ると出世しない、師匠に似てないと出世する(春之輔さんの意見)。坐摩(いかすり)神社は上方落語発祥の地(初代桂文治が寄席という形を始めた)と言われている。落語の中で「情」を感じて欲しい。大阪には怪談や人情話はない。人情話は筋で引っ張れるが、「代書屋」の方が難しい。

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落語文化への誘い第9回(2011年11月24日(木))
 相愛大学南港学舎で相愛大学公開授業「落語文化への誘い~大阪・芸能・生活とともに~」の第9回を受講しました。
 釈徹宗教授がプロジェクターを使用して講義を行いました。卒塔婆小町、親鸞聖人の生涯が伝える絵巻物(異時同図法)、壬生狂言(炮烙割)、勧進帳、踊念仏、鉢叩き、語り芸能などについて説明がありました。
 続いて、桂春之輔さんが講義を行いました。先日亡くなった立川談志さんとの関わりについて話しました。受講生が提出したコミュニケーションカードを読みながら話を進めました。東京人と大阪人の違い。東京の人間は他人を攻撃する、言いっぱなし、攻撃のままである。大阪の人間は他人を攻撃するが、自分の恥ずかしい話もする。  

 

落語文化への誘い第8回(2011年11月17日(木))
 相愛大学本町学舎本町講堂で開催された「相愛寄席 桂春團治一門による 『落語文化への誘い』」を鑑賞しました。詳細は、上方落語:相愛寄席 をご覧ください。

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落語文化への誘い第6回(2011年10月27日(木))
 相愛大学南港学舎で相愛大学公開授業「落語文化への誘い~大阪・芸能・生活とともに~」の第6回を受講しました。
 釈徹宗教授が「聖典を朗誦する」と題して講義を行いました。いろいろな録音を聴きました。
「カノン」を持つ宗教⇒「アザーン」=お祈りの呼びかけ。「声明(しょうみょう)」…日本音楽のベース。十二律。雅楽…世界最古の合奏音楽。
 桂春之輔さんが入院している病院から駆けつけ講義を行いました。最初、救急車で運ばれてから入院、手術に至るまでの経過を話しました。また、手術の数日後に大事な落語会があったが、代演せずに開催できたことなどを話しました。その後に講義を行いました。
「時そば」は「時うどん」の改作なのに出来が良くない。大阪落語と東京落語を比較すると、面白いのは大阪。「東京は落語、大阪は漫才」と言われるのが悔しい。大阪には「上方落語協会」があるが「上方」は気に入らない、「大阪落語」だ。東京には、「落語協会」と「落語芸術協会」があるが、「芸術」は気に入らない。噺家の「人間国宝」はあるべきではない。コミュニケーションカードを読みながら話を進めました。落語は仏教の影響で正座でする。正座で左、右、そして間で場面展開を行う。天満天神繁昌亭の客は日々違うので勉強になる。お稽古は正座でする。落語に著作権はないが、演ずる時は了解を得ること。 

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落語文化への誘い第5回(2011年10月20日(木))
 相愛大学南港学舎で相愛大学公開授業「落語文化への誘い~大阪・芸能・生活とともに~」の第5回を受講しました。
 釈徹宗教授が「日本仏教と芸能:田楽、今様」について講義を行いました。
梁塵秘抄(りょうじんひしょう)、法文歌、和讃。
 桂春之輔さんが胆石で入院しているので、代わりに桂春雨さんが講義を行いました。
最初に前回のコミュニケーションカードの質問に対して回答をしました。続いて、「時そば」と「時うどん」を実演し、その違いを解説しました。
「時うどん」を東京へ持ち込んで「時そば」となった。江戸落語はあまり笑わさなかった、ストーリー展開。武家社会では侍が歯を出して笑わなかったから。明治30年代から上方落語を東京へ持ち込んだ。大坂は天下の台所で全国から物が集まり江戸へ送った。大坂は供給過剰で、江戸は供給不足であった。そこで、大坂では客が強く、江戸では売り手が強かった。「時うどん」で困っているのは客で、今も変わっていない。

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落語文化への誘い第4回(2011年10月13日(木))
 相愛大学南港学舎で相愛大学公開授業「落語文化への誘い~大阪・芸能・生活とともに~」の第4回を受講しました。桂春之輔さんが急病で入院したために代わりに桂梅團治さんが講義を行いました。
 釈徹宗教授が「日本仏教と芸能:勧進劇としての能・狂言」について講義を行いました。
能・狂言の構成:能方や狂言方による歌舞。囃子方、地謡。①現在能 ②夢幻能 ③世阿弥の登場。
 桂梅團治さんが講義を行いました。
「佐々木裁き」を実演しました。噺の後に、釈教授と梅團治さんの会話がありました。噺の中の子供は言われたことに素直に答える、やらしさがない。子供が生意気にならないように演じているとのこと。桂米朝師匠の噺で、桂春團治一門では梅團治さんだけが演じているとのこと。最後に梅團治さんと受講者との間で質疑応答がなされました。

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落語文化への誘い第3回(2011年10月6日(木))
 相愛大学南港学舎で相愛大学公開授業「落語文化への誘い~大阪・芸能・生活とともに~」の第3回を受講しました。
 釈徹宗教授が「日本仏教と芸能」について講義を行いました。
神事が芸能へ変化した。伎楽は仏教とともに海外から伝来した。
 桂春雨さんが講義を行いました。
噺家の原点は、露の五郎兵衛(京都)と米澤彦八(大坂)と鹿野仁左衛門(江戸)。物まね、小話、落とし話。
現在の落語は文化文政の頃から。落語のルール:①右を向いたり左を向いたりして小話+演技、②座ってやる(上半身だけで演技が広がる)、着物を着ることで自由度が増す。小道具は扇子と手ぬぐい。
小道具を使って実演(きせる、つり、焼き芋を食べる、鼻をかむ、刀でガマの油、紙と筆)。「寄合酒」の一部を実演。
登場人物:喜八(25、6歳)でアホ、清八(32、3歳)、甚兵衛はん(町内の物知り)。主な登場人物が出る「つる」を実演。
東京落語から上方は少ないが、東京落語の8割は上方から。  

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落語文化への誘い第2回(2011年9月29日(木))
 相愛大学南港学舎で相愛大学公開授業「落語文化への誘い~大阪・芸能・生活とともに~」の第2回を受講しました。
 釈徹宗教授が「宗教と芸能」について講義を行いました。この日は、補助資料でヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』の内容をもとに「極限状態の人がどう生きのびたか?」について話しました。
生き残った人は強靭な肉体精神を持った人でない。収容所で夕陽を美しいと思う人、収容所の芸術(歌、詩、ギャグなど)ですべてを忘れた人は生き延びた。
 桂春之輔さんが講義を行いました。噺家になった経緯について話しました。
高二の時に噺家になりたくなり、昭和40年秋に春團治師匠に弟子入りした。高校を卒業するまで土日に師匠宅へ通い、卒業後に内弟子となった。噺家では飯の食えない時代であった。一番少ない時で噺家は10数名、弟子入りした時には20数名しかいなかったが今では250名にもなった。今では大学卒の噺家が圧倒的に多くなった。また、金持ちの噺家もいる。
先週のコミュニケーションカード(講義後に受講者が講義の内容、感想や質問などを記述)を読み上げ、内容について説明しました。私の書いたコミュニケーションカードが読まれました。

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落語文化への誘い第1回(2011年9月15日(木))
 相愛大学南港学舎で相愛大学公開授業「落語文化への誘い~大阪・芸能・生活とともに~」の第1回を受講しました。
 始めに、金児学長の挨拶がありました。
金児学長が大阪市立大学長の時に、公開授業「大阪落語への招待」を実施していました。私も2008年度に受講し、金子学長より修了証を授受されました。その縁で、このたび相愛大学でも桂春團治一門を講師に迎え公開授業「落語文化への誘い」が実施されることになったそうです。
 釈徹宗教授が「宗教と芸能」について講義を行いました。
宗教と芸能の近接性(シャーマン、呪術者。共同体の維持、死者との交信、異界からのメッセージ) 1)宗教儀礼と芸能、2)仮面の儀礼性と変性意識について。藝=わざ、能=態=マネる。
 桂春之輔さんが講義を行いました。次々回までに講義の内容を作っておくとのことで、話は脱線しながら進みました。
落語の由来は御伽衆の話や寺のお坊さんの面白い説教との説がある。噺家の原点は1700年頃、大阪(米澤彦八)と京都(露の五郎兵衛)と東京(鹿野仁左衛門)で現れた。毎年9月の第1土曜、日曜日に生國魂神社で「彦八まつり」が開催されている。落語と呼ぶようになったのは明治中期。大阪落語は辻話や大道芸から、東京落語は座敷芸(太鼓持ち、かっては芸者と言った)から発展した。今の東京落語は笑いを取ろうと大阪落語をチェックしている。漫才はバナナの皮で足をすべらすのを見て笑う、落語はなぜバナナの皮で滑ったかを語る。落語は情にからむ笑い。落語は師匠、講談は先生。  

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追手門学院 公開講座・講演会

追手門学院 公開講座・講演会
 追手門学院大阪城スクエアは、学院主催の講演会やシンポジウムをはじめとし、教養講座の実施、貸しホールや会議室を提供してます。学院関係者だけでなく一般の人々にも幅広く活用できます。
 追手門学院大阪梅田サテライトは、学生の就職活動等を支援するとともに、学院・大学開催の行事、教育研究活動、産官学連携活動、卒業生の情報交換や交流の場として活用できます。

2012年2013年

2013年

難波宮の過去・現在・未来地域文化セミナー②地域文化セミナー③ 

地域文化セミナー③

関西の「笑い」が日本を治す

地域文化セミナー「関西の文化・芸能・まちづくりを考える」③:申込み受付(2013年7月13日(土))
 追手門学院 大阪梅田サテライトから、地域文化セミナー「関西の文化・芸能・まちづくりを考える」の申込み受付のメールが送られてきました。
 明治安田生命「関西を考える会」と追手門学院大学「地域文化創造機構」がコラボして、関西の多様な地域文化を紹介するセミナーを、全12回開催中です。19:00から20:30まで、下記の日程で開催されます。
 第7回 2013年10月18日(金) 「なにわ伝統野菜の歴史と活用」 農学博士、なにわ伝統野菜応援団員 森下正博さん
 第8回 2013年11月 8日(金) 「関西の「笑い」が日本を治す」 上方文化評論家 福井栄一さん
 第9回 2013年12月 6日(金) 「関西無形文化遺産事情-祭りと芸能をめぐる-」 追手門学院大学地域文化創造機構特別教授 橋本裕之さん

 

関西の「笑い」が日本を治す(2013年11月8日(金))
 追手門学院大阪梅田サテライトの地域文化セミナー「関西の文化・芸能・まちづくりを考える」の第8回「関西の『笑い』が日本を治す」を受講しました。講師は上方文化評論家の福井栄一さんです。独特の「福井節」で1時間30分が瞬く間に経過しました。講義の内容は以下の通りです。
1、笑いの歴史
 ○最初に笑ったのは誰?
  ・天岩屋戸(あまのいわやど)神話  天照大神(あまてらすおおみかみ)が高天原で弟の素戔嗚尊(すさのおのみこと)の乱行にたまりかねて天岩屋戸にこもると世は常闇となった。神々は集まって評議し、祭りを行わせた。その時、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が手・腕を動かし(手伸す(たのす) ⇒ たのし)、はだしで大地を踏みしめ(足踏み ⇒ 呪術、地鎮)踊り狂ったので神々は大いに笑った。(省略)
  ・神々が(わら)ふ ⇒ 最初の笑い
  ・天鈿女命が手・腕を動かし、足踏みした。 ⇒ 芸能の始まり。四股は相撲の神髄。
2、言葉あそびにみる笑い
 庶民の語らいは言葉遊びから始まる始まった。
 ○なぞ掛け 古典的な名作
  ・「鶯×葬列」 ⇒ なくなくうめにいく (鳴く・梅、泣く・埋め)
  ・「按摩さん×仁王さん」 ⇒ いっしょうもんでくらす (揉んで・門で)
 ○音から連想
  ・(掛け軸のことば)春夏冬二升五合 ⇒ 秋ない・商い 升升・益々 半升・繁盛
  ・(苗字) 十 ⇒ つなし、一 ⇒ にのまえ、小鳥遊 ⇒ たかなし、月見里 ⇒ やまなし、春夏秋冬 ⇒ ひととせ(一歳)
3、シャレ言葉で丁々発止・・・ ⇒ ダイレクトに言わずに婉曲言う
  ・「アイツは、春の夕暮れや」 ⇒ (春の日が)暮れそうで暮れない・(おかねを)くれそうでくれない
  ・「最近、どう?」「狐のやいとや」 ⇒ 困窮(コン・灸)
  ・「あの人、うどん屋の釜やで」 ⇒ ゆ(湯)ばかり
4、関西のこれから
  ・大阪締め ⇒ 手締めで約束、口から出た言葉は死んでも守ります。参加者全員で大阪締め実演。
  ・「歯槽膿漏」を治そう! ⇒ 歯には歯茎が大事、歯茎は言葉・コミュニケーション能力。しゃべってコミュニケーション能力を磨こう。

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地域文化セミナー②

壮麗な土木遺産からモダンな児童公園まで中之島の今昔思い出深い関西の近代化遺産地域文化ランチタイム船上セミナー

地域文化セミナー「関西の文化・芸能・まちづくりを考える」②:申込み受付(2013年6月21日(金))
 追手門学院 大阪梅田サテライトから、地域文化セミナー「関西の文化・芸能・まちづくりを考える」の申込み受付のメールが送られてきました。
 新聞で2013年の明治安田生命「関西を考える会」発行の冊子『探検!発見!関西の近代遺産』の無料配布を知り、申し込みました。送られてきた冊子に明治安田生命「関西を考える会」と追手門学院「地域文化創造機構」がコラボして、関西の多様な地域文化を紹介するセミナーを知りました。19:00から20:30まで、下記の日程で開催されます。
 第4回 2013年7月12日(金) 「探検!発見!関西の近代遺産③」 近畿大学理工学部教授 岡田昌彰さん
 第5回 2013年8月 2日(金) 「探検!発見!関西の近代遺産④」 文化財保存全国協議会常任全国委員 西田孝司さん
 第6回 2013年9月 6日(金) 「探検!発見!関西の近代遺産⑤」 エッセイスト 武部好伸さん 

 

地域文化ランチタイム船上セミナー(2013年10月6日(日))
 地域文化セミナー特別企画「地域文化ランチタイム船上セミナー」に参加しました。講師は、文化財保存全国協議会常任全国委員の西田孝司さんです。船で昼食をとり、講師の話を聞きながら大阪の名所・旧跡を回りました。台風を心配していたのですが、晴れて陽射しが強く32度を超える真夏日でした。「川の駅 はちけんや」に集合して、11時40分から2時間の贅沢なクルージングを楽しみました。ルートは、八軒家浜⇒土佐堀川⇒堂島川⇒大川⇒寝屋川・第二寝屋川⇒大川⇒八軒家浜です。船だから見られる水都大阪の歴史を物語るさまざまな風景がありました。
 詳細のルートは、八軒家浜⇒(大川)⇒①⇒天神橋⇒(土佐堀川)⇒②⇒難波橋⇒天神橋⇒(堂島川)⇒難波橋⇒③⇒天神橋⇒(大川)⇒④⇒天満橋⇒⑤⇒川崎橋⇒⑥⇒桜宮橋⇒⑦⇒源八橋⇒⑧⇒都島橋⇒飛翔橋⇒⑨⇒毛馬橋⇒⑩⇒飛翔橋⇒都島橋⇒源八橋⇒桜宮橋⇒川崎橋⇒寝屋川橋⇒(第二寝屋川)⇒⑪⇒京橋⇒⑫⇒新鴫野橋⇒⑬⇒大阪城新橋⇒新鴨野橋⇒京橋⇒寝屋川橋⇒(大川)⇒天満橋⇒八軒家浜、です。
(注)①剣先公園 ②中之島 ③東洋陶磁器美術館、豊国神社旧地、木村重成石碑 ④天満青物市場跡 ⑤将棊島跡 ⑥藤田邸跡、大阪市公館、造幣博物館、造幣局 ⑦旧桜ノ宮公会堂、泉布館、毛馬桜之宮公園、青門 ⑧日羅墳跡、大阪市水道発祥の地 ⑨春風橋 ⑩蕪村公園、毛馬閘門 ⑪追手門学院 ⑫大阪砲兵工廠跡 ⑬大坂城ホール
 船から見た大阪城
船から見た大阪城

追手門学院

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思い出深い関西の近代化遺産(2013年9月6日(金))
 追手門学院大阪梅田サテライトの地域文化セミナー「関西の文化・芸能・まちづくりを考える」の第6回を受講しました。講師はエッセイストの武部好伸さんです。
 武部さんは建築・土木から最も縁遠い人間と自ら話し、関西一円の近代化遺産に絡む思い出話や裏話をたっぷり盛り込んでテンポ良く話しました。プロジェクターでいろいろな写真を映写しながら、幼少期や青春時代、さらに新聞記者時代の自らの思いでをエピソードを交えながら話されました。内容は以下の通りです。

大阪
●大坂城天守閣・・・ 市民の寄付によって、昭和6年(1931)に再建(徳川時代の城に)された。通天閣と並んで大阪のシンボル。
 ・天守閣再建中の写真
 ・怪獣の写真  ・映画の中で、大阪へ7回延べ10頭の怪獣が来た。そして大阪城は2回壊された。ゴジラは3回大阪へ来た。
●通天閣・・・初代通天閣は、ルナパークとともに明治45年(1912)に建設された。現在の通天閣は2代目で昭和31年(1956)に完成。
 ・二代目建設中の写真(昭和30年)  ・初代通天閣の写真(広告はライオン歯磨)
 ・昭和23年(1948)公開の映画「王将」で大阪映画が確立した。映画の通天閣はセット。
 ・「ビリケンさん」へ初詣で行く(武部さん)。元々は、1908年にアメリカのフローレンス・ブリッツが制作した像。日本には明治42年(1909)頃渡来。始めは花柳界で流行し、その後一般へ。
 ・通天閣のてっぺんのまるいネオンは「光」の天気予報。
●大阪松竹座・・・大正12年(1923)に竣工。ネオルネッサンス様式でミラノのスカラ座を真似る。日本で最初に映画を上映。洋画の殿堂、日本映画も上映していた。1033席。平成6年(1994)閉館。
 ・場内、切符売り場の写真  ・「風とともに去りぬ」が最後の上映
●御堂筋・・・昭和元年(1927)完成。6mの道幅を43.6メートルに拡張、全長4027メートル。起点は阪神前、終点は高島屋前。
 ・御堂筋が拡張されるまでは、堺筋がメインストリートだった。  ・かって市電が走っていた。  ・2012年大阪マラソンを走った
●ガスビル(大阪瓦斯ビルヂング)・・・昭和8年(1933)に竣工。モダニズム建築物。かってホールがあった。
 ・ガスビル食堂から外を見た写真、ビーフシチュウが美味しい
●大阪府立中之島図書館・・・明治37年(1904)に開館。
 ・階段の写真  ・中の写真  ・中に入ると本の匂いがする
●大阪市中央公会堂・・・大正7年(1918)に開館。相場師の岩本栄之助が100万円を寄付したが完成前に自殺した。
 ・リニューアル前の中の写真  ・薄暮の写真  ・夜の写真
●大丸心斎橋店・・・昭和8年(1933)営業開始。
 ・中の写真、昔と変わらない
●大阪砲兵工廠・・・大村益次郎の建言によって設置された。最大工員数64000人、民間人20万人を動員。終戦の前日に米軍の集中爆撃を受ける。
 ・中の写真  ・科学分析場は残っている  ・戦後にアパッチ族  ・子供のころに遊んだ
●毛馬の閘門・・・明治40年(1907)完成。
 ・明治40年と現在の写真
京都
●哲学の道・・・昭和47年(1972)に正式名称となる。
 ・一番好きな場所  ・桜と猫5匹
●天ヶ瀬ダム・・・昭和39年(1964)竣工。
 ・自殺の名所
●南座・・・日本最古の芝居小屋、1078席。
 ・江戸時代初期、芝居小屋が七座存在 ⇒ 三座 ⇒ 一座(南座)
●京都伏見の十石舟・三十舟・・・再現、江戸時代初期に伏見と大坂を結ぶ。穴場。
 ・月桂冠大倉記念館  ・松本酒造
●東華菜館・・・北京料理店
●京都会館・・・昭和35年(1960)開館、昨年閉館。2015年「ロームシアター京都」へニューアル。
兵庫
●神戸ジェームス邸・・・昭和9年(1934)建設。
4、奈良
孔舎衛坂駅(くさえざかえき)跡、生駒トンネル跡・・・昭和39年(1964)新生駒トンネル開通の路線変廃駅。
●奈良女子大・・・正門・守衛室が重要文化財。
●奈良ホテル・・・明治42年(1909)営業開始、喫茶室は穴場
●奈良大峰ケーブル・・・昭和4年(1929)に開業、日本最古のロープウエー。 

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中之島の今昔(2013年8月2日(金))
 追手門学院大阪梅田サテライトの地域文化セミナー「関西の文化・芸能・まちづくりを考える」の第5回「中之島の今昔」を受講しました。講師は、文化財保存全国協議会常任全国委員の西田孝司さんです。講義の前に、明治安田生命の総務部長が第16回なにわ大賞の準大賞に同社「関西を考える会」が受賞したとの報告がありました。大手門学院大学教授の橋本裕之さんから新作狂言「茨木童子」の紹介がありました。
 西田さんが、地図、絵図、写真などの資料をもとに中之島の今昔について講義しました。講義内容は以下の通りです。
●明治18年(1885)頃陸軍が作成した地図
 ・明治24年(1891)に中之島公園整備
 ・渡辺津(平安時代)・・・現在の八軒家浜、なにわの地名(浪速:なみはや)の発祥の地(神武天皇即位三年前に九州から上陸、渡辺姓の発祥の地、熊野古道の出発の地、坐摩神社(神功皇后創建)
 ・中洲は難波橋の下まで、天満橋の下に「将棊島」という陸地
 ・東海道五十七次・・・京都⇒枚方⇒守口⇒京橋(現在の京橋ではない)
●中之島の山崎鼻・・・明治32年(1899)中之島公園と称された頃の写真
 ・難波橋、豊国神社の一の鳥居
 ・大正3年(1914)、淀川の低水工事によって、山崎鼻以東、天神橋の上手まで造成された。
 ・中之島は時代とともに東へ延びた。
●豊国神社一の鳥居前に建っていた木村重成の碑
 ・昭和36年(1961)、神社が大阪城内に移転後に、碑のみが取り残された。
●中之島の大阪ホテル
 ・豊国神社のの隣りあって建てられていた。明治36年(1903)、第5回内国勧業博覧会が大阪で開催される前年新築された。のち、火災にかかり、移転した。
●中之島公園豊公銅像
 ・大阪豊国神社が建てられ、さらにこの銅像が建てられた(戦時中、供出された)。
 ・懐徳堂と並び称される泊園書院を再興した藤沢南学の碑があった。
●大阪市庁舎の航空写真(昭和27年(1952))
 ・豊国神社が写っている(昭和36年(1961)までは同じ景色)。
 ・市役所拡張に伴って移転された。
●大阪府立中之島図書館
 ・本館(中央部分と1号書庫)は、明治37年(1904)に第15代住友吉左衛門氏の寄付によって建造された。「大阪図書館」として一般公開された。
 ・大正11年(1921)に住友家の寄付により左右の両翼が増築され、ほぼ現在の建物が完成した。
●淀屋屋敷跡
 ・淀屋常安が私費で架けた淀屋橋のたもとに、淀屋屋敷跡の碑がある。
 ・常安は、中之島開発し、常安請地を開く。常安橋や常安町の名が今に残る。
●仁徳陵古墳(中之島とは関係なく、西田さんの専門分野)
 ・仁徳陵古墳拝所写真、明治12年(1879)撮影の写真でははげ山状態だったが、明治30年代に樹木が茂っている。。
 ・4~6世紀の姿を見ることができるようになったのは、明治以降。
  ・明治20年~23年(1887~1890)に松・杉・檜・樫などの苗木192,645本植付。
  ・明治29年(1895)15,000本の松・杉・檜・楠の苗を補植。

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壮麗な土木遺産からモダンな児童公園まで(2013年7月12日(金))
 追手門学院大阪梅田サテライトの地域文化セミナー「関西の文化・芸能・まちづくりを考える」の第4回「壮麗な土木遺産からモダンな児童公園まで」を受講しました。講師は、近畿大学理工学部 社会環境工学科教授の岡田昌彰さんです。会場のセミナールームはほぼ満席でした。講義内容は以下の通りです。
1、土木遺産・産業遺産に関する動き
 全国の近代化遺産の状況について調査を行っている。
  ・土木学会 選奨土木遺産  2000年から
  ・全国近代化遺産活用連絡協議会(日本ナショナルトラスト)
  ・全国近代化遺産調査(文化庁)  奈良県が実施中(その他は完了)
  ・土木学会(土木史フォーラム)
  ・ランドスケープ遺産(日本造園学会)
2、関西の土木遺産・産業遺産
 関西の土木遺産・産業遺産を紹介。
 ●余部橋梁(兵庫県香美町)
  ・余部橋梁は新橋梁に架け替えられた。兵庫県が、旧余部橋梁の橋脚の一部を活用して「空の駅」展望台を整備した。
 ●大阪市営渡船(大阪市大正区・港区・此花区・西成区・住之江区)
  ・古事記(8世紀)に記述 ・天保年間には15ヶ所
  ・1920年無料化 ・1935年 31ヶ所 ・1948年 15ヶ所 ・2001年 8ヶ所
  ・地域の人の足として利用されているが、近年は街歩きや遊覧目的の乗船が増えている。
 ●大阪アーチ型水門(大正区・港区)
  ・オランダの水門を参考にした。
  ・安治川水門(港区)は、日本で最初にできたアーチ型の水門で、大阪湾からの高潮を止める働きを持っている。
  ・安治川水門に続いて、尻無川水門(大正区)と木津川水門(大正区)が造られた。
  ・水門の試験運転は大阪府のホームページで公開している。
 ●名村造船所跡地(住之江区)
  ・アート作品の展示をはじめ、ライブや演劇など、可能性を秘めたクリエーター達の貴重な活動の場になっている。
 ●五新線未成線(五條市)
  ・五條の景観 ⇒ 柿の産地  伝統的な街並み・建造物  日本最長の路線バス(新宮駅行き) 五新線は現在バス専用道路になっている。
 ●姫路モノレール遺構(姫路市)
  ・1966年に開かれた姫路大博覧会に合わせてモノレールが整備された。当時の国鉄姫路駅から会場だった市内の手柄山公園間を結んだ。1979年に廃止された。
  ・モノレールの唯一の中間駅である大将軍駅はホテルの中にある。建物の中にモノレールの軌道が突っ込んでいる。最近、解体が決定した。
 ●京都市児童公園群(京都市)
  ・紫野柳児童公園1935年 ・小松原児童公園1939年 ・萩児童公園1940年 ・地蔵本児童公園1938年 ・橘児童公園1939年 ・二条児童公園1934年(2004年に大改修された)
 ●堺の揚水水車 : レプリカ&移築遺産群(堺市、豊中市)
  ・大正後期、地元の和田・田中両氏が考案  濃鍛冶の中尾正治氏が制作
  ・1930年代には400基あったが急激に減り、2004年には消滅した。しかし、その後の調査で小学校等に移築・新造されていたことが判明した。2013年に2基取り壊し、2基新造。 

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古都おおさかフォーラム「難波宮の過去・現在・未来」(2013年2月23日(土))
 追手門学院大阪城スクエア公開講座の古都おおさかフォーラム「難波宮の過去・現在・未来」を受講しました。
 上町台地は大阪の背骨のようなものです。わが国初の本格的宮殿であった難波宮の造営、蓮如上人の石山御坊に始まる大坂本願寺とその寺内町、豊臣秀吉の大坂城築城、徳川氏による落城と再建、明治維新時の大坂遷都計画・・・。追手門学院建学の地である上町大地の北端は、この国の歴史がダイナミックに動くたびに時代の中枢的な役割をになってきました。そんな千数百年の時の歩み、古都おおさかの全体像に迫り、その歴史的地理的位相を浮かび上がらせます。2013年は、推古天皇の21年(613)に難波(上町大地)と飛鳥をつなぐ最古の官道(難波大道)が敷かれてから1400年に当たります。

 第1部は「難波宮の過去・現在・未来」と題して、大阪市立大学名誉教授の栄原(さかえはら)永遠男(とあお)さんが講演を行いました。概要は以下の通りです。
 過去(難波宮の造営)、現在(よみがえる難波宮)、未来(未来への手渡し)について講演しました。
1、過去
 ○5世紀-倭の王の時代(倭王権:中国の歴史書に載る)で上町台地の先端から南まで。朝鮮からの宝物が入り、朝鮮へ進出する場であった。
 ○5世紀後半-倉庫群(上町台地の先端で16棟見つかる)があった。北端に難波堀江(人工の水路)、難波発展の重要な意味を持つ。
 ○6世紀-よくわからない。倭王権が全国に君臨、全国に宮家を造る。難波宮家が確定した。
 ○前期難波宮と後期難波宮
  ・唐と高句麗との間が緊張しており、百済も唐の圧力に耐えていた。同じ時期に大化改新。国際的な変動期であった。
  ・前期難波宮は大化改新後に造営された。西日本の拠点にしようとした。前期難波宮は焼失した。
  ・後期難波宮は奈良時代に聖武天皇によって再建された。
  ・桓武天皇が長岡京へ遷都の際に難波宮を移築した。
2、現在
 ○山根徳太郎先生を中心とする発掘調査により難波宮の所在地が明らかになった、
  ・近年重要な発見があった。並び倉(焼け残った?)、木簡(難波宮が大化の頃にあった可能性)、歌木簡(万葉仮名の和歌)など。
  ・平成24年に重要な遺構が見つかった。銅座公園の場所に遺構・遺物が保存されていた。保存運動など先人の努力のおかげで大発見が続く。
  ・難波宮はもっと大きかったかも知れない。
3、未来
 ○遺跡・遺構は過去の人から託されたもので、現在の人の理解が必要。何よりも難波宮を知ってもらわなければならない。
  ・なにわ活性化実行委員会-難波宮跡をはじめとする上町台地の歴史遺産活用に関する提言を行った。
 
 第2部は、栄原永遠男さん、北川央さん(大阪城天守閣研究主幹)、河内厚郎さん(追手門学院「上町学プロジェクト」座長、追手門学院客員教授、関西経済同友会幹事)による鼎談「生々流転~古都おおさか」が行われました。概要は以下の通りです。
  ・日本書記を前提として、難波宮に拠点があったと考えられる。西側の海から瀬戸内海へ、朝鮮半島へ出る。
  ・平安時代以後、難波宮の瓦や柱を長岡京へ持って行った。平城京の建物や難波宮の建物を運んだ(同じ物がある)。
  ・生國魂神社や坐摩神社は宮中にも鎮座していた。
  ・南に四天王寺、渡辺の津は港湾都市で中世最大。熊野街道は政治的な機能は失われたが人の往来は多い。
   南に阿弥陀様、西に浄土信仰の極楽浄土の入り口。
  ・八十島祭-宮中の行事。島々は神様で、天皇が祀った。平安時代以降奈良時代にもあったと思われる。
  ・室町時代に蓮如上人(本願寺八世)が一代で堺に拠点、山科に本願寺(別院)を設けた。十世の時に焼打ちにあった。
   本願寺の門徒にとっては、本願寺本山のある大坂へ行くのが上洛であった。
  ・大坂本願寺の周辺は出てきているが、中枢部は出てきていない(大阪城内)。大坂本願寺の上に豊臣大坂城、その上に徳川大坂城。
   豊臣大坂城の発掘さえ難しい。
  ・NHKの付近-豊臣期・徳川期の大名の建物。5世紀からの遺構が重なっている場所。
  ・織田信長の最強の敵が本願寺。恐らく信長は大坂に拠点を移しただろう。秀吉が大坂城を建てたのが証明。
   大坂遷都論-秀吉が大阪へ遷都しようと朝廷と交渉していた。天満が御所の候補地?
  ・1615年 大坂城落城。
   江戸時代-伏見城に拠点、伏見城廃城にともない大坂城築城。豊臣の大坂城は地下に(昭30年の発掘で判明)。
   西国支配の拠点。譜代大名、旗本。幕末に徳川慶喜は二条城と大坂城を行き来していた。
  ・大阪が歴史の表に出てくる時-中世以降、権力者が西に目を向ける時に大阪へ出てくる。
   倭の王の時代から江戸時代まで重なっている。
  ・阪神高速道路(中央大通り)の下に文化財が保存されている。
  ・日本海側にないのは、瀬戸内海の方が設備が充実していたから。
  ・堀江(掘ったところ)、豊崎(豊かな御崎)で普通名詞。
  ・将来の人に渡していく。北の大坂城、南の難波宮。
  ・もっと日本人に知ってもらいたい。重要さ、日本人にとって大事。
  ・上町台地の先端に他の遺跡がある。複数の団体が連絡を取って協力していくことが重要。 

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2012年

大阪文化の深読み講座

大阪文化の深読み講座

大阪の宗教空間上方落語のあれこれ美術都市・大阪|大阪文化で元気に生き逝き

「大阪文化の深読み講座」受講受付(2012年4月4日(水)
 追手門学院大阪城スクエア公開講座「大阪文化の深読み講座」の受講受付メールが送られてきました。
 大阪弁、大阪の宗教空間、上方落語、大阪の美術、大阪の食べもん、大阪の元気について、それぞれの各界の第一人者の講座と対談を楽しみながら、大阪を深読みします。19:00から20:30まで下記の日程で開催されます。聞き手は大阪大学CSDS招聘教授 追手門学院大阪城スクエア企画アドバイザーの高島幸次さんです。
 第1回 2012年 4月13日(金) 大阪弁のコミュニケーション 大阪大学大学院文学研究科教授 金水 敏さん
 第2回 2012年 5月11日(金) 大阪の宗教空間 大阪城天守閣研究主幹 北川 央さん
 第3回 2012年 6月22日(金) 上方落語のあれこれ 天満天神繁昌亭支配人 恩田 雅和さん
 第4回 2012年 7月27日(金) 美術都市・大阪 大阪大学総合博物館館長 橋爪 節也さん
 第5回 2012年 8月24日(金) 大阪のうまいもん屋 編集集団140B編集責任者 江 弘毅さん
 第6回 2012年 9月28日(金) 大阪文化で元気にいき逝き 浄土宗大蓮寺住職・應典院代表 秋田 光彦さん

 

大阪文化で元気に生き逝き(2012年9月28日(金))
 追手門学院大阪城スクエア公開講座「大阪文化の深読み講座」の第6回「大阪文化で元気に生き逝き」を受講しました。講師は、浄土宗大連寺住職・應典院代表の秋田光彦さんです。大阪は「停滞している」とか「元気がない」と言われますが、本当にそうなんでしょうか。葬式をしない寺・應典院の代表として、幅広く市民活動や芸術活動を支援している秋田住職が大阪の明日を深読みしました。内容は以下の通りです。

○はじめに・・・墓場で詩を読む
 浄土宗大連寺は天王寺区に在る。天文9年(1550)に創建され、800墓を有する。
 10年間墓場で詩を読んでいる。8月のお盆の前にローソクの灯のみで10人位が自作の詩を作り朗読している。
○宗教都市・大阪と寺町
 大阪の寺町は世界で最も宗教施設が集中している。
 1)外国人は何を畏怖(リスペクト)するのか
  ①寺が集まっている ②都心の真中にたくさんの墓がある ③たくさんの日本人が定期的にお墓参りをする
 2)仏教と大阪の親密な間柄
 3)大阪の寺町と都市のコスモロジー
○<変態>寺院・應典院の登場
 変態とは、姿が変化していくこと。
 1)阪神淡路大地震とオウム真理教事件(1995年)
  阪神淡路大震災はボランティア活動のきっかけとなった。
  オウム真理教事件はいまだに抱えている(秋田さん)
   ①人を救うのが仕事だろう ②ぼやぼやするからオウム真理教に ③寺は風景に過ぎない
 2)寺の「説明責任」
  いったい寺とは何をするところか。寺の地上げで数年で寺町が変わってしまった。
 3)寺の原点(寺の3つの社会機能)は、「学び」「癒し」「楽しみ」(=「教育」「福祉」「芸術文化」)
  寺子屋は識字率を上げた(ロンドンは3割、江戸時代の大坂は8割)、寺子屋は落ちこぼれがなく力に応じて教えた。
  世界の非管理組織の原点は日本の古寺である。
○葬式をしない寺
 1)應典院の3つの特徴
  ①檀家がいない、お墓がない、葬式をしない ②寺とNPOの協働モデル、会員制で事業運営 ③お寺の原点回帰「学び」「癒し」「楽しみ」
 2)お寺とNPOの協働
  お寺・應典院 ⇔ NPO・應典院寺町倶楽部
 3)縁起に気づき、つながりを築く
  大乗仏教の根本思想は「縁起」。つながりに目覚め、つながりに生きる。慈悲とは他者を救って自分が救われる。
○應典院の活動
  講演会、写真展示会、現代アート、語らい、表現、楽しみ(芸術・文化)、3.11追悼、エンディングテーマ(来期の問題)
○日本でいちばん若者が集まるお寺
 1)無縁社会と「ゼロ時代」の若者たち
  若者たちを弱者として捉える。結婚できない。20代の自殺が増えている。
 2)表現によるコミュニティの創造
  もう一度。
 3)場と関係性の仏教
○寺は死生観形成の拠点
 1)2020年問題と無縁死の急増
  「2020年問題」は団塊の世代の高齢化と「多死社会」の到来、死を支えきれない、社会保障制度の破壊。
 2)3.11から学んだ「死者との共生」
  死者とのコミュニケーション、生者中心から死者との共生へ。
 3)横軸と縦軸の交差するところ
○無縁から結縁へ
  誰がどのように。寺町文化(生活の中にある文化)の見直し。

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美術都市・大阪(2012年7月27日(金))
 追手門学院大阪城スクエア公開講座「大阪文化の深読み講座」の第4回「美術都市・大阪」を受講しました。講師は大阪大学総合学術博物館館長の橋爪節也さんです。大阪は「儲かりまっか?」だけの町では有りません。江戸時代から現代まで多彩な”大阪画壇”の画家が活躍してきました。大阪を描いた絵画を中心に、大阪が生んだオモロイ美術史家・橋爪先生が深読みしました。内容は以下の通りです。

1、大阪を「美術都市」と呼ぶのは?
 1)「大阪には画壇なんてあったんですか?」
    「大阪画壇(大坂画壇)」という言葉はありうるのか
  ○近代における「美術史」の組み立てが東京や京都を中心になされた
  ○田能村竹田『山中人饒舌』に「京派、江戸派、摂派、長崎派」
   ・昭和56年(1981) 大阪市立美術館『特別展 近世の大坂画壇』
 2)近代大阪の美術史の再構築
  ○「近代大阪美術研究会」1991年結成
   ・大阪市立近代美術館(仮称)展覧会
     「美術都市・大阪の発見-近代美術と大阪イズムー」
       平成9年(1997)ATCミュージアム
   ・大阪市立近代美術館がまだ建たない
     大阪市制100周年記念事業として計画
 3)常設画廊
  ○「なにわの知の巨人 木村蒹葭堂」展
    平成15年1月15日オープン  大阪歴史博物館
  ○「北野恒富展」 平成15年2月1日オープン
    東京ステーションギャラリー、石川県立美術館、滋賀県近代美術館
2、大阪の美術の流れ
  ○江戸時代
   【絵本・戯画】  大岡春卜、橘守国、松屋耳鳥斎(とばえ)
   【文人画】  木村蒹葭堂(1744~1802)、岡田米山人(1744~1820)、岡田半江(1782~1846)
   【写生派】  森狙仙(1747~1821)、森徹山(1775~1841)
   【上方絵】
  ○明治・大正・昭和
   【日本画】  北野恒富(1878~1947) 美人画 院展同人
           菅楯彦(1878~1968) 大阪市名誉市民第一号 日本美術院恩賜賞受賞
           矢野橋村(1890~1965) 大阪美術学校
           木村貞以(1900~1982)
   【女性画家の活躍】 島成園(1892~1970)、木村千種(1895~1947)、生田花朝(1889~1978)
    ・京都、東京にも女性画家がいたが、大阪の女性画家の研究が進んでいる。
   【洋画】   赤松麟作(1878~1953)
           小出楢重(1887~1931) 信濃橋洋画研究所 二科展
           鍋井克之(1888~1969) 信濃橋洋画研究所 二科展
           佐伯祐三(1898~1928)
           普門暁(1896~1972) 未来派美術協会
           前田藤四郎(1904~1990)
    ・油絵は京都より大阪の方が強い。
   【写真】   浪華写真倶楽部、丹平写真倶楽部
  ○戦後
    ・吉原治良と具体美術協会
       白髪一雄、元永定正、鶴本昭三、田中敦子など
    ・デモクラート美術家協会
       瑛九、泉茂、早川良雄、棚橋紫水、山城隆一、山中嘉一、吉原英雄 (靉嘔、池田満寿夫、磯辺行久、河原温)
3、大阪美術の個性
 商都の特質
 1)文人画と浮世絵
  ○第2回帝国美術院展覧会(大正9年)
   ・石井柏亭『中央美術』大正9年十一月号
    「南画が殆ど大阪で持ち切られて居ると同時に美人画も殆ど大阪風即ち恒富式で持ち切られて居ると云ってよい」
   (参考)幕末の狩野派、「此外厳禁ニ属シタルハ、文人画流ニ交リ書画会等ニ臨ムコト是ナリ、又浮世絵ヲ画クヲ禁シタリ」(橋本雅邦「木挽町画所」、『国華』明治22年)
   ・商都の現実主義と文人画の理想主義
    「文人の作り候は多く幽棲清閑の地景にて、景を作れる間自身を其境界に遊ばしむるの一楽にて」(『玉洲畫趣』)
 2)自己表現の美術と生活のなかの美術
 3)”大阪ぎらい”の精神
  ○鍋井克之『大阪ぎらい物語』布井書房 962年
   ・本当は大阪を愛している
  ○伊達俊光『大阪市の新美術館について』大阪毎日 昭和10年(1935)
  ○小出楢重『陽気すぎる大阪』昭和初期
  ○矢野橋村『我等の使命』昭和2年(1927) 『大阪美術学校校友会月報』創刊号

 講義の後、恩田雅和さんと高島幸次さん(大阪大学CSCD招聘教授、追手門学院大阪城スクエア企画アドバイザー)の対談がありました。   

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上方落語のあれこれ(2012年6月22日(金))
 追手門学院大阪城スクエア公開講座「大阪文化の深読み講座」の第3回「上方落語のあれこれ」を受講しました。講師は、天満天神繁昌亭支配人の恩田雅和さんです。天満天神繁昌亭のオープンから6年が経ち、上方落語は復権しました。東京の落語と比べながら、上方落語の魅力はどこにあるのでしょうか?東西の落語を聞き続けている恩田支配人が深読みしました。内容は以下の通りです。

○上方落語の発祥 およそ300年前
 大阪落語の祖である米沢彦八が大阪生國魂神社境内で辻噺を行い、京都落語の祖である露の五郎兵衛が京都北野天満宮で辻噺を行ったのが上方落語の発祥。現在、250人の落語家がおり、内20人が上方落語協会に所属していない。
○定席の発祥 およそ200年前
 初代桂文治が坐摩神社境内に小屋を建て、そこで連日落語を演じるようになったのが定席の始まり。
○上方唯一の定席・天満天神繁昌亭 天満という土地
 59年ぶりに上方落語の定席が復活した。明治時代天満には8軒の寄席があり「天満八軒」と呼ばれていた。桂三枝会長は吉本興業の影響のない(梅田、なんばでなく)天満を選んだ。しかし、天満八軒の内の1軒を吉本せいさんが買っていた。大阪天満宮が土地を提供し、建物は寄附(2億4千万円)で建てた。繁昌亭の天井には寄付した人の名前を記述したちょうちんが約6000個。
○東京の定席の現状
 鈴本演芸場、新宿末広亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場と国立演芸場の5軒。
○江戸落語と上方落語の違い
 見台・膝隠し・小拍子の3点セットの小道具とはめものは上方落語特有。上方落語の発生が大道芸であったから。江戸落語は座敷芸であったので小道具は不要であった。お茶子も上方落語のみ。真打制度は東京落語。噺の7~8割は上方落語が江戸へ流れた。
○昼席と夜席(繁昌亭)
 昼席は出演者の名前のみでネタを掲載しない。客層・客質を見ながら本題を決める。色物を入れる。夜席は独演会中心。土、日に朝席。休館日は9月の第1土・日(生國魂神社で開催している上方落語ファン感謝デー「彦八まつり」の日)。   
○歌舞伎、能・狂言、相撲
 いずれも花道がある。花道は別世界(夢と現実)をつなぐ。落語に花道(空間)はなく、時間的(玄関へ入って夢の世界へ、玄関を出て現実へ)。
○お見送り(繁昌亭のみ)
 昼席で出演者が玄関前に並んで客を見送る(三枝会長のアイデア)。客の感想が聞け、恩田支配人の情報源とのこと。
○「時そば」と「時うどん」
 東京落語の「時そば」は1人で食べる。上方落語の「時うどん」は2人で食べる。

 講義の後、恩田雅和さんと高島幸次さん(大阪大学CSCD招聘教授、追手門学院大阪城スクエア企画アドバイザー)の対談がありました。

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大阪の宗教空間(2012年5月11日(金))
 追手門学院大阪城スクエア公開講座「大阪文化の深読み講座」の第2回「大阪の宗教空間」を受講しました。講師は、大阪城天守閣研究主幹 北川央さんです。大阪の歴史は、生國魂神社・坐摩神社や、四天王寺・大坂本願寺などを抜きには語れません。また大坂で初めて誕生した寺町は世界的にも稀な宗教施設の集合地です。北川先生が独特の切り口で宗教都市・大坂を深読みしました。内容は以下の通りです。

1、生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)坐摩神社(いかすりじんじゃ)
1)生國魂神社と坐摩神社は伊勢神宮成立以前のわが国の国家神だった。生國魂神社は「大八洲(おおやしま)の(みたま)」すなわちわが国の土の霊魂を祀り、坐摩神社は「大宮地(おほみやどころ)(みたま)」、すなわち大王(天皇)の宮殿が営まれる土地の守護霊を祀る。両神社の祭神は、「宮中神卅六座(きゅうちゅうのかみさんじゅうろくざ)」に数えられ、宮中においても、「生島の巫(いくしまのかんなぎ)」「坐摩の巫(いかすりのかんなぎ)」と呼ばれる専門の巫女が」いて奉仕した。
2)生國魂神社は、大化の改新(645)で孝徳天皇が遷都した難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)の近傍に鎮座し、室町時代後期には現在の大阪城地にあった大坂(石山)本願寺に近接して鎮座した。
3)羽柴(豊臣)秀吉による大坂築城、それにともなう城下町建設、また大坂城の拡張工事などによって、生國魂神社も坐摩神社も遷座した。
4)坐摩神社の社地は同神社の「行宮」となり、江戸時代の大坂城本丸には生國魂神社の神木とされる「生玉の松」があった。

2、四天王寺とその周辺
1)四天王寺は聖徳太子により創建された。南大門・中門・五重塔・金堂・講堂が南北に一直線に並ぶ伽藍で、配置は四天王寺式伽藍配置と呼ばれる。本尊は救世観音。
2)多くの子院と周辺には七宮が鎮座。
3)太子信仰の聖地。
4)浄土信仰の聖地。

3、熊野神社と渡辺別所
1)渡辺津を起点とする熊野街道。
2)上町台地には、窪津(渡辺)王子、坂口王子、郡戸王子、上野王子、安倍王子が鎮座。
3)渡辺津にあった渡辺浄土堂は、重源が諸国に設けた七別所の一つである渡辺別所の中心施設。⇒渡辺津から四天王寺周辺に至る上町台地一帯が浄土信仰の聖地になった。

4、浄土真宗の本拠
1)明応5年(1496)本願寺八世蓮如が現在の大阪城地に大坂(石山)御坊を建立(『御文章』帖内四の十五に大坂という地名が初めて出た)。この大坂御坊はやがて本願寺本山となり、大坂は本願寺王国の首都になった。
2)大坂本願寺は10年にわたる織田信長との戦争の結果、大坂を退去した。紀州鷺森、泉州貝塚を経て、天正14年(1586)に秀吉の招きでいちど大坂・天満に戻ってくるが、文禄元年(1592)京都・七条堀川(現、西本願寺)に移転した。江戸時代には、船場の西本願寺津村別院(北御堂)、東本願寺難波別院(南御堂)が浄土真宗の拠点となった。

5、寺町
1)羽柴(豊臣)秀吉の大坂築城にともなう城下町建設で成立した。わが国初の「寺町」で、他国へ広がっていった。
2)圧倒的多数を占める浄土宗寺院。一方で、浄土真宗寺院が一ケ寺もないのが大きな特徴。寺町内の寺は墓を持つが、浄土真宗の寺は墓を持たなかった。
3)都市巡礼の場。
4)さまざまな庶民信仰の場。
5)七墓巡り。七墓とは、梅田、浜寺、吉原、野田、小橋、鳶田、千日。

 講義の後、北川央さんと高島幸次さん(大阪大学CSCD招聘教授、追手門学院大阪城スクエア企画アドバイザー)の対談がありました。

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その他主催

2003年2004年2006年2008年2010年2011|2013年

2013年

淀川区まちづくりフォーラム

淀川区まちづくりフォーラム(2013年6月15日(土))
 淀川区役所5階会議室で開催された「淀川区まちづくりフォーラム」に参加しました。フォーラムの主催は、「淀川区社会福祉協議会」と「淀川区まちづくりセンター支部」です。いままで地域組織とNPO、企業などがまちづくりについて、別々に取り組んできたのを、一堂に会して交流しようとの趣旨です。

 第1部の講演は、「NPO法人 緑・ふれあいの家(緑地域活動協議会)」理事長の久木勝三さんです。「地域活動協議会 地域のまちづくりについて」と題して講演を行いました。内容は以下の通りです。
1、「まちづくり」での今ある問題点
 ○組織の問題:町内会などの地縁組織が、旧態の体制から脱却できない。自分たちだけでは諸々のことができない。組織も疲弊している。
 ○情報の問題:情報が伝わってこない、情報の発信をしない。
 ○凭れ(もたれ)の問題:住民側が「行政お任せ主義」の傾向から脱却できず、縦割りの団体になっており、お互いに疎遠になっている。
 ⇒21世紀は自立する世紀
2、地域活動協議会でなければ・・ 「多数の参加が必要な訳」
 ○人口減少と高齢化の問題
 ○身近に迫る地震や災害の問題:昼の場合、夜の場合それぞれのケースを想定しなければならない。
3、町会費の問題
 ○町会の加入者と未加入者の問題:不公平をなくすための行動、自分たちの行っていることの広報が必要。
4、「まちづくり」としての地活協 どう発信する・・
  自分たちのやっていること、やりたいこと、決算報告を知ってもらうことが大事。
 ○地域の情報発信として「広報委員会」などの立ち上げ
 ○広報活動では、いろいろの媒体を:ホームページ、Facebook、Blog、広報誌など
5、「まちづくり」地活協の活動事例 *緑地域活動協議会の運動会
 ○最初の事業として、 若い人に参加してもらうために18年ぶりに運動会を開催:小・中学校に案内を配布、寺・企業も参加、1500名が参加した。
 ○緑の朝市、みどりふれあい市
6、新たな担い手の確保
 ○朝市に鶴見商高が出店
7、地活協の事業展開
 ○従来の事業とお金をもらう事業に分けている。
 ○部会の活動では:組織は縦割りだが、共有して事業を行っている。
 ○事業では、計画と予算が大事
8、地活協は、しっかりした体制と動ける組織
 ○立上げよりも、立ち上げたあとが大事
9、地活協の法人化
 緑地域活動協議会は「NPO法人 緑・ふれあいの家」として活動
 ○法人格がないと事業に制約がある、法人化を目指すべき。有償事業目指すなら法人化を。
 
 第2部は、パネルディスカッションに参加する4名のパネリストの方々から活動報告がありました。
 北中島地域活動協議会 会長の田中恭二さんが「『顔の見える、助け合いのまちづくり』を目指して」と題して報告しました。
1、ひとつになった北中島
 ○平成22年4月、北中島地域社会福祉協議会の会長に就任した。それまでの25年間社会福祉協議会と地域振興会との接点はなかった。
 ○平成24年5月27日 北中島小学校で「Do!ほっこり市」を開催した。1年半の準備期間、約200名の地域ボランティア、当日の参加者は1700人。
  ⇒様々な団体が協力し合い、地域がひとつになった。
2、地活協設立に向けて
 ○ひとつになった北中島。突如「地活協」の話がやってきた。いろいろな意見が出たが、地活協設立に向けて動き出した。
  ⇒2013年3月1日設立総会
3、活動や運営面での工夫
 ○社協と連合振興協町会が連携を図る。
 ○設立直後に部会(7部会)を開催、部会メンバーの意見を聞いて、事業計画と予算を作成した。
4、北中島の活発な地域活動
 ○子ども見守り隊、青色防犯パトロール、子育てサロン

 朝日淀川中央販売株式会社 代表取締役社長の横山和徳さんが「企業活動と地域活動」について報告しました。
1、事業内容
 ○淀川区内すべての朝日新聞の販売・配達。日刊スポーツ、日経などの各種新聞銘柄の販売・配達。折込ちらしの取り扱いなど。
2、地域参加
 ○【淀川散歩】2000年4月創刊。淀川区内で毎月25日に3万部配布、新聞折り込みを中心に区役所などにも設置。
 ○【淀川区「1千人の第九」】2004年12月プレイベント開催、2005年12月メルパルクホールで第1回開催、2006年5月淀川区民センターで「1千人の第九合唱教室」スタート。
 ○【コミュニティ・アイ淀川】2011年5月防犯協力企業5社を組織、2011年7月防犯腕章の着用開始、2012年3月区内の新1年生に防犯ブザーを寄贈
  ⇒2012年7月10社でチーム「コミュニティ・アイ淀川」と命名
 ○【新大阪アメニティソサエティー】2013年加盟。40社が加盟。
3、企業の立場からみた地域活動とは:貢献と利益の共存
 ○淀川区内の住民、事業所すべてがお客様。人口の増加、定着を期待。犯罪の減少、治安の向上。ビジネスチャンスの増加。信用、信頼の獲得。
  ⇒近江商人の心得「三方良し」、恩返しがしたい!

 NPO法人メイク・イット 理事長の菱川伸雄さんが活動紹介をしました。
 菱川さんはPTA活動、民生委員、町会長などをしたが、良い面といやな面を見てきたそうです。行政の補助金の減少もあり、自分たちで自由な発想(自主独立)で活動するためにNPO法人を設立したそうです。税金の中から資金を得ていないそうです。NPO法人設立までの経緯と事業内容について説明し、活動紹介(淀川散歩に掲載)をしました。
1、NPO法人メイクイットの概要
 ○平成20年6月設立
 ○会員 108名(議決権あり会員31名、サービスを受ける会員70名、賛助会社7)、理事14名。
 ○自主自立の精神で、淀川区内におけるイベント事業や子どもから高齢者までの支援事業を行う。
2、事業内容
 ○イベント事業:コンサート、作品展、ふれあい事業
 ○高齢者の配食活動
 ○サロン華やぎ
 ○料理講習会
 ○老人施設への訪問活動
 ⇒楽しみながら実施している。

 淀川区まちづくりセンター支部 アドバイザーの浜辺隆之さんが「地域活動協議会」の動向と淀川区まちづくりセンター支部のとりくみの報告がありました。
1、地活協の動向
 ○18小学校地域中17地区で立ち上がる。
2、淀川区まちづくりセンターのとりくみ
 ○設立:昨年10月
 ○ミッション:平成25年度末までに、区内全18校区に「地域活動協議会」を立ち上げ、自律的な組織運営ができるように支援する。
 ○平成24年4月より区内の各種団体にインタビュー。インタビューで得た情報を整理・分類し、それぞれの「強み」や「ニーズ」を明らかにする。
  ⇒豊かな協働による活動やイベントの実現で地域の困りごとを解決。

 休憩後にパネルディスカッションが行われました。コーディネーターはりそな総合研究所 プロジェクトリーダー・フェローの藤原明さんです。藤原さんの司会で4名のパネリストが意見を述べました。内容は以下の通りです。
 ○田中さん(以降:田):助成金なしでは活動できない。縦割りから横の連携で。11月に北中島祭りを開催予定。顔の見える、「ほっこり市」。
 ○横山さん(以降:横):「1千人の第九」では、音楽を通じて見知らぬ人が親しくなり、半年間練習する。大きな目的に向かってやっていく。
 ○久木さん(以降:久):広報が大切で苦労した。地活協の前に広報を立ち上げた。
  新しい担い手を集める。PTA、地域で写真に興味のある人に対して広報を作りたいと相談した(現在15名)。情報収集先は官庁、町内会。
 ○菱川さん(以降:菱):人材の巻き込み方は、理事14名が身近な人に声をかけた(草の根運動)。できることとできないことの区分けはできている。議事録を取っている。
 ○久:一般の会社と同じで、議事録はいつも取っており、請求があれば公開している。経理が難しい。いかに上手に人を使わしてもらうかだ。
 ○田:地域活動に参加していない人に対する声かけ。淀川区社会福祉協議会関係からアプローチ。幅広く、窓口を拡げておくこと。
 ○菱:自主財源の確保。自らできることを自分で行うことから出発。資産の範囲での活動。
 ○久:無償でもやる事業と利益を得る事業。地域で財源を得る(例えば朝市)。相手の見える商品を買ってもらう。
  地活協をNPO法人にした。地活協では銀行口座を設けられない。委託事業には法人格が必要。
 ○横:腕章を着けて、配達網を利用して見守りを行っている。

 パネルディスカッションに続いて質疑応答がありました(省略)。

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2011年 

ソーシャルメディアの可能性を探るDeep Night @大阪

Deep Night @大阪(2012年4月29日(金))
 エル・大阪で開催された IDJ(インディペンデント・ウェブ・ジャーナル)主催のDeep Night@大阪に参加しました。参加者は200名とのことです。
 覇権国として危ういアメリカ、台頭する中国、チュニジアのジャスミン革命、エジプトの民衆革命と、激しく流動する中東情勢。世界のあちこちで起こる動きでめまぐるしく変わる国際関係。その狭間で揺れ動く日本は、政治不安、経済不安だけでなく軍事的にもかっての均衡は崩れ先が見えない。日本は、アメリカは、世界の動きは、どうなって行くのか。ジャーナリストの岩上安見さんが聞き手となり、日本のインテリジェンスの第一人者の元外務省国際情報局長の孫崎享さんからお話を伺いました。抜粋して下記に記述します。
 
○何故危険か(今回地震は想定外ではない、今後も)
 □迫り来る大地震活動期は未曽有の国難
 □石橋克彦神戸大学教授は、衆議院予算委員会公聴会(2005年2月23日)で
  ・日本列島はほぼ全域で大地震の活動期に入りつつあると警告(東海、東南海、南海、首都圏直下)
 □大津波発生は「想定内」だった 
  ・「東電研究チームは2006年国際会議で、福島5.7メートルの津波想定。50年以内に想定を超える確率約10%」
 □マスコミは「想定外」、しかし実態は全く「想定内」。
○日本の原子力発電所はほとんど海辺に設置、冷却水を使用するため(1000億トン)

○今回対応何が問題だったか
 □実態の深刻さ ⇒ 国民、広範な議員等に隠ぺい-被害を過少に見せようとした
  ・深刻度レベル4(敷地内) ⇒ 一ヶ月後最大規模のレベル7
  ・細野首相補佐官は16日BS朝日で、
    福島事故「どん底、ほとんど制御不能のところまでに」-菅首相「東日本はダメかも知れない」
 □米・仏・独等外国人パニックで東京脱出。多分情報入手-米軍も放射線には敏感
  ・日本国民は政府・マスコミを信用
 □初動動かず。冷却電源確保、冷却。東電当事者能力なし-東電は逃げにかかり、対処しようとしなかった
  ・もし自衛隊出動なければ非常事態
 □国家の組織、原子力安全・保安院機能せず-危険であることを知らせるべき機関が「大丈夫、敷地内で収まる」
 □放射線危険高設定-実態を低く見せて生産者を保護
  ・飲料水ヨウ素131:WHO 10Bq/l、日本 300Bq/l 
   食料CODEX 100Bq/Kg、日本 2000Bq/Kg

○なぜ原子力開発を進めるか
 □推進派の主張 低コスト、環境に優しい(CO2排出)、代替無し
  ・環境に優しい-全く当てはまらず。今回放射線、空中・海中へ放出の環境破壊、類をみない
  ・代替-石油・天然ガス充分存在。特にLNG、自然エネルギー充分可能性あり(孫正義氏)
○原発は本当は極めて高いエネルギー-危険の負担保険で織り込んだら-
 □発電方式別発電原価試算結果(1kWh当円)(経済産業省、エネルギー白書 2008年版)
  ・原子力の発電単価は4.8~6.2円/kWh設備利用率70~85%)で一番安価
 □解体廃棄物処理費用・高レベル放射性廃棄物処分費用等、電源開発促進対策特別会計から支出されている原子力発電向けの投入額が算入されていない。
  ・上の投入額を加算して計算すると、火力9.31円、原子力10・26円から10.55円(地球環境と大気汚染を考える全国市民会議)
 □危険負担-保険は価格に織り込むべし
  ・原発にマトモな無限責任の保険をかけたら電気代は三倍というフランスの試算
   これが真の原発コスト、今は危険は政府、つまり国民負担

○米国の動き-原発事故関連
 □早い段階で危機把握、冷却なければ、温度上昇臨界に達し、反応開始、爆発へ
 □米、日本を指揮。3月官邸に専門家常駐
 □日米合同対策チーム(6つ:中長期対策チーム等)
  ・放射線の危険を冒し防御は当然。自衛隊、消防庁-自分の国のことは自国でしなければならない
   米国にはない(自衛隊冷却しなければ大災害)
 □米軍空母など佐世保に避難、米軍家族帰国へ
  ・危機に身を持って回避にあたるのは自衛隊であって米軍ではない
 □トモダチ作戦・災害支援(18日読売社説)
  ・人道支援を日米共同で実施し戦闘協力へ。有事を想定した共同訓実施、今回は”実戦”を体験。今後の教訓に

○日本の原子力導入と米国
 □鳩山一郎内閣(1954年12月~1956年12月)
  ・1954年3月  第五福龍丸-米国の水爆実験で被ばく   ソ連との国交回復
  ・1955年8月  第一回原爆禁止世界大会-反米       重光外相在日米軍撤退交渉
  ・1955年12月 日米原子力協定-導入の旗振り、正力松太郎(読売社主)、CIAはエージェントとみなす、コードネームは”ポダム”
 □米国二つの危惧 
  ・原子力 ⇒ 反米、日本に平和利用を与え反米軽減
  ・鳩山のソ連接近警戒(1956年日ソ):反鳩山育成-岸

○米国核で守れるか?対中核抑止を考える
 □1986年6月25日付読売新聞「日欧の核の傘は幻想」
  ・ターナー元CIA兆kンと会談「我々はワシントンを破壊してまで同盟国を守る考えはない、アメリカが結んできた如何なる防衛条約にも核使用に言及したものはない。日本に対しても有事の時には助けるだろうが、核兵器は使用しない」

○米国は島の防衛に参加するのか
 □安保条約「日本国施政下への武力攻撃に自国の憲法に従い行動」 米国憲法、交戦権は議会の承認必要
 □北方領土はロシアの管轄下。安保の対象外
 □2008年米国地名委員会はブッシュ訪韓前韓国領に
 □1996年以降米国は尖閣諸島領土問題には中立
 □2005年2プラス2、島の防衛は日本側の責任
 □米国の国益:自己を危険に導く同盟国支援しない

○米国は尖閣の防衛に参加するのか
 □尖閣諸島に対する米国の基本的立場
  ・領有権の問題に中立  -日本でもなく中国でもなく
  ・尖閣は安保条約の対象 -今は日本の管轄下にあるから
 □シナリオ
  ・第一、中国攻撃、自衛隊守る、米国出て来ない
  ・第二、守り切れなかったら、中国管轄、米国出ない
 □アーミテージ「日本が自ら守らなければ(日本の施政下でなくなり)我々も尖閣諸島を守ることは出来なくなるのですよ」(『日米同盟vs中国・北朝鮮』)

○日本に軍事的選択なし-ミサイル攻撃(日本対応措置ないところからスタート)
 □「嘉手納、横田、三沢基地は中国の80の中距離・短距離弾道ミサイルと350の地上発射クルーズミサイルで倒される」
  (2010年11月4付ワシントン・タイムズ紙)
 □上記は日本の都市のどこでも攻撃。この防衛体制は築けない
 □米軍、自己の基地すら危ないのに、他防衛不可
 □さらに原発が攻撃目標となった時、防衛が困難かつ被害は甚大 
 □日本対応措置ない。核へエスカレートの用意無し
 従って、平和な手段で解決するしかない。

○TPP:日本の全システムを米国仕様に切り替え
  (省略)
 □2009年日本の輸出
  ・東アジア298億ドル、米国101億ドル、ASEAN52億ドル
  ・日本の考えるべき「未来の市場」は米国ではない
  ・東アジア、中国、韓国もTPP参加には慎重
 □米国関税率全品目で2.10%、非農業分野で1.9%、対米貿易は関税率ではない

○ソーシャルネットワークの意義
  今までのメディアの方向がおかしい、事実を伝えないだけでなく世論操作している
 □原子力-日本を覆う危険な構造
  ・政界-経済界-官界-マスコミ-米国利権複合体
 □マスコミ、事実を伝えないだけでなく、意識的操作
 □ソーシャルネットワークの意義
  ・事実の共有 ⇒ 中東での政権打倒の力    

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兵庫ニューメディア推進協議会 第2回情報通信セミナー ~ソーシャルメディアの可能性を探る~ (2011年1月21日(金))
 兵庫ニューメディア推進協議会の「第2回情報通信セミナー~ソーシャルメディアの可能性を探る~」を受講しました。
 ㈱トリドール社長付広報・業務推進担当(元テーブルマーク㈱広報部長)の末広栄二さんが「カトキチの名物部長が語る! Twitterの活用方法」と題して講演しました。
 ㈱フライトシステムコンサルティンング取締役、天神:大名WiFi協議会/大名なう事務局の杉山隆志さんが「地域『大名なう』仕掛け人に学ぶ! ソーシャルメディアを使った街おこし」と題して講演しました。
 ㈱Cerevo代表取締役の岩佐琢磨さんが「ソーシャルメディアと家電の融合! 新しいライフスタイルの可能性を探る」と題して講演を行いました。
 今回のセミナーで、Twitter、facebook、TouTube、USTREAMなどのSNSやソーシャルメディアについての知識が多少整理できました。

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2010年

ユビキタス社会の次に目指すもの

平成21年度 情報処理学会関西支部 講演会:ユビキタス社会の次に目指すもの(2010年2月5日)
 平成21年度 情報処理学会関西支部 講演会に参加しました。「ユビキタス」という言葉は広く用いられ、携帯電話や携帯端末を利用するいくつかの実サービスが提供されつつあります。ユビキタス社会の実現は間近なものです。ユビキタス社会において必要なものは何なのか、その先に何があるのか、この分野の第一線で活躍されている3人の方々の講演がありました。

1、アンビエントインテリジェンス(環境知能)その目指す方向について
 NTTコミュニケーション科学基礎研究所(NTTCS研) メディア情報研究部 主任研究員の南 泰浩さんが講演を行いました。
 現在のユビキタス社会は人間の側から能動的に情報を取り出す必要がある世界です。しかし、これからの社会にはコンピュータの方から能動的に適切な行動を行う必要があります。近年、アンビエントインテリジェンス、環境知能、空間知能化、アンビエント情報社会をキーワードに掲げている研究機関が増えています。
 大阪大学(アンビエント情報社会基盤創成拠点)、早稲田大学(アンビエントSoC教育研究の国際拠点)、NTTCS研での取り組み(環境知能)を紹介しました。
 NTTCS研の環境知能プロジェクトは2009年にスタートしました。環境知能の3種類のシナリオ、マルチモーダル会話シーン分析、遠隔ビデオコミュニケーションシステム t-Room、対話処理(まっしゅるーむの世界)についてビデオで紹介し、システムの概要を説明しました。
 まとめは、「ユビキタスの次に目指すのは? → 社会にはコンピュータの方から能動的に適切な行動を行う環境 → 技術的な課題の解決だけでなく、社会的、哲学的、環境的な考察も必要」でした。

2、ユビキタス社会の次の一手:情報の提示から蓄積・アクチューションへ
 株式会社国際電気通信基礎技術研究所 知能ロボティックス研究所 環境知能研究室 室長の宮下 敬宏さんが講演を行いました。
 現在のユビキタス社会のイメージは、ユビキタスコンピューティング、PDAなどによるユビキタスな情報提示が主流となっています。ユビキタス社会の次の一手として、ユビキタスアクチュエーションの技術(ネットワークロボット技術、ユビキタスネットワークロボット技術、ユビキタスマーケット)の実証事業を紹介しました。
 ネットワークロボットは、3つのタイプ(ビジブル、バーチャル、アンコンシャス)があり、従来の単体ビジブル型ロボットでは実現できなかったサービスを提供する技術です。ネットワークロボットは、日本で始まり世界へ拡がっています。ユビキタスマーケットは、実世界ICT技術により、インターネット上で行われていたリコメンデーションを、実世界で「どこでも」実現します。
 実世界におけるICT技術とサービスは、我が国が世界に先駆けて開発・実証しています。

3、ポスト・ユビキタス社会のこれから:空間生命化デザイン
 東京電機大学 未来科学部建築学科 准教授の渡邊 朗子さんが講演を行いました。
 「空間生命化デザイン」の概念は、空間を生命体の持つシステムから学びデザインすることです。地球環境問題が深刻化する現状や情報技術を含めた諸技術が建築空間に投入されるようになり建築が複雑化する背景から紡ぎだされた考え方です。
 日本建築学会の情報システム委員会 空間生命化デザインWGでは、2007年より活動を開始し、建築における空間生命化デザインの概念やその具体的な事例について研究を重ねています。空間生命化デザインWGの研究内容の一部を紹介しました。

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2008年

インターネットはどこへ行くのか:現状と展望ユビキタス社会は本当にやってくる!?

平成20年度 情報処理学会関西支部 講演会:ユビキタス社会は本当にやってくる!?(2008年12月10日)
 平成20年度情報処理学会関西支部講演会に参加しました。「ユビキタス」という言葉が広く用いられています。「ユビキタス」を冠した実験が頻繁に行われ、携帯電話や携帯端末を利用するいくつかの実サービスも提供されつつあります。ユビキタス社会の実現は、もう目前に迫っているのか、この分野の第一線で活躍されている3人の方々の講演がありました。

 主催者挨拶の後、3人の方々の講演がありました。
1、都市空間における人や車の行動モデルとユビキタス通信
 大阪大学大学院情報科学研究科 教授の東野輝夫さんが講演を行いました。①都市空間における人や車の行動モデル(モビリティ)のモデル化手法、②ユビキタス通信を介して周辺環境から収集した情報に基づき人や車の行動がどのように変化するかをリアルタイムに予測・可視化するための技術に関連する最近の研究動向、を紹介しました。
 1)アンビエント情報社会
  ITが自然に生活に溶け込んでいる社会
  環境中のコンピュータから人間にアクセスできて、アドバイスや提言をしてくれる社会
   ・アンビエント情報社会ー欧米の動向 ・ユビキタスセンサーネットワーク ・無線ネットワークアクセス
   ・無線ネットワークアクセス:アドホック通信(無線でのマルチホップ通信)の普及
   ・都市環境でのモバイルワイヤレス通信 
   ・米国でのアドホックNW研究(ワイヤレスセンサーネットワーク) ・車々間通信&路車間通信
   ・WiFi機能を持つ携帯電話 ・都市空間でのアドホック無線ネットワークの普及 ・将来のユビキタス社会
   ・古い建造物のセンシング ・センサーを用いたITS技術 ・バイタルサインのセンシング
   ・携帯電話、携帯端末、センサーが無線通信機能を搭載する!
 2)MANET(Mobile Ad-hoc NETwork)
  人や車の現実的なモビリティモデル
   ・既存のモビリティモデルの紹介 ・様々な人/車の動きを再現可能な無線ネットワークシミュレータ
   ・車々間通信を用いた情報収集とその現実的評価 ・アドホック通信に基づく災害時の被災者情報の共有

2、ユビキタス情報配信システムを用いた実証実験
 NTT未来ねっと研究所 主任研究員の武本充治さんが「総務省プロジェクトユビキタスネットワーク認証・エージェント技術の活用」をテーマに講演を行いました。
 1)ユビキタスコンピューティングとサービス
   ・ユビキタスコンピューティング
    Mark Weiserが1991年に提唱。
    -ユーザ(=我々)の周囲のいたるところに、コンピューティング能力がある
    -コンピュータが人間の目にはコンピュータとして見えなくなるような世界
   ・どんなサービスが実現できるか?
    -ユビキタス情報配信システムが有力
 2)実証実験の紹介
   ・ユビキタスショッピングinELMの街(五所川原市:据置ターミナル))
   ・マチコミサービスin弘前「古都ナビ」(弘前市:スマートフォン+SNS))
   ・ソーシャル・キャピタル・サービスin青森(青森市:「古都ナビ」を発展・改良、携帯電話+SNS)
   ・秋葉原不思議交流空間プロジェクト(据置ターミナル)
   ・阪急三番街におけるユビキタスコンテンツ情報配信実証実験(据置ターミナル)
 3)技術紹介
   ・サービス合成技術(ユビキタス環境で部品の組み合わせにより、サービスを実現する技術)

3、ユビキタス社会に実は要らないモノ本当に欲しいモノ
 立命館大学理工学部 教授の西尾信彦さんが「本当に欲しいモノ、実現させなければならない技術は何であるか」について講演を行いました。西尾さんは昨年1年間Google出向されていたそうです。
 1)研究テーマ
   ・ユビキタス・コンピューティングとネットワーキング
    -自分の所有するPCだけでなく、周りの環境や、移動する先々のあらゆる場所に計算機資源が存在して(これを偏在環境という)、
    -それらを意識せず、同時に何台も、気づかないうちに次々と入れ替わって利用する
    -日常的な生活や知的作業を向上するコンピューティング
    -Invisible/Disappearing/Calm/Zen/Pervasive
   ・研究の最終目標
    -現在のPCをインフラとして日常から消し去る
    -実世界と情報空間を融合する
 2)研究活動紹介
   ・u-シティ:街角見守りロボット
    -自動販売機ネットワークを構築、「ユビキタス街角見守りロボット」社会実証実験
   ・RECRUIT・P-cubeプロジェクト
    -実世界空間と情報空間を融合、街中での情報配信システム構築
    映画「マイノリティ・レポート」の広告ウオールの実現
   ・PreCog-タグ研究開発
    -光+無線ICタグでプライバシー制御
   ・Googleを活かすプロジェクト
    -Cloud Computing meets Ubiquitous Computing.

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情報通信学会関西支部 平成20年度第2回情報文化研究会:インターネットはどこへ行くのか 現状と展望(2008年7月25日)
 情報処理学会関西支部より案内のあった「インターネットはどこへ行くのか:現状と展望」(情報通信学会関西支部 平成20年度第2回情報文化研究会)の講演を聞きに行きました。情報通信学会関西支部支部長の辻正次さんの司会で講演が進められました。

 総務省総合通信基盤局事業政策課 課長補佐の高村信さんが「インターネットの中立性について」講演を行いました。
1、全体像
 ブロードバンド(DSL+FTTH+CATV+無線)の加入契約数は1億を超え、2008年内にFTTHがDSLを超えます。「日本ではFTTHが家庭に届いた」と強調していました。ブロードバンド料金の安さは世界一位で、DSLの通信速度は韓国と並んで世界一位です。「電気通信事業分野における競争政策の変遷と今後の課題」を示し、「新競争推進プログラム2010」について講義しました。
2、ネットワークの中立性に関する懇談会
 我が国のインターネットを流通するトラフィックの規模は812.9Gbps(2007年11月時点)になり、3年で約2.5倍に伸びました。国外ISPから国内ISPに流入するトラフィックが急増を続け、1年半で約2倍となり、国内ISPが国内ISPと直接交換するトラフィックを上回りました。平日は21時~23時がピークの利用時間で、休日はデイタイムの利用も多い。2007年11月時点でのピークトラフィックは約500Gbpsで3年前(2004年11月時点)のピークと比較して2.8倍の伸びです。過去3年間で、底値とピークの比は約1.4倍に増加(約1.8→約2.5)しました。「ネットワークの中立性に関する懇談会報告書(07年9月)の概要」や「P2Pネットワーク実験協議会の概要」、「帯域制御の在り方等に対する取り組み」、「帯域制御の運用基準に関するガイドラインに関する経緯」、「帯域制御の運用基準に関するガイドライン(08年5月)」について講義しました。
3、IPv4アドレス枯渇への対応
 IPv4アドレスは43億個あるが、約7億が残されるのみで、早ければ2011年初頭にアドレスが不足する見込みです。「アドレス在庫枯渇への対処方法」、「アクションプラン」の講義がありました。
4、NGNの登場
 「次世代ネットワーク(NGN)の概要」とインターネットと次世代ネットワークの違いの講義があり、「次世代ネットワークの接続ルール」についての講義がありました。
5、インターネット政策懇談会
 最後に、「インターネット政策懇談会」についての講義がありました。
 
 イー・アクセス㈱専務執行役員CTOの小畑至弘さんが講演しました。
1、インターネットトラフィックの伸びとコスト構造の変化
 2007年11月現在、インターネットトラフィックは812.9Gbpsに達しました。料金は定額になりましたが、ネットワーク費用がかかりキャシュフローが低下しています。
2、モバイルデータサービスの可能性
 モバイルBBと固定BBのトラフィックは同じ様な傾向(深夜ピーク)です。無線BB事業領域に大きなマーケットがあります。
3、ユビキタスサービスとプラットフォーム
 必要条件は、プライベート空間での無線NWの使用、通信帯域は固定ブロードバンド並み、コンテンツやアプリケーションのネットワーク環境への適応、連続的・普遍的な使用感(どこへ行っても使える)です。実現形態は、コンテンツやアプリケーションがユビキタス(無線環境に適した様々な端末からブラウザ等の共通インタフェースを通して同一のサービス、コンテンツにアクセスする)、端末がユビキタス(同一の無線端末が宅内、屋外の無線環境に自動的に接続される)、ネットワークがユビキタス(無線ネットワークが屋外ばかりでなく、宅内までカバーし、様々な端末を接続する)です。
 最後にQ&A(省略)があり、終わりました。

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2006年

携帯端末向けデジタル放送の現状と展望

2006年度情報通信学会関西支部大会:携帯端末向けデジタル放送の現状と展望(2006年9月12日)
 情報処理学会関西支部より案内のあった「携帯端末向けデジタル放送の現状と展望」(情報通信学会関西支部大会)の講演を聞きに行きました。
 4月1日より携帯端末向け地上デジタル放送(ワンセグ)が開始されました。そこで、情報通信学会関西支部大会で基調講演にNTTドコモ関西有村正意社長を、パネルディスカッションには放送局(NHK、朝日放送)や機器メーカー(トヨタ、松下)のワンセグ部門の担当者、メディア研究者(携帯電話、テレビ)を迎えて、携帯端末向けデジタル放送の現状と展望についての議論がありました。
 基調講演は株式会社NTTドコモ関西代表取締役社長の有村正意さんの「携帯電話の今後のサービス展望について~生活に役立つケータイとワンセグサービスへの取り組み~」でした。最初に携帯電話サービスの変遷について話しました。携帯電話は阪神淡路大震災とiモードをきっかけに大きく伸びたそうです。現在では全キャリアで9千百万台となり、飽和状態になっています。今までは1人1台を前提に普及台数を考えてきたが、1人で2台も考えられます。人と人の通信から人と機械の通信、機械と機械の通信も増えてきました。ドコモは人と機械、機械と機械の通信や新しいサービスを増やす計画です。
 携帯電話発展の方向性は通信の価値を伸ばす(通信インフラ:リッチなiモードコンテンツ(音楽や動画等))と通信と関係ない新しい価値の追求(生活インフラ:おさいふケータイ、ケータイクレジット、ワンセグ)です。「生活インフラ」実現に向けて先進(Felicaサービス、音楽サービス、放送連動サービス、映像配信、TV電話、ソリューション、新たなコミュニケーション)と安心(子供・高齢者向け、個人データ保護、災害、迷惑メール対策、端末故障対応、ポイントサービス、国際サービス、AW品質の向上)のキーワードで取り組みを推進します。新たなサービス(おさいふケータイ、音楽系サービス、iモードコンテンツの更なる充実、安心・安全、ワンセグサービス)の内容(省略)を説明しました。
 基調講演の次はパネリスト4人によるプレゼンテーションがありました。
 NHK編成局デジタルサービス部部長の兄部純一さんがプレゼンテーションしました。現在のワンセグ端末は携帯電話3キャリアで4機種(新たに10機種発売予定)、パソコン、カーナビ、DVDレコーダーです。NHKは12月に地上デジタル放送を全国で開始するのに合わせてワンセグサービスも開始します。ワンセグ・サービスの特徴はデータ放送が表舞台へ出たことで、テレビ・ルネッサンスの可能性があります。ワンセグと固定型TVの違いは、持ち運べるTV、つながるTV(通信を組み込み)、「ながら」視聴が増える、固定型は持ち家でワンセグは借家です。ワンセグのこれからの課題は、新しいタイプの番組開発をどう進めるか?、独自サービスの可能性はあるのか? と話しました。放送は統合知(共通の広場、相互乗り入れ)で通信は「個ミニ化ション」(パーソナル、多様性)と話しました。
 松下電器産業株式会社eネット事業部の小柴恵一さんがプレゼンテーションしました。現在松下電器のワンセグ対応機器は携帯電話、カーナビ、DVD合わせて8機種です。ワンセグへの取り組みスタンスについて話しました。メーカーとしては商品の付加価値を高めるサービス機能の開発、スポンサーとしては新しいマーケティング手法の開発、サービスプロバイダーとしてはBtoBソリューションです。月曜日夜8時はTVを見る、火から日曜日は携帯で遊ぶという放送→通信→放送の誘導実験を番組「どん亀」を使って5/15から7/23まで行った内容と結果(省略)の説明をしました。
 トヨタ自動車株式会社IT/ITS企画部調査渉外室調査グループ長担当課長の佐藤則明さんが「ITSの進展と通信の役割増大」についてプレゼンテーションしました。車のインテリジェント化、通信サービスの高度化と需要の増大(モバイル・ネットワーク)、カー・ナビゲーションの高度化(車8年、カーナビ2年のサイクル)について話しました。純正でなく好きなカーナビ(後付)を装備したいと言う客が増えたとのことです。レクサスでワンセグが見えない、Macがつながらないというクレームがあるそうです。最後に9つの開発分野(省略)について説明しました。
 朝日放送株式会社社友会事務局長・同志社女子大講師の戸倉信吉さんがプレゼンテーションしました。初めに戸倉さんから問いがあり、会場(100名超)でワンセグ携帯を持っている人が7名でした。ワンセグ放送サービス開始当初の具体的なサービスについて説明がありました。ビジネス面ではABC携帯有料サイト、eコマース、AVとスポンサーの競合問題を話し、サービス面では通信へリーク、非連動データ放送と番組連動、データ放送等について話しました。ワンセグのブレークスルーはいつになるかは分かりません。混在表示については制限しています。メリットはTVのプッシュメディアとケータイのプルメディアが同居、TVの外側に告知スペースができた、ISP加入の手間がない、室内から室外へ(ワンセグはどこでも持ち運べる「放送」です)です。デメリット&アジェンダはコンテンツ容量が少ない、新たな媒体価値の創生、ワンユースとマルチユース、キー局とネット局の関係、サーバー等です。最後に「視聴者を消費者に変えても良いのか?」との疑問を呈していました。
 続いて、コメンテーター2人がコメントしました。
 関西大学総合情報学部助教授の岡田朋之さんがコメントしました。一般的にワンセグは携帯で見れるTVと言われています。ケータイ注力の10代、20代のTV視聴は1日2時間程度で人口が減って行きます。一方、60代のTV視聴は5時間程度です。昔の高校生や大学生に流行ったポケベルがメールに、カラオケが着メロ・着ウタに、プリクラが写メールに発展しました。若者のTV離れが進んでいます。90年代には月9の番組が話題になりましたが、今は若者の間でTVが話題にならずにインターネットが話題になっています。ポッドキャストとの連携、組み込みも考えられるが著作権や放送権の問題があります。ワンセグは中途半端になりかねません。「普及しているケータイ」+「なじみのTV」は安易な流れではないかと思います。ラジオ離れが進んでいるが防災メディアの役割をします。ワンセグがラジオに代われるかも知れません。ただし、恒常的にワンセグを使っていないといざというときに使えません。
 関西大学社会学部教授の黒田勇さんがコメントしました。TV文化、公共性と共同性について話しました。ワンセグは中途半端な感想を持っています。TVは今社会とつながっているという感覚があります。10数年前にオン・メディア(TV)とオフ・メディア(ウォークマン、カラオケ、車)の議論をしたことがあります。TVがオンのままいかないからケータイへとなっているが、まだ模索中です。TVはオンのままで居て頂きたいと思います。公共性の面では災害時にワンセグは有望ですが、メディアリテラシーの問題があります。サービスを使いこなせない受け手ての教育をどうするか、団塊の世代にリテラシーをどう保証するかです。
 プレゼンテーション、コメンテーションの後はパネルディスカッションと参加者との質疑応答(省略)がありました。終了時間を15分程延ばして活発な議論が行われました。

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2004年

第13回IPA生活習慣病の克服

市民公開シンポジウム(~生活習慣病の克服は生活習慣の改善から~)(2004年11月13日)
 日経メディカル、日経ヘルス主催のシンポジウムに参加しました。第一線の専門医から生活習慣病を克服するための対処法についての講演がありました。会場(募集定員500名)はほぼ満員でした。
 第一部は「生活習慣病の予防と日常生活管理」で、三名の専門医が講演しました。司会は日経メディカル編集長の坂本正氏でした。最初は東京大学大学院医学研究科教授の藤田俊郎先生が「高血圧の管理」と題して講演しました。高血圧症の患者は3500万人(国民の4分の1)です。高血圧症により血管が老化することで動脈硬化が起きます。遺伝素因の他に環境因子は食塩過剰・肥満・煙草・運動不足・ストレスです。対処法は食塩を制限し、果物・野菜を積極摂取し、ストレスをためないことです。食塩摂取量と高血圧症には相関関係があり、カリウム(果物・野菜)を摂取すると血圧が上がりません。また、ストレスに敏感な人はストレスを受けると尿(ナトリウム)の排泄が減少します。
 次に九州大学大学院医学研究院教授の名和田新先生が「糖尿病の管理」の講演を行いました。糖尿病は生活習慣病の典型的なものです。日本人は2型糖尿病が多く、遺伝的素因に加齢と生活習慣を含む環境因子が加わり発症します。740万人(5年間で50万人増加)の患者と880万人(5年間で200万人増加)の予備軍がいます。患者の45%は治療していますが、55%は無治療です。対処法は食事療法、運動療法、生活習慣改善です。肥満(内臓脂肪)の是正が大事です。最近はインスリンを早い時期から使うようになりました。糖尿病・高脂血症・高血圧が動脈硬化の原因となり、心筋梗塞や脳梗塞を起こします。
 最後に千葉大学大学院医学研究院教授の齋藤康先生が「血清脂質の管理」の講演を行いました。動脈硬化の危険因子は高血圧・糖尿病・高脂血症・肥満で、1人で3つ以上の因子が重なるとリスクが高まります。高脂血症治療は動脈硬化の予防になります。治療の内容は危険因子・体重・習慣・既往症によって異なるので、医療機関で先生と相談することです。コレステロールを下げたら動脈硬化は治ります。治療をしたら心筋梗塞・脳梗塞を抑えられます。食事療法は栄養バランスを考えます。毒でない限り良い食品も悪い食品もなく、量の問題です。運動療法そのものにはコレステロールを下げる効果はありませんが、生活習慣の改善につながります。分かる、理解するではなく、自らが行動する事ではじめて生活習慣が改善できます。
 第二部はゲストの鳴門親方(第59代横綱 隆の里)が「生活習慣病の克服体験談」を坂本氏と対談形式でお話しました。私は前から4列目の席に座っていましたが、壇上の親方の第一印象は「とても大きい」でした。
糖尿病に罹ったのは十両まであと一歩の時でした。名古屋場所で足がだるく、喉が渇き、傷が治り難くなり、場所後に入院しました。19歳から20歳の時です。糖尿病に罹ったことは親方と女将さんのみが知っており、他には隠しました。退院後は自分で「小ちゃんこ」(ちいさいちゃんこ)を作ったり、漢方薬や朝鮮人参等も飲みました。20歳から28歳までは食事療法・薬療法のみでした。番付は上がったり下がったりしていたのでエレベータ力士と言われました。関脇まで昇進しましたが、一方十両まで落ちました。その間に後輩に追い抜かれました。28歳の時、勝負をかけたいからとインスリン療法を始めました。インスリン療法で体調が良くなり、以後良い成績を上げて30歳で横綱になり、34歳まで現役を続けました。食事だけでなく、うがいは日に10回、傷の治療にも気を遣ったそうです。
 第三部はパネルディスカッションが行われました。司会は坂本氏が行い、パネリストは講師4名の方々です。(略)

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第13回IPA X Winter2004:創造、安心、競争力(2004月1月21日)
 情報処理振興事業協会(IPA)は、1月5日に「独立行政法人情報処理推進機構」として新たに発足しました。
 開会式に続き、東京大学大学院情報学環教授の坂村健さんの『ユビキタス・コンピューティングが拓く新しい情報社会』をテーマに基調講演がありました。ユビキタス・コンピューティングについていろいろと興味ある話がありました。一番記憶に残った言葉は「日本から世界に向けて技術発信をして、世界に貢献する」でした。
 午後から、慶応義塾大学環境情報学部教授の村井純さんの『ネットワークアーキテクチャー2004~日本から世界へ、世界から日本へ~』をテーマに特別講演がありました。最近のネットワーク技術についていろいろと話がありました。ワイヤレスネットワークの話では、「ソフトウェア技術者も電波の知識が必要」とのことでした。

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2003年

生活習慣病予防対策プロジェクト記念講演会(2003年12月6日)
 諏訪中央病院の鎌田實さんの『「がんばらない」けど「あきらめない」-命を支えるということ』という特別講演がありました。
 続いて、『「家庭から始める生活習慣病予防」-生きているということ』をテーマにパネルディスカッションが行われました。司会は道場信孝さん(ライフプラニングセンター最高顧問)、パネリストの湯浅景元さん(中京大学体育学部教授)、田中弥生さん(南大和病院栄養科長)、岡田邦夫さん(大坂ガス健康管理センター所長)がそれぞれの立場でミニ講演を行い、その後ディスカッションを行いました。

 

高齢者雇用フェスタ2003(2003年10月6日)
 高齢者の雇用と就業問題について、高齢者雇用のノウハウ、キャリア開発や再就職の情報や相談、あるいは地域社会での生きがい就労など、企業や高齢者個人が役立つ情報を得られる広場が用意されていました。
 高齢者社会NGO推進協議会ゾーンで、『「社会参加ハウ・ツー講座」-社会は、あなたの参加を待っている』の講座を聴きました。3名の女性パネリストが「地域が求める男性力!アレコレ」を述べ、それらに応えられるようにするにはどうしたらよいかの「ハウ・ツー」の講義がありました。
 また、『「65歳現役社会」は実現できるか? ~その仕組み・生きがい・働き方を考える~』のテーマでシンポジュームが開催されました。21世紀の高齢者雇用においてあるべき姿を議論し、展望を述べていました。コーディネーターは清家篤さん(慶応大学商学部教授)で、パネリストとして堀田力さん(さわやか財団理事長)、志太勤さん(シダックス株式会社代表取締役会長)、米倉誠一郎さん(一橋大学イノベーション研究センター教授)が熱論を展開しました。 

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見学等

人体の不思議展(2005年2月16日)
 有楽町駅近くの東京国際フォーラムで開催中の「人体の不思議展」を見学しました。朝から雨が降り寒い日だったので見学者が少ないだろうと思い出掛けました。予想通り会場は空いておりゆっくりと見学できました。
 会場には「プラストミック」(最も新しい保存方法)による人体標本が数多く展示されています。献体者の身体を通して人体の構造を忠実に伝えています。ご遺体が展示されているのですが決して気持ちの悪いことでなく、人間の体がいかに精密に作られているかと驚かされ美しささえ感じられました。人体のあらゆる部分の解剖標本が展示されていますが、とても厳粛な気持ちになりました。昨年は大腸ポリープ(癌)を切除しましたが、大腸の全景標本も展示されています。数年前にMRI検査で自分の脳が横切りにされた画像を見たことがありますが、横切りにされた本物の脳が展示されています。脳の標本が紐で吊るしてあったので右手を差し入れて紐を持ち上げたらかなりの重さでした。説明文を読んだら本物の脳の標本だったのにはびっくりしました。
 脳年齢と骨密度の測定(1000円)を行ってもらいました。脳年齢の測定はパソコン画面に表示される数字を1から25まで順にタッチします。それを2回繰り返した結果、私の脳年齢は52歳と算出されました。実年齢より10歳若いとのことです。右足かかとを測定器に置き骨密度を計測した結果は正常でした。スティフネス値(骨密度指数)109、20歳比較(健康な20歳の平均値を100とした時の値)104%、T-スコア(数値がー1からー2.5の範囲をWHOで骨減少領域)0.4、同年齢比較(同年齢で健康な人を100とした時の値)136%でした。骨の丈夫な20歳の平均値を上回る測定結果に一安心です。出口近くには触れることのできる人体標本も展示されています。2月28日まで開催されていますので、是非見学されることをお勧め致します。

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